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藤也

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 藤也に請われ政司は岩穴の中に入った。この場所に岩穴がある事は知っていたが、中に入るのは初めてだ。山に不馴れなものであれば、こうした岩穴や窪みに自然と身を寄せようとしてしまうものだが、政司のように山の事象を知る者であれば、なるべく避けて通りたい場所であった。
 ある程度の広さがあれば、熊や猪といった動物の根城になっている場合があるし、そうでない場合も暗くてじめじめした環境を好む蛇や蝙蝠どもが棲みかにしており、決して人が快適に過ごせる場所ではなかったからである。
 とはいえ、女子供ましてや何者かに追われている身であれば、敵から姿を隠せる場所として、ここに辿り着いたのは仕方のない事だったのであろう。
 滑る足元を、慎重に踏み締めながら、やや下り傾斜の穴を奥へと進む。入り口から然程進まないうちに、政司はその臭いに気付いていた。
 山守の仕事として、増えすぎた獣から、若木を守るため間引きを行う事があった。そんな時は狭い作業小屋で獲物を解体し、皮をなめしたり、干し肉を作ったりするものだから、小屋中に血と獣の臭いが充満し、慣れない間は気分が悪くなったものである。
 その嗅ぎ慣れた臭いが、この奥から漂って来るということは………。政司は眉をひそめつつ、更に奥へと進むが数十歩も進まないうちに、行き止まりに突き当たった。

 岩穴最奥のその場所は、大人二人が横並びで両腕を広げれば、左右の壁に触れられるぐらいの広さで、どこからか日の光が差し込んでいる。政司が入ってきた事で埃が舞い上がり、差し込む光に向かってゆらゆらと立ち上っていくのが、綺麗だと思考の片隅で思った。
 この空間に漂う空気が撹拌され、混じりあった血の臭いと肉 ー 人独特の ー の腐敗臭が、政司の意識を朦朧とさせる。新鮮な空気を求め喘ぎ始めた政司の目に、そのひとの姿が鮮やかに飛び込んできた。
 確かめるまでもなく、彼女の命が無いことは一目で解った。差し込む光に血の抜けた青白い顔が浮かび上がっている。その顔は己に起こった不条理な死をも、受け入れるが如く安らかで、美しかった。
 ここまで来て解った事であるが、ここは岩穴というより岩と岩が重なりあって出来た空間で、差し込む日と同様に多少は雨が降り注ぐので、でこぼこの地面は苔が生えて滑り易く、小さな窪みに水溜まりが出来ている。
 きっと藤也はこの水を飲んで喉の乾きを潤したのだろう、ぼんやりと政司は考えていた。
 これまでにも人の屍を間近に見た事のある政司であったが、美しいままの藤野の顔とは対照的に、その体に加えられた破壊の痕跡との対比に、幾分感覚が麻痺していた。
 恐る恐る藤野に近づき、彼女の最後の瞬間に、思いを巡らせる。
 彼女は着物を着ておらず肌襦袢姿で、大きくはだけた裾から二本の足がのぞいていた。膝から下は比較的綺麗なままであったが、その左足首はあらぬ方向へ曲がっている。恐らくここに逃げ込む際に、足を滑らせ折ってしまったのだろう。
 すると彼女は追っ手から逃げる事も、獣から身を守ることさえも出来なかったのだ。動けない状態で藤也を庇いつつ、あてのない助けを待っているのはどんな気持ちであっただろうか?
 この、ほの暗い穴の中、痛む体と藤也を抱え、幾度かの昼と夜を過ごす。彼女の胸中には、どのような願い、苦しみが渦巻いたであろうか。
 そうして望み空しく、彼女は命を落としたのだ。
 元は白かったであろう肌襦袢には、どす黒い血の染みが広がり、むき出しの太股は肉が剥ぎ取られ、骨がさらされている。明らかに何かに噛みちぎられた歯形が、太股だけでなく二の腕や乳房にまで付いていた。
 獣に襲われ生きたまま喰われたのでは無い事を祈りつつ、政司はその痕跡を探していた。
 そうして藤野の首に刀で傷が有るのを見つけた時には、何かに感謝したい気持ちになっていた。
 藤野は自害したのだ。助けを待つ状況に堪えられなかったのか?
 或いは襲い来る獣を前に、最早生きては行けぬと諦めたものか……。
 いづれにしろ彼女は獣に貪り喰われながら息絶えた訳ではなく、自ら懐剣に(主家の御子を守る立場であれば携帯していたであろう)身を落とし絶命したのだ。
 藤野が必要以上の苦痛や恐怖を味わった訳ではない事に安堵するも、この辺りを肉食の獣がうろついており、腹が減ればまたここに戻ってくる可能性があると知れた。少しでも早く藤也を連れ、この場を去らなければならないと政司は思った。
 いや、この瞬間にも藤也の身に何かが起きているのではと慌てた政司は、振り向いた先に静かに佇む小さな影に、驚いて駆け寄る。

「藤也さま!どうしました、何かありましたか?」
 岩穴の入り口で待つよう言い含めてあった為、何かに追われて来たのではないかと焦る政司に「私は大丈夫だ。政司、藤野を見ただろ、お前は平気か」と藤也は尋ねた。
 ああ、何という事だ。この方は幼くして既に他人を気遣えるお心をお持ちなのだ。そして政司の思った通り、思慮深く物事を考えておいでなのだ。この身に替えてもお守りせねば。政司の忠義心は燃え上がった。
「藤也さま。とりあえずここから出ましょう」
 藤也を小脇に抱き寄せながら、出口に向かう。
「政司、母…藤野はどうするんだ?」
 藤也は後ろを振り返りつつ政司に尋ねる。
 その声に思わず政司も振り返る。
 美しくも寂しげな顔が、そこにあった。
 ふと、その顔が藤也の顔とそっくりな事に、政司は気がついた。
「藤也さま……、あのお方は、」
 問いかけた言葉は、政司を見つめる黒瞳の前に途切れる。
「あの、藤也さまはこれまで何処でお休みになっていたんですか」
 代わりに不思議に思っていたことを尋ねる。夜な夜な獣がうろついていたとすれば、藤也も襲われる危険があったはずだ。どうやって身を守っていたのだろうか。
「あそこだ。何があっても朝まで出てはいけないと藤野に言われていた」
 藤也が指差したのは、突き当たりの何もない壁のようであったが、近づいてみると一枚岩が衝立のようになっており、その裏側には子供一人が踞って隠れる事ができる隙間があった。
 そしてそこにあったのは、藤野が着ていたであろう着物と、懐剣であった。政司は懐剣を拾うと落とさぬよう帯の背に差し込み、着物を藤野の体にそっと掛けてやる。
 今更ながら藤野に手を合わせ、若様は必ずお殿様の元に連れ帰ると誓った。
「藤也さま、申し訳ありませんが、今は藤野さまを一緒にお連れすることは出来ません」
 助けてほしいと願った藤也に期待を裏切る言葉を告げる。
「ですが、藤也さまをお屋敷にお送りしたらすぐに、藤野さまをお迎えに戻ります。それで政司をお許し頂けますか?」
 岩穴の入り口に戻った政司は、藤也に許しを乞うた。
 藤野の死を認識しているにも関わらずこの場を離れなかった藤也だ、藤野を残して自分だけこの場を離れようとはしないのではないかと政司は考えていた。
「藤也さま、政司を信じられませんか」
 重ねて尋ねる政司に、「頼む」と一言だけ藤也は呟いたのである。
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