リフレイン・ストリート―もう一度、美しい愛を弾いて―

風久 晶

文字の大きさ
6 / 80
第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)

第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)5

しおりを挟む




 文彦の一日は長い。あまり眠らぬたちなのだ。
 昨晩はジャズ・レイク・フェスから、自分の車でふらりと気まぐれに大回りして、帰宅したのは夜半も過ぎて朝焼けも昇る頃だった。
 ふっと文彦の頭の中で一つの声が鳴る。

(ねえ、知ってる? 朝焼けは金色なんだよ)

 それは過去という鳥籠に閉じ込められて、二度とは羽ばたくことのない思い出の中だけの、とても清らかな声だ。
 明るくなる空を見つめながら朝方に眠り、半覚醒のままベッドにゆらゆらと起き上がった時には、昼も間近になっていた。
 白い部屋の中で、昼になりそめる不躾で遠慮のない陽射しが、カーテンを透かして部屋のあちこちを照らしていた。
 文彦はその陽射しが痛いかのように目を細め、そのままぼんやりと座ったままでいた。
 簡素な部屋は、冷蔵庫、縦長のミラー、棚に分けられ整理されたスコア、壁際で黒く光るアップライトピアノくらいだ。
 手さぐりで眠る前に飲みかけていたウィスキーのグラスを取り、文彦は細い咽喉を反らせて一気に流し込んだ。
 時間は文彦のまわりととろとろと過ぎていた。
 袖をまくった白いシャツ一枚の姿で、つと掌で、太腿から平らな腹、なめらかな胸、首、そして小さな顔へと撫ぜた。
 ゆっくりと顔を振りやり、ミラーを見た。
 そこには、細くて白い一匹の生物が映っている。
 文彦は鏡へと這い寄ると、手を伸ばして冷たい鏡面に触れ、検分する凍てついた瞳で自分の姿を眺めた。

(ち――)

 ふいに生気なく瞳を閉じて、だらりと腕を下ろした。

(これほど時が経っても――)

 体についてしまった習慣、とは取れ難いものなのだろうか?
 自分はまだ美しいだろうか? と推し量っていたことに、咽喉の奥から苦々しい味がのぼってくるような気がして、文彦は軽い吐き気に襲われた。

(俺の外見がどうでもあろうとも)

  強い想いは心に満ちて、溢れてこぼれ落ちていく。

(もう俺の音には何ら変わりはない。それを人がどう思おうとも。人が俺をどう呼ぼうとも)

 たまに一部の男に、淫売と揶揄的表現をされているのを、文彦は知っている。
 好意的には文彦のジャズはセックスだ、程度に語られることも、文彦は単純には喜べない時期があった。
 自分の人生の何かが透けて見えるのだろうかと、そんな気持ちに苛まれて、夢見は悪い。

(セックスが一体何だ。それが望もうと、望まなかろうと、やってきただけだ。そしてそれが一体何なんだ? 俺のピアノには変わりはない。この想いは誰にもわからない)

 とんと床へ下り、壁際のアップライトピアノの前で、素足の膝を抱えた。
白いシャツのボタンを二つほど外すと、くっきりとした鎖骨を垣間見せながら、胸元から細いチェーンを引っ張り出した。
 そこには細かな彫りのシルバーリングが通されていた。二羽のよりそう鳥が流れる文様のように彫銀されている。
 限りないやさしさを込めて、指で触れる。
閉ざした瞳は夢幻の狭間にたゆたい、ひっそりと一つの名を呼んだ。

(公彦)

 兄弟みたいだね、と笑った若い顔は、未だ文彦の中にある。
 果たして文彦が去ったのか、公彦が去ったのか、一つの悲しみはひっそりと、静かに文彦の心の一部になってしまっていた。
 棚のスコアの並ぶ端から、はみ出てしまった折り皺のついた紙切れ。
 それは文彦の瞳を物憂くけぶらせる。
 薄暗いジャズスポットの写真、日時や場所が印刷され、メンバー四人の名前が銘打たれて印刷された古びたチラシ。
 過去にただ一度だけ文彦が契約したカルテット。
 今も過去を映す、チラシの中の変わらぬ小さな写真。
 ドラムの前に口髭の堂々たる体躯が立ち、その横でねじれた縄のような太い腕にベースを抱えた男が笑い、右側にサックスをかまえた若い姿が映っている。
 そしてピアノの前に座る文彦自身の姿もあった。
 それは今より若く、どこか頼りなげに佇んでいる。

(在りし日の――か……公彦)

 サックスをかまえた青年のままで変わることのなくなった幻影。
 誰かの魂を信じるなど、考えてもみなかったあの頃。
 文彦は、いたずらそうに澄んだ瞳が見えるような気がした。
 外からは工事の音が響いている。近々完成予定のマンション工事だ。
 その音に現実に引き戻されるようにして、文彦は軽やかな巻き毛を片手で乱した。
 アップライトの蓋を開けるとその前にゆっくりと座り、思いつくままに細い音で弾いた。
 ボサノヴァの「カーニヴァルの朝」のリズムを静かに刻み、物悲しい音を細く繋げていく。「黒いオルフェ」の主題歌は哀愁と美しさが共存していて、白い指がそれをきらめきの朝光の粒のように放っていった。
 そして、それはその先で吸い込まれるようにして消えた。
 美しい朝。それはただ、あなたの瞳、あなたの微笑み、あなたの両手を歌っている――
 それはどんな朝だっただろうか?
 文彦はかすかな感覚を呼び覚ますように、音をピアニッシモにまで下げた。

(まるでオルフェだった――俺にとっては)

 そう、過去のすべてはかえらずに、掌からさえもこぼれ落ちていく。
 ふと指を止めて、文彦は椅子に背をあずけた。
 両手をひらくと、目の前にかざし、何処を見るとでもなく眺める。
 しばらくそのままぼんやりとしていたが、やがて軽い仕草で立ち上がった。





 ポケットに指をかけて、文彦はすべるように海沿いの街を歩いていく。
 少し奥まった路地の中を進んでいくと、並ぶ建物の合間のとある通りへと辿り着いた。
 煉瓦倉庫や、建物に港町の情緒を醸しつつ、その通りには「ミスティ」、それから「キャナル」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」などのライブバ―が軒を揃えている。
 この界隈で最も歴史や高名さがある大きな店が「キャナル」だ。かつては萩尾淳史がここでよく演奏していた。
 「ミスティ」は小さめでセンスがあり、通の穴場として名が通っている。
 この一帯はリフレイン・ストリートと呼ばれていた。
 店を出ても音の余韻をいつまでもくり返す通り――また別にストリートと呼ばれる地区があり、それと別つためにもリフレインとだけ呼ばれることもある。
 まだ午後の陽射しの中では、通りはひっそりとしていて、人影もあまり見かけられない。
夜のざわめきはまだ予感の中に留まっていて、ただオレンジに染まる夕暮れを密やかに待っている。
 その中を勝手知った足取りで、軽やかに駆けていく。
 秋の青空にはうっすらと白い雲がたなびき、風に乗って運ばれてくる潮の匂いは文彦の胸を満たした。
 深い色のどっしりとした木製の扉の前で、文彦は足を止めた。
 MISTYと記された看板には、まだいつもの青白いネオンも灯らずに、扉にはCLOSEDのプレートがぶら下げられている。
 文彦はかまうことなく扉を開いて、店の中へとひょいと白い顔をのぞかせた。

「今日は早いやんか」

 カウンターの中から面長の顔を上げて、にやにやと笑ってみせたのは、レイク・フェスでセッションを共にした竜野だった。
 文彦が以前の拠点から流れてこの街へと来た時から、カウンターの中に佇む竜野の姿は変わらない。

(もう何年になるのだろう?)

 この扉を初めて開いてから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

僕の幸せは

春夏
BL
【完結しました】 【エールいただきました。ありがとうございます】 【たくさんの“いいね”ありがとうございます】 【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】 恋人に捨てられた悠の心情。 話は別れから始まります。全編が悠の視点です。

薔薇摘む人

Kokonuca.
BL
おじさんに引き取られた男の子のお話。全部で短編三部作になります

春風の香

梅川 ノン
BL
 名門西園寺家の庶子として生まれた蒼は、病弱なオメガ。  母を早くに亡くし、父に顧みられない蒼は孤独だった。  そんな蒼に手を差し伸べたのが、北畠総合病院の医師北畠雪哉だった。  雪哉もオメガであり自力で医師になり、今は院長子息の夫になっていた。  自身の昔の姿を重ねて蒼を可愛がる雪哉は、自宅にも蒼を誘う。  雪哉の息子彰久は、蒼に一心に懐いた。蒼もそんな彰久を心から可愛がった。  3歳と15歳で出会う、受が12歳年上の歳の差オメガバースです。  オメガバースですが、独自の設定があります。ご了承ください。    番外編は二人の結婚直後と、4年後の甘い生活の二話です。それぞれ短いお話ですがお楽しみいただけると嬉しいです!

2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~

青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」 その言葉を言われたのが社会人2年目の春。 あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。 だが、今はー 「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」 「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」 冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。 貴方の視界に、俺は映らないー。 2人の記念日もずっと1人で祝っている。 あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。 そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。 あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。 ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー ※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。 表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。

【完】君に届かない声

未希かずは(Miki)
BL
 内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。  ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。 すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。 執着囲い込み☓健気。ハピエンです。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

【完結】恋人になりたかった

ivy
BL
初めてのキスは、 すべてが始まった合図だと思っていた。 優しい大地と過ごす時間は、 律にとって特別で、 手放したくないものになっていく。 けれど……

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

処理中です...