その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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「そうですか、またこじれているのですね」
 男の姿を一目見て、挨拶もそこそこに老婦人は呟いた。
「こじれるというよりは、なるようになったというべきでしょうか? 
 我が国はこれまで婚姻の契約を持って大国の保護下にあったことはご存知だと思いますが。
 その陛下の婚約者の姫君が先ごろ急死しまして、我が国は将来の王妃と共に大国の後ろ盾も失った形になりました。
 それまで手薬煉を引いていた隣国が早々に戦の準備をはじめたとの情報が入りましたので」
 男の言葉にリュシエンヌの胸が締め付けられる。
「では、今回は戦になる可能性が高いと? 」
 老婦人の顔があからさまに曇る。
「また、物資を供給しろということですね? 
 それと国境の砦とこの館への兵士達の駐屯許可をとのことでしょう」
 慣れた事とばかりに老婦人は男の言いたそうなことを口にする。
「わたくしの領地の端にある砦は自由に使っていただいて構いませんよ。
 夜盗のような妙な人間が住み着いているかも知れませんけど、適当に追い払ってしまって構いませんから。
 それと、食料もできる限りは提供します。
 ですがこの館は今難しい病人がおりますのでご遠慮ください」
「そのことなんだが…… 」
 男は顔を顰める。
「協力できぬのであれば、強制的にこの館を空けさせろとでも国王命令でも? 」
「いえ、さすがにそこまではまだ至ってはいませんが、今回はいつものような小競り合いでは済まない様子で、直この辺りは戦場になるでしょう。
 奥方様もいらっしゃいますし、避難をされたほうがよろしいかと」
 顰めた難しい顔のまま、男が続ける。
「ご忠告はありがたいく思いますわ。
 そうしたいところは山々ですが、わたくしどもには身を寄せる場所もありませんから」
 国の中央に位置する王都と違い、数分馬を走らせただけで隣国に足を踏み入れてしまう程に国境に近いこの土地は僅かな小競り合いでも戦場になる。
 既にこうなった時の覚悟を決めていたのだろう。
 表情一つ変えずに老婦人は淡々と答えた。
「それで提案なのですが」
 婦人がそう答えることは男にもわかっていたのだろう、間を置かずに次の声を発する。
「王都の向こうのヒニヨンの街外れに私の別邸があります。
 あいにくと領地からも遠い上に都に滞在することが多くほとんど使っていない邸ですが、そちらに暫く身を寄せるというのは? 
 成り行きで手に入れた小さい館で、多少手狭ではありますが、その分領地の館のように来客があるわけでもなく気がねなく過せると思いますよ」
 男の視線が心配そうに死角になっていた窓に向けられた。
 口にこそ出さないが、病人がいる以上なるべく早く避難したほうがいいと言いたいのだろう。
「いいえ…… 」
 男の申し入れに老婦人は睫を伏せて首を横に振った。
「これまでも充分に気遣ってもらっていますから、もうこれ以上お世話になるわけにはいきません。
 どの道この侯爵家はもう終わりです。
 それも運命と黙って受け入れるのもいいでしょう」
 顔をあげると毅然と答えた。
「そう仰ると思っていましたよ」
 深いため息と共に男は呟いた。
「では、これをリュシエンヌに」
 羽織っていたマントの中へ手を差し込むと小さな箱を取り出し、少女に差し出す。
「伯爵様? 」
 それを受け取っていいものかわからずにリュシエンヌは男と祖母の顔を代わる代わる見比べた。
 促すように頷かれ受け取った小箱をそっと開ける。
「伯爵様っ、これっ! 」
 納められた指輪に思わず声があがる。
 上質な銀の地金の上に精緻に施された祝福の言葉。
 貴族や裕福な商家などで婚姻の契約がなされた時に交わされる正式なリングだ。
「受け取ってくれるかな? 」
 少女の顔を覗き込んで男は訊いてくる。
 どこか不安と期待の入り混じったその顔にリュシエンヌの胸は痛む。
 あの晩のジュリアスの言葉が脳裏に繰り返され頷くことができなかった。
「驚かせて済まないね。
 もう少し経ってからと思っていたんだが、こんなことになってしまったから。
 そんなに深く考えなくていいんだよ。
 返事は後で」
 男は普段見せたことのない妙に照れた笑みを浮かべた。
「私がもどるまでいいから、とりあえず、預かってくれないかな? 
 私の婚約者なら、私の持ち物の館に身を寄せていても不思議はない。
 君もおばあ様も気兼ねせずにいられるだろう? 」
 まるで子供に言い聞かせるように優しく言う。
「いかがでしょう? 
 レディ・シャルタン。
 リュシエンヌの気持ちしだいですが、私は既婚者と言えもう何年も前に妻とは死に別れておりますし。
 リュシエンヌを正妻に迎えたいと思っておりますが」
 老婦人に向き直ると許可を求める。
「本当に、何から何まで…… 」
「お気になさらずに。
 私がしたいと思うことをしているだけですから」
 男は徐に膝まづき呆然としているリュシエンヌに向かいなおすと小箱を載せた少女の手をその箱ごと握りこむ。
「リュシエンヌは私のことは嫌いかな? 」
 顔を覗き込まれて訊かれる。
「それを私に返すかどうかは、私が戻るまでにゆっくり考えればいい。
 それまで預かっていてくれ。
 もちろん大事にしまいこむんじゃなくて有意義に使ってくれて構わないよ」
 戸惑うリュシエンヌの顔色を察してか、男は返事を待たずに立ち上がった。
「では、レディ・シャルタン。
 館はいつでも使えるようにしておきますから」
 それ以上に時間は避けなかったのか、男は馬に飛び乗ると拍車を掛けた。

「……わかっていますね、リュシエンヌ」
 その姿を見送りながら老婦人が言葉を失った少女に言う。
 その言葉はリュシエンヌに選択権などないことを示していた。
 祖母の言う答えは決まっている。
 祖母と病の母と年端のいかない娘。これまで女三人だけで暮らしてこられたのにはあの男の力添えがあってこそだ。
 しかも誰にも後ろ指を指され結婚すら望み薄だったリュシエンヌを、正妻に迎えてくれるという。
 これ以上を望んでは罰が当るほどの幸運。
 ただ…… 
 リュシエンヌの頭の中にはあの晩のジュリアスの言葉が合わせた肌の温もりや、吐息と共にまだはっきりと残っていた。
 何もかもが既に遅いのだ。
「降って来ましたね。
 入りましょう、リュシエンヌ」
 再び空に広がった鉛色の雲から滴り落ち始めた雨粒を目に、老婦人は邸のドアを潜る。
「どうして…… 」
 一人残されたリュシエンヌは男の消えた場所をぼんやりと見つめたまま、ポツリと呟いた。
 
 
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