【完結】雇われ見届け人 婿入り騒動

盤坂万

文字の大きさ
38 / 40
梅雨入りの件

終焉

しおりを挟む
 宮内の寝室に通された新三郎は、部屋の中に漂う病臭にほんの少し中に進むのをためらった。むせかえるような甘い香りが漂っているのは、何か病状に関係していることだろうか。どこかで嗅いだことのある匂いのようにも思うのだが、いったいどこでの記憶だろう。何かの花の匂いのようだった。
 宮内と思われる病人の枕元で世話をする塔子に、新三郎は役目を負った視線を送った。

「それで宮内様のご容態は」
「……明日をも知れぬ状態です」

「調べではご壮健だと。末期養子の方便に仮病をされていると聞いたが……」

 目を閉じたままの宮内の枕元に腰を下ろし、密やかに言葉を交わす。

「半月前、私がここへ参った折は時折けだるそうにはされていましたが、まさかにこのような大病になるとは思いもせぬご様子でした」
「宮内様にご持病は?」

「ご健康そのものです。少しお酒と煙草が多いようにお見受けしましたが、これまでに大きな患いもなかったと」
「煙草……」

 煙草は嗜好品だが、一般の町民でもえるくらい普及している。煙を吸う行為が健康に害をなすということは、賛否が分かれているがこれまで健康だった人間が、突然病に斃れ意識まで失うとは考えられない。酒毒もまた然りで、長年をかけて身体を蝕むものだ。そうした病もやはり、このように突然昏倒するようなものではないだろう。
 だが新三郎は、やはり煙草が気になる。ここに残っている香りは煙草の匂いだろうか。甘い花の香りに、ヤニの鼻腔にまとわりつくような匂いが混じっている。ただ、何やら甘やかな香りに、新三郎は部屋に入ってからそれほど時がたったわけでもないが、もう頭が痛い。

「塔子どの、宮内様は病床にあっても煙草を?」

 そう聞いたのは、部屋の隅に豪奢な螺鈿らでんの入った煙草盆が据えられているのを見たからである。

「はい。時折目覚められては薬湯よりも煙草を吸われます」

 死病にある人間はよく嗜好に執着するというが、それだろうか。煙草にはわずかだが中毒性があるとも聞く。習慣になるとなかなか止められないらしく、新三郎の周りでも喫煙をするようになるものは年々増えるばかりで、反対に止めてしまった人間をとんと聞かない。死ぬまでの習慣になることがほとんどのようだ。

「時折、気が付かれるのですね」
「日に四度から五度ほど。その都度に煙草を」

「そうですか。では目を覚まされるまで待ちましょう」

 寝間の続きである板の間に、忠馬と加也が控えており、その後方には主を憚ってか、かなり間をとって横田らが遠巻きに様子を窺っている。次に目を覚ますのはどれほど先のことだろうか、と視線を天井に、欄間らんまに襖に壁に巡らせていると、さっきより頭痛が激しくなってきて、新三郎は塔子に頼んで水を汲んでもらった。

「この、甘やかな匂いはなんでしょうか」

 新三郎が問うと塔子はきょとんとした。長くこの部屋にいる様子で異臭に気が付かないのだろうか。ふと忠馬らを振り返ると、加也が何か思いついたらしく口を開いた。

「ハシバミのような匂いがする、と思っておりました」
「そうか。ハシバミだ」

 はしばみは野焼きなどをしたあとに群生することが多い木の実をつける植物で、江戸の近郊でも多く見られたし、その実は食用にも行火の油としても使われている。新三郎の実家である芝の屋敷には庭に一株自生しており、兄の主馬と時におやつに時に遊び道具にむしったものだ。
 三月の末頃から花をつけるのだが、その花が毛虫のようで子供時分の新三郎は気味が悪かったのを憶えている。ほのかな甘い香りは春を告げる幼い頃の庭の匂いだった。それと似た香りが部屋の中に充満していて、新三郎ははっとすることがあった。

「塔子どの、煙草盆を改めたいのですが」

 新三郎が言うと、塔子よりも先に横田の近くにいた小沢宇右衛門が「だめだ」と叫んだ。主人が病臥しているのも憚らずの大声で、横田も驚いた様子で小沢を振り返る。

「貴殿の御役目は判元の確認であろう。医者や監察のの真似事ではあるまい」
「…………」

 片膝立ちになっている小沢をじっと見やって、新三郎は忠馬と加也に「邪魔をさせるな」と言いやるや、煙草盆に素早く身を寄せた。小沢はついには立ち上がって新三郎に駆け寄ろうとしたが、忠馬が両手を広げて立ちはだかったのでそこで押し問答になった。

「この、無礼な」
「無礼はあなたでしょう!」

 加也は叫ぶや遠慮なく小沢の腕を逆に極めて動きを封じた。それにあわせてばらばらと、中間や下士らが集まってきたが、やにわに、静かだが威厳のある声がその場にいた人間の動きをとめた。

「なんの騒ぎか。横田、どうした」

 今まで臥せていた宮内が起き上がろうとするので、傍にいた塔子がそれを助ける。自分を支える塔子の腕をとって、宮内は慈愛のある目で自分の養女を見やった。

「塔子、すまぬな」

 新三郎はその様子をじっと見ていたが、手にした煙草盆を前にすると抽斗ひきだしを開け、中を改める。中には煙管と刻み煙草、火だね、灰落としなど一通りのものが揃っていて、特段不審はない。
 刻み煙草の中に異物があるかと思ったが、鼻を近づけても異変は感じられなかった。だが、煙管の雁首がんくびを外し、そこに顔を寄せると、ほのかに香るはしばみの匂いがあった。

「これだ」

 新三郎が煙管の羅宇らうの部分を取り上げ、小沢をねめつけると、そこに小沢は崩れ落ちた。信じられないものを見る目で横田と七條が小沢を見つめている。
 部屋の中の時間が凍り付く中、宮内が塔子の手を借りて寝具の上に起きた。

「使者どの、とお見受け致す」
「は、身どもは荻野直視と申します。今般藤堂宮内様の要請に応え、公儀より末期養子願いに伴う判元見届に参じましたが、願書に確認したきことがあり、このように罷りこした次第」

「あいわかった。準備致すゆえ、いずれかでお待ちいただきたい」

 そのとき表から上士が一人転がり込んできて、一大事ですと叫んだ。表を預かる番頭格だろう。

「久居藩の藩兵が当陣屋を取り囲んでおります。数はおよそ二百。指揮は、藩主藤堂左近様が直接陣頭にお立ちで、いかが致しましょう」

 瞬間空気が張り詰めたが、その糸を切ったのは意外にも病身の宮内だった。くっくと嗤うと、着替えるためにゆっくりと立ち上がった。

「手向かい致すな。降参すると左近殿に伝えよ。それで先方には判ろう。のう、横田」

 横田太右衛門が力なく、承知いたしましたと応え、よろよろとこの場を去った。七條はおろおろと狼狽えるばかりで、小沢は加也に腕を極められたまま身じろぎひとつしない。どうやらこの場は自分が仕切る必要がありそうだ、と新三郎は盛大にため息をついた。
 それにしても不可思議なのは、宮内の塔子に対する態度が本当の娘にするそれと見えたことだった。さて、いったいどう落着させればよいのやら。やることはまだまだたんまりとある。
 新三郎はもう一度、盛大にため息をついた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~

めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。  源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。  長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。  そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。  明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。 〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

処理中です...