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藤也

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 深夜、物音に気づいた政司は慌てて藤也の部屋に向かった。
 本宅に出掛けた藤也が日暮れになっても戻って来ず、探しに行こうかと考え始めた頃、ようやく藤也は帰って来た。内心ほっと胸を撫で下ろす政司であったが、何故か子供を抱えている藤也に、渋面を作って見せる。
「その子は、どうしたのですか」
 問いかける政司に、あとで詳しく話すから、もう一人連れ帰って欲しいと藤也は頼む。聞けば河原に流れ着いた土左衛門だというので、何でそんな者をとは思ったが、藤也の腕の中で眠る子供が関係しているのだろうと、使用人を連れ探しに出掛けた。
 言われた場所にそれを見つけたが、死体の状況があまりにも酷い(引き上げるとぐずぐずと崩れてしまうのだ)ため、持参した戸板では運べぬと桶を手配する事になった。今、その桶は屋敷裏に置いてあるが、まさかが動き回る事はないだろう。

「藤也さま、物音が聞こえましたが何かありましたか」
 襖を挟んで声を掛けるが返事はない。が、確実に藤也は起きているようだ。
 まさか?
 嫌な予感に政司は、慌てて襖を開け中に入った。するとそこには抜き身の刀を手にした藤也が立っており、その足元には彼が連れ帰った子供が横たわっている。
 殺してしまったのだろうか?
 子供の様子を見る限り、まだ何もされていないように見え、政司は一先ず胸を撫で下ろす。だが、危機は去ったわけではない。
「これは、この家の者ではないな」
 感情のこもらない声が、政司に尋ねる。その声色に、己のかんが的中した事を悟った政司は、内心の焦りを気取られぬよう気を付けつつ、藤也の様子を伺った。
 伏し目がちだが、いつもは暖かみのある眼差しが、今は冷え冷えと射るような光を放っている。切っ先を眠る子供の頬の上で揺らしながら、政司の答えを待っている彼に何と伝えれば、気を逸らせるだろうか?
 新しい使用人?
 こんな子供にさせる仕事は、この屋敷にはない。親戚の子供を預かったというのはどうだろう、いや可哀想な孤児を引き取ったのだと言えばいいではないか。
 駄目だ、まだこの子供を屋敷に置くと決まっている訳ではない。この場はそれで言い抜けることが出来たとしても、後日それが嘘だったと彼に思われたくない。
 常識など全く気にしないが、政司の言う事であれば幾らかは聞き入れてくれている。今、子供の素性を尋ねるのも、以前に取り交わした「屋敷の者には手を出さない」という約束のお陰だ。
 しかし彼の機嫌を、信頼を損ねてしまえば、抑えのきかない猛獣を解き放ってしまうに等しい。
 そしてそうなった場合には、藤也自身を危険に晒してしまう事になるに違いないのだ。

「そうです。屋敷の人間ではありません、さま」
「ならば、切り刻んでもいいのだろう」
 藤也と同じ美しい顔が、藤也であれば絶対に言わぬであろう、言葉を口にする。
 そう、今の彼は犬一匹も殺せない心優しい藤也ではなく、血を求め人を切り苛む忌まわしき存在、刀夜なのであった。

※ ※ ※ ※ ※
 政司が初めて藤也と出会ったのは、今から五年程前の事だ。その頃の政司は父親と共に、山守として山野を駆け回っていた。
 殿様が領地に戻られていたその年の秋、その事件は起こった。
 何故そんな事になったのか、その理由までは山守の息子になど知らされる筈もなく、ただ殿様のご次男が御女中と一緒に行き方知れずになったという事だけが伝えられた。御家来衆が方々を探し回るも見つからず、神隠しにあったとか、隠密に連れ去られた等、流言が飛び交っていた。
 そんなあてのない日々の中、子供を連れた女が何かに追われる様子で、山に向う姿を見かけたとの報告があったのは、捜索から五日目の事であった。それまでにも政司の父親を含む数名の山守が山中を見回っていたが、この報告があってからは、政司も駆り出される事になった。

「御女中はともかく、子供は八つか……」
 猟場を外れた中腹の道なき斜面を登りながら、政司は考えていた。政司が捜索に加わってから既に三日、二人が行き方知れずになってから既に十日近く経過している。もしもこの山の何処かにいるとしたら、八つの子供が飲まず食わずで生きていられるのだろうか。
 誰も口にはしなかったが、せめて若様のお体だけでも殿様の元にお連れせねば、と密かに思っていたのである。
 幼い頃から父と共にこの山を歩き回った政司であれば、どこに水場があり獣に襲われずに隠れられる場所があるかも熟知している。罠を仕掛け小動物を捕らえる術もあるし、野宿ぐらい何て事はない。しかし一緒にいなくなった御女中がそういった術を心得ているとは思えない以上、貴い身分の者でも自然の道理に逆らうことは出来るはずがないのである。
 だからこそ斜面を上りきった先、切り立った崖に面した岩穴の入り口に、座り込む子供の姿を見つけた時には、心底驚いてしまったのだ。

「若様、藤也さまでいらっしゃいますか?」
 政司は子供を驚かさないよう、彼の視界にゆっくりと入ってから尋ねた。
「お前は」
 その子供は、驚きも怯えた様子も見せず首を傾げた。
「私は政司と申します。お殿様にこの山を任されている山守の息子です。若様を探しておりました。何処かお怪我をされていませんか」
 ざっと見たところ、着物の襟、袂に黒いシミができおり、白い頬には幾すじか血の痕がついている。藪を抜ける際に枝葉で切ったものだろうが、それ以外には大きな怪我はしていないようだ。
「政司……」
 子供はじっと政司の顔を見つめ、何か思案する様子だったが、やがて静かに尋ねる。
「お前は私の味方なのか?」
 淡々と、期待するでも、媚びるでもなく、ただ事実だけを確認する口調だ。まだ八つの子供であれば、普通は安堵のあまり泣き出したりするのではないだろうか?
 貴い血筋に生まれついた者は、子供の頃から庶民とは違うのだろうかと、政司は感心する。
「はい、私の父はお殿様が狩りにお出での際に、お供することを許されております。いづれは私もその後を継いでお殿様や若様にお仕えする身でございます。もうご心配は無用でございますよ」
 そう言って政司は藤也の前に片膝をついて控えた。政司の言葉をちゃんと聞いているようであったが、藤也は重ねて政司に尋ねる。
「それでお前は私の味方なのか?」
 やはり子供は子供なのだろうか、自分の説明が理解できなかったのか、そう思うも利発そうな藤也の顔を見ると、そういう事ではないような気がした。政司の立場を理解したうえで、自分の味方であるのかを問うているような感じだ。もしそうなら、こんな幼い子供が敵か味方かを判別しなければならない状況下にいるという、その事実が重かった。そして、それが彼にとっての現実で、だからこその行き方知れずだったのだ。
「もちろんです。政司は他の誰でもなく、藤也さまの味方ですよ」
 思わず政司はそう答えていた。自分よりも幼い子供に対する庇護欲と忠誠心が合わさって、先程までの義務感は使命感に変わっていた。
 間近で見る藤也は目鼻立ちのくっきりとした、かわいらしい顔立ちでこのまま成長すれば、お役者衆も顔負けの二枚目になることであろう。しかし、まだ八つの藤也の表情に、政司は陰りのようなものを感じていた。
 何かをじっと堪えている、そんな印象が政司を落ち着かなくさせ、あれこれと世話を焼きたい気分にさせた。
「藤也さま、気分は悪くないですか? 食べられるようなら、すぐに粥を準備しますから」
 そう言う政司に、藤也は首を振り、呟いた。
「母上を、助けてくれないか……」
 小さな呟きは、それが叶わない事を知ったうえでの言葉だったのだろう。後に政司はそう思ったが、その時は藤也に降りかかった悪意や、出生の秘密、宿命といったものを、一つも理解していなかったのだ。
「えっ、奥方さまがいらっしゃるのですか?」
 藤也に付き添っていたのは、御女中としか聞いていなかった政司は驚き立ち上がった。
 慌てる政司を宥めるように、藤也は政司の袖を引いた。
「違うんだ、おばば様では……。政司、藤野だ」
「藤野、さま?」
「私の乳母だ」
 やはり一緒にいなくなったのは、御女中で助けを求めていらっしゃるのだ。
「藤也さま。その藤野さまは、どちらにいらっしゃるのですか」
 潤む瞳で政司を見上げた藤也は、黙って岩穴の奥を指差したのであった。
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