たとえばこんな、御伽噺。

弥湖 夕來

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舞台裏の夜啼鳥(ナイチンゲール)

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 少女達は言葉どおりその翌日辺りから一人二人と姿を消し、晩餐のテーブルを囲む人数が少し寂しくなった。
 
 そのせいか、これまで頻繁に行われていた観劇や内輪の夜会といった催し物、個人で行っていた茶会も数を減らす。
 
 本当はもう帰ったほうがいいのかも知れない。
 窓辺に寄せた椅子の上で広げた本に視線を落としながらヴァイオレットは思う。
 何時までもここにいてもなんの進展もない。
 
 現にこれまでは時折姿を表していたアーサーがめっきり顔を出さなくなった。
 それに、セオドアも…… 
 
「お嬢様、そろそろ出立のお時間ですが、お見送りなさいますか? 」
 部屋の入り口から遠慮がちにメイドの声がする。
「今向かってよ」
 答えると膝の上の本を閉じ立ち上がる。
 
「本当に帰ってしまいますの? 
 残念ですこと」
 馬車のつけられた玄関でヴァイオレットは少女と向かい合うと少し悲しそうに顔を曇らせる。
「またすぐに、どこかの夜会で会えましてよ」
 少女は穏やかな笑みを浮かべる。
 この会に参加したものの最初からそのつもりはなかったのか、気落ちした雰囲気はかけらもない。
「ご一緒できて楽しかったわ」
 ヴァイオレットは気を取り直すと馬車に乗り込む少女に笑いかけた。
 走り去る馬車が見えなくなるまで見送ると、ヴァイオレットはゆっくりと部屋へ足を向ける。
 歩み始めた行く先を、大ぶりの人影が遮った。
 その顔を目にヴァイオレットの足は思わず止まった。
 
 先日の怪我で動けないはずの養父がヴァイオレットの行く手を塞ぎ、かつて見たことのないもの凄い形相で睨みつけている。
 恐らくは医者に止められるのも聞かずに飛び出してきたのだろう。
 包帯の取れたばかりの頭部にはこめかみの辺りにはっきりと見て取れる切り傷があり、片手で杖をついていた。
「お、養父さま…… 」
 これから何が起こるのかを察したヴァイオレットの呼びかけは恐怖で声にならない。
「お前は…… 
 一体ここで何をしていたんだ? 」
 顔を上げた娘と視線が合うと、男が搾り出すように言う。
 相当怒りが頂点に達していると見えて、その声はまるで獣が唸っているようにさえ聞こえた。
 養父は冷たい瞳のままヴァイオレットを見据える。
 いつもの冷たい視線が、更にその冷たさを増し、ヴァイオレットはそれを見ていることさえできずに視線を逸らす。
 すると男はつかと歩み寄りヴァイオレットのドレスの胸元を掴んだ。
 男は乱暴な動作で己の方を向かせ、その瞳を覗き込む。
 
「王子は隣国の公女に掛かりっきりという話ではないか! 」
 
 搾り出すようにでもはっきりとヴァイオレットに言う。
 
「それは…… 
 わたくしのせいではありませんわ」
 逃げられないとわかっていながらもヴァイオレットは首だけを回せるだけまわして男の視線から逃れようとした。
 身体が自分でもはっきりとわかるほどに震える。
 
「儂が…… 
 儂が今度の為にどれだけお前に手を掛けてきたと思う? 」
 男はそれを逃すまいとするように更にヴァイオレットに顔を近付ける。
 
「や…… 」
 恐怖で身体が動かなくなるばかりか、声すら出ない。
 
「この! 」
 男の手にしていた杖が頭上に振りかざされ、ヴァイオレットは思わず身体を硬直させ目をぎゅっと瞑る。
 
「ここをどこだとお思いですか? 」
 背後からどこかできいたことのある、落ち着いた声が響いた。
「……! 」
 その声に男は視線をヴァイオレットの背後に走らせ顔を引きつらせた。
 握り締めていたヴァイオレットのドレスの胸元を離し、同時に振り上げた杖を降ろす。
 
「王宮の廊下の真中で、やっていい行為とは思えませんがね」
 声がため息混じりに言う。

「もう、いい加減にしてやってくださいませんか、侯爵…… 
 自分の娘をこんなに怯えさせてどうするんですか? 」
 声の主は男に非難の篭った言葉を向けながらゆっくりと近寄って来る。
「あ、あなたは…… 」
 侯爵の声が更に狼狽する。
「今日は、ここまでにしておこう。
 いいな、まだ時間はある、努力を怠らんことだ」
 言い置いて侯爵はうろたえた様子のまま慌ててその場を後にした。
 
 男の後ろ姿を目にヴァイオレットはその場に崩れ落ちる。
 自分を掴みあげていた男の力から解放され、その安堵感からか全身の力が抜けた。同時に吊り上げられていた支えを失ったことで立ちつづけることすら不可能な状態になっていた。
「侯爵、後日ご自宅にお伺いしますよ。
 お願いしたいことがあるので」
 男は廊下に飛び出した侯爵に届くように声を張り上げた後、そっとヴァイオレットに近寄る。
「立てるかい? 」
 先ほどとは違った柔らかな声が向けられると、目の前にそっと手が差し出された。
「あ…… 」
 
 恥ずかしいところを見られてしまった。
 
 そう思うと返事どころか顔を上げることもできない。
「しっかりするんだ。
 君はこんなことでどうにかなる娘ではないだろう? 」
 両脇の辺りに手が差し入れられると、そっといたわるようにしながらも引き上げられる。
「こんなところでこんなに取り乱して、誰かに見られたらどうするんだ? 」
 足が床につくと正面にセオドアの顔があった。
 
 なんと言っていいのか、どう対応していいのかわからずに、声さえも出ないでその顔を見る。
 ふと脇に差し込まれていた男の片腕が外されたと思ったら、その手で顎を掬われた。
 次いで男の顔が寄せられると唇が重なる。
「や…… 」
 その衝撃はヴァイオレットを覚醒させるには充分だった。
 目を見開いたまま男の頬をひっぱたく。
「さすがは、私の歌姫だ」
 男は想定内とでもいいたそうに叩かれた頬に軽く自分の掌を這わせながら呟くとヴァイオレットを見つめる。
 
「わたくし、謝らなくてよ! 」
 目を見開いたまま茫然と言うと、ヴァイオレットもまた駆け出した。

 この男と唇を合わせるのは初めてではない。
 唇どころか肌だって何度となく合わせてきた。
 だけど…… 
 きっぱりとその関係は解消したはずだ。
 このまま、だらだら流されて良いわけがない。
 
 足を急がせながら、ヴァイオレットは唇をかみ締めた。
 
 
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
 
 あの男に躯を開いたのは、ただ後腐れない関係でいられると思っただけではないと思う。
 現国王、王弟ノブフィオーレ公爵の嫡子。
 これだけの身分のものであれば、よしんば関係があの養父に事が露見した時に大事にならずにすむと計算していた自分がどこかにいるのだ。
 
 だけど…… 
 
 それとはまた全く別な異質な何かが…… 
 
 ヴァイオレットは無意識に胸元に運ばれた手を握り締めている自分に気がついた。
 
「お嬢様? 」
 声を掛けられ顔を上げると何時の間にかメイドの姿がある。
「全く進んでいないようですけど…… 
 申し訳ありません、切らしていた色糸でもありましたか? 」
 ヴァイオレットの膝の上に刺し掛けで広げたままになった刺繍のフレームを目にメイドが謝る。
「いいえ。
 ただ飽きただけでしてよ」
 ヴァイオレットはわざと欠伸を漏らして見せた。
 
「そうですよね。
 最近めっきり催し物も少なくなりましたし、お帰りになったお嬢様もいて、お茶会の回数も減っていますものね。
 刺繍や読書の時間が自然に増えていますもの」
 メイドは苦笑する。
 
「それは? またドレス? 」
 メイドが運び込んできた箱にヴァイオレットは首を傾げて見せた。
 聞かなくても箱の形状で中身はわかっている。
「新しいデイ・ドレスだそうですよ。
 お嬢様に着古したドレスを着せて置くわけにかないからと。
 今お邸から届きました」
 メイドが頷く。
 
 この状況になってもまだ娘を派手に着飾らせておきたいのかと思うと呆れるを通り越し、ため息をつく気にもなれない。
 
「それから…… 
 ドレスと一緒にお邸から、連絡がありました。
 旦那様の包帯が取れ、外出していいとお医者様から許可が出たそうですよ」
「そう? 知っているわ…… 」
「どこでお聞きになったんですか? 」
 メイドが驚いたように首を傾げた。
 聞くも何もない、先日その養父自身に会って叱責されているのだから。
 その時のことはメイドに話していなかったから、驚かれても無理はない。
「良かったですね、お嬢様」
 心底安堵したような笑みを浮かべてくれた。
「良かった、のかしら? 」
 その言葉にヴァイオレットはポツリと呟く。
「何を仰っていらっしゃるんですか? 
 あの時のお嬢様はお怪我をなさった旦那様ご本人より青いお顔をなさっておいででしたよ」
「それは…… 
 怖かったのよ」
 そっとヴァイオレットは呟く。
 
 そう、怖かったのだ。
 
 あの…… 
 あの場末の劇場の暗くて寒い裏手の楽屋の隅。
 終日、酒びたりの実父。
 誰にも構ってもらうことなく、真冬でも薄い下着のようなワンピース一枚で空腹のまま置かれた。
 寒さと空腹で手足がちぎれるほどの痛さに襲われ、唯一そこから逃れられる方法である眠りにつくことさえできなかった。
 
 あの場所には二度と戻りたくはない。
 
 ヴァイオレットは無意識に握り締めた手に力を込める。

 少なくともここには暖かなベッドと空腹を満たすには充分な食事がある。
 誰に構ってもらえなくても、叱責されても少なくともあの場所よりはマシだ。
 
 そのためにはまだ、どんなに怖くて恐ろしくても伯父であるあの養父にすがるほかはない。
 
 それだけを考えていた気がする。
 
「わたくしはね…… 」
「はい? 」
「わたくしはきっと国一番の親不孝で恩知らずな、自分勝手な娘なのよ」
 
 こんなによくしてもらっても、それを全くありがたいとも思わない。
 ただただ日々の養父の言葉に憎悪だけを募らせてゆく毎日。
 それでもこの状況をから逃れようとは思わないのは、ただ自分の保身の為だけだ。
 
 ふいに呟いたヴァイオレットの言葉は、メイドには何のことだかわからなかったようだ。
 僅かに首を傾げたものの、黙り込む。
 
 狭い室内に妙な沈黙が流れ始めたとき、ふいに廊下の方が騒がしくなった。
 慌しく駆けてゆく足音がいくつか続く。
 しかし妙なことに話し声が全くない。
 その上、この棟には少女達の居住まいしている部屋が続くため、めったにしない男の靴音が混じる。
 
「どうしたんでしょうかね? 」
 部屋に流れ始めた空気を払拭させようとでも言うようにメイドが首を傾げると、様子を探るように補足ドアを開けた。
 
 足音はヴァイオレットの部屋を通り越し明らかにその奥の部屋に駆け込んでゆく。
 その部屋は確か…… 
 先日から臥せっているセオドアの妹、アイリスの筈だ。
 
 妙な胸騒ぎがしてヴァイオレットもまた立ち上がると、メイドの開けたドアに向かう。
 同時にそこを通りかかったセオドアの姿を見つけた。
 
「セオドア? 」
 明らかに何かあったと見え、めったに見せたことのない厳しい表情をした男にヴァイオレットは反射的に声を掛けた。
「どうかして? 」
 名前を呼ばれ足を止めた男にヴァイオレットは訊ねる。
「え? ああ、いや…… 
 なんでもない。
 君が心配することはないよ」
 表情を曇らせたままセオドアは曖昧に答える。
「悪い、今急いでいるんだ」
 そして、それだけ言うと男は立ち去ってしまう。
 
「あんなに、慌てていらして『なんでもない』訳がありませんよね」
 ヴァイオレットの背後でメイドが首を傾げた。
 
 
 翌朝、ダイニングに下りて行くと部屋の中は異様にざわついていた。
「お聞きになりまして? 」
「レディ・アレクサンドリーヌ。
 髪を切っておしまいになったんですって」
 話題の主は王妃の妹のようだ。
「それも肩の辺りからですって」
「どういう心境の変化なのかしら? 」
「あんなにお綺麗な髪をよく切る気になりましてよね? 
 勿体無いこと…… 」
 聞くともなく耳を傾けていると、どの口からもその話題しか出てこない。
 
 誰もがそれを目にすれば一度は欲しいと思うほどの見事な蜂蜜色の長い髪を惜しげもなくばっさりと切ったとなれば、暇を持て余しているここの少女達にとっては恰好の話題になる。
 
 しかし、その事実と昨日のセオドアのあの顔はどうしても結びつかない。
 
 ……何か他のことが起きているような気がする。
 騒ぎになったのはアイリスの部屋の筈だ。
 しかしアイリスのことは誰の口にも上らない。
 それとも、この件には単なる気まぐれとかではなく、髪を切った本人以外の誰かがかかわっているとか。
 
 ぼんやりと思うが、それを口に出すほど無作法をしようとは思わなかった。
 
 
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