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折れない翼をあげるから
38.折れない翼をあげるから④
しおりを挟むこの場所は、あの事件から、俺がずっと一人で生きた場所。
帰ってくれば、色んなことがどっと胸に押し寄せて、まとめることができない。
古くて狭い家のダイニングの椅子で、コートを脱ぐこともできないまま、俺は脚を投げ出して、ただ前を見つめて座っていた。
赤い夕陽が窓から差し込んで、部屋をうっすらと朱に染める。
色褪せた壁に、めくり忘れたカレンダー。
七年間のいくつもの記憶が巡っていって、この頭上で止まる。
小さな溜め息がこぼれて、そのままゆるやかに落ちていった。
「葉司」
長い指が伸びてきて、俺のコートのボタンを外して、そのまま脱がせていった。
「大丈夫?」
「何が?」
俺は視線を落したまま答えた。
「ショックだった?」
「……」
ショック、といえばそうかもしれないし、そうじゃなかったかもしれなかった。
この感情に、まだ名前はつけられない。
気持ちを優に説明することはできなくて、ただ一人で心を抱いている。
「葉司。俺を見てよ」
優は隣に座ると、俺の顔を覗きこんだ。
目の前の表情は心配気に揺れていて、その茶色い瞳を見ていると、少しずつ過去の思いから浮上していった。
「優……」
ずっと一人でいた場所で、隣には、優がいる。
この部屋に、傾く陽射しが二人ぶんの影を作れば、溜め息を束ねて、静かな優しさが広がっていった。
「優」
俺は思わず、溺れそうな心のまま、優の手をぎゅっとつかんだ。
すぐに、その掌はひらいて、俺の手を握り返してきた。
「瑠奈は」
「うん」
「瑠奈は、鷹宮さんと一緒に、色んなことを乗り越えたんだろうな……」
「うん」
「だから、あの場所に立っていたんだって……」
「そうだな――きっと」
「もう、鷹宮さんと、これからも乗り越えていくんだな……どうしてだろう?それは、嬉しいことなのに。どうして進んでいくことが、こんなに怖い」
「葉司――」
「俺は、駄目だな。否応なしに、どんどん進んでいくことが、怖い」
「葉司は、強いよ」
「そんなわけないだろ……」
俺は、ふっと笑った。
「強いよ。ずっと、葉司は、闘ってきたんだよ。誰の助けもなく。もうお休みしても良いんだよ。慣れないことは、きっと誰もが不安になるよ」
優は、そっと俺の頭を撫でた。
「葉司、よく頑張ってきたね。もう闘わなくても良いんだよ。一人で抱えなくても良いんだよ。辛さも、苦しさも、哀しさも。葉司はあまりに一人で居過ぎたから、だから、慣れないかもしれないけど――もう手放して、お休みしても良いんだよ」
「お休み……」
俺は不思議な気持ちで、優の澄んだ瞳を見つめた。
「俺は、許されたんだろうか……」
優から手を離して、俺は両手をひらいて、視線を落とした。
「こんなに汚れた、俺でも……」
指の隙間から、色んなものがこぼれて落ちて、もう何も残っていない気がしていたのに。
その上に、ふわりと優の手が重なった。
「初めから、汚れてなんかいなかったんだ。葉司が一人になったのは、罰じゃないんだ。葉司は強くて、まっすぐで、理不尽な目にあったけど、それは葉司のせいじゃないんだ」
俺は、どんな風に見えているんだろう。
視界は涙でにじんで、目の前の優の顔も霞んでいく。
「葉司は綺麗。俺にはずっと、綺麗なんだ。葉司――俺がいるから。ずっと、俺といてよ、葉司。今までのことも、これから起こる、たくさんのことにも。ずっと一緒にいようよ」
かげってきた空は、薄い紫に染まっていって、一番星がちかり光った。
「俺は、優と、いられるんだろうか……」
「うん、だって、葉司」
優は、まっすぐな瞳をして、にこりと笑った。
「葉司といると、最高に可愛くて幸せだから、俺が離さないから」
優はぐいと俺を引き寄せて、抱きしめると、背中をずっとさすった。
「誰でもない、葉司が好きだよ」
「優……愛してる……」
それだけを精一杯に伝えて、優の肩に顔を伏せて、俺は嗚咽した。
俺は優の肩に頭をもたせかけて、そのまま時が過ぎていく。
かつてない、静かで穏やかな時間が、この家も、俺の心も満たしていって、これほど安心していることに、不思議な気持ちになる。
いくつかの思い出を、もう心にしまって。
誰でもない、この自分の足で、その中から歩いていける気がする。
遠い昔に、遥か遠くに、失くしてしまった気がするもの。
それは柔らかく包まれて、夜はもう暗闇じゃない。
「優」
「え?」
「優は、もう帰らないと」
俺が身を起こして言うと、優はきょとんとした顔で、俺を見返した。
「俺、今日も泊まる」
「え……っ、それはダメだろ?」
「だって、葉司を一人にしてられないし。今日は偶然だったけど、俺がいて良かったって思うし」
「それはそうだけど、でも」
「母さんに電話する」
優は立ち上がって、スマホを取ろうとしたから、俺はその手を押し留めた。
「優のお母さん、心配するよ。だいたい何て言って、もう一泊するんだよ?」
「うーん?それは今から理由を考える?」
優は、くるりと瞳を回した。
「俺、優のお母さんに、あんまり嘘つきたくないんだ……もう、それに、こんな時間になってしまったし」
時計の針は、すでに十九時を指していた。
「優とのこと、ちゃんとしてたいから。本当に、今日は帰ろう?」
「駄々こねてもダメ?」
「ダメ――だって、きっと、大丈夫」
優は、静かに俺の瞳をじっと見た。
「優が、こうして居てくれて。この家には、優との思い出もできて。ここにいても、もう一人じゃないって思えるから。優がたくさん、俺にくれたものがあるから。だから、きっと、大丈夫」
「葉司――」
優は、惜しむように溜め息をついて、しばらく考えていた。
「あっ、じゃあ、こうしよう。明日の朝、ここに来るから」
「えっ、優はもう予備校の冬季講習だろ?」
「うん、だから、その前に来る。俺が、心配だから、葉司に会いに来る。それまで待ってて。朝まで」
「うん……」
「ヨシ。それなら、俺も帰れるよ」
明るく笑った優に、心は愛しさで溢れて、考えるよりも早く、その唇にキスしていた。
荷物をまとめて、優が帰ってしまった後、俺は自分の部屋で布団の上に座っていた。
電気も点けない部屋は、冬の夜空と同じ色をしている。
部屋の隅は、どこか世界と繋がっているようで、その区切りは暗くて見えない。
真夜中に寝つけないまま、ぼんやりと波間に揺れるように、心は漂っている。
ただ座り込んで、動かない人形のふりをしている。
だけど、心はスローモーションで動き出して、この部屋に残った温もりを探し出した。
誰もいない部屋に、ポッとかすかに小さなオレンジ色の光が灯った。
目を上げると、そこは、優が笑っていた場所だった。
優の笑顔の温もりが、そこに残っているように見えて、ふわっと部屋中に広がった。
振り返ると、そこにも小さなオレンジ色の光がゆらめいていた。
それは、しゃぼん玉みたいに、ふわふわと宙に舞っては、パチンと弾けて、部屋中に広がっていた。
(葉司、笑って)
くったくない優の笑顔。
澄んだ眼差しは、俺だけを見つめている。
かすかに耳に聴こえてくる笑い声は、さんざめく遠い波のよう。
(大好きだよ)
溜め息のような囁きが今も聴こえる。
そこかしこに、優のいた形跡が残っていて、しんとして冷たく昏かったはずの部屋のあちこちに、ポッポッと小さくて丸い光が浮かんでいる。
両手をひらくと、自分の想いがあふれて、はらはらと床にこぼれ落ちていった。
「優」
その想いを胸に抱き込んで、俺は布団に横になった。
何もないはずの部屋は、夜空となって、オレンジ色の光はオーロラのように重なってうっすらと広がっていた。
「おやすみ」
(おやすみ)
その返事を聴いて、俺は静かな眠りの中へと落ちていった。
「おはよう!」
「えっ」
チャイムとともに、聴き慣れた声が響いて、俺はガバッと起き上がった。
驚きで急に起き上がったものだから、頭がくらりとする。
「葉司―!おはよう」
俺は冬の朝の冷たさの中を、慌てて階段を駆け降りた。
急いで玄関を開けると、そこには朝の白い陽射しを背に、マフラーに顎をうずめた優が立っていた。
「おはよう、葉司」
「おはよう、優」
俺たちは手を繋いで玄関のドアを閉めると、おはようのキスをした。
これからも二人の日々が続いていくように、祈りを込めて。
さあ、明日にも続くジャンプ・オーバー――今日が溢れたら、一、二、三で、駆けていく力に変えて。
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