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葬送

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 すぐにでも、その場を離れたい政司の気持ちとは裏腹に、岩穴から出てきた頃には日は大分傾いていた。政司一人であれば夜を徹して山を降りることも考えたのだが、幼い子供、しかも何日も異常な状況下で過ごしてきた藤也に、これ上無理をさせるのは控えたかった。
 あまり気は進まないが、岩穴の入口で夜を明かすことに決め、そこから少し離れた平らな場所に火を起こし、藤也のために粥を作った。
 藤也が粥を食べている間に用意した松明に火を付け、岩穴の入口に向かう。今のところ獣の気配はないが、安心は出来ない。政司は一晩中火の番をするつもりではあったが、万一の事を考え入口脇の岩の裂け目に松明を突き刺す。これで火を恐れる獣が岩穴に入り込むことはないだろう。
 政司が火の側に戻ると粥を食べ終えた藤也は、うつらうつらと眠りに落ち掛けている。そのまま寝かせてやりたい気持ちはあったが、岩穴の入口に連れて行き、少しでも寝やすいようにと敷いておいた、かやの上に座らせる。
「政司はあそこで火の番をしますので、藤也さまはこちらでお休み下さい」
 辺りを見回し不安そうな顔をする藤也に、政司は重ねて伝える。
「この火があれば、獣は近寄ってきませんし、政司がずっと見張っておりますから大丈夫ですよ」
 納得したのか藤也は横になると、すぐに静かな寝息を立て始める。
 その寝顔を政司はしばらく眺めていたが、やがて己の務めを思い出し火の元へと戻って行った。

※ ※ ※
 おきぜる音に政司は意識を取り戻した。寝入って居たわけではないが、揺れる火影ほかげを見つめている間に、ぼんやりとしていたようだ。
 立ち上がって一つ伸びをした政司は、そのまま岩穴の方へと歩き出す。空を見上げれば星が瞬き、明日も天気に恵まれそうだ。
 音を立てないよう気を付けながら、岩穴の入口を覗き込む。先程はそこからでも藤也の寝姿が確認出来たのであるが……今、そこに藤也の姿はなかった。
 まさか獣に襲われたのでは?
 慌てて入口の松明を引き抜き辺りを照すが、やはり萱の上に藤也の姿はなかった。
「藤野様の所か」
 ふと目が覚めて怖くなったのか、それとも藤野が恋しくなったのだろうか。側にいるべきだったのだと政司は後悔した。藤也の身の安全を守る事に精一杯で、気持ちへの配慮が足りなかったのだ。
 穴の奥に辿り着いたが松明の灯りの範囲に、藤也の姿は見当たらない。彼が身を潜めていたという隙間を覗いてみるがそこにも藤也の姿はなかった。
 外に出たのだろうか?
 それはない、政司自身が見張っていたのだ、藤也は外には出てこなかったと断言できる。
 しかし、この狭い岩穴に隠れられる場所はないにも関わらず、藤也の姿は見つからないのだ。
 四方を照らし見る政司の視界に藤野の屍が目に留まった。掛けてやった着物はそのままであるが、その一部が妙に盛り上がっている。近づいてみると着物の下で、明らかに何かが蠢いている。
 松明の火を恐れず獣が入って来たのであろうか。大きさから狐か野犬の類いであろう、とにかく追い払わねばと、政司はさっと着物をめくった。
 そこにいるのは獣だと思い込んでいた政司は、突きつけようとしていた松明を、寸での所でとどめた。

「藤也さま!」
 藤野の屍にとりすがっていたのは、獣ではなく藤也であったのだ。危うく藤也に大火傷を負わせるところだったと肝を冷やす政司であるが、すぐに藤也の様子がおかしいことに気がついた。
 藤也は先程から踞ったままで、政司に気付いた様子もない。何度か呼び掛けてみるが返事はなく、俯いたまま何やら呟いている。具合でも悪いのだろうか、政司はそっと藤也の肩に触れた。
 ゆっくりと、藤也が振り返る。
 政司の翳す松明が、ゆらゆら揺れる。
 その灯りに照らし出されたのは、ぎらりと光る赤い目に、血の涙を流す幽鬼の顔であった。
「っ!?」
 喉の奥で悲鳴を飲み込む。よく見れば赤い目は松明の火を写しているだけで、涙のようにみえたのは頬についた一筋の血のせいであった。
 あどけない寝顔を見せていた藤也の顔……のはずであるが…………
 微かな違和感が政司を戸惑わせる。
 政司を見つめる虚ろな目が、少しづつ焦点を合わせるように細められていく。
 まるで抜け出ていた魂が戻ってきたかのように、その意識が覚醒しようとしていた。
 一瞬瞳が激しく左右に振れたが、目の前の政司を認識した途端、藤也は唸り声を上げ、犬のようにくわっと歯を剥き出す。その口の端から、真っ赤な涎が滴り落ちるのを、政司は呆然と見つめていた。
 双方動けぬまま、しばしの刻が過ぎる。
 やがて、声を出すのが難しいのか、藤也が絞り出すような声を発した。
「オ オマ…エ…、ダレッ ダ?」 

 それが刀夜という人格に、政司が初めて対面した瞬間であった。

※ ※ ※ ※ ※
 明くる日、政司は藤也を連れ無事下山した。
 捜索に加わっているとはいえ、末端の使用人の数にも入れられていない者が、直接お城を尋ねる等無理な話であった。ひとまず自宅へ戻ると父を通じて、殿様へ藤也保護の旨を知らせる事にした。
 半刻程で馬のいななきや、人々の交わす声で表が騒がしくなったので、御家来衆が藤也を迎えに来たのであろうと政司は思った。

 家に辿り着いた政司は、有る限りの煎餅布団を重ねて敷き、藤也に体を休めるよう勧めた。最初は眠くないと言っていた藤也であったが、横になるとすぐに眠りに落ちていた。
 その寝顔を眺めながら、政司は夕べ見た事を誰に伝えれば良いのだろうかと思い悩んでいた。政司が知ってしまった事実は、他所に知れれば藤也自身もだが、お家を揺るがす一大事になるであろう。だからこそ無闇に伝言をすることも出来ないし、逆に笑えぬ戯れ言をしたとして、政司が罰せられる可能性の方が高かった。
「それに、もう出てくる事はないだろうし……」
 あれは極限状態に置かれた子供が、悪夢に浮かされて取った行為に違いない。
 本人も自覚はないし、日常に戻れば心も落ち着き、二度と彼が現れる事はないだろう、政司はそう思う事にした。
 藤野が亡くなった不幸は、心に残るだろうが、悲しみもいずれ癒されるはずだから。

 そんな物思いに耽っていた政司は、突然駆け込んできた人物に飛び上がる程驚かされたが、それが使いの御家来ではなく、殿様本人であることに気付き慌てて平服したのであった。
「藤也。無事か藤也」
 そう声を掛けつつ、殿様は布団をめくり、藤也の体を触って無事を確かめる。目を覚ました藤也は、そこに父がいるのを確認すると、起き上がって、はらはらと涙を溢した。
「どうした、何処か痛むのか?」
 そう問いかける父に、「母上を守れず……申し訳ありません」と藤也は詫びる。
 しゃくりあげる藤也の背をなでながら、殿様は困り顔で政司に視線を向けた。本来であれば座を外すべきであったのだが、その機会を失してしまった政司は身動きできないまま頭を下げ続けていた。

「政司と言ったか」
「は、はい」
 殿様直々に声を掛けられ、震え声で政司は返事をする。
「藤也を無事に連れ帰ってくれた事、礼を申す」
 滅相もないというように政司は、身を縮こまらせ更に頭を低くする。
「此度は十分な働きをしてくれた。後に褒美を取らせる所存だが、その前に一つだけ頼まれてくれまいか」
 思いがけない言葉につい面をあげた政司であるが、自分を見つめる殿様と目があってしまい、慌てて頭を下げた。
「政司、楽にしてくれ。そのようにされると話がしづらい」
 そうまで言われると、顔を上げないわけにはいかず、政司は失礼にならない程度に頭を上げる。視線は色褪せた畳に向けたまま、政司は殿様からの密命を受ける。
「では城でな」
 という言葉に再度平伏した政司であったが、完全に一人になったのを確かめ、ほっと体の力を抜いた。そのまま目の前の布団に突っ伏してしまいたかったが、殿様の命に従うべく政司は慌ただしく動き出したのであった。
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