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工藤家の件
兄弟
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実家の屋敷に着くと、通された奥の間に兄の姿はなかった。こういうときは、いつもなら書見などしながら、顰め面で待ち受けているというのに珍しい。
床の間を背にした上座には、使い込まれた座布団と、いつもは目にしない脇息が置かれていて、少し下がったところに吉十が能面面で座っている。
「吉十、兄上はどこかお悪いのか」
見慣れぬ脇息と十蔵とを見比べてふと尋ねた。兄の主馬は新三郎より四つばかり年嵩なだけで、歳はようやく三十だ。脇息にもたれかかるような老齢ではないはずだ、といぶかしんだのだが、吉十はとぼけた顔で苦笑いしただけだった。
それにしても待たせるものだ。年長者であるし、家長でもあるわけだから別段礼を失するような訳でもないが、勿体ぶられているようで面白くない。そう思うのは、日ごろから何かと新三郎が兄のことを侮っているからかもしれなかった。
とは言え兄の主馬は、特に弟に侮られるような人品と言うわけでもない。
三十にようやく届くような年齢でありながら、幕閣内では順調に出世をしており、現在は若年寄支配の使番を給わっている。もともと三千石の家禄に、五百石の役料を積んで有能ぶりを発揮しているのだ。
芝の端っこに拝領した屋敷は広大で、家の経済は豊かな方と言えよう。遠方なので出向いたことはなかったが、荻野家の出自と言われる丹波国には領地もあって、現地で獲れる黒豆や猪肉の塩漬けなどが年に一度届けられたりしている。
まずまず有望有為と言っていいのだが、新三郎が兄を蔑ろに思うのには別な理由がある。それを知っているから、吉十はさきほどの新三郎の質問に苦笑いで答えたのだが、当の新三郎には知る由もない。
ちなみに広大と言っていい屋敷には、隠居している兄弟の祖父母と未亡人の母、兄夫婦とその子共ら男女一人ずつが住んでいる。今は家を出ている新三郎を合わせると、八人の主人一家と、住み込みの中間や女中らなど合計して、三十人ほどが起居していた。
兄弟の父が亡くなったのは新三郎が十八の時のことで、それで兄の主馬がそのあとを継いだ。もう八年も前のことになる。
その折、部屋住みの新三郎に縁談の話が入り始めた。いくつかあった話の先は、実家の禄高と変わらぬ家がほとんどで、二百から五百石取りの小普請組の旗本ばかりだった。
現在新三郎が実家を出奔している理由と、その原因がそれら養子縁組のいざこざにあるのだが、そのことは一旦置いておく。
新三郎が兄の主馬にいちいち背くようになったのは、間違いなくその頃からのことである。
新三郎は八年前のことを思い出してため息をついた。考えても埒のないことだ。そうして物思いが畳の上を何往復かした頃、ようやく兄の主馬が現れた。下士の肩を借りてずいぶん辛そうに歩く。吉十がいざって行って主人を介助した。
「いや待たせた」
声をかけられて新三郎は神妙な振りをして頭を下げた。
「いかがされましたか。ずいぶんお辛そうですが」
「なに、酒宴の座興でな、堀田様が相撲を所望なさったゆえ、若い者と一番取ったらこの有様よ」
いたたた、とわざとらしくこぼしながら、主馬は脇息にしなだれかかるように座った。追従笑いの吉十が、名誉の負傷でございますな、とおべっかを使ったので、新三郎は危うく舌打ちをするところだった。
この太鼓持ち侍が、と胸中で悪態をついたが、それは吉十に向けたものだったか、上役の軽口に易易と乗る主馬に対するものだったかは判然としない。
「呼んだのは他でもない。そなた、まだ森の使い走りをやっておるそうじゃな」
さっそく始まった、と新三郎は眉間のあたりに力をこめた。
今日はきっちり決着をつけてやる。そうしてこの屋敷の敷居をまたぐのをこれで最後にしてやるのだ、と腹を括った新三郎は、下げていた頭を起こすと、きっと主馬を見据えた。
「確かに玄蕃の代行で版元見届け人をいたしましたが、公儀の御役目ゆえ使い走りではありませぬ」
「まあそうだが……。こじれていた末期の養子の件、うまくまとめてきたと聞いたぞ。一旦お取り潰しと決まった家を目こぼすなど、目付の職掌から外れておろう」
懐から出した扇子をぱっと開いてはぱちりと閉じるのを繰り返しながら主馬は新三郎に視線をやる。主馬が家臣や子供らにねちねちやるときの癖である。こうなると話が長くなる。
ところで新三郎の剣と塾の同門である森玄蕃と、兄の主馬は属する派閥が異なることから何かと張り合う関係である。と言っても一方的に主馬が宿敵視しているだけだったが、兄である自分よりも競争相手の玄蕃に合力する弟に恨み言の十や二十言いたいのだろう。ここで言い負けてやるわけにはいかなかった。
「職掌のことをお言いなさるのであれば、兄上こそ御役目は使番。目付の仕事に口出しなさるべきではありませぬでしょう。それに、こたびの件取り潰すと決まっていたわけではありません。願書に不明点があるため子細の確認に出向いて、必要に応じて助言など致しただけのこと。それに、願書に抜かりがあるからといって、いちいち家を取り潰して公収などなされては、関わるものの恨みを買うばかりですぞ。お上のためを思えばこその仕儀にて」
「そなたのは助言の域を突き抜けておると聞くぞ。何ならそなたを見届け人に指名する旗本衆もおると言うではないか。巷間では森は弱者の救済者だと持て囃す風潮さえあるとか」
「悪いことではござりますまい」
「だが森には安藤様の息がかかっておる」
「兄上、安藤様が悪政を敷いて栄達していると言うのであれば、その言も理解できまする。そうでないなら、他人の足を引っ張るようなことは荻野家の名に懸けてゆめゆめなさりませぬようお願いしたい」
主馬は弟の剣幕に長い溜息をついた。扇子をぱちりと閉じて畳の上に置く。新三郎は心の中で小さくこぶしを握り締めた。
「新三郎、そなたは理屈っぽいのだ。儂がそなたを叱っているのであって、そなたが儂に意見するなどあべこべではないか」
「兄上が悪うございます。それにすでに縁を切った身、本来であればこのようなお叱り受けるいわれもありませぬが……」
「ふん、このような離縁状受け取れるものか。こんなことが評判になってみよ、わが家が取り潰されるわ。荻野家の名に云々言うのであればそなたこそこんなもの引っ込めよ」
「ぐぬ……」
思わぬ反撃を受けて新三郎は言葉を詰まらせた。兄弟の間に、放り出された離縁状と沈黙がどっかりと座を占める。表の庭ではしゃいでいる甥らの声が、障子越しに聞こえていた。
二人の言い争いを能面面でずっと眺めていた吉十が、投げ捨てられた離縁状を拾って折り畳むと、膝行してきて新三郎の袂にそれをぐいっと押し込んだ。
「もうよい。飯を食ったら出ていくなり好きにせよ。離縁などばかばかしい話は二度とするな」
主馬はそう言って、いたたたた、と腰をさすった。
床の間を背にした上座には、使い込まれた座布団と、いつもは目にしない脇息が置かれていて、少し下がったところに吉十が能面面で座っている。
「吉十、兄上はどこかお悪いのか」
見慣れぬ脇息と十蔵とを見比べてふと尋ねた。兄の主馬は新三郎より四つばかり年嵩なだけで、歳はようやく三十だ。脇息にもたれかかるような老齢ではないはずだ、といぶかしんだのだが、吉十はとぼけた顔で苦笑いしただけだった。
それにしても待たせるものだ。年長者であるし、家長でもあるわけだから別段礼を失するような訳でもないが、勿体ぶられているようで面白くない。そう思うのは、日ごろから何かと新三郎が兄のことを侮っているからかもしれなかった。
とは言え兄の主馬は、特に弟に侮られるような人品と言うわけでもない。
三十にようやく届くような年齢でありながら、幕閣内では順調に出世をしており、現在は若年寄支配の使番を給わっている。もともと三千石の家禄に、五百石の役料を積んで有能ぶりを発揮しているのだ。
芝の端っこに拝領した屋敷は広大で、家の経済は豊かな方と言えよう。遠方なので出向いたことはなかったが、荻野家の出自と言われる丹波国には領地もあって、現地で獲れる黒豆や猪肉の塩漬けなどが年に一度届けられたりしている。
まずまず有望有為と言っていいのだが、新三郎が兄を蔑ろに思うのには別な理由がある。それを知っているから、吉十はさきほどの新三郎の質問に苦笑いで答えたのだが、当の新三郎には知る由もない。
ちなみに広大と言っていい屋敷には、隠居している兄弟の祖父母と未亡人の母、兄夫婦とその子共ら男女一人ずつが住んでいる。今は家を出ている新三郎を合わせると、八人の主人一家と、住み込みの中間や女中らなど合計して、三十人ほどが起居していた。
兄弟の父が亡くなったのは新三郎が十八の時のことで、それで兄の主馬がそのあとを継いだ。もう八年も前のことになる。
その折、部屋住みの新三郎に縁談の話が入り始めた。いくつかあった話の先は、実家の禄高と変わらぬ家がほとんどで、二百から五百石取りの小普請組の旗本ばかりだった。
現在新三郎が実家を出奔している理由と、その原因がそれら養子縁組のいざこざにあるのだが、そのことは一旦置いておく。
新三郎が兄の主馬にいちいち背くようになったのは、間違いなくその頃からのことである。
新三郎は八年前のことを思い出してため息をついた。考えても埒のないことだ。そうして物思いが畳の上を何往復かした頃、ようやく兄の主馬が現れた。下士の肩を借りてずいぶん辛そうに歩く。吉十がいざって行って主人を介助した。
「いや待たせた」
声をかけられて新三郎は神妙な振りをして頭を下げた。
「いかがされましたか。ずいぶんお辛そうですが」
「なに、酒宴の座興でな、堀田様が相撲を所望なさったゆえ、若い者と一番取ったらこの有様よ」
いたたた、とわざとらしくこぼしながら、主馬は脇息にしなだれかかるように座った。追従笑いの吉十が、名誉の負傷でございますな、とおべっかを使ったので、新三郎は危うく舌打ちをするところだった。
この太鼓持ち侍が、と胸中で悪態をついたが、それは吉十に向けたものだったか、上役の軽口に易易と乗る主馬に対するものだったかは判然としない。
「呼んだのは他でもない。そなた、まだ森の使い走りをやっておるそうじゃな」
さっそく始まった、と新三郎は眉間のあたりに力をこめた。
今日はきっちり決着をつけてやる。そうしてこの屋敷の敷居をまたぐのをこれで最後にしてやるのだ、と腹を括った新三郎は、下げていた頭を起こすと、きっと主馬を見据えた。
「確かに玄蕃の代行で版元見届け人をいたしましたが、公儀の御役目ゆえ使い走りではありませぬ」
「まあそうだが……。こじれていた末期の養子の件、うまくまとめてきたと聞いたぞ。一旦お取り潰しと決まった家を目こぼすなど、目付の職掌から外れておろう」
懐から出した扇子をぱっと開いてはぱちりと閉じるのを繰り返しながら主馬は新三郎に視線をやる。主馬が家臣や子供らにねちねちやるときの癖である。こうなると話が長くなる。
ところで新三郎の剣と塾の同門である森玄蕃と、兄の主馬は属する派閥が異なることから何かと張り合う関係である。と言っても一方的に主馬が宿敵視しているだけだったが、兄である自分よりも競争相手の玄蕃に合力する弟に恨み言の十や二十言いたいのだろう。ここで言い負けてやるわけにはいかなかった。
「職掌のことをお言いなさるのであれば、兄上こそ御役目は使番。目付の仕事に口出しなさるべきではありませぬでしょう。それに、こたびの件取り潰すと決まっていたわけではありません。願書に不明点があるため子細の確認に出向いて、必要に応じて助言など致しただけのこと。それに、願書に抜かりがあるからといって、いちいち家を取り潰して公収などなされては、関わるものの恨みを買うばかりですぞ。お上のためを思えばこその仕儀にて」
「そなたのは助言の域を突き抜けておると聞くぞ。何ならそなたを見届け人に指名する旗本衆もおると言うではないか。巷間では森は弱者の救済者だと持て囃す風潮さえあるとか」
「悪いことではござりますまい」
「だが森には安藤様の息がかかっておる」
「兄上、安藤様が悪政を敷いて栄達していると言うのであれば、その言も理解できまする。そうでないなら、他人の足を引っ張るようなことは荻野家の名に懸けてゆめゆめなさりませぬようお願いしたい」
主馬は弟の剣幕に長い溜息をついた。扇子をぱちりと閉じて畳の上に置く。新三郎は心の中で小さくこぶしを握り締めた。
「新三郎、そなたは理屈っぽいのだ。儂がそなたを叱っているのであって、そなたが儂に意見するなどあべこべではないか」
「兄上が悪うございます。それにすでに縁を切った身、本来であればこのようなお叱り受けるいわれもありませぬが……」
「ふん、このような離縁状受け取れるものか。こんなことが評判になってみよ、わが家が取り潰されるわ。荻野家の名に云々言うのであればそなたこそこんなもの引っ込めよ」
「ぐぬ……」
思わぬ反撃を受けて新三郎は言葉を詰まらせた。兄弟の間に、放り出された離縁状と沈黙がどっかりと座を占める。表の庭ではしゃいでいる甥らの声が、障子越しに聞こえていた。
二人の言い争いを能面面でずっと眺めていた吉十が、投げ捨てられた離縁状を拾って折り畳むと、膝行してきて新三郎の袂にそれをぐいっと押し込んだ。
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