青葉の頃

ふみや@T&F新

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青葉の頃

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 この世界に生まれてきた理由とはなんだろう。薄暗い空を見上げ、解けもしない疑問を大きな雲にぶつける。今にも雨が降り出しそうな天気だ。
 「友也、何してんだ。帰ろうぜ」
 「うん」
 ダボダボの制服に身を包み、今にも走り出しそうな姿勢を見せる友人の平沼はいつだって元気だ。小学校から一緒だった僕は、彼の明るい性格、人気、人前で笑いをとったりみんなをまとめあげるリーダーシップに心から尊敬している。次第に遠くなっていく平沼の頭の寝癖を見つめ、やれやれと僕は重い足を前へ一歩踏み出した。

 冬が終わり、幾度となく訪れる春の季節はいつだって心が疼く。毎年毎年、新学期を迎えるとやってくる行き場のない恐怖心は、きっと何年経っても僕は克服することができないだろう。いつだって僕は臆病だ。
 着慣れない制服に身を包み、僕は今年から中学生になった。初めて向かう中学校への足取りは誰よりも重い。まるで足が鋼のようだ。玄関に貼ってあるクラス分けの貼り紙に目を通し、湿り気のある床を靴下のまま進む。人気を感じない。ちょっと早く来すぎたか。時刻は朝の七時三十分を回ったところ。就業時間までおよそ一時間といったところ、自分の真面目さに苦笑して向かった教室、教卓の目の前の席にたった一人生徒が座っていた。他にまだ誰も来ていないというにも関わらず、彼は馬鹿正直に背筋を伸ばして真っすぐに黒板を見つめている。やれやれ、上には上がいるものだと再び苦笑し、その見知った顔へ言葉を掛ける。
 「竹村君…だよね?」
 「うん…あ…林田君。」
 「幼稚園一緒だったよね。久しぶり」
 「うん、久しぶり」
 彼の裏返った声と泳いだ目が逆に自分を落ち着かせる。何だ、自分が思ってた以上に自分はあまり緊張していなかった、という錯覚に陥りながらも、ああ、中学校生活が始まったんだなと感慨に浸る。やがて少しずつ生徒が登校してきて、静寂に包まれていた新一年生の教室が並ぶ四階は、あちらこちらで話し声が弾み始めた。不安な面持ちで教室に足を踏み入れる生徒も、すぐさま友人を見つけ、その下へと駆け出す。
 「いやー緊張してきたなー」
 緊張という言葉の意味を間違って覚えているのではないか、そういう疑問を頭に浮かべながらも、ヘラヘラ笑いながら近づいてきた平沼に言葉を返す。
 「残念ながら違うクラスだったね」
 「そうだなー。まぁ同じ小学校だった人もちょいちょいおるし、まぁ楽しんでいこうぜ」
 「平沼は楽観的で羨ましいよ」
 ちらりと視線を向けた先、相変わらず背筋の伸びが一切乱れることない竹村君。「友達いっぱい作ろうぜ」という平沼に適当に答え、やがて現れた体育教師であろうチンピラみたいな先生の「早よ教室入れオラァ」という恫喝ともとれる怒号に、一斉に廊下から教室に逃げ込む生徒の列に混じる。「じゃあまた後でな」と笑顔で別の教室へ向かう平沼の背中を見送り、いち早くチンピラの視界から逃れる。やれやれ、こんな先生ばっかりだったらたまったもんじゃない。僕は、登校する前に抱えていた不安が可愛かったな、と思えるくらいに増大した不安を抱え、塗装があちこち剥がれた木製の椅子を床の埃を引きずりながら引いた。

 気怠げな入学式を終え、クラス内での自己紹介で吐きそうになりながらも、無事乗り越えて学校を後にする。いよいよ明日から迎える中学校の授業に少しだけ胸の高まりを感じながらも、やっぱり憂鬱な気持ちも否めない。帰り道、通学路。この果てしなく続くような道がこれから毎日続くのか。一歩一歩踏みしめるアスファルトの反発に負けそうにならないようにしたい。力強い足取りで豪快に歩く平沼を横目に、自分の心の弱さを嘆くのは何度目だろう。ふと、女子生徒の集団が僕達を追い抜いていく。その中に幼なじみの美久ちゃんを見つけた。美久ちゃんは背が低くて長い髪を伸ばした、綺麗な顔立ちをしたフランス人形のような可愛らしい子だった。幼稚園から一緒でよく家に遊びに行ったりしていたのは楽しかったなぁ。すっかり大人になった美久ちゃんは、僕に目をくれることなく他の女の子達と楽しそうに歩いていった。もうあの頃のような自分に微笑みをくれる天使のような美久ちゃんはいない。小さな寂しさを胸に抱きつつ、美久ちゃんの背中を見送る。その背中はとても遠く見えた。変わっていく美久ちゃん、変わらず横を歩く平沼。僕はこれから先どういう道を歩んでいけばいいのか。中学生の未熟な少年の頭では、到底答えを導き出すことはできない。

 友也は元々運動神経はいい方だった。しかし、小学校のときに別段スポーツの習い事などはやっていたわけではなく、専ら家でゲームをするのが好きなインドアの住人だった。だからこそ、体育の授業の五十メートル走でそこそこの好タイムをたたき出した後に、まさかクラスメイトの誰だかも分からない奴に「お前足速いな!陸上部入れよ」と声をかけられることなど思ってもいなかった。呆気に取られた友也はその問いかけに答えることなどできず、心の中で「冗談だろ」と、届かない言葉を誰に向けるわけでもなく投げかけた。先日の入学式を終えた日の午後に、上級生達による部活動説明会があったのを思い出す。各部活動の生徒達が恥ずかしそうに緊張しながら各々のパフォーマンスをやり遂げていく中、トリを飾ってたのは陸上部だった。陸上部はたったの二人だった。それも一人は小さい頃から遊んでいたよく知った仲の先輩だった。陸上部なんかに入ってたのかよ、という思いを抱く友也を目前にして、非常にダルそうな表情でその先輩はまるでダンスのようなステップを、ステージ上の高いところから踏んでいた。その傍ら、おそらく部長である長身の生徒が解説者の如く一つ一つの動きを何やら熱い様子で語り、説明している。友也の頭の中にはテレビでよく見かける元テニスプレイヤーが現れてすぐに消え去った。周りの新入生達はこれほど失笑という言葉が当てはまるものはないという表情をしていたのが印象に残る。あれほどの強烈なインパクトを残した陸上部に入るという未来のイメージは湧かない。注目されるのが苦手な友也には地獄のような視線を浴びるかもしれない。あんな話はきっと社交辞令だ、と自分の中で納得して記憶から抹消した陸上部。だが、今日の帰り道に平沼の口から放たれた「一緒に陸上部に入ろうぜ」という呪文を聞いたときは思わず頭を抱えた。そうだ、こいつはこんな奴だった。全く、どこにそんな魅力を感じたのか。目をキラキラさせて真っすぐに見つめてくる動く好奇心の視線に、友也はため息をつく。部活動入部申請用紙の締め切りは今週末だということを思い出し、友也は再び平沼の目を見ながらもう一度深いため息をつき、仕方なく首を縦に動かす。断れば休み時間の度にしつこく付きまとわれるだろう。自分にしては賢明な判断だったと自画自賛をするとともに、これから異端視される存在になるだろう未来に憂鬱とした気持ちが加速していく。

 「やぁ、よく来たね。一緒にたくさんの汗を流そう」
 翌日の放課後、訪れた陸上部のもとへ行くと例の如くあの熱血部長が握手を求めてきた。熱意が籠もりに籠もったその握手は僕の手を激しく痺れさせる。ノリが合うのだろう平沼が、部長に何か身振り手振りで表現しているのを横目に、僕はもう一人の先輩へと歩み寄る。
 「よろしくお願いします」
 「おう、よろしく」
 昔と変わらない、まるで死んだ魚のような目でやはりダルそうに拓夢先輩は応じる。
 「昨日も言ったけど、敬語とか使わんちゃいいからな」
 「うん、わかった」
 平沼からのおねだり攻撃の被害に遭った日の帰り、下校していく生徒達の中、一際大きい体のその先輩を僕は偶然見つけた。「こんにちは」「おう」「陸上部入っていいですか」「いいぞ。何でお前が敬語使ってんだ。タメ口でいい」「ありがとう」「部活は明日の放課後からな」「わかった」この間、一分足らず。さっさと帰っていった猫背の拓夢を思い出す。
 それにしても、まるで動くことを知らないような超インドアなゲーマーの拓夢が何でよりによって陸上部なんかに。
 「シューゾーに誘われてな」
 「シューゾー?」
 まるでテレパシーのように拓夢は僕の心を読み、入部した経緯を答える。
 「そこにいる暑苦しい奴」
 「あぁ…」
 よりによって、暑苦しい某熱血テニスプレイヤーとウチの部長の名前は同じらしい。「シューゾーアレルギー」とやらを発症するかもしれない。苦笑を浮かべ、練習着の体操服に着替えながら僕はこっそりため息をついた。

 一時間、六十分。何と永遠のような地獄の時間だろうか。授業の終わりを告げるチャイムが、体の緊張を弛緩させる。社会の授業はクラスの担任でもある磯部が受け持つ。磯部の授業は強制的に発表させられるため、本当に大嫌いな授業だ。発表なんて制度、一体誰が考えたのだろうか。本当に無くなってしまえばいい。大体、弥生時代の人々の暮らしなんて知ってどうする。興味なんて微塵も無いのに「感想を述べて下さい」なんて正直馬鹿げている。挙句の果てには答えられなかったら立たされっぱなし。弥生時代の人々を喜ばせるような褒め言葉でも言って気を利かせれば、少しは成績が上がるのだろうか。止まらない心の愚痴を強制的にシャットダウンして、とりあえず今日の発表を免れた喜びをかみしめる時間。それをニヤけ顔で邪魔をする気満々で近づいてくるのは、クラスメイトの高山。そう、あの体育の五十メートル走の後に僕を陸上部に薦めてきた超本人だ。
 「よう、昨日は楽しそうだったな」
 「そう見えたのならお前の目は節穴だな」
 初日にも関わらず、相当しごかれた昨日の部活を思い出す。ウチの学校の傍には、サイクリングロードという自転車専用の道(通称チャリ道)があるが、まず体力作りから始めさせる一年生はよくこの道を走らされる。草木に囲まれた森の中を走るのは「空気が美味しい」「いい気分で走れる」と思いがちだが、そうもいかない。僕は長距離走が苦手だ。これもしかしたら心臓が止まっていつか死ぬんじゃないのか、そんな気持ちすら浮かんでくる。たった四人しかいない陸上部は「二人だけじゃ寂しいよね。一緒に頑張ろう」と、頼んでもいないのにキャプテンの修造先輩も付いてきた。そうなると、ダルそうな顔をしながらも拓夢も無言で横に並ぶ。ちなみに、当然だが平沼と僕以外に陸上部に入部してくれる猛者は誰一人いなかった。「よっしゃ行きましょー」という叫びとともに、猛者の平沼がスタートの合図も待たずにまるで短距離のようなスピードで走り出す。「平沼ー、速いよー」とその後を修造さんが追っていく。僕は呆れながら重い足を前に出す作業を始める。一キロもいかない内に失速した前の二人に追いつきそうだな、と思いながら足を動かしていると、前からウチの学校の生徒が走ってきた。何キロ先で折り返してきたかは分からないが、おそらく卓球部かなんかの一年生っぽいメガネ君がよろよろと今にも倒れそうな状態で、水を欲しがる魚のように口をパクパクさせて僕の横を歩くようなスピードですれ違った。かわいそうに。彼は一週間も保たないだろうな。そう確信し、僕は前を走る二人の背中が遠くなっていくのを見ながら、後ろでマイペースに走っていた拓夢の隣に収まった。

 平沼がようやくゴールしたのは、僕らがゴールして十分ほど経過した頃。メガネ君と重なる姿を少し想像していたが、疲れてもなおヘラヘラしていたあいつの精神を理解できる日はきっと永遠にやってこない。ちなみに修造さんは、あのペースでも一切ペースが落ちることなく走っていき、ゴール地点で腕立てをしながら僕らのゴールを待っていた。やっと終わったよと一息ついたのも束の間、グラウンドに戻ってきた僕らは、修造さん直伝の筋トレ地獄によってノックアウト寸前に。この人はさっきの腕立てといい、相当な筋トレマニアだな、と心の中で呟く。
 「修造は授業中も両足に重りつけてたりして、普段から鍛えまくってるからな」
 重そうな上体を必死に起こしながら、またもエスパー拓夢は僕の心を読む。その言葉にため息で返しながら、僕はあることに気付く。
 「そういや顧問の先生は?」
 「あぁ、木戸ティーね。いつも来ないよ」
 大丈夫かこの部活、という不安を感じたが、あのリーダーシップとカリスマ性を持っているキャプテンがいるから大丈夫かという結論で無理矢理終わらせる。ちなみに木戸ティーという呼び名は、木戸ティーチャーを短縮して親しみを込めて木戸ティーと呼んでいるらしい。全然来ないのに親しみを持たれているのか。不思議な先生だ。隣を見ると、熱血コンビが相変わらず「うおぉ叫べ俺の腹筋」「目指せきんにくん」などとTシャツの裾を巻き上げ、露になったお腹を自らの拳で殴り続けている。無言で視線を外し、グラウンドに目を向けると、声を張り上げ一生懸命ノックの打球を追っている野球部、カラーコーンをジグザグにドリブルしているサッカー部の他に、普段は室内で練習している女子バスケ部の部員がグラウンドの外側を走っているのが目についた。へーバスケ部もグラウンドで練習するんだと何気なく目で追っていると、二列で並んで走り行く集団の一番後ろに見知った顔を見つけた。肩まで届かない短い髪に、クリッとしたような大きな目はその丸顔にとても似合ってる。しかしどこか冷めたような遠くを見つめている視線で、教室で声を張り上げヤンチャしている同じクラスの尾田さんだった。尾田さん、バスケ部だったんだ。まぁ活発な彼女にはイメージ通りの部活かな。まぁ、自分とは真反対のタイプの性格、暗い性格の自分からしてみれば、まる別世界の生き物のようなもの。きっと関わることはないのだろうという思いを浮かべ、体育館へと戻っていく彼女の背中を見送る。
 グラウンドはだんだん夕焼けのオレンジに染まっていき、転がってきた野球ボールを投げ返した修造さんの豪速球が、野球部員のグローブに気持ちのよい音を響かせていた。

 うちの中学校の運動会は5月にある。なので、新一年生は入学してから早々に体育の授業で地獄を見る。中学校の運動会名物「組体操」という怪我をするために存在する訳の分からない種目。現在、フィナーレを飾る大技「ピラミッド」の練習中、震える固まりの集団の三段目、ひたすら崩壊と、そこそこの高さに僕は恐怖を感じていた。
 「なぁ、そういや今日のホームルームで体育祭の実行委員をクラスで男女一人ずつ決めるらしいぞ。絶対やってらんねぇよな」
 高山が僕の右隣からこんな緊急事態にも関わらず話しかけてくる。お喋りマンは、高さに恐怖を微塵も感じないらしい。お馴染みのヘラヘラ顔は健在だ。血色もいい。
 「高山やれば?そういうの得意でしょ」
 「やだよ。俺運動神経悪いもん」
 一体体育祭の実行委員になるのに運動神経が必要な要素がどこにあるのか。ピラミッドが大きく揺れだしてきた。あちこちから悲鳴があがる。
 「友也やってみれば?」
 「冗談じゃない。こういうのはムードメーカーみたいなおちゃらけてる奴とかがやればいいんだよ」
 人前に出ることを苦痛にしか感じない自分が、みんなの前に出て鼓舞してチームの士気を上げる。もちろん裏方の仕事が大半だろうが、とにかくそんな地獄はごめんだ。逆にやりたいなんて思う人がいるのだろうか。いたらそいつは正気の沙汰じゃない。
 「もしかしたら、女子の実行委員と仲良くなって恋愛に発展するかもよ」
 「馬鹿言え」
 女子の存在のことを考えたらなおさら頭が痛い。きっと迷惑をかけまくるはず、そうに違いない。ピラミッドの揺れが激しくなる。目の前では初日に廊下で恫喝してきたチンピラ体育教師が「耐えろオラァ」と声を荒げている。ふと、少し離れたところから大きな悲鳴があがる。どうやら隣のクラスのピラミッドが崩壊したらしい。チンピラ体育教師が走っていき視界からいなくなる。ピラミッドの上の段の人達の恐怖心が有頂天に達するこの程、授業終了のチャイムとともに我らがピラミッドの土台も限界に達する。流れて行く景色の中、誰かのエルボーを喰らいながら、久方振りの地上へと降り立つ。擦りむいた膝から赤々とした血が流れていた。

 体育の後の授業特有の眠気と空腹。間もなく授業終了の12時を迎える5分前、今日の給食のメニューの麻婆豆腐のことで頭がいっぱいになっている時間帯、事件は起きた。
 「感想を述べてください」
 「嫌です」
 「いや、お願いします」
 「ありません」
 「いや、何か意見を述べてください」
 「ないです」
 教室内にピリついた空気が一瞬で流れる。おい冗談だろ勘弁してくれよ。いつものごとく磯部の感想欲しがり攻撃が一番廊下側の一列に当てられ、窓際後ろの席から机の下で小さくガッツポーズをして安心しきっていたのも束の間、磯部の鼻につく喋りと、誰もが聞き慣れた低い声が緩やかにFIGHTを始める。頭の中で格闘技の試合開始のゴングが鳴った気がした。恐る恐る重い頭をゆっくりと横に向けると、真っすぐクリクリの大きな目を磯部に向かわせて微動だにしない尾田さんの立ち姿があった。これはマズい。すぐさま「おい、なんとかしろ」と、心の中で念じながら教卓の磯部へと目を向けると、磯部もまたまるで尾田さんの鏡かのように冷めた視線を尾田さんへ向けていた。「絶対に答えるまで座らせませんよ」という強い意志を感じる。だがそんなしょうもないプライドも、思春期真っ盛りの女子中学生の意地には勝ることはできない。こういったときに絶対に曲げない気の強さを持っていることは、クラスの誰もが重々理解をしていることだ。弱い自分にとっては見習いたいくらいだ。冷えきった室内を切り裂くように、やがて鳴り始めたチャイムが奴隷達に福音を告げる。徒競走のスタートのように一気に廊下に生徒達が湧き出す。集団でトイレを目指す女子生徒達、大きな声で走り去ろうとする野球部のやんちゃコンビ、その生徒に「コラ、廊下を走るな」と注意する隣のクラスの教師。静かだった無の世界に喧騒の色合いが足される。だが、その一人一人の色づいた表情達は、この時空の歪みきった狂った空間を一瞥すると、分かりやすく色を無くし、憐れみの視線を向けながら通過していく。唯一、太っているいかにも給食をいっぱい食べそうな男子だけが、今日の給食のメニューを連呼しながら、こちらを見ることなく幸せそうな笑顔で歩いていく。おそらく彼がたらふく食べたであろうホッカホカの麻婆豆腐、僕達がようやく口に運べたのは、昼休みを跨りかけた冷えきった麻婆豆腐だった。ちなみに試合は磯部が諦め、反抗期少女の勝者となった。

 恐らく職員室へ呼ばれて説教を受けたであろう尾田さんの表情は、それはもう清々しいほどの満面の笑みだった。口を開けば罵詈雑言。仲良しのヤンチャグループに戻れば、磯部との戦いを武勇伝のようにまくし立てる。それを持ち上げ、ひたすら賞賛の嵐を送る仲間達は尾田さんにとって都合のいいモチベーターだ。一切ノーダメージな尾田さんとは対称的に、教室へ入ってきた磯部はどこか疲れきった表情をしている。当然だろう。まだ中学生生活は始まったばかりだが、磯部はこれからも尾田さんのような問題児と向き合っていくこととなるだろう。大人って大変だ。疲れきった表情ながら、綺麗に伸びきった背筋と、よく通る高い声で磯部が喋り始める。
 「今日は体育祭に向けて、クラスから男女それぞれ一人ずつ、実行委員を決めたいと思います」
 そういや忘れてた。適当に聞き流してさっさと解散する、存在意義が無い帰りのホームルーム。部活への小さな繋ぎとなるこのなんでもないイベントが、今日は嫌悪感が十割の最悪なイベントと化す。教室という牢獄から抜け出せない。
 「誰かやりたい人はいませんか」
 沈黙が訪れる。時が止まってしまったかのようだ。こんな呼びかけで手を挙げる生徒がいるはずがない。周りを見渡すと、ほとんどの生徒が机と顔を見合わせ、気配を消して空気と化している。高山ですら窓の外へ目を向け、磯部の教室内を見渡す視線攻撃の射線から外れる。やれやれ、僕も机とにらめっこを始めるかと、頭を沈めようとした矢先、
 「私、やってあげてもいいよ」
 まさかの声に高速で頭を持ち上げ、声の方向へ視線を向ける。まさか、まさかだ。よく響く低い声に聞き間違いなんてやはりなかった。僕の目には、肘をついた左手でダルそうに中途半端に上げた右手をまるでバイバイするかのように手の平を左右に振る尾田さんがいた。
 「そうですか!じゃあお願いします」
 まさかの立候補に呆然としている生徒達に比べ、先ほど喧嘩したばかりの磯部はとても嬉しそうな笑顔である。しかしなぜ尾田さんはこんなにめんどくさいことに立候補したのであろうか。尾田さんはいつものダルそうな眠そうな表情で頬杖をついて前へと視線を向けている。
 「では後は男子ですね。誰か立候補者はいませんか」
 そうなのである。尾田さんが立候補しても、男子が誰か一人犠牲にならないと決して終わることはないということは、もちろん忘れてなんかいない。しかし非常に困った。結局こういう面倒なことは真面目な奴が押しつけられて仕方なくやるものだと思っていたが、このヤンチャ少女が入ったことにより、とても平和に進んでいきそうなイメージが湧かない。
 ここは何としても逃げきってみせる。机の上で握っている両拳に力が入る。まるで男子全員が意思の疎通がとれてるかのように、みんな視線を下に落とし、大きな岩と化している。呼吸をするのも辛くなってきた。静寂に包まれた空間の中、やはり口を開いたのは磯部だった。
 「では、誰もいらっしゃらないなら多数決で決定とします」
 さぁ、いよいよクライマックスだ。多数決という生贄を選ぶ押しつけ合い、開戦させよう。磯部が教卓の中にあった何かで余ったであろうプリント用紙をはさみで切り始め、即席で投票用紙を作り始める。やがて、小さくて歪な形になった紙が前の席の女子生徒から回ってくる。当然この男子代表決定戦は、女子からの投票も入ることになる。となれば、女子とあまり喋ることのない自分にはとても有利なことだ。自分達にはもう何も関係のない女子達にとっては、実質男子の人気投票と言っても過言ではない。つまり、普段から女子と仲良くしているチャラ男が、投票の対象となる。尾田さんを上手く扱えるのは陽キャラしかいない。僕は教卓の前の席で誰に投票するか頭を抱え悩んでいる高山に目を向ける。
 グッバイ高山。君なら上手くやれるよ。おそらく高山自身も、自分が最有力であろうと認識しているはず。高山が隣の席の女子生徒に両手を合わせて何かを喋っている。多分投票しないでほしいという一生の頼みであろう。こういうときは陽キャラはズルい。だが、一人や二人買収したところでもう遅い。磯部が回収しきった投票用紙を開き始める。最初の一枚目を開いた磯部は、教室中によく通る大きな声で「高山君」と生贄の名を呼ぶ。高山が「うわマジかよ」とまた頭を抱え出す。二枚目、三枚目と高山の名前が続けて呼ばれ、四枚目から他の男子の名前が呼ばれて票が散り始めた頃、七枚目で異変が起きる。磯部が表情を変えることなく「林田君」と僕の名を告げる。補助で前に立っている学級委員の荒井君が、新たに黒板に僕の名前を書き始める。高山がニヤけながらこちらを見てくる。間違いなくあいつが投票しやがった。だがそれでもあいつの票数には追いつくことはない。そう思っていた。この時までは。開票作業が後半に移っていくにつれ、明らかに聴きたくない「林田」という呪文が耳に多く入ってきはじめた。まさかあいつは周辺の生徒に投票しないお願いと、林田の名を書けという二つのお願いをしていたのか。数人の名前が書かれている黒板の中で、二つの名前の下についている「正」という形が出来上がっていく。高山、林田という名の下に二つ目の形が出来上がった頃、ついに開票していない紙が残り一枚となった。この一票でついに決まる。まさか、こんな展開になるとは。始まる前は一票も入らないと思っていたが、高山組の組織票の他に、普通に何票か入っていたようだ。それはあまりクラスの中で目立たないように気配を消して生活していた身の自分としては、何だかちょっと嬉しい気持ちになるような、みんなに少し認識してもらってるような、そんな気分になっては再び現実に戻って、選ばれたくない気持ちがやっぱり勝る。複雑な感情だ。さすがにここまできたら心臓がドキドキしてきた。机の上で両手を組んで、必死にいるかも分からない神様に強く祈り念を送る。その両手は誰が見ても分かるほどの震えを帯び始めた。他の生徒達も「どっちだどっちだ」と騒ぎ始める。僕もそっちの仲間に入りたかった。生徒の全視線が磯部の口元に集まる。票を開いて、口を開く寸前、この全く空気を読めない場面で学校中に響くチャイムの音が鳴り響く。磯部が一旦休憩に入る。先生には二つのタイプがいる。一つは話している最中にチャイムが鳴ると話すのをやめるタイプ。もう一つはお構いなしに話すタイプ。磯部は後者のタイプだ。だがなぜか今日は一転してチャイムの音に耳を傾けている。生徒達が無意味に盛り上がる。気のせいか磯部も少しニヤけているような気もする。それほどもったいぶりたい結果なのか。心臓が保たない。高山は部外者の生徒達に混じって笑ってる。さすがの余裕だ。もうお前がなってくれよ。まるで結果発表の前にCMを挟まれたテレビの前の視聴者の気持ちだ。やがてチャイムが鳴り止む。教室中がザワザワし出す。磯部が口を開いた。告げられた名前は「荒井君」だった。教室中から「えっ」という声が上がり、そして「なんだよー」と拍子抜ける。荒井君が入れた票でもないのに「荒井空気読めよー」とイジられる。補助係の荒井君が「参ったなー」と苦笑いで呟き、学級委員を務めるほどの真面目な性格のおかげで「申し訳ない」とみんなに必要ない謝罪を入れ、何票か入っていた自分の名の下に線を一本入れる。特に何の影響もない線が黒板に引かれ、これにて開票が全て終わった。これは一体どうなるのだろうか。高山と同率一位になってしまったため、次のアクションを磯部に委ねるために磯部に目を向けようとした矢先、もの凄い勢いで席を立った高山がこちらへ向かってきた。
 「頼む、林田お前がやってくれ!」
 「何でだよ嫌だよ」
 さっきまで余裕ぶってた表情を見せてたのが嘘のように険しい表情で詰め寄ってくる。
 「林田の方が向いてるよ運動神経いいし」
 「お前はまだその謎理論を持ってくるか」
 輝けるぞ、一生の思い出になるぞ、とポジティブな言葉を次々に投げつけ、一切攻めの姿勢を崩そうとしない高山。他のクラスメイト達はそれを笑いながら見ている。磯部さえも進行役を降りきってただただ笑顔でこちらを見守る。やばい完全に詰んだ。終了の合図は僕ら二人に委ねられたようだ。うわーやりたくないなー本気で嫌だなーと心の中で葛藤していると、まくし立てて喋り続けている高山の横からひょこっと誰かが現れた。僕はその人物の認識が完了すると、とても驚いた。尾田さんだった。尾田さんは、同じく隣で驚いてフリーズしている高山に目もくれず、僕を見つめてくる。いつもの冷たい視線だ。だが、その視線が急に優しくなり、尾田さんの顔が、その大きな目が、僕の目の前の至近距離に近づく。あまりの出来事に頭がパニックになる。そして尾田さんは、普段教室内で響かせている大きな低いヤンチャな声とは全くの別人のような、優しい小さな声で呟くように声を発した。
 「林田君、やってくれる?」
 パニックな状態から依然抜け出せていない状況で更にパニックな出来事に見舞われる。いったい今何が起きているのか。何でこの子が目の前にいるのか。何もかもが正常に理解できていない中で、僕は無意識に首を縦に振ってしまった。その瞬間、時が動き出したかのように尾田さんが動き出し、「林田君がやってくれるって」と、磯部にいつもの声量で告げる。目の前でよっしゃーとガッツポーズで喜んでいる高山に向けて、尾田さんが「絶対にお前となんかやりたくないわ」と暴言を投げつけ、高山もなんだとー」とムキになっている。反撃を試みようとする高山の声を無視して、自分の席に戻りながら尾田さんは「早く帰ろうぜー」と磯部にいつもよタメ口を投げつける。磯部もようやく決まって嬉しそうであり、すぐさま帰りの挨拶を終えて、それぞれが教室を後にする。みんなが帰って行く中、僕は席を立ち上がれずにいた。目の前でしつこく僕に尾田さんの文句を言い続けている高山の話は全く耳に入ってこず、僕はひたすら先ほどのシーンを振り返っていた。いったい何だったのだろうか、早く帰りたかったのだろうか。尾田さんは早々と教室を後にした。それにしても女子の顔をあんなに近くで見たのは初めてだ。尾田さん、とても綺麗な女の子らしい顔してた。知らなかった。窓の外は今日も夕焼けがオレンジ色に染まり、教室内では相変わらず高山の抑揚のついた声が無意味に響いていた。

 「そうかー友也も実行委員に選ばれたのかー。頑張ろうぜ」
 横を走る平沼の足音が軽快に響く。その表情はとても眩しい満面の笑顔だ。
 「平沼も林田も実行委員になったんだ。みんなで熱い体育祭にしていこう!」
 前を走る修造さんが頭だけを後ろに向けて、体を前に運んでいく。当然体育祭の実行委員のトップである実行委員長の修造さんが食いついてこないはずがない。大体三年生を差し置いて、二年生の修造さんが実行委員長になるって。相変わらずどんなカリスマ性を持っているのか。でもよく似合ってますよ。
 「具体的にどんなことをするんですか」
 「そうだねー、体育祭をよりよいものに作り上げるために意見を出し合って、後は当日それぞれの種目の準備に忙しく走り回ったりするよ」
 「なるほど、けっこう大変そうなんですね」
 「大したことないよ。それに、一生の思い出になるからね。体育祭が終わった後には、林田もきっと実行委員をやってよかったって充実感を感じると思うよ」
 修造さんは僕の微妙な表情から察したのであろう、実行委員のいいところをひたすら熱弁してくる。何ともいえない気持ちになるが、代わりに隣を走る平沼のテンションがみるみる上がっていく。本当にこの二人は波長が合うな。ちなみに修造さんの横を走る拓夢は一切振り返ることなく淡々と走りを進めている。まぁあの人の性格上、間違いなくそういうめんどくさいものは努めなさそうだ。僕も本当だったらそっち側にいたんだけどなぁ。拓夢の後頭部の大きな寝癖に目をとられていると、前を走る二人の足が急に止まった。慌てて僕と平沼も急ブレーキをかける。いつもの草木に四方を囲まれた自然の中のサイクリングロードを駆けている途中、立ち止まった場所はまだ中間地点にも差し掛からない場所。何度も通っているからもちろん見覚えがある。サイクリングロードから外れる左の脇道、ちゃんと見たのは初めてだ。そこは終わりの地点が見えないほどの長い長い上り坂が待っていた。白いアスファルトがまるで天空まで続いているようだ。ごくたまに軽トラックがこの坂を上っていってるのを見たことがある。とても人間が挑めるような坂ではないのではないか。しかめっ面で坂を見上げていた僕に、隣りにいる修造さんが開いてほしくない口を開き、悪魔の言葉を呟く。
 「今日の練習は坂ダッシュだ」
 「まぁ、そうですよね」
 「よっしゃ、やってやるぜ」
 毎度毎度後先考えない平沼のテンションは放っといて、さすがにこの坂道はヤバい。確実に明日は体が死んでしまいそうだ。今日が金曜日だったらよかったのになー。明日は朝から眠くなる国語の浅村先生の授業だ、居眠りしそうだな。
 「よし、一本目ー!」
 修造さんのサイクリングロード中に響き渡る叫びをスタートに、四つの体が動き出す。一歩一歩が重い。当然だ坂道だから。いつものように修造さんと平沼の背中を前に見ながら、腕を振り、ももを上げる。最初に呼吸が苦しくなって、足がどんどん上がらなくなり、体が首が横に振れる。ようやく見えた坂の終わりのゴールへ、体を投げ出すように飛び込む。両手両膝を地面に投げ出し肩で息をしながら、なぜ陸上部に入ってしまったんだと遅すぎる後悔の
念に駆られている中、ゆっくりと拓夢が近づいてくる。
 「今日後残り十九本走るぞ」
 明日の居眠りが確定し、先に言ってくれよという拓夢への反論が口に出せることもなく、僕はただただ呼吸を整えるしか出来なかった。だが休む間もなく坂は何度も自分達に立ちはだかってくる。スタート地点に吸い寄せられ、ゴール地点で四つん這いになり、また再びスタート地点が地獄に招待してくれる。何度も駆け上る内に頭がボーッとしてきて、これが酸欠状態なんだなと身を持って実感してきた。人間はなぜこんなに自分の体をいじめるのだろうか。もっと体を大事にしないといけないのではないだろうか。きっとこの走るという人間の破壊衝動から生まれた愚かな文化だと思う。頭の中で走り撲滅評論家が止まることのない屁理屈を述べている内に、そういえば僕は何のことで悩んでいたのかを思い出せなくなっていた。走るという行為は思考を鈍らせ、むしろ悩みの種を「走るきつさ、苦しさ」という題目で独占して引き受ける目立ちたがり屋なのではないかと思い始めてきた。そう思うと走るということは、人間の悩みを一時的に消し去ってくれる実はとてもいい奴ではないのだろうか、と違う見方の評論家も出てきて、熱い議論で盛り上がる。これからも世界中の走っている人々の悩みを消していってくれ、と議論が締めに入ったところで、自分の体の限界も締めに入る。
 「修造さん、限界です」
 「もう少しだ、最高の走りを磨いていこう」
 長い時間をかけて悲鳴をあげ続けてきた体は、ようやく辿り着いた二十本目のゴール地点からしばらく立ち上がることはできず、ひたすら僕は見飽きたアスファルトの地面とにらめっこをしていた。視界の端で、三匹の蟻が列を作ってエサを運んでいた。

 翌日のまどろみの浅村先生の授業は、まさかの自習だった。自習となれば、真面目に机に向かっている生徒なんてごくわずか。やんちゃな中学生にとっては、この時間は各々が好きなことに熱中できるもう一つの休み時間だ。席を立って友達と喋る生徒、机に突っ伏して寝る生徒。教室の後ろになぜか置かれているバスケットボールを投げ合っている生徒のはしゃぎ声がよく耳に届く。まるでここは動物園の檻の中だ。それぞれが思い思いに自分にとっての娯楽に熱中する。僕は眠りにつく体勢に入っていたが、あまりの教室内の賑やかさに再び頭を上げた。頭を上げる動作だけで、昨日の坂ダッシュによる全身の筋肉痛がずっしりと襲いかかってくる。早くもきょの夜の就寝時間が待ち遠しい。あまりの眠さに、普段活動している昼休みの時間も睡眠時間に充てないといけないなと考えてた寝ぼけ顔の僕を、いつの間にか真横の至近距離から高山が見つめていた。
 「気配を感じなかった」
 「おはよう、やっと起きた?」
 「いつからここにいたんだよ」
 「けっこう前から」
 高山が白い歯を見せながら頭を揺らして笑う。その頭頂部には大きな寝癖がまるで生きているかのようにぴょこぴょこと動き続けていた。最早高山の寝癖にはクラスメイトにはお馴染みの光景となっている。この前はクラスの女子に「高山は寝癖がついてる髪型の方がかっこいいね」と謎の言葉をかけられていた。ちょっと僕には理解できない。ただ一つ言えることは、理由はどうであれ、女子にかっこいいなんて言葉をかけられて喜ばない男子なんて存在しない。そんな選ばれし勝ち組男子の高山が心から羨ましいと思ったことは、悔しいので自分の心の中だけで留めている。僕は自分のボサボサに伸びきった天然パーマの頭を触り、短くため息をつく。常に視界の上でわずかに存在を感じるくねった前髪を触り、伸ばしてみるが手を離せばまた元通りにくねって前髪が踊り出す。もう一つ今度は長めのため息が出る。
 「どうした?頭でもかゆいのか?」
 「いや…なんでもない」
 高山の真っすぐに伸びている直毛をチラッと見て、すぐさま視線を外す。思春期真っ盛りの中学生は、髪の悩みすら人に打ち明けるのが恥ずかしい。こればっかりは、親の遺伝を受け継いでしまうので、どうすることもできない。せいぜい天然パーマの父親に恨みの念を送ることくらいしか、僕にはできることがなさそうだ。大人になれば、この悩みも解決できるのだろうか。来年は直毛で生まれてくることを心から僕は願う。
 「そういや体育祭の実行委員はどう?楽しんでるか?」
 「楽しめてるんなら最初から立候補でもしてるよ。ただただめんどくさい」
 ただでさえ授業で疲れきった放課後に、体育祭の実行委員は週に一回集まる予定になっているらしい。修造さんは「一年生はだいたい話を聞いてるだけでいいから」と言っていたが、それなら一年生の実行委員の存在意義はあまりなさそうだ。ひたすら空気と同化することに力を注いでいくとしよう。何より発言することを強要されないことが心を軽くしてくれる。磯部とは大違いだ。
 「二組のクラスの実行委員って、男子が小池で女子が岩井じゃん。あの二人なんかもう意気投合して仲良さそうにしてるよな。この前なんか二人で休日に遊びに行ってた姿も目撃されてたらしいぞ。お互い付き合ってないって言ってるみたいだけど、絶対嘘だよな」
 「相変わらず高山はそういう話が好きだね」
 「まあな。各クラスの情報屋と仲良くしてるから面白いネタがすぐ入ってくるよ」
 冴えないメガネ君の小池君と、大人しい三つ編みのそばかすカオの岩井さんを思い浮かべる。うん、実にお似合いだと思う。これから陽キャラにイジられ続ける過酷な未来が待っていると思うが、決してくじけることなく幸せでいてほしい。僕はこっそり応援してるよ。
 「林田にもあの二人みたいに青春してほしかったんだけどなぁ。何ていうか、その、運が悪かったな」
 高山が非常にバツの悪そうな顔で、慎重に言葉を紡ぐ。名前を出さないようにしているが、恐らく僕の相方となるヤンチャ女の尾田さんのことを言っているのだろう。余計なお世話だ。
 「そんなに青春が好きなら、高山がやっぱり実行委員になるべきだったんじゃないの」
 「俺はいいよー。今週末他校の女の子と遊びに行く予定があるし、来週も別の他校の女の子と遊ぶ約束してるから十分青春の時間は堪能してるからさ」
 「モテる男は人生楽しそうだね」
 大したことないと言いながら満足そうに高笑いする高山の後ろから、ゆっくりとバスケットボールが迷い猫のように転がってきた。
 「悪い、ボール取ってくれ」
 後ろを振り向くと、バレー部の中田君が両手を大げさに振って満面の笑顔を見せてた。坊主頭の爽やかボーイは、こんな時間でも遊ぶことに全力だ。ちらっと中田君の机に目を向けると、机の上には何も乗っておらず、窓から差し込む太陽の光を一身に浴びて光り輝いていた。転がってきたバスケットボールが自分の足元で止まり、僕に投げてくれと訴えかけてくるので、仕方なく重い腰を上げゴムの固まりに手を伸ばす。たったこの動作だけでも体の至るところの筋肉痛が目を覚まし、いかに昨日の部活の練習メニューが狂っていたかが分かる。コントロール重視の下投げで軽くボールを投げ返すと、「ありがとな」とデカい声で感謝を告げた中田君は仲間とのキャッチボールに戻った。全く、本当に自由な奴ばかりいるクラスだ。改めてクラスを見渡して見ると、真面目に勉強している生徒や友達とお喋りしている生徒だったり様々な生徒がいるが、その中でいくつか空席があることに気付いた。その内の一つは尾田さんの席だった。尾田さん達はどこに行ったんだろう。教室内では姿はないので、トイレにでも行ったのだろうと考えていたら、突然後ろの方から「ガシャーン」とものすごい大きな音が響いた。思い思いに過ごしていたクラスメイト達が一斉に後ろを振り向く行動は、この時ばかりは綺麗に統制がとれていた。全員が注目している視線の先には、真っ青になって開いた口が塞がらない中田君と、亀裂が入りあちこちに破片が散らばった無惨な窓ガラスがあった。教室には一瞬静寂が訪れたが、しばらくして廊下から凄い剣幕で現れたのは、よりによって体育のチンピラ教師だった。
 「何してんだお前らぁ。ガラス割れてんじゃねーか、誰だ割ったのは!」
 珍しく左手に教科書を持ちながら入ってきたチンピラ教師は、どうやら隣のクラスで授業中だったらしい。教科書の表紙には大きな文字で保健と書かれていた。なるほど、レアな授業だ。
 「僕が割りました」
 さっきまで青ざめていて息もしていなかった中田君が、覚悟を決めた強い眼差しをして、少し震える声で白状する。こういった時はさすがの運動部、とても潔い。一緒にボールで遊んでいた仲間を庇うようにチンピラ教師の元へと歩み寄っていく。勇敢な男だ。そもそも教室でボール遊びをしてはいけないので自業自得だが。これで彼がこっぴどく説教されるか頭を叩かれるかで終了するかと思ったが、チンピラ教師は中田君の言葉に反応することもなく、予想外の言葉を放った。
 「ボールに触った奴、手を上げろ」
 一瞬その言葉を理解できなかった。中田君とボール遊びをしていた友人達が一人、また一人と恐る恐るゆっくりと手を上げる。ふと自分の手の平に、ゴムボールの小さく突起が無数にあるザラザラとした何ともいえない感触が蘇る。触った?今チンピラ教師はボールに触ったって言ったか?非常にマズい嫌な単語だ。僕はボールをしっかり手に持って投げ返したという決定的な共犯の証拠がある。おまけに注意することもなく、ボールゲームの再開に加担したという紛れもない推進の事実もある。僕の中の天使と悪魔が戦い始めた。
 「ボールを触ったのは事実だし、みんなと一緒になって謝ろうよ」
 「いや、ボールを投げ返すという所詮コミュニケーションの一つをとっただけで、窓ガラスを割ったバカな奴らと同罪にわざわざなる必要がない」
 この一瞬の間に様々な感情や考えが頭を駆け巡ったが、頭より先に僕の右腕はすでに天を目指して伸びきっていた。中田君の表情が苦しそうにぐしゃっと歪む。一人で罪を背負いきれなかった悔しさが、彼の下唇を自然と噛みしめさせる。残念ながら、僕は嘘がつけない、つくことができない性格だ。「遊んだ」という言葉ではなく「触った」という言葉なら僕には逃げ場はない。クラスメイトも一人、また一人と憐れみの視線を僕に向けてくるが、気にすることはない。体育教師の言葉選びに完全に敗北した僕は、中田君グループに無理矢理入れられた場違いの陰キャラとして整列させられた。
 「お前ら後から全員職員室に来い」
 僕らは声を出すこともなく、無言で頷く者もいれば、俯いて顔を上げられない者もいた。チンピラ教師が、去る寸前まで僕達をヤンキーのように睨みつけ、やがていなくなると、中田君軍団に光のような速さで囲まれ「ごめん」の押し売りが始まる。僕は笑顔で「大丈夫」と一人一人に返し、なんだか陽キャラ集団に囲まれた超人気者になった気がして、こっそりと僕は喜びを感じる。クラスメイトは何事もなく再びお喋りを始めたり、真面目に机に向かったり自分達の世界に戻り始める。唯一高山だけが、やれやれと苦笑いを浮かべて僕を見つめ続けていた。

 結局僕達は休み時間中怒られ続け、割れた窓ガラス代を自分達で弁償することとなった。こんな出来事も、きっと後になれば中学時代のいい青春のエピソードの一つとして語れる話の一つとなるはずだ。僕はこの一件で中田君グループとすっかり仲良しになってしまった。ちょっと嬉しい。すっきり心が晴れきった状態で教室に戻ると、高山が駆け寄ってきて慰めの言葉をかけてくるが、僕はずっと空席になっている尾田さんの席が目に留まり、気になってしょうがなかった。
 「ごめん、ちょっとトイレ」
 「トイレって、もう次の授業始まるぞ」
 「さっきずっと怒られてたから、トイレ行く時間がなかったんだよ」
 「しょうがねえな。俺が伝えとくよ」
 「ありがとう」
 僕は次の授業の準備が整い始め、後は先生を待つだけの教室を後ろからそっと出て、トイレとは別の方向へ歩き出した。やがて授業開始のチャイムが鳴り、僕は軋んだ廊下を足音を立てないように進み、埃が所々に積もった滑りやすい階段を一歩一歩踏みしめ降りる。社会のルールに則り、授業を行う先生、受ける生徒達の中、校舎内を息を潜めて歩く僕は、社会のレールからはみ出した反抗期の人間だ。 
 だが僕は授業を受けたくない訳ではない。至って真面目な人間なのは、自他共に認める。換気の為に開けられた廊下の窓から爽やかな風が吹き込んでくる。辺りが自然に囲まれた校舎なので、草木の優しい匂いも一緒に運んでくる。僕はこの匂いが大好きだ。とても心を落ち着かせてくれる。だが、階段を降りきって一階に降り立つと、そんな整いきった心も一瞬で崩れる。静寂が続いていた校舎の中、僕は声の聞こえる方へ重い足を向かわせる。校舎の一階の一番端、誰も寄りつかない空き教室に、尾田さんを含めた数人のクラスメイトがいた。尾田さんや、尾田さんグループの数人が楽しげに笑う声が聞こえる中、悲痛な叫びが時節聞こえてくる。その声はクラスの中でおとなしめの山崎さんの声だった。彼女の「やめて」という声は誰にも届かず、尾田さん達の笑い声が更に強く響き渡るだけだった。僕は心が重くなる。肩も重くなってきた。空き教室の扉の陰に隠れて、僕は座り込んで頭を抱えたい気持ちに駆られる。尾田さんは、いじめをしている。僕はずっと前に、たまたまこの場所でいじめをしている現場を見てしまった。クラスメイトだって、知ってる人はたくさんいるはずだ。だけど、みんな何もなかったかのように毎日一日一日を過ごす。気づかなかったように過ごす。誰だって怖いんだ。怯えているんだ。きっと山崎さんを助けようと間に入れば、次のターゲットは自分になる。人は誰だって心に正義感を持っている、いや、持っているつもりでいるだけなんだ。「正義」は行動に起こしてこそ、初めて「正義」という形になる。だからこそ、僕のクラスには誰一人正義なんていやしない。どんなに成績が良くても、どんなに愛想が良くても、誰かを助ける力がなければ、それはもういじめをしている者と同等のレベルの「悪」の存在だ。僕は自分が憎い。そこまで分かっているのに、僕の足は、体は、動き出せない。長い、長い時間をかけて、「悪」の存在である僕はゆっくりと扉の陰から覗き込む。涙を流しながら必死に身を守る山崎さん、笑いながら手を出し、足を出す生徒達。僕の目にはそれらが映らない。僕の目には一番奥でその様子を見つめていた尾田さんだけが見えた。そして、その尾田さんの大きな瞳が、僕の視線と交わり、僕の存在を確認する。尾田さんの驚いて大きく見開かれた目が、困惑の表情に変わる。まるで音のない世界だ。僕と尾田さんしか存在していないような世界。時が止まった世界。僕は、尾田さんは、何も口を開くことはない。開くことは許されない。「悪」の存在の僕は、ようやく体が動き出した。震える瞳の尾田さんを背に、僕はゆっくりとその場から振り返ることなく立ち去った。

 体育祭がどんどん近づいてくる。校内の敷地に咲いていた桜も、すっかり緑色に色を変えていた。窓から見える景色は、これからやってくる夏の気配を伺わせる。覗わせる。僕は窓の外から、ゆっくりと視線を教卓へ戻す。教卓では、おそらく上級生を担当している知らないごく普通の眼鏡の男の先生が、眠たくなるような声で喋っている。その隣で時折り助手のように捕捉して口を開いているのは、いつも見慣れている熱血のうちのキャプテンだ。
 「修造さん、今日も喋りが上手くてさすがだよな」
 隣の席から修造さんを崇拝するもう一人の熱い男が喋りかけてくる。
 「平沼は相変わらず修造さんのこと尊敬しているんだね」
 「そりゃあもう、スター性が溢れているじゃん。永遠の憧れだよ」
 平沼が小声ながらも、興奮を抑えきれないテンションで身振り手振りを交えて熱弁してくる。また始まったかと苦笑し、同時にそういう目標の相手がいることに少し羨ましさも感じた。僕は机に目を落とすと、机の端に何か書かれていることに気付いた。体育祭の実行委員の集まりで集合した三年生のクラス、いつもと違う窓からの景色に何か別世界のように感じた窓際の席。誰の席かも分からないこの席の机には、頭にハートマークがついた傘の絵と、その両端に知らない名前が二つ書いてあった。きっとこの席には、青春真っ盛りの女の子が普段座って元気に過ごしているのだろう。平仮名で書かれている「まなみ」という名前を見つめる。
 「平沼は好きな人とかいないの?」
 「お、なんだどうしたいきなり。まさか好きな人とかできたか」
 「まさか。そういや平沼からはそういう話は聞かないなって思って。今も修造さんに夢中なくらいだし」
 「そうだなー、昔はいたんだけどなー。今は現実より二次元の女の子に夢中だな。見るよこのヒロインの子、めっちゃ可愛くね?」
 そういって制服のポケットから取り出した文庫本の表紙を、誇らしげに僕の至近距離に見せびらかす平沼は目がキラキラと輝いていた。大きな瞳をした派手な髪色の女の子が、こちらを見つめてくる。完全にアニメのような絵だ。薄々気づいてはいたが、中学生になって平沼は、完全にオタクへの道を歩み進めてしまった。こちらの世界へはもう戻ってこれない。でも、それも人それぞれの幸せだと思う。僕は心を込めて「本当だ可愛いね」と満面の笑みで応える。好きに真っすぐってことはいいことだ。「そうだろー」と白い歯を見せて笑う平沼は、太陽のように明るい。
 「でも好きな人ってのは、自分が気づいてない内に実は好きになってるってこともあると思うんだ」
 二次元に魅せられた平沼が、深いのか深くないのか分からない言葉で恋愛論を語る。なるほど、恋愛ってのはやっぱり僕にはまだまだ分かりそうになさそうだ。椅子を引く音が教室のあちこちから響いて、今日の委員会の終了を知らせる。教室を出ていく生徒達の後ろ姿を見ながら、今日の委員会に出席しなかった尾田さんのことを考える。今日の内容を伝えないといけないな。でもやっぱり女の子に話すのは緊張する。話しかける場面を妄想するが、上手くいく場面が浮かんでこない。考えるだけでお腹が痛くなってきた。こういうときに自分の弱々しい性格が心から憎くなる。人と喋るという単純な行動は、どうしてこんなにも難しいのだろう。
 「友也、何ボーッとしてるんだ。部活行くぞ」
 平沼の声が苦しみの世界から現実の世界へと連れ戻してくれる。今にも廊下を走り出しそうな平沼と、本日大活躍の修造さんに頭を下げて駆け寄る。
 「お疲れ様です。相変わらず人前で話すのが上手ですね」
 「ありがとう。でも全然だよ。もっと上手く喋れたところもあったし、まだまだみんなに分かりやすく伝えれるように改善しないと」
 向上心の塊のようなこの先輩は、その優れきった才能に必ず慢心することなく、少ない反省点を責め次へとステップアップしていく。例え99点でも、残りの取れなかった一点に焦点をひたすら当て続ける。間違いなく、この人は自分が今まで出会った人の中で、人間として尊敬できる人だ。平沼が憧れるのもよく分かる。
 「自分は人前で喋ること自体が本当に苦手なんですが、どうやったら修造さんみたいに堂々と話せるようになりますか?」
 「堂々とかー。きっと堂々と話せる人って一人もいないと思うよ。みんな必ず心に不安を抱えながら前に立っていると思うし、百全員が納得するような話は絶対にできないと思うんだ。だから僕もそうだけど、普段前に立っている先生とか大人の人達だってきっとそうなんじゃないかな。話がそれてしまったけど、僕はこんな自分の話を聞いてくれる人達が、集まってしっかりと自分に目と耳を傾けてくれていることだけでもう感謝の気持ちでいっぱいなんだ。だからこの人達に少しでも聞いてて「役に立ったな」って思ってもらえるような話をしよう、そういう気持ちを持って前に立ってるくらいかな」
 まるで大人と喋っているかのよう。これほどできた中学生はなかなかいないのではないか。どうりでテストで学年三位の成績を修めるはずだ。参考にしたくても、自分にはきっとまだ早い考えだったと思う。将来の政治家に敬意を払い、一歩後ろを歩きながら部室を目指していると、窓から見える体育館の外に一人の女の子が水道で手を洗っている姿が見えた。
 「すいません。すぐ追いつくので先に行っててください」
 僕は二人と歩いてきた道を戻り、小走りで駆け出す。
 「お、どうした。忘れ物?」「お腹でも壊したー?」という声に応えることもなく頭の中で必死に文章を組み立てようとする。うまく文章もまとまらないまま、僕は水道の蛇口を上にして水を口に含んでいる尾田さんの背中へ
 「尾田さん」
と声をかける。緊張のせいで蚊の鳴くような僕の声は、尾田さんの耳には届かなかったようで、尾田さんの体はこちらを振り向かない。仕方なく僕は少しお腹に力を込めて、
 「尾田さん尾田さん」
と再び呼びかけた。
 水を飲んでいる最中だった尾田さんは「ゴホッ」と水を吐き出し、光の速さでこちらを振り向いた。  飲み終わるまで待ってればよかったな。尾田さんのただでさえ大きな目は、レーザー光線でも飛ばしてきそうなほど大きく見開かれていた。尾田さんのことなのできっと怒り狂って罵声を浴びせてくるかと僕は身構え、「さぁ来い」と防戦モードに入る。しかし尾田さんは予想と反して、何も言葉を発してこないままその大きく見開いた目で僕をじっと見つめている。非常に気まずい雰囲気と、尾田さんの飲んでいた蛇口の出しっ放しの水が、地面に叩きつけられる音を響かせている。ヤバいヤバいと僕は焦り、
 「あ、えっと、」
と必死に凍りついた頭を働かせようともがいていると、
 「実行委員の集まり行かなくてごめん!来週は行くから!」
と大きな声を発した尾田さんは、全力ダッシュで体育館の中へ逃げるように駆け込んでいった。その場に取り残された僕は、開きっ放しの口から届くはずもない
 「あ、うん」
という言葉を発し、その場に立ち尽くす。
 「女の子ってよく分からないね」
と壁に話しかけ、これからの実行委員の活動に不安を覚える。頭の整理もできないまま、僕は出しっ放しの蛇口に手をかけ水を止めて部室へ向かおうとした。しかし頭の機能の停止している僕は、左右の区別を間違え勢いのついた水流が顔面を襲った。通りがかりの女子生徒二人組に指を差されながら、濡れた顔のまま僕はそそくさと走り抜けた。

 それからの実行委員の集まりには、尾田さんは必ず姿を見せるようになった。しかし自分と尾田さんとの間には会話は全くない。熱弁する壇上の修造さんを、右手で頬杖をつきながら眠そうな目で見ている。その目はどこか遠くを見つめているようだった。今日も昨日もその前の日も、教室では尾田さんの大きな声が響き、元気が抑えきれない様子を見ては、あの日の空き教室での光景を思い出す。もちろん元々話したりする仲ではなかったが、自分と尾田さんの視線が交わったあの時以来、どこか二人の間ではぎこちない空気が流れていた。ちなみにあの日の事は、誰にも話していない。
 「じゃあ今日の話し合いでおしまい!みんな明後日の体育祭全力で楽しんでいこう!」
 修造さんの教室中に響き渡る声に、特に統率もとれていない実行委員のメンバー達から「はーい」「うーい」と、ゆるい返事が返ってくる。月日が経つのはあっという間だ。ゆるーい実行委員の集まりも、何度回数を重ねたかも分からない内に今日でフィナーレを迎えた。やれやれ、後は二日後の本番で馬車馬のように働けば無事お役御免だ。めんどくさい役割から逃げきれて勝ち誇った顔をしていた高山の顔を、何度夢の中で殴りかかったか。一人また一人と教室を去っていく生徒の流れについていこうと、散々目に焼きつけた机の落書きを見ながら立ち上がったとき、
 「あ、林田。今日部活の前に体育祭に使うテントを用意するから手伝ってくれ」
と、修造さんが腕まくりをして、腕の筋肉を隆起させるポージングを決めながら白い歯を見せてこちらを見ていた。僕は無言でうなずき、窓の外へ目を向ける。太陽の光が目に入り、思わず目をつぶった僕は、この暑さの中での肉体労働が訪れることにしかめっ面になった。昨日夜中までゲームをしていた自分を悔やむ。今日は寝不足で頭がボーッとしている。現実が起きろとささやいてくるので、仕方なく重たいまぶたを開けると、開けた色のついた世界の真ん中に大きな瞳でじっと見つめている尾田さんがいた。
 「うわ、びっくりした」
 「あ、ごめん。驚かせちゃった」
 いつ以来か分からない尾田さんとの久しぶりの会話に戸惑いを覚える。尾田さんは珍しく「ふふっ」と女の子らしく笑いながら、
 「テントの準備大丈夫?手伝おうか?」
とありがたい言葉をかけてくれた。
 「あー…多分大丈夫だよ。そんなに時間もかからないだろうし」
 「そっか。暑いから気をつけてね。じゃあまたね」
 「あ、うん。ま、またね」
 颯爽と手を振りながら去っていく尾田さんに、ぎこちなく手を振り返す。女子から手を振られる経験なんて人生で初めてだったので、肩と腕に重りがついているかのように僕はカチンコチンになった。わざわざ僕が目を開けるまで待っていてくれたのだろうか。だとしたらあのしかめっ面を見られていたことが急に恥ずかしくなり、僕は顔に熱を帯びる。
 「なんだ。尾田さんと仲良しじゃん」
 同じく教室に残っていた肉体労働組平沼が机に腰掛けながら声をかけてくる。
 「そうでもないけどね。久しぶりに喋ったから緊張した。平沼、僕変じゃなかった?」
 「いや普通だったよ。友也、まさか尾田さんのこと好きなのかー?」
 「そんなことない。それにきっとあっちは僕のこと苦手だと思うし」
 「そうかなぁ。相性良さそうだけどな」
 平沼が近づいてきて僕の背中を笑顔でバンバン叩く。背中が赤くなりそうなほどの強さだったので、平沼の腕を掴み、叩く機能を停止させる。
 「まぁそれは置いといて、体育祭楽しみだな。テント設営もいい筋トレになりそうだ。頑張ろうぜ」
 筋肉バカは尾田さんの話にすぐに飽き、青春真っ盛りイベントに意識を真っすぐ向け始め、勢いよく教室を飛び出した。僕はあわてて平沼の後を小走りで追いかけ、靴を履き替えグラウンドへ向かう。季節はまだ夏にもなっていない五月、あまりの暑さに軽いめまいを覚え、僕は小走りから歩きへ切り替える。グラウンドの端の方では、相変わらず野球部が暑そうなユニフォームを着てトレーニングに励んでいる。他クラスの名前も知らない野球部の男子が、そばをダラダラと通り抜ける僕に「こんちは!」と、元気良く挨拶を仕掛けてくる。僕は無言で頭を下げ足早に通り抜け、改めて平沼や修造さん、この野球部員達のような青春野郎の溜まり場で、自分が一緒に活動していることに違和感を覚える。出来ることなら毎日早く帰宅して、クーラーで冷えきった涼しい部屋の中でゲームでもしていたい。そんな叶わぬ願望に現実逃避しながら、体育倉庫の前で入念にストレッチしている修造さん、平沼、おまけの拓夢と合流する。
 「遅いぞー友也」
 「平沼が速すぎるんだよ。あ、すいません修造さん、拓夢、遅れてしまって」
 「いいよー体力勝負だからゆっくりやっていこう」
 半袖のTシャツの袖の部分を肩までめくり、ムキムキの修造さんが満面の笑みで体育倉庫に吸い込まれていく。平沼が後に続き、拓夢がいつものダルそうな半開きの目で、
 「俺は体育祭が大嫌いだ」
と、捨てゼリフを吐いて中に吸い込まれていく。後に続いて踏み込み、埃被ったテントの骨組みに思わず咳き込みながら、拓夢と共に外に運び出す。あまりの重さに呼吸が乱れ、外に出る度に容赦なく太陽が紫外線と灼熱をプレゼントしてくる。
 「もう薄々気付いたんだけど、もしかしてこの作業僕達四人だけでやるの?」
 「あぁ、修造が他の部活の生徒達に手伝わせるのは申し訳ないとか言って、去年も陸上部だけで準備した。あいつの中で、なぜか体育祭=陸上部っていうイメージがあるらしい。俺には全く理解できないが」
 陸上部には人権は無いのか、というツッコミを喉元から体内に追い返し、代わりに大きなため息をついて、これを拓夢への返事とする。腕に乳酸が溜まり、腰に痛みが出始めた頃にようやく骨組みが全て運び出された。もう体力も尽きてしまった僕は、拓夢と共に日陰に座り込んで、目線の先でウキウキでテントを組み立てようとしている修造さんと平沼を見つめる。
 「拓夢は走ること好き?」
 「ん?まぁ好きでも嫌いでもないな」
 「じゃあどうして陸上部を続けられるの?やっぱり昔の拓夢のイメージだと僕と同じで家でゲームしてるようなイメージだし、今も別に走ってて楽しそうでもない。僕にはそれでも走り続ける拓夢が理解できない」
 何なら辞めてもいいんじゃないのかと心の中で呟いた僕に対し、拓夢は
 「俺にも分かんねぇ。ただ気付いたらあいつに誘われて俺は今ここにいる。あいつは俺含め、いろんな奴の人生を変える力があるんだ。大体こんな俺を陸上に誘ってくるなんて普通の正常な人間じゃねぇ。どう見ても向いてないだろ」
と、あきれるように微かに笑った。僕は拓夢の言葉に何も返さず、テントの屋根の部分を、端から紐で結んで固定している修造さんを見つめる。その修造さんの元へ、野球のユニフォームを着た坊主頭の生徒がやってきて、やがて一緒にテントを組み立て始め、そのすぐ後にやってきたチャラそうなサッカー部の生徒も笑顔で手伝い始めた。平沼と二人で組み立てていた修造さんの周りには、あっという間にたくさんの生徒が集まり賑やかな声であふれかえった。拓夢の言う通り、スターの周りには自然と人が集まるのだなと思った。とても自分には真似できない。憧れとはまた違う別の世界の人物だと思う。
 「修造さんは凄い人ですね」
 いろんな感情、思いが生まれながらも上手く言葉をまとめきれず、単純なマヌケな言葉を呟いてしまう。
 「あぁ、凄い奴だ。だが、誰もがあいつのような人間を目指さなくてもいい」
 「え?」
 拓夢のその言葉に思いがけず疑問の声が漏れ、視線を拓夢へ移す。
 「あいつのように表舞台でたくさんの人に力を与える奴もいれば、当然与えられない奴もいる。努力したって出来ない奴は出来ない。友也だってそうだ。そんな人間ではない」
 自分でも分かってはいるが、改めて誰かに言われると胸が痛む。突然自分を否定してきた拓夢に、怒りの感情よりは悔しい感情でいっぱいになった。そんな気持ちが顔に現れ、隠しきれなくなった自分の顔を見た拓夢は、表情を変えずに続けた。
 「人を喜ばせること、支えること、力を与えること、それぞれに形は無い。人それぞれそのやり方、役割が違う。ただ、何も出来ない人間なんていない。友也の自然な生き方、不器用さを前面に出した人生で、何千人、何百人から見向きもされなくても、一人でもその人生に感動する人がいたらそれで十分だと思う。もちろん俺だってそうだ。きっと人生はそうできている。根拠はないけどな」
 独り言を喋りすぎたな、忘れてくれと拓夢はいつものダルそうな目で頭をポリポリとかいている。拓夢も修造さんも年齢は一つしか違わないのに、なんだかとても遠い大人のような気がした。漠然と一日一日を過ごしている自分が、とても恥ずかしくなる。これから人生を重ねていく内に、自分も何か信念を持って生きていけるのだろうか。
 「さて、俺達もそろそろ修造達を手伝うか」
 地面にあぐらをかいていた拓夢がゆっくりと重そうな体で立ち上がる。慌てて僕も両手で地面からの反発を貰いながら勢いよく立ち上がったその瞬間、視界が急ににじみ、頭痛と激しい吐き気に思わず「うっ」とうめき声を漏らし座り込む。体がとても重い。四つん這いになって地面とにらめっこしている僕の真後ろから、
 「大丈夫か友也、暑さにやられたか。修造には俺から言っておくから友也は日陰で休んでろ」
 「ごめん、ありがとう」
 拓夢から手を借りて立ち上がり、力の入らない足を必死に前に出して日陰を目指す。近場の水道の蛇口をひねり、手に持っていたスポーツブランドのロゴと名前が入った白いタオルを水に浸す。暑さのせいで、自分が期待していた冷たい水からほど遠いぬるい水があふれてくる。少し不満の気持ちを抱きながらも、ぬるい水道水を少し飲みこんでタオルを絞る。体内の水分がゆっくりと胃を目指して落ちていくのを感じながら、僕は校舎裏の日陰のベンチへ腰掛けた。この場所は昼休みになるといろんな生徒が激しく取り合う人気スポットと知っていたが、さすがに放課後のこの時間は生徒の姿は見当たらなかった。僕はベンチの半分に上体を投げ出し、完全に横になった状態でぬるい水道水で湿ったタオルを額に乗せる。とても気持ちがいい。体温が少しずつ下がっていくのを感じる。目をつぶり、昨日夜中までゲームをしていたことに対してひたすら後悔の念に苛まれている内に、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。

 「おい友也起きろ。大丈夫か」
 「…ん?」
 拓夢に体をゆすられたのと、硬いベンチのせいで負った腰の痛みで、僕は学校でうたた寝をしていた事実に一瞬で気付いた。
 「やばい寝てたごめん。今何時?」
 「もう七時前だぞ。よく寝てたようだな」
 辺りは薄暗くなり、少し涼しくなってきた夜の気候と匂いが心地よい。
 「もうテント設営もほぼほぼ終わったから、友也は先に部室に戻って着替えてろ。俺達も後から追いつく」
 「分かった、ごめん」
 やれやれ、今日はみんなに迷惑をかけてしまって申し訳ない。僕は冷たさを全く感じない地面に落ちているタオルを拾い、ベンチから立ち上がろうとしたその時、足元で何かが音を立てて倒れた。コロコロと転がるその物体を目で追いかけると、アスリートの僕達がよくお世話になっている見慣れたスポーツドリンクのペットボトルが転がっていた。慌てて追いかけようとした際に勢いよく立ち上がった僕に容赦なく立ちくらみが襲ってくる。どこまでも回復しない機能性の悪い自分の体にイラつきながら、ゆっくりとペットボトルを拾い上げながら後ろを振り返る。恐らくこのドリンクをくれたであろう拓夢の姿を探すが、そこにはもう誰もいない。拓夢の奴、一言言ってくれればいいのに。変にかっこつけたんだろうか。寝てる間に失われていた自分の体を相手に、あっという間に空になったペットボトルを見つめる。とにかく明日の体育祭ではみんなに迷惑をかけないように、早く帰ってゆっくり休まないとな。憂鬱な気持ちとちょっぴりの楽しみな気持ちを抱え、遠くから聴こえるカエルの鳴き声を聴きながら僕は早歩きで重い体のまま部室へ向かった。

 太陽は容赦なく朝のねぼすけ達にちょっかいを出してくる。昨日の夜乱雑に閉めた部屋のカーテンの隙間から差し込んでくる陽の光に、しかめっ面のまま重い体を起こす。きっと日本全国、世界各国に自分と同じ表情で起き上がってくる人間が今この時間にたくさんいるのだろう。あ、でも外国は時差があるから昼寝かもな、とどうでもいいことを頭の中で展開させながら体操服に着替える。今日は唯一体操服での登校が許される日。「あれ、着ていかないの?」と、壁に掛けられた制服が不思議そうに見つめてくる。僕はその視線に応えることなく部屋を出る。太陽は今日の体育祭を誰よりも楽しみにしていたらしい。
 まだ五月だってのに照りつける日差しにうんざりしながら辿り着いた学校、教室の中はいつもと違い元気があふれきっている。そりゃあそうか。今日は眠たいうんざりした授業に捕まることもない。毎日が体育祭だったらきっとみんな幸せになるだろう。いや、先生達が困るだけだ。
 「おはよう友也、調子はいかがかな?」
 「なんだその喋り方。お前に実行委員を指名されてなかったら絶好調だったよ」
 「ハハハ、まぁ今日は友也の快足を見せつけて輝く一日にしてくれよ」
 終始ニヤけ顔の高山が朝から背中を何度も叩いてくる。背中にダメージを負うハンデを背負いながらも、やはり行事が行われる一日はとてもワクワクする。窓から外の景色へ目を向ける。今日のグラウンドはいつもと違う。テントが立てられ、白線が描かれた芸術作品となったその景色は、生徒達に「早くおいでよ」と手招きしてくる。ふと、足に何かの感触を感じ目を向けると、よく見覚えのあるバスケットボールが転がっていた。
 「悪い、ボール取ってくれ」
 そのよく聞き覚えのある声がかけられるより前に、僕はボールを抱え下投げで投げ返す。坊主頭の中田君が「ありがとな、友也君」と白い歯を見せている。この前ガラスを割ってこっぴどく叱られたというのに、その後も中田君陽キャラ軍団はボールと一心同体の日々を送り続けている。それでもクラスメイトが誰一人文句を言わないところが、彼らの人気者ぶりが窺える。というか体育祭の日にまでボールとたわむれるなよまったく。爽やかボーイ中田君はボールを受け取ると、軍団との遊びを止め、おもむろにこちらへと歩み寄ってきた。
 「今日は楽しみだね友也君、高山君」
 「中田お前は相変わらずだな。またもう一枚ガラス割るんじゃねーのか」
 「まさか。今度はもう二度とあんなヘマはしないよ」
 爆笑し合う二人を横目に、僕は体育祭のプログラムと実行委員の仕事内容が書かれた修造さん直伝のしおりに目を移す。
 「実行委員ってやっぱり大変なんだね友也君」
 「まぁ、ぼちぼち」
 あのガラス事件以降、なぜか中田君には必要以上に名前で呼ばれるようになった。悲しいかな、あの事件は陽キャラとの結びつきができるプチイベントとなってしまった。出来れば僕に構わず軍団達と続けてたわむれていてほしい。
 「そういえば同じ実行委員の尾田さん、昨日の部活中に足を痛めているのを見たよ。大丈夫かな?」
 僕は反射的に尾田さんの席へ目を向ける。そこに尾田さんの姿は無かった。
 「そういや朝から尾田さん保健室二入っていってるの見たぞ」
 高山が中田君から奪い取ったバスケットボールを、人差し指の上で回転させながら器用に会話にも参加してくる。少し心配を覚えかけたその時、尾田さんのよく響く「ガハハ」という豪快な笑い声が廊下から聴こえ、山崎さんをいじめていたヤンチャグループと共に教室に入ってきた。扉のすぐ近くの席に座っていた山崎さんが体をすくめる。尾田さんグループは山崎さんには目もくれず、廊下で響いていた声と同じ声量でバカ話を始め出した。
 「大丈夫そうだね尾田さん」
 「そうだね」
 担任の磯部が入ってきたタイミングと同時に、中田君が手を振りながら自席へと戻っていく。
 「まぁ大丈夫そうに見えるが、何かあったら友也が手伝ってやれよ」
 「わかってるよ」
 寝癖を揺らしながら軽い足取りで去っていく高山を見送り、僕は軽い溜め息をつく。意外にも体育祭にノリノリな磯部の朝のホームルームでクラス中の士気が上がり、今日ばかりは犬猿の仲である尾田さんと意気投合している。磯部の「優勝するぞー」という声を締めに、統率のとれていない生徒達がハイテンションで廊下へと飛び出していく。遠くの方から「走るなゴラァ」とチンピラ体育教師の怒号が響いた。僕は深い溜め息をつきながら重い腰を上げ、誰もいなくなった教室を後にした。

 照りつける日差しの中、同じ服装をした人間達はまるで個性を失ったかのように騒ぎ出す。テントの中の席に着席している生徒、我慢できずに友達と走り回っている生徒、見に来てくれた家族を探し出し駆け寄る生徒。一年に一度のお祭りで、やんちゃ盛りの中学生達が大人しくするわけがない。授業中居眠りするのが当たり前の生徒も、今日は目を輝かせるほどしっかりと聞いている。向かいのテントが丁度僕らのクラスのテントだと目を凝らしていると、中で楽しそうに人にちょっかいを出しまくっている寝癖野郎が見えたので、僕はグラウンドの中の競技に目を移す。トラックの中では修造さんの「よーい」という大きな声が響き、号砲と共に生徒達が一斉に駆け出していく。一位でゴールする者もいれば、当然ビリになる生徒もいる。人間はなぜ同じ生き物なのに、こんなに差がつくのだろう。僕はキンキンに冷えた水筒から麦茶をカップに注ぎ一口飲み込んだ。冷たさが体中を伝っていくのが分かる。徒競走のゴール地点、学校中に声を響き渡らせる放送部の声を隣のテントから聴き入っているのが僕ら実行委員の席だ。実行委員席は、常に誰かが係の仕事で抜けているため、常に空席が目立つ。おまけに仲良しの生徒も少なく、学年も違う生徒もいるので、テント内は終始静寂、お通夜のような雰囲気だ。今日は麦茶がよくすすむ。今日ばかりは自分のクラスの楽しそうな雰囲気が羨ましい。高山を再び恨みながら、ゴール地点に駆け込んでくる生徒に目を向ける。名前も分からないぽっちゃり体型の生徒が膝に手をつき肩を激しく上下していた。きっと彼は今夜よく眠れるだろう。徒競走も終盤に差し掛かる頃、僕は次の競技の準備の為に席を立つ。隣の空席を見つめ、周囲を見渡すが尾田さんの姿はない。本番当日も相変わらず自由に生きているようだ。たまにその柔軟性が羨ましく感じる。
 真面目一筋の僕は、体育倉庫から競技に使う道具を外に出していく。埃と床に散らばった名前も知らない白い粉が踊り出し、僕は思わず咳き込む。この中に居続けたら自慢の健康な肺に悪影響を及ぼしそうだ。一刻も早く脱出したい。僕は道具を搬出するスピードを倍に上げ、途中入りこもうとしてくるまだ小さい男の子を「だめだよー」と抱え上げ、後からやってきたお母さんに笑顔で返却する。命懸けの搬出作業も終わりが見え始めた頃、白い粉にまみれたハードルに手をかけようとしたその時、「わっ」という声と共に背中に強い衝撃を受けた。「うわぁー」という情けない声と共に振り返ったその視線の先には、満面の笑みの尾田さんが立っていた。
 「待たせたな!」
 尾田さんは腰砕けの僕をそのままに、残ったハードルを運び出す。しばらく姿を見ていなかった尾田さんはいつも以上にテンションが高いようだ。ご機嫌な運送屋と化す。
 「尾田さんは人を驚かすという悪趣味はやめた方がいいと思うよ」
 「やだ、やめない」
 「五歳児かよ」
 「なんだとー。あたしを体育倉庫に迷い込むようなガキンチョと一緒にするな」
 「そっから見てたのかよ。ならもっと早く手伝ってよ」
 「やだ、もっと林田に仕事を押しつけて楽する」
 「なんてやつだ」
 いつの間にか僕と尾田さんの間には、昔からの仲良しのような雰囲気と会話が続いていた。尾田さんってこんなおもしろい人だったんだ。埃まみれの薄暗い体育倉庫の中で僕の笑顔と尾田さんの笑顔だけが輝く。他の人がいないこの二人だけの空間が、なんだか別世界で特別なようで不思議だ。
 「よし、運び終わった。ねぇ林田、いつまで座り込んでんの、早く行くよ」
 はいはいと僕はしばらくサボらせてもらった重い腰を上げようとした時、近くに駆け寄ってきた尾田さんが勢いよく右手を伸ばしてきた。僕が「ん?」とその差し出された手と目が大きくなった尾田さんの顔を交互に見つめていると、
 「あーもう早く立ってよ」
と、床についていた僕の右手を強く引っ張りあげた。
 「いたたっ、わかったわかった行くよ」
 勢いよく引っ張られた尾田さんによって、僕達は暗闇の世界から光の世界へと駆け出す。僕の手を引っ張った尾田さんの手は、とてもあたたかくて少し湿り気を感じた。

 目の前で麻袋に足を突っ込んだ生徒が勢いよく転倒し砂埃を巻き上げる。まるで野球部のヘッドスライディングのようだ。美しい。すでに勝敗が決したレースで麻袋ケンタウロス君が必死にゴールを目指す姿を見送りながら、僕はあのカードを引かないことを両手を固く組んで天に祈る。こっそり。
 走力のハンデが一切ない、いわば運任せのレース、障害物競走。そのスタート地点に、あろうことか走力が持ち味の陸上部の僕は立っている。目立ちたい気持ちと目立ちたくない気持ちの激しい葛藤の末、各クラスのエースが集う走競技を陽キャラ達に譲り、残った種目はこの競技だった。右を見ると眼鏡をかけた痩せたガリ勉君、左を見るとお腹の脂肪が見事に鏡餅を作り出したぽっちゃり君など、走力だけでは圧勝できるような相手ばかりだ。僕は視線を前に向け、二十メートル先の地面に無造作に置かれたカードを見つめる。なんとしてもあの中から「麻袋」の文字だけとは見つめ合いたくない。スタート地点の白線に片足をかけ、ガチガチに緊張した体のままテントへ目を向けると、叫びながら拳を突き上げる高山と目が合い、一瞬で視線を足元へ落とす。実行委員の合図と号砲と共に、「頼む、神様」と心の中で叫びながら僕は駆け出した。誰よりも先にカードに到達した僕は、右から二番目のカードに手を伸ばし、勢いよくめくる。カードには「卓球」と書かれていた。卓球?なんだこれ?辺りを見回すと、少し離れた場所に設置された長机の端に卓球のラケットと球が置かれているのが目に映った。駆け寄ると、ラケットの下に置かれた白紙には「ラケットに球を乗せた状態で次のカード地点まで走れ!」と無駄に達筆な文字で書かれていた。書道部が筆ペンでも使って書いたのだろうか、と文字に気を取られているとテントから聞こえてきた「友也何してんだ急げ!」という高山の怒号に慌てて現実世界に帰還する。そうだった、今は絶対に負けられない真剣勝負の真っ最中だった。僕は右手にラケットをフライパンを握るように持ち、左手でオレンジ色の球をゆっくりと乗せ、足を動かし加速しようとした。だが卓球なんかやったことない僕にとって、初めて握る卓球のラケットがこんなにも小さいのかと戸惑い、ラケットの上で嘲笑いながら踊り続けるオレンジの悪魔になかなか足を上手く前に出せないでいた。焦りだけが募る。ようやく次のカードに到達、残されたカードは二枚。麻袋の生贄になったぽっちゃり君以外の子はすでに走り出しているが、みんななぜかテントの方へ向かったり、立ち止まって考えている人もいる。不思議に思いながら、僕は残されたカードの内、右利きだからというしょうもない理由で右のカードをめくる。そこに書かれていたのは「親友」、その下には「いつもお世話になってる親友に、ありがとうと伝えよう!!」と力強く書かれている。余計なお世話だ。しかし参った。親友というシンプルな二文字に対して、なかなか頭の回転が働かない。意外にも考えたことない親友という存在、友達の少ない僕の頭に最初に浮かんだのは平沼だった。よし、あの筋肉バカに頼るしかない。僕は実行委員席に駆け出す。しかし、辿り着いたテントの席には平沼の姿はなかった。あっけにとられた僕は、この際誰でもいいとテント内を見渡すが、どの顔を見ても怪訝そうな表情をしている。まるで捨てられた子猫を見つめるような冷たい視線を背中いっぱいに浴びながら僕は逆方向へ走り出し、テント内で動きのうるさいそいつの手を引っ張って走り出した。
 「お、何だどうした!イケメンが必要だったか?それとも好きな人か?やめろよー照れるなー。友也には悪いけど俺にはそんな趣味はな…」
 「うるさい、走れ!」
 放っておくといつまでも喋り続けそうなお喋りモンスターの口を封じ、全速力で砂埃を巻き上げながら駆け抜けたゴール地点には、競い合った全てのライバル達がそれぞれのペアを引き連れ、のんきに談笑していた。いつの間にか追い抜かれていたぽっちゃり君は、隣に座るチンピラ体育教師に背中を上機嫌に叩かれて苦笑いを浮かべている。僕と高山は見事に最下位という結果に終わった。こんなことなら筋肉バカより先に、ただのバカの方へ先に向かえばよかったと考える僕をよそに、高山は自分が選ばれたことがよほど嬉しかったのか、「今日帰りジュースおごってやるよ」といつまで経ってもヘラヘラしている。
 「なーカードに何て書いてあったんだ?」
 「あー…バカって書いてあったよ」
 「なんだとこのヤロー!」
 「待て。次のレースが始まる」
 「話そらしてんじゃねー!」
 今にも飛びかかってきそうな高山の額を人差し指一本で押さえ、僕はスタート地点へ目を向ける。視線の先には尾田さんが真剣な表情でスタートの合図を待っている。スポーツ万能の尾田さんは足も速い。だからこそ僕以上にこの種目に出るべきではない選手なのに、「なんか楽しそうじゃん」という薄っぺらな理由で僕と同じ種目を選んできた。頼むぞ尾田さん。クラスの総合優勝へ向けて盛大に足を引っ張った僕は、体操座りで出来る限り身を縮めて気配を消してダンゴムシになりきる。坊主頭の実行委員のスターターの子が、空に向かって叫んだ数秒後、ピストルの音が再び大地を震撼させる。一斉に走り出した女子達が恥ずかしそうにダラダラとぶりっ子走りでカードに向かう中、表情一つ変えずに誰よりも先にカードに手を伸ばした尾田さんは、近くの網籠に詰め込まれている様々なボールの山からサッカーボールを取り出し、華麗に赤色のカラーコーンをジグザグにドリブルで駆け抜けていく。さすが尾田さん、女子サッカー部でも通用しそうな動きに、僕は思わず手を叩いて賛辞を送る。ふと、自分のクラスのテントを見ると、テントからはみ出さんとばかりに尾田さんグループのやんちゃ集がメガホン片手に高々と拳を突き出し叫び続けている。陽キャラの体育祭熱は極めて激アツだ。独走態勢で早々と二枚目のカードに到達した尾田さんに誰もが一位を確信する中、ここで思いもよらないトラブルが起きる。拾い上げたカードを見つめる尾田さんは、まるで時が止まったかのように機能を停止し、その場に立ち尽くしている。その姿にやんちゃ集はもいろんのこと、他クラスの生徒達も声を失い心配の眼差しを向けている。一体どうしたというのだろう。やがて追いついてきた他の選手達が思い思いの方向に散らばっている中、それでも尾田さんは動き出そうとしない。伝染していく不穏な空気に会場がざわつき始める中、このままではマズいと僕はその場に立ち上がり声を発しようとしたが、言葉が続かない。落ち着かない心を必死に押さえつけながら再び尾田さんに目を向けたその瞬間、尾田さんの大きな瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。魔法が解けたかのように全速力で駆け出した尾田さんは、呆然と立ち尽くしていた僕の視界を激しく揺らす。強制的にスクロールされる景色と駆け出す両足、僕の前を走る尾田さんの揺れる髪からほんのり甘いシャンプーの香りがした。盛り上がる生徒達の黄色い声や図太い声、少し熱を感じる柔らかな右手の感触を確かに感じながら、僕は尾田さんと横並びでゴールテープを切った。

 夕焼けに染まるグラウンドは、時折り青春の匂いを乗せた涼しい風を運んでくる。たくさんの足跡が駆け回った、白線が所々消えたヤンチャなグラウンドが、確かに輝いていた僕達の存在を思い出させる。静まりかえったこの場所で、今はカチャカチャとテントの骨組みを折り畳む音だけが響き渡る。
 「終わっちゃったな。筋肉の祭典が」
 「そういう認識をしているのは平沼だけだと思うよ」
 体操服の袖をまくり、鉄骨を肩に担いだ平沼が白い歯を見せて笑う。
 「それにしても最後のクラス対抗リレー、残念だったな。もう少しで友也がヒーローになれたのにな。いやー惜しかった」
 最終種目であるクラス対抗リレーに出場していた僕はアンカーでバトンを受け、トップを走るサッカー部の子に追いつきかけたところで勝敗は決した。結局リレーで勝ちきれなかったことが要因で僕のクラスは優勝を逃したが、そんなことはどうでもいい。
 「やっぱり尾田さんがいなかったことが痛手だったみたいだな」
 「うん、でもしょうがない」
 体育祭の予行練習で、尾田さんからバトンを受けた僕は一位でゴールを駆け抜けた。本番当日、僕にバトンを渡したのは尾田さんではなく別のクラスメイトの女子だった。障害物競走で勢いよく僕を引っ張って駆け出していた尾田さんは、競技が終了した後に実行委員席に戻ることはなく、保健室の先生に連れられ足を引きずりながら校舎の中へと入っていった。高山にかけられた「何かあったら友也が助けてやれよ」という言葉が頭の中で何度も繰り返されたが、僕には辛そうに歩くその後ろ姿をただ見つめることしかできなかった。
 「だが、素晴らしい走りだった。さすが俺が幼稚園の頃から才能を見出していた男。間違いなく友也は輝いていたぞ」
 「大げさだよ。でもありがとう拓夢」
 僕は照れ笑いを浮かべながら、頭にタオルを巻いて缶コーヒーを片手に持つ、まるで仕事終わりの大工さんのような貫禄の先輩を見つめる。
 「そうだ拓夢、昨日は僕がグッタリしていたときにスポーツドリンクありがと。お礼言わないとってずっと思ってた」
 「スポーツドリンク?なんのことだ、俺は何もやっていない」
 「え、じゃあ昨日置いてあったのは誰がくれたの?」
 「…さあな」
 いつものダルそうな目で見つめていた拓夢は、僕から目を逸らして遠くを見つめながら缶コーヒーを口に運ぶ。拓夢の目は笑っていた。
 「みんなお疲れ様。今日まで本当にありがとうね、最高の体育祭になってよかったよ」
 全ての片付けが終わり、体育倉庫の鍵を修造さんが閉め、本当に体育祭が終わったことを再認識させる。 
 「特に林田と平沼は一年生で初めてだったけど、よく頑張ってくれたよ。二人ともなんだか体育祭が終わって表情が凛々しくなって大人になったね」
 「そうですか、ありがとうございます」
 「また来年も一緒に実行委員で体育祭を盛り上げていこう!」
 来年は勘弁してほしいと願う僕の考えをよそに、握手を求める修造さん、肩を組んでくる平沼に溜め息をつきながら無言でうなずく。
 「今回実行委員を努めたこと、必ずこれからの人生に生きていくから。今日この日はきっと、これからもずっと自分の人生の輝く一ページに残っていくよ。そしてこれからもいろんな経験を通して、素晴らしい大人になっていこう。よーし今日は中身も鍛えていこうか、あの夕日に向かってランニングだ!」
 途中までの感動講演会も、やっぱり最後は筋肉論で台無しになるところがこの人らしい。それでも、あの日実行委員の集まりでかけてくれた修造さんの言葉のように、終わってみれば充実感を得ていた。人見知りで孤独が好きな僕には今までに感じたことのない感情に、自分でも少し驚いていると同時に、感謝の気持ちが芽生えていた。駆け出す修造さんと平沼の背中を見つめる。今日ばかりは付き合ってあげてもいいか。僕は疲れきった足を前に出そうとした。
 「あー、友也。お前は昨日ヘロヘロで倒れてるから今日はあいつらに付き合わなくていいぞ。修造には俺から言っておくから」
 体育倉庫に寄りかかって背中を預けていた拓夢が遠くを見つめて呟く。僕が目を向けると拓夢は僕の目をじっと見つめ、
 「休憩してこいよ、いつもの場所で。頑張った友也には何かいい事があるかもな」
と言葉を続けた。「いい事?」と聞き返した僕に拓夢は何も答えることなく、またしても笑みを少し浮かべ、二人の後をダルそうに駆け出していった。

 校舎裏のいつものベンチ、あの日体調不良で横になってうたた寝をしたベンチに向かった僕は、そこに座る一人の生徒の姿を見つけ、立ち止まる。やがて体操服姿のその生徒は自分の存在に気付き、大きな目を更に大きくしてまんまるにさせる。
 「お疲れ林田、どうしたのこんなとこで」
 「お疲れさま尾田さん、尾田さんこそどうしたの?…ってか足は大丈夫?」
 「うん、あんまり良くはないけどすぐ良くなるよ。てかごめんね、リレー走れなくて。あーあ、私が走ってれば優勝だったのにね」
 そう話す尾田さんは、悔しがる表情をしながらも、どこか清々しい表情をしているような気がした。
 「ほんとは最後までみんなと走って応援して体育祭を楽しみたかったよ。林田にバトンを渡して優勝して、一緒に喜びを分かち合って…」
 僕の顔をじっと見つめながら笑顔で話す尾田さんの、吸い込まれそうな大きな瞳から一筋の涙がこぼれた。次第に涙声になり、震える声で続ける尾田さんの顔を、僕は何も言わずじっと見つめた。
 「でも障害物競走で林田と走ったあの時間、とても楽しかった。楽しすぎて足の痛みなんか何も感じなかった。林田、私と走ってくれてありがとう」
 「こちらこそ。最初は驚いたけど、僕を選んでくれてありがとう。すごく楽しかった」
 尾田さんは大粒の涙を流しながら、これ以上ない満点の笑顔で「うん」と答える。
 「正直、この体育祭が始まる前はとても不安だった。尾田さんとはほとんど話したこともないし、尾田さんのことなんかよく知らないし、それに…」
 僕は空き教室でイジメをしていた尾田さんの姿を思い出し、その姿が僕を苦しめ、言葉を繋げることができなくなった。その姿を尾田さんは見つめ、やがて全てを理解したように口を開いた。
 「私はね、最低な人間なんだ。自分でも分かってる。でも分かってるけどどうすることもできない。強がってないと自分を保つことができないんだ」
 尾田さんは流した涙を指先で拭き取りながら、静かに優しい声で呟いた。その声は今まで聴いた中で一番優しい声だった。
 「そんなことない。尾田さんはいいところだっていっぱいある。本当は友達想いで何事にも一生懸命で、僕はこの体育祭で尾田さんのこといっぱい見てきた。尾田さんは本当はとてもいい子だよ」
 尾田さんは驚いた顔をしながら、やがて優しく微笑み「ありがと」と呟いた。
 「だから尾田さんが自分で悪いと思うことはこれから直していこう。僕が見ているから。そして来年、また一緒に体育祭の実行委員をやろう、一緒にリレーのバトンを繋ごう!」
 自分でもびっくりするような言葉に、尾田さんは優しい目を向けて黙って聞いていた。やがて尾田さんは目を細めて口を開いた。
 「じゃあ来年また私と一緒に走ること、実行委員をすること、約束ね。破ったらだめだよ」
という言葉と共に、小指を差し出してきた。僕はその尾田さんの白い小指に、日焼けした自分の小指を絡ませ、約束を誓い合った。
 「よし、私そろそろ帰る」
 すっかりいつもの元気な尾田さんに戻った彼女は、勢いよく立ち上がって歩き出す。
 「あ、尾田さん、最後に一つ聞いていい?」
 「なあに?」
 「障害物競走のカードには何て書いてあったの?」
 「…………内緒!!」
 「えー教えてくれないのー。まぁいいか、またね尾田さん」
 尾田さんは立ち止まり、「エヘヘ」と満面の笑顔で大きく手を振った。
 「またね、林田友也君」


 セミの声と夏の暑い日差しが、体中から汗を吹き出させてくる。こうも暑いと陸上部に入ったことを毎日のように後悔する。
 「今日もあっついなぁ友也。熱中症にならないように気をつけないとな」
 「そうだね、平沼もまた修造さんとバカやって無理しないようにね」
 「ハハッ、気をつけるよ」
 部室へ向かう道中、体育館から出てきた女子バスケ部の列が行儀よくグラウンドの端を掛け声と共に走っていく。その列の中に、尾田さんの姿はなかった。無言で見つめる僕に平沼が口を開く。
 「残念だったな尾田さん、でもしょうがないよな、親の都合なら」
 「うん」
 体育祭を終え、またいつものつまらない日常に戻った翌週、尾田さんの姿は教室になかった。
 やがてやってきた担任の磯部の口から「尾田さんは親の都合で急遽転校することになりました」と告げられた。ざわつく教室の中、僕は意外にも冷静にその事実を受け止めることができた。そう思っていた。
 学校から帰宅し、一人になった瞬間、僕は声をあげて泣いた。他人に興味のない自分が誰かのことで涙を流すのは人生で初めてだった。長いようでとても短い、体育祭での日々を思い出し、尾田さんの笑顔を思い出しては、僕の前から消えていく。彼女の笑顔が、他の誰にも見せない自分だけに見せる笑顔が好きだった。
 知らなかった。いなくなって気付いた。
 僕は尾田さんのことが大好きだった。
 尾田さんと出会い、僕の人生は楽しいんだと初めて気付かされた。
 人生はまだまだこれからも続いていく。楽しいこと、辛いこと、いろんな事と出会って人生が豊かになっていく。これから先、どんなことが待っているのか誰にも分からない。
 それぞれの進む道に希望を抱きながら、ゆっくりと歩いていく。歩いていこう。
 「よし、部室まで競走だ」
 「お、友也負けねえぞ」
 駆け出す自分の背中に、強い追い風が吹き込んだ。
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みんなの感想(1件)

たくさん
2023.09.16 たくさん

中学生というまだ世界を知らぬ、閉じた世界の中での小さな恋愛を描いた小説。

学生にとってみれば自分が通う学校という空間こそが世界の全てだったということを思い出させるだろう。

登場人物の容姿はたまに髪型について言及されるくらいなので、好きに脳内補完できる。

解除

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