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舞台裏の夜啼鳥(ナイチンゲール)
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しおりを挟む朝から、建物の中は喧騒に満ちていた。
足早に走るメイドの足音。
あちこちの部屋に荷物が届く。
廊下に満ちるその音を耳に、さっきからメイドはドレスの裾にレースを縫い付けるのに余念がなかった。
鮮やかなワインレッドのドレスに縫い付けている異国からのレースは、今朝方揃いの花飾りと共に養父から届いたものだ。
いつもの事ながら養父はこういうところには余念がない。
「どうしました? 」
浮かない顔のヴァイオレットを見上げ、メイドが怪訝な顔をする。
「ええ、お養父さま、遅いと思わなくて? 」
いつもならこういう時には決まって顔を出してヴァイオレットの装いを確認する侯爵が、今日はなぜかまだ姿を見せない。
正直そのたびに駄目だしされるのだから、来ないに越したことはないのだが、この選定会最大の催し国王主催の舞踏会の事前に現れないなど、あまりにおかしすぎた。
そのことが言い様のない不安をヴァイオレットに抱かせた。
「またお出掛け寸前になってから、宝石商でも呼び出されたのではないですか?
ほら、以前もありましたよね。
ドレスの花飾りを変えたらパリュールの宝石の色が合わないとか仰って、それからまだ宝石商に他の石を持ってこさせたこと。
きっとそれですよ」
ヴァイオレットの不安を察してか、言い聞かせるようにそう言って笑みを浮かべる。
「そうかしら? 」
新しい扇を手にとり広げると、視線を落とし確認しながらヴァイオレットは呟いた。
「そうだとわたしは思いますよ。
けど、遅いですね?
お嬢様の言うとおり、こんなこと今までにありませんでしたね」
仕事を終え、時間を確認すると、メイドも首を傾げる。
「いかがいたしましょう?
そろそろお時間ですけど」
「いいわ、別にお養父さまに見ていただかなくても、どうってことなくてよ」
むしろその方が自分の好みに合わないものを押し付けられなくて都合がいい。
「もしお養父さまがいらしたら、先にホールに向かったと言ってちょうだい」
言い置いて部屋を出ようとした。
「ボナローティ侯爵のご令嬢はまだこちらですか? 」
ドアの向こうから聞き覚えのない声がする。
「今向かってよ」
てっきり時間になってもホールに現れないヴァイオレットを迎えにきたのかと思って声を掛ける。
「いえ、そうではありません」
ドアを開けるとこの王城で働くメイドが立っていた。
「実は先ほど報告が入ったのですが、侯爵が……
ボナローティ侯爵がこちらへ向かう途中、何者かの襲撃に遭いお怪我をされたと」
言う、メイドの顔が青ざめている。
「何ですって? 」
ヴァイオレットの顔が思わず引きつった。
「それで、お養父さまの状態は? 」
「いえ、それまでは私どもも伺っておりませんので…… 」
メイドは目を伏せる。
嫌な予感がした。
あの養父のことだ、かすり傷どころか多少の傷なら無理をしてでもこの大舞台に現れるはずだ。
それが姿を見せずにこうして知らせだけが来るということは、相当重症と思っていい。
知らずに血の気が引く。
「いいわ。
自宅に戻ります」
ヴァイオレットは唇を噛むとドレスの裾を捌き、部屋の中にいたメイドに向き直った。
「お嬢様? 舞踏会はどうするんですか? 」
メイドが声をあげた。
「それどころではなくてよ。
それにわたくしこの顔で人前に出られると思って?
とにかく馬車の用意をしてちょうだい」
半ば叫ぶようにヴァイオレットは言った。
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
「お嬢様、馬車の用意ができました」
部屋を飛び出していったメイドが戻ってくると告げる。
その言葉にヴァイオレットは部屋を飛び出し、馬車のつけてあるエントランスの階段を駆け下りた。
舞踏会の為に集まってきていた招待客がちらほらと見える。
「ヴィオラ? 」
階段の中央辺りですれ違った男に声を掛けられた。
「あ…… 」
その顔にヴァイオレットは声をあげる。
「セオドア、さま? 」
「どこへ行く気だい?
もうすぐ時間だよ」
「ごめんなさい、緊急を要することができてしまいましたの」
足を止める時間ももどかしく答える。
「何があったんだ? 」
青ざめたヴァイオレットの顔色に気付いたようにセオドアは訊いてくる。
「養父が……
いいえ、なんでもありませんわ」
言いかけてヴァイオレットは口を閉ざす。
今言ってはいけない話題なのは充分に理解している。
「お嬢様、お急ぎください」
それを後押しするようにメイドの声が掛かった。
「失礼しますわ」
男の制止を振り切ってヴァイオレットは馬車に乗り込んだ。
走り出した馬車の中でヴァイオレットはじっと膝の上の扇を見つめる。
正直、養父は嫌いだ。
特にあの冷たい青い瞳は。
見つめられるだけで背筋が凍りつきそうな恐怖に襲われる。
あの瞳に見据えられるだけで、何度この瞳がなくなってしまえばいいと思ったかわからない。
けれど……
けれど、それ以上に怖いものがある。
あの……
あの場所には二度と戻りたくはない。
そのためにはまだ、どんなに怖くて恐ろしくても、あの伯父にすがるほかはない。
ずっと、その思いだけを抱えて生きてきた。
そう、あの館に引き取られた、あの日から……
ヴァイオレットは膝に乗せた扇を持つ手を握り締めていた。
馬車は王都の中にある貴族の館の集中する地区に走りこむ。
背の高い豪奢な建物が両側に並ぶ道を暫く走ると、やがてその中でもとりわけ豪華な一軒の舘の前で馬車は止まった。
大理石の巨大な二本の柱に支えられた玄関ポーチが、来るものを拒むかのような威厳をたたえて聳え立っていた。
馬車を降りたヴァイオレットはその柱を言葉なく見上げる。
衝動的にここまで来てしまったけれど……
今日は養父にとってとても大切な日だったはず。
それを放棄してここまで来たなどと養父が知ったら、きっとまたあの瞳で見据えられ怒鳴られるだろう。
「お嬢様? 」
付き添ってきてくれたメイドが、足の止まってしまったヴァイオレットに呼びかける。
「しっかりなさってください」
青い顔で立ち尽くしてしまった主は余程ショックを受けた、とでも思ったのかも知れない。
励ますように言ってくれた。
「ええ、大丈夫よ」
ヴァイオレットは息を一つ吸うとエントランスへ足を踏み入れた。
すぐに現れるエントランスのステアケースを上る。
領地の広大な邸とちがい、王都に長期間滞在するために用いられているここは玄関も階段も規模が小さく全てが狭苦しい。
それでも小さいなりに養父はそのしつらえには金を掛けている。
大理石の柱、オーク材の階段の手摺。
壁板には彫刻が施され、所々に異国の壷が並ぶ。
寄木細工の床を擦るヴァイオレットのローヴの音だけが廊下に響く。
「お養父さま! 」
部屋へ駆け込むなりヴァイオレットはベッドの上の人物に呼びかけ、次いでこれ以上ない冷たい瞳に睨まれた。
壁と家具調度が赤と金で統一されたその部屋で、男の青い瞳は一段と強く浮いて見える。
ヴァイオレットは思わず足を竦ませた。
「何をしにきた?
今お前のいる場所はここではないだろう」
男はその冷たい瞳をヴァイオレットに向けたまま強い口調で怒鳴る。
その瞳と言葉はヴァイオレットの気を滅入らせる。
この男は……
やっぱりこんな時でさえ、自分のことしか考えていない。
「お養父さま。
お怪我の様子は? 大丈夫ですの? 」
それでもヴァイオレットは気を取り直し、ベッドの傍らに歩み寄るとその顔を見ながら訊いてみる。
「ああ、大したことはない」
横になっていたベッドからゆっくりと躯を起すと、ボナローティ侯爵はようやく言う。
額に巻かれた白い包帯が痛々しい。
「それより、なんだってこんな時に戻ってきた? 」
男はその冷たい瞳でヴァイオレットを見据えもう一度言う。
「お前には、今やらなくてはいけないことがあるはずだ。
儂の監視の目が届かなくともそれくらいはやってもらわねば…… 」
かなり痛みがあるのだろうか、男は言いながら顔をしかめ包帯の巻かれた頭部を手で抑える。
普通の娘ならここでいたわりの言葉を掛けるべきなのだろうが、それがこの男の神経を逆撫ですることはわかっていた。
「確かに……
確かにそうですわね」
ヴァイオレットはその視線から逃れようとするかのように顔を背けながら呟く。
「娘が、父親の怪我を耳にしてその様子を心配してどこがいけませんの?
例えどんな時でもそれが普通の対応ではなくて?
わたくし、そのように薄情な娘だとあの場に居並ぶ方々に思われたくありませんわ」
次いで思い返したように男を見据え返すとはっきりとした口調で言う。
「そ、そうだな……
こんなことで殿下方の不評を買っては仕方がない」
ヴァイオレットの強い瞳に、何かうろたえたような様子で男は答えた。
「お嬢様、旦那様には休養が必要だと医師が申しておりましたので…… 」
話の途切れたところで、遠慮がちに家令が申し出た。
「ええ……
お養父さま、ご無理はなさらないで下さいね」
促されてヴァイオレットは侯爵を残して部屋を出る。
「どうしてこんなことに…… 」
とりあえずパーラーへ入ると、後を追ってきた家令に訊く。
ここもまた養父の寝室と同じく赤と金の装飾で壁も家具も統一されていた。
先ほどの寝室の落とされた照明よりも明るく照らされた室内は目に痛い。
「私もご同行していたわけではありませんので、詳しいことはわかりませんが。
王城へ向かう途中で馬車が数人の男どもに取り囲まれ、襲われたようです」
家令は目を落とす。
「王都も物騒になったものですわね…… 」
ポツリとヴァイオレットはこぼす。
何であれ派手好きな養父は、馬車一台とっても贅を尽くしてある。
馬車を引く馬一頭とってもひと目でわかるいい馬だ。
金目当ての連中に襲われても無理はない。
「いいえ、お嬢様……
そうではございません。
犯人は旦那様の財布どころか、馬車にしろ馬にしろ全く手を出しておりませんでした。
金銭的被害がなかったことから、狙いは明らかに旦那様だったと思われます」
家を預かる老人は淡々と話す。
その言葉にヴァイオレットは声なく息だけを吐く。
この家をこれだけの財力で維持している養父のことだ、どこかで無理が生じていてもおかしくはない。
他人の恨みも相当買っているだろう。
起こるべくして起こったとしか言い様がない。
「命に別状はないのね? 」
「はい、幸い市内を警備している軍の方々がすぐに発見して助けてくださったとかで、足の骨折と数箇所の打撲、軽い切り傷で済みました。
頭の包帯もすぐに取れるとのことです」
その言葉にヴァイオレットは一つ息をつく。
「そう…… 」
睫を伏せ視線を落とすとヴァイオレットは立ち上がる。
「王城へ戻りましてよ」
「お嬢様? 」
その言葉に家令は目をしばたかせる。
普通の家の娘なら、心配だからと強引にでも泊まってゆくところなのだから、家令が妙な顔をするのも頷ける。
「わたくしがここに居ては、却ってお養父さまをまた苛立たせるだけですもの」
その言葉に納得したかのように家令は大きく頷いた。
「お養父さまのこと、お願いできて? 」
「はい、それはもちろん…… 」
頭を下げる家令に背を向けるとヴァイオレットは侯爵邸を後にした。
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
眠れぬ夜を過ごしてうとうととしたのは、明け方近くになってからだった。
そのせいで、目覚めた時には日が完全に昇っていた。
にもかかわらず、城の中はしんと静まり返っている。
それも無理からぬことで、ヴァイオレットが城に戻った時、まだ舞踏会は終わってはいなかった。
とはいえ相当遅くなってしまっていたこともあり、今からサルーンへ顔を出す気にもならず、そのまま部屋に戻るとベッドに潜り込んだ。
選定会終了間近の、国王主催の舞踏会。
それがどんな意味を持っているのかはわかっている。
それを思うと胸が締め付けられた。
だから昨夜、養父があんな態度を取ったのも承知している。
重く感じられる身体を起こし、ベッドを下りる。
呼びつけたメイドに手伝ってもらい身なりを整えるとパーラーへ向かった。
ドアを開けると、いつもの席でいつものようにお茶をたしなむ数人の少女の顔があった。
「夕べはどうなさったの? 」
ヴァイオレットの顔を見ると早速訊いてくれる。
「ええ、ちょっと…… 」
曖昧に答えてその輪の中に入る。
この様子では昨夜の事件は、少なくともサルーンにいた人々は知らないようだ。
もしもあの場所で話が出ていたらあっという間に広がってしまっていたはずだ。
そのことにほっと息をつく。
こんなことで質問攻めにされては敵わない。
「聞いてくださる?
昨日のお話」
向かいに座った少女は何かを言いたくて仕方のない様子で口を開く。
「どうかなさったの? 」
差し出されたお茶のカップを受け取りながらヴァイオレットは首を傾げた。
「それが、程いお話ですのよ。
第二王子のライオネル殿下、すでにファーストダンスをサシャ様と踊っているレディ・アレクサンドリーヌをファーストダンスにお誘いになったの」
「サシャ様のお相手はレディ・アイリスではありませんでしたの? 」
事前の様子ではそれ以外に考えられなかった。
「アイリス様はお休みでしたのよ。
なんでも先日から体調を崩されてお熱が下がらないとかで…… 」
カップを傾けつつ別の少女が言う。
「それにしてもどうしてレディ・アレクサンドリーヌばかりなんでしょう?
アーサー殿下はレディ・セフィラとファーストダンスを踊った後どちらかに消えてしまうし」
「ええ、わたくしもファーストダンスとは言わなくても一曲くらいはお相手していただきたいと思っていましたのよ」
少女達はそれぞれに抱えていた不満をヴァイオレット相手に一気に漏らす。
「わたし気になっていたのですけど…… 」
一人の少女が言いかけてふいに口を閉ざした。
「どうかして? 」
自分に対して何か言いたそうなその顔を、ヴァイオレットは覗き込むように視線を動かして訊いた。
「セオドア様、昨夜は結局誰とも踊らなかったようですのよ」
その言葉にヴァイオレットの鼓動が一つ大きく跳ねた。
「何かの間違えではなくて? 」
無意識に震えそうになる声に気付き、ヴァイオレットはそれを抑えた。
「いいえ、ダンスを踊っていらっしゃるセオドア様は特別に目立ちますもの、間違えありませんわ」
「ええ、わたくしがお見かけしたときには、サルーンの入り口付近でどなたかを待っていらっしゃるようなご様子でしたの」
「それ、わたくしも見ましたわ」
昨夜の舞踏会では、ファーストダンスのパートナーは王子が自分の意中の相手を国王に紹介する意味も持っていた。
そんな大事な局面で、どうしてセオドアは誰も指名しなかったのか?
妙な疑問と共にどこかしら安堵に似た感情がヴァイオレットの脳裏を掠めた。
「それで、わたくし明日にはここを辞すことにいたしましたの」
一人の少女が言う。
「あら、残念ですこと。
せっかくお友達になれましたのに…… 」
誰か他の少女の言葉が続く。
「ありがとう。
でもこちらにいても、もう見込みもありませんし、父からも早く戻るように言われていますの」
少女は残念そうに息を吐く。
すでに最終日までいても無駄だと本人も踏んだようだ。
「わたしはもう少しこちらに残りますのよ。
王子様のお相手は無理でも、ここにいるほうが夜会に足しげく通うよりもいいのではないかと、両親が言うものですから。
レディ・ヴァイオレットはどうされますの? 」
「わたくし? 」
問われてヴァイオレットは口を閉ざす。
多分このまま戻ってもあの養父の機嫌を損ねるだけなのはわかっている。
ならばギリギリまでここにいて、一応努力した事実だけでも見せておくほうがいいのかも知れない。
正直王子の相手が決まってしまっていると聞いてもなんの感情も起こらない。
ただそれを事実として淡々と受け止めている自分にヴァイオレットは気付いた。
「君には恋愛は無理だよ…… 」
いつかセオドアに言われた言葉が蘇る。
「わたくしはもう暫く滞在しようかしら。
家に帰っても退屈なだけですもの…… 」
ヴァイオレットはやんわりと微笑んだ。
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