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薔薇園のラプンツェル
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しおりを挟む柔らかな日差しが降り注ぐ庭には、今を盛りに色とりどりの薔薇が咲き誇る。
風がないせいか薔薇の芳香が立ち込めていた。
アネットはその庭に立ちむせ返るほどの芳香を吸い込むと、ひとつ息を吐いた。
あの時と違い噴水の水は噴出さず、そのせいで水音もない。
人気のない庭に、小鳥の声だけがかすかに響く。
見渡すと、そこには神聖な空気が立ち込めていた。
まるで人の立ち入りを拒むかのような……
「あ…… 」
その空気を感じ取ってアネットは気がつく。
「ここは…… 」
あの時、話をはぐらかすつもりでガーデンパーティーのことを持ちかけた話題。
サシャは見事なほど自然にかわしてしまったので気がつかなかった。
けど、それは暗にここへの他者の立ち入りを拒んでいたことに。
「はうぅ」
大きなため息をひとつつくとアネットは庭を取り囲む生垣の切れ目へと向かう。
ワイヤーワークの門扉を押して外に出ると、扉を閉め鍵を掛けた。
「お前…… 」
ポツリとつぶやく声に振り向くと、そこにライオネルの姿がある。
「どうしてここにいるんだ? ってか、ここのこと知っているんだよ」
余程のことなのか驚きを隠せないといった表情をしている。
「前に、サシャ様に教えてもらったの」
ゆっくりと歩き出しながらアネットは答えた。
「よくあのサシャが教えたな…… 」
ため息混じりに感心しているようだ。
「ガーデンパーティー開くのに使っていいよって言ってくださったから、プラン練ろうと思って来てみたんだけど。
やめるわ」
「って、お前今ガーデンパーティって言ったか? 」
「うん」
「そんな許可まであいつが出したってか? 」
ライオネルの顔は感心を通り越してあきれ返っていた。
「何か問題でもあるの? 」
「いや、ここは……
ここはサシャとハーランが王妃の為だけに造った庭だったから、今まで誰も近づけさせなかったんだ」
「お姉ちゃんの? 」
「そう、城の王妃の寝室から一番よく見えるこの場所に、王妃の好きな花で造った。
病が徐々に進行して散歩さえままならなくなった王妃を慰める為にな。
でもって、徹底的に他人が入るのを嫌っていたんだよ」
「やっぱり、そんなに大切な場所だったのね。
さっきねあの庭に立って、感じたの。
ここは誰も入っちゃいけないんじゃないかって、誰も来ないから、こんなに綺麗なんじゃないかって。
だからパーティはやめにしようって決めたところだったの」
「……そうしてやってくれ」
どこか安堵したようにライオネルは息を吐く。
「それにしても…… 」
生垣で囲まれた通路を歩きながらポツリとライオネルがつぶやく。
「お前よくあの時、あの言葉が出たな? 」
「あの言葉? 」
ライオネルの言った意味がわからずアネットは首をかしげる。
「サシャにだよ。
アイリスの傍にいてやってくれって」
「だって、アイリス様を追い詰めたのはわたしだし、わたしが今アイリス様にしてあげられることってそれくらいで…… 」
「諦められる程度だったってことか? 」
アネットに向けられたその言葉はしかし、アネットの耳に届くか届かないか程の小さなものだった。
「諦めるって何を? 」
「じゃ、俺にも少し脈はあるか」
やはり小さくつぶやくライオネルは足を止めるとうっすらと笑みを浮かべる。
「ライオネル様? 」
急に立ち止まってしまったライオネルに戸惑い、アネットも足を止めたその瞬間、不意に腕をとられ引き寄せられた。
「な…… 」
声をあげるまもなくライオネルのあいている片手が頬に軽く添えられると同時にその唇で口を塞がれた。
驚きのあまり見開いたままになった視界全体にライオネルのこれ以上ないほどに迫った顔がある。
その感覚に背筋を何か甘やかなものがうずく。
一瞬、その感覚に身を任せたくなった。
と同時に湧き上がる様々な思いがアネットを現実に引き戻す。
それは体中から血の気を引かせるのに充分だった。
アネットは両手に渾身の力を込めて男の胸倉を押しやった。
明らかに自分を拒んでいる行動に男の表情が曇る。
「ごめんなさい、わたし、そんなんじゃ…… 」
男の悲痛な表情にアネットは戸惑いながらようやく言葉を紡ぎだす。
「違うの…… 」
「何が違うって言うんだよ? 」
否定するアネットの言葉に男の語気がかすかに荒くなった。
「わたし…… そのためにここに来たんじゃないことは知っているでしょう? 」
握り締められたままになっていた腕に力が篭る。
伝わってくる怒り。
怒らせてしまった。
それだけはわかる。
「ごめんなさい」
それしか言えない。
「だったら、何故お前はここにいるんだよ? 」
問いかけてくる男の怒気を含んだ口調に、眉間には深い皺を刻む。
「だから…… お姉ちゃんの傍に、少しでも長く居たくて…… 」
そんなの最初からわかっているはずだ。
なのにライオネルはどうして今更そんなことを聞いてくるんだろう?
男の怒りに、疑問と恐怖と謝罪といろんなことを覚えながら途切れ途切れにアネットは応える。
「だったら、他にも方法があったはずじゃないのか? 」
「それは…… 」
あったのだろうか? 他に方法が。
城からの手紙を受け取って考えられる手段を全部考えて挙句すがったトーガス伯爵の案にあっさり乗ったのは間違えだったのか。
答えられる訳もない。
「その気がないんだったらこんなところに居るんじゃない、早く消えるんだ」
ライオネルの言葉はほとんど怒鳴り声になっていた。
そして、アネットに背を向け大またで立ち去っていった。
「どうして…… ? 」
立ち去るライオネルの背中を見ながらアネットはつぶやく。
何がライオネルを怒らせてしまったのか。
つぶやいてみたがそれ以上考えることをアネットの思考は拒否していた。
それを考えるのが怖かった。
もし……
もしも……
いや、「もしも」が許される立場でない。
そのことを、アネットの理性は充分すぎるほどに理解していた。
「心配ないのよ。
ここのところ少し寒い日が続いたでしょ。
だからかしら? 」
翌日、面会の叶った姉の言葉にアネットは首をかしげた。
五月も中旬になり庭には花が満開のこの季節、日によっては汗ばむことがあっても体調を崩す程の冷え込みにはなっていない。
久しぶりに面会を許され、訪れた病室でアネットはこっそりと息を吐く。
ベッドの上の王妃はまた少し腺が細くなっていた。
ここへ来てから日を追うたびに持つ印象。
それは姉の残り時間を示唆しているようで、胸が締め付けられる。
「髪、切ったのね」
王妃はアネットの切りそろえられた髪に手を伸ばす。
「うん……
あの髪、一人で結うにはちょっとね。
だけど毎回お姉ちゃんのメイドに頼むわけには行かないでしょう? 」
嘘だとわかってしまいうだろうとは思いながらもアネットは言い訳する。
「よく似合うわ。
よかった……
あなた、子供の頃からその髪お母様譲りだって皆にほめられて、縛られてしまったせいで切ろうとしないから、心配していたのよ。
手が掛かって大変だったでしょ? ただでさえ面倒くさがり屋さんのあなたが、今までよくもったわね」
王妃は傍らのヘアブラシを手に取るとアネットを手招きする。
「いらっしゃい」
ベッドの端に座らせると、王妃はアネットの髪にブラシを当てた。
「覚えてる? あなた子供の頃ブラッシングが大嫌いで、わたくしが梳かしてあげようにもちっともじっとしていなかったこと。
だからお母様のお形見だから大事にしなければいけないのよ。って毎日のようにわたくしが言っていたの。それがきっと縛りになってしまったのよね。
ごめんなさいね。やっと開放してあげられてよかったわ」
「じゃぁ、あの言葉言い出したのってお姉ちゃんだったの? 」
見上げるアネットに、王妃はやんわりと微笑んだ。
「いない、のかな? 」
昼下がり、穏やかな光の広がる渡り廊下の端に立ち、アネットは庭を見渡しつぶやいた。
「どうかしたの? 」
その姿を見つけ、駆け寄ってきたリディが訊ねる。
「うん、いつもなら、今の時間なら絶対いるはずなんだけど」
言いながらアネットは庭にあるはずの人影を探した。
「ああ、例の庭師の王子様? 」
「そう…… ハーラン様。
お姉さまのお部屋に飾るお花を分けていただこうと思ったんだけど」
言いながら更に見渡すが、その姿を見つけることはできなかった。
人気のない庭は、いつも以上に静まり返っていたが、却って城のあちこちから発せられる様々な音がかすかながら聞こえる。その物音が何故かアネットに不安を抱かせた。
「きっと別の場所でお仕事していらっしゃるんじゃないの?
お庭はここだけじゃないんですもの」
かすかな変化はわからないのか、いつもと変らずにリディアはいう。
「そう、なのかな? 」
だといいんだけど。
何かが心の中でつぶやく。
「アネット、この間から何か変よ? 」
顔を覗き込みながらリディアが言う。
「変? わたしが? 」
「そうよ、妙に黙り込んだり、はしゃいだり、今日は不安がってる。
何かあった? 」
「ううん、何にも」
リディアの問いにアネットは即行で首を大きく横に振った。
「そうかな? 」
何かを勘ぐってリディアは更にじっとアネットの顔を見る。
やっぱり同じ部屋に寝起きしていると隠せないものなのだろうか。
とは言っても、人に言える話じゃない。
アネットはできるだけ表情に出ないように顔の筋肉を引き締めた。
「言いたくないんだったら、仕方がないわね」
リディアはあからさまにひとつため息をついてみせる。
「でもね、どうしても困ったら、わたしに手を貸せるようなことがあったら絶対に相談してね」
そういってやさしく笑いかけてくれる。
「王妃様のところに行くんでしょ。
たまにはお花なしでもいいじゃないの、いってらっしゃい」
軽く背中を押してくれた。
「じゃ、そうするね」
リディアと別れると、アネットは姉の部屋へと急ぐ。
いつもと変らない別殿とは違い、足を踏み入れた本殿は通常と様子を異にしていた。
若い兵士や使用人がひっきりなしに足早に廊下を行き来している。
それだけではなく、あちこちの部屋に普段は見たことのない貴族の男が集まってたむろしている。
城の中に広がる妙な気配がアネットの不安をあおる。
その空気に晒されているうちに最悪の自体が頭をよぎる。
思わず足が震えた。
「お嬢様、大丈夫ですか? 」
呼びかけられて視線を移すと王妃のレディメイドが居た。
「リタ? 」
「お顔の色が優れないようですが、お加減でも? 」
「ううん。わたしは平気。
それより、この騒ぎ、何があったの? もしかしてお姉ちゃんに? 」
不安で知らずに語気が荒くなる。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
アネットを落ち着かせるように、メイドは普段よりゆっくりと答える。
「王妃様は、お変わりありませんわ。いつもどおりです」
「でも! 」
廊下を忙しそうに行き交う人々にアネットは視線を泳がせる。
「王妃様なら大丈夫です。いつもとお変わりありません」
もう一度メイドは穏やかな声で言う。
「この騒ぎは……
お嬢様方には不安にさせないように内緒なんですけど、西の国境で隣国と小競り合いが起きまして、それで少しあわただしいんです。
大丈夫ですよ。ご心配なさらなくても、すでにライオネル様が一陣としてご出発なさっていますから。すぐにおさまります」
「え? 」
メイドの言葉にアネットは耳を疑う。
「ですから、ライオネル様がご出陣なされたんです。今の騒ぎは後発の部隊の準備だそうですよ」
「わたし何も聞いてない」
床を見つめてアネットはつぶやいていた。
「先ほども言ったとおり、お嬢様方には内緒なんです」
言ってメイドは声をわずかに潜める。
「お嬢様の中にはお父様が出陣なさった方もいらっしゃいますから。
そんなに青い顔なさってご心配なさらなくても大丈夫ですよ。
今回は小競り合いって言っても口喧嘩くらいのものだそうです。戦闘地域の真ん中へ出向いたわけではありませんから。
きっと、皆さんすぐにお戻りになります。
それよりも、王妃様がお待ちですよ。
今回のこと、王妃様も多少の心労を抱えたはずですから、励ましてあげてくださいね」
メイドはそういってアネットを促した。
「どうして? 」
姉を見舞い部屋へ戻り、一人になるとアネットはポツリとつぶやいた。
どうして何も言わずに行ってしまったんだろう?
ライオネルも他の王子たちも、年頃の王子の役割として、軍の指揮を任されている。
だから、こういう時に先頭に立つのはごく当たり前のことだというのは理解できる。
だけど、何故それがライオネルでなければいけなかったんだろう?
「わたし、まだあの時のこと謝っていないのに…… 」
言葉にすると視界が潤んでくる。
何故かはわからないけれど、あの時、確かにアネットの言葉はライオネルを傷つけた。
そんなつもりは全くなかったのに。
だから、もう一度顔を見て話して、誤解を解きたかった。
なのに、何も言わないうちにいなくなってしまうなんて……
潤んだ目からこらえきれなくなって涙がこぼれそうになった時、軽いノックと共に返事を待たずに部屋のドアが開いた。
「あ、アネット帰ってたのね」
慌てて涙をぬぐうアネットの目に、リディアの何故かほっとした顔が映る。
「これ、ご実家からのお手紙、今預かってきたの」
そういって分厚い封筒を差し出してくれた。
「なんか、届けてくれた人が急ぎみたいなこと言っていたの。
一応アネットに今すぐに渡せるかどうかわからないけど、って言ってお預かりしたんだけど。
よかったわ。すぐに渡せて」
リディアは笑顔を作った。
「急ぎ? なんだろ? 」
その言葉に反応して、受け取った手紙の封を開ける。
質のよくない紙には留守を預かる家令の几帳面な文字が綴られていた。
「嘘…… 」
読み進めてゆくうちにアネットの口から自然と声がこぼれた。
とりあえず席を立つ。
「アネット? 」
急に立ち上がったアネットの様子に驚きリディアが首をかしげた。
「ちょっと、行ってくる」
それだけ言うと、行き先も告げずにアネットは手紙を握り締めたまま部屋を飛び出した。
「何とか、何とかしなくちゃ…… 」
廊下を急ぎ足で歩きながら、アネットは何度となくつぶやく。
こんな時、一体どうしたらいいんだろう。
そう思いながらも足は、ある部屋を目指していた。
姉には絶対相談できない、だとしたら今この手の話で頼りになるのは……
そしてアネットは書庫へ飛び込んだ。
「レディ・アレクサンドリーヌどうしたんですか? 」
アネットの顔を見て、シルフィードが慌てた表情を見せた。
「シルフィード様、お願いがあります」
乱れた息のままで言う。
「とにかく、話は聞きますから、落ち着いてください」
シルフィードは椅子を勧めた。
「……と、言うわけなんです」
アネットは手紙に書かれた内容をかいつまんで話した。
「なるほど。
君が僕のところに経営学をと言ってきた時から薄々感じてはいたのですが、そういうことですか」
もはや隠し事をしていたままでは話が進まないので、アネットは仕方なく包み隠さず最初から最後まで事情を説明した。
「ごめんなさい。
いろいろ教えてもらうのに隠し事なんてしちゃいけないことはわかっていたんですけど、わたし今ここを出てゆくわけに行かなくて!
花嫁候補になれない娘はここに居る資格がないのは当たり前だから、伯父様からも絶対に隠しておけって言われていて」
アネットは頭を下げる。
「そのことは気にしなくていいですよ。
無理に聞き出さなかったのは僕のほうですし。
で、本題に入るけど…… 」
やんわりと笑みを浮かべたシルフィードの顔が不意に真顔になった。
「国境付近の村人が小競り合いを避け逃れて、領地に来たということですね」
「本当は気持ちよく受け入れてあげることができていればこんなことにならなかったのですけれど」
「彼らは、主不在なのをどこからか聞いて、突然村を襲撃したと」
「わたし、どうしていいか…… 」
アネットは顔を覆った。
「わたしがここに来なければ、その場に居てもっと迅速に彼らを受け入れていれば、こんなことにはならなかったはず…… 」
「顔を上げて」
穏やかに、やさしくシルフィードは言った。
「そういう輩はね、たとえ領主がその場に居たって同じことをやりますよ。
君のせいではないんです。
何しろ家畑、財産全部失ったようなもので気が立っていますからね。
領主の腕がよければ被害は最小限にとどまるかも知れませんが、君の場合はむしろ小娘だと莫迦にされて、いたほうが襲撃に拍車が掛かったと思います。
とはいえ、このままというわけには行きませんよね」
シルフィードの言葉にアネットは頷いた。
このまま黙ってみているわけには行かない。
守らなければ、村も村人も荘園も。
「まあこの手紙の様子では、一応被害もそこそこで、皆さん持ちこたえているようですね」
「でもこれが長引いたら…… 村のお年寄りや小さな子が…… 」
「そうですね」
ゆっくりと言ってシルフィードは立ち上がると部屋の窓際に置かれた書き物机に向かう。
そして紙を持ってアネットの前に戻ってきた。
「君の領地はきちんと陛下への納税義務果たしていますよね? 」
アネットの前に立ったまま男は訊く。
確か去年は羊三十頭をはじめとしてその他もろもろ、きっちり納めてあるはずだ。
大慌てで記憶をまさぐった。
「たぶん過不足なく…… 」
「それならば、『できること』先日教えましたよね」
シルフィードは更にインクとペンを持ち出し、穏やかな笑みを浮かべながらアネットの前に差し出した。
「これであなたのできることは全てです」
アネットが差し出されたペンを置くとシルフィードは言った。
「後あなたがすることといえば、その手紙をくれた家令の方に報告とお礼の手紙をしたためることぐらいです」
そういわれてからすでに五日が過ぎていた。
アネットはベッドに入ってからの何度目かの寝返りをうつ。
本当は帰ったほうがいいのかもしれない。
……けれど今の状態の姉の傍を離れたら一生後悔するのは目に見えている。
だから、じっと家令からの報告を待っているのだが。
さすがに遠い。
アネットはこことの距離を痛感していた。
遠いといえば、国境に向かったライオネルも未だに戻ってこない。
さすがにその姿が見えないことが、少女達の間でも少しずつ話題になっていた。
「違うの。何考えているんだろう。わたし……
今は領地のほうが先なのに」
眠れぬままにぼんやり考えているうちに自然と頭に浮かんでしまった面影を振り払うように強く頭を振って、アネットは毛布をかぶり直した。
間をおかずに、部屋のドアをノックするかすかな音が響いた。
こんな時間に?
不思議に思いながらも安らかな寝息を立てているリディアを起こさないようにそっとベッドをすべりおり、アネットはドアを開けた。
「お嬢様…… 」
部屋の前に立っていた王妃付のメイドは息を切らしていた。
それだけで何が起こったのかなんとなく予想はついた。
「アレクサンドリーヌお嬢様、王妃様が…… 」
メイドはやはり言葉にならない。
血の気が一気に引いた。
「お姉ちゃん、どうしたの? 」
ショールを持ち出しながらアネットは訊く。
「だって、今日は気分がいいって。
顔色だってよかったじゃないの! 」
メイドと一緒に廊下を早足で歩きながらアネットは声を潜めていった。
それでも昼間と違い誰もいない静まり返った廊下にその声は大きく響く。
その反響がアネットの不安を余計に募らせる。
「それが…… つい今しがた急に呼吸が乱れて…… 」
メイドにも何がなんだかほとんどわかっていないのだろう。
アネットの納得のゆく説明は出てこない。
王妃の病室の前にはすでに知った顔がいくつも集まっていた。
皆一様に困惑と心配の入り混じった顔をしている。
その脇を抜けて病室へ飛び込むとベッドの傍らには医師の姿。
もう傍らでは国王が言葉なく姉の手を握り締めていた。
目を伏せたまま、医師がアネットに場所を開けてくれる。
説明がないことからもう手の施しようがないことがわかる。
「お姉ちゃん! 」
急いで近づいて呼びかけたがもうほとんど意識がない。
どんなに国王がその手を握り締めても、アネットが呼びかけても応えはなかった。
祈る気持ちで見守る中、徐々にその呼吸は弱まり間遠になる。
朝日が上がるのを待たずに、王妃の呼吸は完全に途絶えた……
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