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◆◇◆ ◆2◆ ◆◇◆
 
 
 息を切らしながら急な階段を上りきるとリュシエンヌは息をつく。
「もういいですよ、お嬢さん。
 後はあたし一人でもできますから。
 ありがとうございました」
 抱えてきた洗い終えた洗濯物の籠を受け取りながら下働きの女が頭を下げた。
 館の片隅にある物見櫓を兼ねた塔の上空を風が吹きぬけ、既に干しかけになっているリネンのシーツが翻る。
 塀や建物に囲まれた中庭より風が通る上に屋根もあり、この場所は洗濯物の乾きが早い。
「そう? 」
 ポケットの中からパンのかけらを取り出しながらリュシエンヌは壁際に身を寄せ周囲を見渡した。
「無駄ですよ、お嬢さん。
 どういう訳か、最近小鳥はさっぱり寄り付かないんですよ」
 女の言葉どおり、いつものようにこの場所でパンくずを広げるとすぐに集まってくる小鳥の姿が今日は一羽もいない。
「どうしたのかな? 」
 呟くリュシエンヌの視線の先を一羽の鳥が横切った。
「またあの鳥ですよ。
 最近この辺りをうろうろしてて、近所に巣があるみたいなんです。
 何処から来たんでしょうね? 」
 めったに見たことのない大柄な種類の鳥に女は首を傾げた。
 ジュリアスの置いていった隼は人馴れしているとは言っても不用意に見知らぬ人には近付かない。
 ただリュシエンヌのことを見守るかのようにいつも見える場所を舞っている。
「そういえば、あの鳥が姿を見せるようになってから小鳥が姿を見せなくなったんですよね」
 洗濯を干す手は休めずに女は続ける。
「そう、なの? 」
 普段目にしている愛らしい姿をみられないのは少し悲しいけど、ジュリアスの置いていってくれた鳥が側にいるのは何処となく嬉しい。
 リュシエンヌはパンをポケットに戻すと、足元に置かれた籠の中から洗濯物を引っ張り出し広げ始めた。
「ああ、いいんですよ、お嬢さん。
 あたしの仕事なんですから」
 女が慌てふためいてリュシエンヌの手から洗濯物を引っ手繰る。
「でも。二人でやったほうが早いでしょ? 
 どうせここまで登ってきてしまったんだから、手伝わせて? 
 アンはまだ他にも仕事があるんだもの」
 この館の人手不足は充分承知している。
 使用人の仕事は幾つこなしても終わりがない。
「じゃぁ…… 大奥様には内緒にして下さいね」
 遠慮がちにそう言うと女は手早く洗濯物を干しに掛かる。
「あら、お客さんみたいですね」
 見晴らしのいいこの場所からだと邸の周囲がほとんど見渡せる。
 声につられて振り返ると邸の正門に通じる道を一台の馬車と数頭の馬が向かってくるところだった。
「何? 」
 既に見慣れたものになっている戦支度をした騎士や歩兵ではなく、ふらりと立ち寄る旅の人間でもないその様子にリュシエンヌは瞳を揺らした。
 明らかに貴族の使う馬車を護衛に護らせた一行がこの邸に近付くわけがないのだ。
「わたし、様子を見てくるね」
 乾しかけの洗濯物を女に押し付け、リュシエンヌは塔の中の階段を駆け下りる。
「できるだけ早く迎えにいくから」
 一瞬あの晩のジュリアスの言葉が脳裏に蘇る。
 できればそうあって欲しいと思いながらも、どこか冷静な自分がそうではないことに気が付いていた。
 
「おばあ様? 」
 エントランスに飛び込むと、既に知らせがきていたのか、祖母が背筋を伸ばし立っていた。
「何も心配することはありませんよ、リュシエンヌ」
 孫娘を安心させるかのように言う祖母の顔は普段より一段と厳しさを増していた。
 握り締めた拳が白くなっている。
 それでも老婦人は馬車の一行が入ってくる正門を真直ぐに見つめていた。
 
 程なく、一人の男がエントランス正面に止められた馬車から降りてきた。
「誰? 」
 華やかな貴族の正装を纏った見たことのない初老の男を目にリュシエンヌは不安を募らせ、毅然と立つ祖母を見上げた。
 服装のせいだろうか、どこか亡き父を彷彿とさせる男は二人の前に真直ぐに進み出ると徐に膝を折る。
 礼をつくして下げた頭を上げると、その瞳はリュシエンヌを見つめていた。
「……前王弟、ジェラルド・クローディオ・シェンナ公爵のご息女にして、現シェンナ領主、リュシエンヌ・フローレンス・クローディオ様。
 国王陛下の命によりお迎えに上がりました」
 大げさかと思えるほどの重々しい声が響く。
 気が付くと、付き添って来た男達が膝を降り頭を下げている。
「ご冗談を。
 そんな名前の者はこの家にはおりませんよ」
 老婦人の強い声が周囲を震わせた。
 リュシエンヌがそう名乗れたのは五歳のあの晩までだ。
 あの日、その名前と共にリュシエンヌは母以外の全てを失った。
 今は縁戚として同じく財産のほとんどを召し上げられ没落寸前の母の生家である侯爵家の古い館に身を寄せるただの居候だ。
「いいえ、冗談などでは。
 このたび、隣国との和平協定のため国王陛下は亡き叔父クローディオ公爵のご遺族に領地爵位をお返しくださると決定なさいました。
 詳しくはこれにて」
 差し出された書状の封蝋には紛れもない国王の印が押されている。
「和平協定ですって? 」
 老婦人の顔が更に厳しさを増す。
「あなた方はこの子に何をさせようと言うのです! 」
 めったに見たことのない祖母の取り乱した姿にリュシエンヌの不安は更に募った。
「それは私共も存じません」
 明らかに何かを知っている様子ながら使いの男は嘯く。
「ですが事は急を要するとのことで、ご令嬢には今すぐにでも登城していただきたいとの事です」
「そんな、あまりにも急な…… 
 こちらにも都合と言うものがあります。
 こんな田舎育ちの正式な礼儀作法も知れない娘を一人で王都に向かわせるわけにはいきません。
 後日こちらから出向きますのでとりあえずお引取りいただけますか? 」
 何が起こっているのかわからないと言った様子で、不安そうに瞳を揺らすリュシエンヌを覆い隠すように老婦人はその前に立ちはだかる。
「大変失礼だが、こちらのお邸には目の離せない病人がおられるとか。
 付き添いの手配一つも大変でしょう。
 ご令嬢の事はご心配なさりませんように。
 仮にも陛下の従姉妹姫にあたるお方です、我々が警護して王都まで送り届ける手配になっております」
「ではせめて、少しお時間をいただきますわ。
 この子の支度を調えなければ」
「それには及びません。
 何分急な話である事はこちらでも承知の上です。
 お嬢様の身の回りの事は全てこちらで準備いたしますので、余計な心遣いは無用です」
 何とか時間を稼ごうとする老婦人の言葉に男は引き下がらない。
「レディ・シャルタン。
 いい加減にして下さいませんか、これは国王命令です」
 終にはしびれを切らした男のひと言に老婦人は口を閉ざすしかなかった。
「……わかりました。
 ですがさすがにこの身なりで登城させるわけには行きません。着替えをさせますので、少しだけお待ちいただけますか? 
 いらっしゃい、リュシエンヌ」
 男達をエントランスに残したまま老婦人は邸の奥へ歩き出した。
 
「おばあ様? 」
 足早に館に入る老婦人を追いかけながら少女は問い掛ける。
 何が起こっているのか全くわからなかった。
「国王陛下があなたをお呼びだそうよ。
 ……これでいいかしらね? 」
 光の入らない北向きの一室で老婦人は長持ちの中から数枚のドレスを引っ張り出して首を傾げた。
「おばあさま、このドレスはお母様のよね? 」
 そのドレスの全てにリュシエンヌは見覚えがある。
 幼かった頃、母が着ていたものだ。
 これらのドレスを纏い正装した父と連れ立って出かけてゆく美しい母を今でもはっきり覚えている。
「ユージェニーの病状の回復の助けになればと思って手放さずに置いたのだけど。
 まさかこんなところで役に立つなんて思ってもいなかったわ」
 どこか諦めたようにため息をつく。
 生活に窮し、この邸に置かれた歴史のある家具や調度品、肖像画などを売り払っても絶対に手放さなかったものだ。
「少し、大きいかも知れないけれど、直している時間はなさそうね。
 まあいいでしょう。
 少なくともその服装よりはましでしょうから」
 老婦人はリュシエンヌの村娘より質素な服装を一瞥して呟いた。
 
「ねぇ、どういうことなの? 
 おばあ様」
 駆けつけてきた料理女にリュシエンヌのコルセットを締め直させている傍らで老婦人は先ほど渡された書状を開いていた。
 その手元を覗き込むようにしてリュシエンヌは訊く。
「わからないわ。
 ここに書いてあるのは、先ほどのお使者の方のいったことと同じ事だけよ」
 リュシエンヌに見せるように老婦人はその書状を差し出した。
 確かにそこに書かれていたのは、今言われたことだけだ。
 ただ一つ、違うのは末尾に書かれた国王の正式名称のサイン。
 それがこの書状を無視できないものにしていた。
「大丈夫よ、おばあ様。
 国王陛下って言っても知らない方じゃないんだし」
 リュシエンヌは無理に笑顔を作る。
「だからこそですよ、リュシエンヌ。
 わかっていますよね」
 その言葉にリュシエンヌは頷くしかなかった。
「奥様、こんなところでどうでしょう。
 正装って言うんですか? あたしもこの手のドレスの着付けはよくわからないんですけどねぇ」
 料理女が胸飾りを縫い付けた針をしまいながら言う。
「ええ、大丈夫なようですよ。
 ご苦労様。
 さ、リュシエンヌ、いきますよ。
 ご使者の方をあまりお待たせするわけにはいきませんからね」
 少女の衣服を一瞥すると老婦人は部屋を出る。
「ありがとう、小母さん。
 いってきます。
 お母様と、おばあ様のことよろしくね」
 常に裏向きで仕事をしている料理女が正面玄関へ見送りに出てくることはない。
 それがわかっているから、リュシエンヌは簡単に挨拶を済ませると祖母を追いかけた。
「おばあ様、お母様にはなんて言えばいいの? 」
 少しだけ足を早め祖母に追いつくと、リュシエンヌはその顔を覗き込む。
 着付けをしてもらっていた間中、考えていたけれどどうしてもわからなかった。
 すぐに帰ってくるにしても、うっかり「出かける」などといえば母はまた発作を起こしかねないだろう。
 かといって半日以上家を空けるのに何も言わなければ、今度は家中娘の姿を探し回る。
 それがわかっているから、何か言い訳をと思うのだが、どう対処していいのか思いつかない。
「あの子には挨拶は無用です。
 どうせ二・三日で戻るのですからね。
 それまでは適当になだめておけるでしょう」
 真直ぐに前を見据えて老婦人は厳しい顔つきのまま呟くように言う。
 何か覚悟を決めたようなその顔にリュシエンヌはそれ以上何も言えなかった。
 
 
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