その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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 エントランスの大扉を開けると眩しい光が目に突き刺さる。
 今日は絶えることなく雨を落す鉛色の雲がどこかへ姿を消し、明るい日差しが降り注いでいる。
 雨季の合間の晴れ間は貴重だ。
 また雨が降り出す前に片付けてしまいたいことが山とあった。
「ね? 本当にミルクとバターを貰ってくるだけでいいの? 」
 買い物用のバスケットを手にリュシエンヌは中庭の井戸の傍らで洗濯にいそしむ二人の使用人に声を掛けた。
「お嬢さんすみませんね、雑用なんかお願いして。
 本当はあたしの仕事なのに」
 忙しそうに動かす手は止めずに料理女がリュシエンヌに応える。
「気にしないで、今日中にやってしまいたいことは山ほどあるんだもの。
 せっかく出かけるんだもの、他に用事があれば廻ってくるけど」
「はい、野菜や粉は後で配達してくれるそうですから、大丈夫ですよ。
 行ってらっしゃいませ」
 女の声に送られて門を潜ると、リュシエンヌは大きく深呼吸した。
 外に出かけるのは何日ぶりだろう? 
 続く雨に降り込められ、庭に出ることどころか外出さえままならず、ずっと息苦しい気分だったから、この開放感は嬉しい。
 それでもあまりゆっくりはしていられない。
 例年雨季の晴れ間は何日も続かないのが常だ。
 油断していると夕方どころか午後にはまた雨が落ちてくる。
 それに、ここ数日ずっと気が沈んだままの状態の母は、何時発作を起こしてもおかしくはない。
 水溜りを避け、ぬかるんだ道端をスカートの裾を上げできるだけ用心深く歩く。
 こんな何時人目につくとも限らない場所でドレスの裾を上げるなど、もしこの場に祖母がいたらお小言ではすまないだろう。
 ただ、あまり酷く汚して洗濯が必要になっては、また使用人の仕事が増えてしまう。
 会計の面だけでなく、母の病状のこともあり、必要最低限の使用人しか置けない今の状況では、召し使う女達の負担をこれ以上増やすことはしたくなかった。
 
 牛や羊がのんびりと草を食む牧場を抜けるとその先に小さな家々が点在する小さな集落が見えてきた。
 かつて暮らしていた王都とは比べ物にならないほどに貧相な村だが、通りには子供達が駆け回り家の煙突からは煙が立ち上り、確かに人の息吹を感じる。
 ほとんど人気のない祖母の邸の中とは大違いだ。
 道沿いにある店先に並べられた野菜や果物の瑞々しい色。
 傍らの家の窓からこぼれてくる料理の匂い。
 何もかもが久しぶりで新鮮に感じられた。
 少しでも長くそれを堪能したくてできるだけゆっくりと足を進めていると、傍らを何頭もの馬が通り過ぎた。
「何? 」
 のどかな村には不似合いな軍備を調えた馬に乗る騎士団の姿にリュシエンヌは瞳を揺らす。
 国境付近のこの村では数年に一度はある光景だが、何時まで経っても慣れるものではない。
 また村人の畑や牧場が荒らされると思うと不安が増す。
 リュシエンヌは先ほどとは反対に足を急がせた。
 村の片隅にある質素な小屋を前で足を止めると呼吸を整えてからドアをノックした。
「まだ、何か? 
 これ以上は今日のミルクは出せないぞ」
 扉越しにどこか怒りを含んだ声が飛んできてリュシエンヌは思わず身を竦めた。
 それと同時にドアが乱暴に開く。
「あ…… 
 嬢様でしたか」
 立ちすくむリュシエンヌの怯えた顔を前にドアの向こうから現れた老人が息を吐いた。
「こんなところまで嬢様にきていただいて申し訳ない。
 この間腰をやっちまって、お邸までいくのが辛くて」
 身振りでリュシエンヌを小屋の中に招き入れると部屋の片隅に置かれた小ぶりの壷と一塊の包みを取り出す。
「ミルク、今ないって言ってなかった? 」
 先ほどの言葉とは反対に出てきたものにリュシエンヌは首を傾げた。
「ああ、あいつらにやる分はってことですよ。
 あいつら二・三日前に急に現れたと思ったら我が物顔で村に陣取って、ミルクだけじゃない粉や野菜まで買い占めていきやがるんでさ」
 老人は忌々しそうに奥歯を噛み締めると腰をさする。
 その仕草で老人が腰を痛めた原因がなんとなく読み取れた。
 
「騎士の人たちが来るなんて、何か、あったの? 」
 恐らくは収穫物どころか冬を越すための蓄えまでもぎ取られそうになり必死で抵抗したのだろう。
 この村に兵士が来るといつでも起こる騒ぎ。
 男たちは国王直属の軍人だけあって、現地調達の食料の支払いに一応金子は置いてゆく。
 しかし貯蔵品を全て持ち出されてしまっては金子など何の役にも立たない。
 金貨では腹は膨れないと村人たちは口を揃えて言う。
「さぁ? わしらにも詳しいことはわからねぇが、また戦でもはじめるんじゃねぇですかい? 
 まだ軍隊じゃねぇんで、様子見ってところじゃねぇかと思いますが、戦にならなきゃいいが…… 」
 渋い顔を隠そうともせずに老人が呟く。
「おばあ様のところにはまだ何も連絡がきていないから、大丈夫だと思うけど」
 確信はなかったけど、少しでも老人の心労が軽くなるならとリュシエンヌは口にする。
 国境沿いのこの村では常にその危険が付きまとう。
 それでも村を捨てずにこうして残っている村人には感謝以外の何者でもない。
「これ、本当に貰って行っていいの? 」
 目の前に並べられたミルクとバターに手を出せずにリュシエンヌは訊く。
「大丈夫ですよ。お邸に収める分はこのとおり確保しておきましたから。
 それで、奥様と姫様はお元気ですか? 」
 母が嫁ぐ前から邸で働いていたという老人は祖母と母をいつもこう呼ぶ。
 老人だけではない。
 村人の大半がだ。
 それだけで母がどんなにこの村の人々に愛されていたかがわかってしまう。
 今の自分の扱いとは格が違う。
「ええ、相変わらずよ」
 促されて、リュシエンヌはそれを抱えてきたバスケットに納めるといつものとおりのコインを差し出した。
「それはよかった」
 差し出されたコインを数えて老人は顔を綻ばせる。
 自分がどんなに困窮しても祖母はこういった経費への支払いを値切らない。
 むしろ領地の領民を気遣って常に相場の上を心がけている。
「奥様によろしく伝えてくだせいまし。
 男手が欲しい時にはいつでもお伺いしますからと」
「うん、伝えます。
 じゃぁお大事にね。シオン爺や。
 いつもありがとう」
 礼を言って小屋を出るとリュシエンヌは一気に駆け出した。
 ゆっくりなどしていられない。
 あの事件以来母は男を、特に戦装束を纏った人間に極度に怯える。
 もしもあの騎士達の姿が母の目に入ったりしたらまた発作を起こしかねない。
 その上にリュシエンヌがいなければ治まるものも治まらなくなる。
 
 来た時とは反対にドレスの裾が汚れるのも構わずに泥を跳ね上げ街道を駆け抜けた。
 村を抜け牧草地を駆け抜けると邸に続く坂道に出る。
 それを一息に駆け上がってリュシエンヌは足を止めた。
 時遅く開け放った門扉の向こうに一頭の軍馬が見える。
 ただその大柄な鹿毛の馬にはどこか見覚えがあった。
 恐る恐る庭に入ると、いつもと同じ男がたった今馬を下りたように鞍に手を掛けたまま邸を見上げていた。
「テニエ伯爵様? 」
 リュシエンヌは首をかしげながらも声を掛ける。
「リュシエンヌ、どこかへ出かけていたのかい? 」
 振り返った男の姿に少女は言葉を失った。
 男がいつも着てくる茶色のマントとは違う青紫のマントにはこの国の紋章が施され、その下からは銀の鎖帷子が見え隠れして鈍い光を放っていた。
 明らかに大きな剣が腰の間から見え隠れする。
「伯爵様、こちらにいらしてっ! 」
 リュシエンヌは慌てて男を玄関先の陰に引き込んだ。
 庭に面した窓のある母の部屋からここは丸わかりだ、もしこんな姿の男が目に入ったらと思うと気が気ではない。
「悪い、不用意だったね」
 それを察して男が軽く頭を下げた。
「……リュシエンヌ、なんだか雰囲気が変わった? 
 いや、気のせいか」
 少女の顔を見据えて男が呟く。
「それより伯爵様、戦になるの? 」
 男の服装にリュシエンヌは瞳を揺らす。
「耳が早いね。もう知っているのかい? 」
「今、村で訊いてきたの。
 おばあ様にお知らせしようと思って急いで戻ったんだけど、もう遅かったみたいね」
 男がこの姿で現れたことで祖母には何が起こったのか一目瞭然だろう。
「それで、レディ・シャルタンに少し話があるのだが、ご婦人はおいでかな? 」
「おばあ様ならお出かけになってはいないと思うんだけど、いらして」
 リュシエンヌは男の手を取る。
「いや、今日はここで。
 私は中に入らないほうがいいだろう」
 ちらりと自分の服装に目を走らせ、男は首を振る。
 うっかり館の中にいるところを先日のように病人に見られたらと気を使ってくれたのだろうと思うとリュシエンヌの心は痛んだ。
「じゃ、呼んできます。
 少し待っていて」
 手にしていたバスケットをその場に残し、リュシエンヌは邸の中へ駆け込んだ。
「なんですか騒々しい! 」
 エントランスのホールで祖母のいそうな場所を考えていると早々に階段の上から声がする。
「おばあ様! テニエ伯爵様が来てるの」
「わかっていますよ、窓から馬が入るのが見えましたから。
 どうして玄関先でお待たせしておくの? 
 失礼ですよ」
「ごめんなさい、おばあ様。
 でも伯爵様がそうした言って仰ったから」
「そう言うものではありませんよ。
 本当に、もう、この娘は…… 」
 老婦人はぶつぶつと言いながら階段を下りエントランスへ向かう。
 
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