その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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 透き通った真紅のジャムに金色の蜂蜜が朝陽に輝く。
 焼きたての柔らかなパンに熟成度の最適なハムやチーズ。
 ポットから上がるお茶の湯気はカップに注ぐ前からかぐわしい香りをあげている。
 テーブルの上に並んでいるのは普段のリュシエンヌの食事とはかけ離れたものだった。
 
 ただ、そのテーブルにつくのはリュシエンヌ一人だ。
 それがなんだか胸を詰まらせる。
 せっかくの心遣いを無駄にしてはと、とりあえず口に運んでみるが飲み込むのが精一杯だった。
「どうかなさいました? 」
 明らかに食の進まない様子のリュシエンヌの顔を女が覗き込んで訊いてきた。
 
「グノー婦人、こちらのお嬢さんに面会人がきているんだが」
 答えるより先にドアがノックされると衛兵らしい男の声がドアの向こうから響く。
「お客様? 」
 女の顔が不思議そうに歪んだ。
「いいでしょう。
 陛下からはお止めされていないし、お通しして」
 リュシエンヌの希望はできるだけかなえるようにとでも言われているのか女はあっさりと承諾した。
 
 程なく、ドアが開く。
「おばあ様? 」
 突然現れた老婦人の姿にリュシエンヌは思わず立ち上がる。
「良かったわ、間に合って…… 」
 孫娘の顔を前に老婦人は安堵したような笑みを浮かべる。
「おばあ様、どうやってここまで? 」
 馬車どころか馬さえ手放してしまった祖母があの辺境の館から徒歩で歩いてきたとは到底考えられなかった。
「テニエ伯爵が馬車を用意してくださったの。
 一昨日あなたが出発した後に使いがきて、一通り事情は聞きました。
 それで、今貴方の顔を見なければとうぶん会えなくなるからと」
「何、それ? 」
 祖母の言葉にリュシエンヌは首を傾げた。
 確かにジュリアスからは隣国に行くようにと簡単に言われた。
 けれどそれは暫く祖母や母の顔がみられなくなるほど長期滞在にはならないとリュシエンヌは勝手に解釈していた。
 しかし、今の祖母の物言いだと、そうではないらしい。
「あなた、まだ何も聞かされていないの? 」
 孫娘の反応に訊き返してくる老婦人の言葉にリュシエンヌは頷いた。
「いい、リュシエンヌ。
 よく聞いてね。
 あなたはこれから国王の唯一の血縁として隣国へ人質に送られるの」
 少し辛そうに眉根を寄せて、絞り出すように老婦人は話をはじめた。
「嘘よ、ね? 」
 祖母が何を言い出したのか、暫くリュシエンヌには理解できなかった。
 昨夜も肌を合わせ慈しんでくれたジュリアスがまさかそんなことするわけがない。
「嘘、だったらどんなに良かったでしょうね。
 嘘や、間違えだったらわたくしは可愛い孫娘を失わずに済むのに。
 でもね、考えても御覧なさい。
 どうして今頃になって陛下があなたに爵位をお戻しくださったのか? 
 わかるわよね? 」
「いくらわたしと陛下が従兄妹同士でも罪人の無位の娘では人質としての価値がないから? 」
「そうです。
 隣国では陛下がまだ世継ぎを設けていないことや、王家の血統を持つ陛下の親族が一人もいないことに目をつけて、和平条件として王族の誰かを自国に拘留させることを要求してきたそうよ。
 呑まなければかつてないほどの大きな戦になるでしょう」
「そんな…… 」
 重々しい祖母の声にリュシエンヌは瞳を揺らす。
「どうしてわたしなの? 」
 知らないうちに涙が浮かんでくる。
「この国の王族の血を引いて陛下にもっとも近い血筋の者は、亡き前国王陛下の実の弟の娘であるあなただけなのです。
 しっかりなさいな。
 あなたもクローディオの娘。
 この位のことで動揺してどうするのです。
 あなたの身柄にこの国の民の全てが掛かっているのです。
 民の生活を護るのもクローディオの血を引いたあなたの役目。
 わかっていますね」
 祖母の言葉に少女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「別に大したことではありませんよ。
 大国の姫君など物心さえつかないうちに他国へ嫁がされるなどよくあること。
 今までこうしていられただけでもあなたは幸せだったのですから」
「そんなの知らないわ。
 わたしは王女などではないもの。
 わたし何にも聞いてなかったの。
 どうして陛下は教えてくれなかったの? 」
 突き放すように言われ頬を濡らしてリュシエンヌは首を振る。
「ねぇ、おばあ様、どうしても行かなくちゃ駄目なの? 
 だって、お母様を一人にはできないもの…… 
 わたしの代わりに誰か…… 」
「どうやらわたくしはあなたの育て方を間違えたようね。
 仮にも王弟殿下の姫君をお預かりしておきながらその自覚を持たぬように育てるなど。
 あってはいけないことをしてしまったわたくしの落ち度ね」
 リュシエンヌの声を遮り、深いため息をつきながら言われると、さすがに胸が痛い。
 自分のわがままの為に祖母が責められるのは、違うと思う。
「ごめんなさい、おばあ様。
 おばあ様が悪いわけじゃないわ」
 リュシエンヌは肩を落とした。
「でも、やっぱりお母様を残していくなんてできないもの」
 それともう一つ。
 やっと近くにいられるようになったジュリアスと離れたくはない。
 さすがに声に出せなくて、リュシエンヌは心の中で訴える。
「これですからね。
 陛下もきっと言い出しにくかったのでしょう。
 まだ幼いあなたに泣かれるのは辛かったのだと思いましょう」
 そっと手を差し伸べて涙を拭きながら老婦人はリュシエンヌの顔を目に焼き付けるかのように見つめた。
「こんなことになるのなら、あの時あなたを伯爵に託してしまえばよかったっわね。
 これは、伯爵様にお返ししておきましょうね」
 見覚えのある小さな箱を取り出し、老婦人は残念そうに言う。
「では、あまり長い時間お母様を一人にはして置けないので、わたくしは帰りますね」
 ため息と共に再びその箱をしまいこんで立ち上がった。
「ユージェニーの、お母様のことは心配ありません。
 わたくしがついていますから。
 それに陛下も、仮とは言えご自分の名代として差し出す人質の親を無碍には扱わないでしょう。
 安心なさい。
 身体には気をつけるのですよ。
 あなたが一日でも早く戻ってこられるように、願っていますからね」
 少しでも孫娘の負担にならないようにとでも思ったのか、はっきりと言い切っると老婦人はリュシエンヌに背を向ける。
 帰ってゆくその背中は、泣いているかのように震えていた。
 
 
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆
 
 
 城のエントランス前に停められた、飾り立てて豪華な六頭立ての馬車に繋がれた栗毛の馬が軽く嘶く。
 それを前にリュシエンヌの足がふと止った。
「お急ぎください、お時間があまりありませんので」
 形式的に見送りに出てきた位の高そうな数人の老人の一人が、立ち止まってしまったリュシエンヌを促す。
 本当なら今すぐにでもここを逃げ出したい。
 そんな気持ちに駆られる。
 だけど、それができない、してはいけないことだというのはリュシエンヌが一番よくわかっていた。
「済まないね。
 本来なら君にこんなこと頼める筋合いではないのだが…… 」
 多忙な仕事の合間を縫ってきたかのように馬車が出る寸前に駆けつけたジュリアスが耳もとで囁いた。
「わかっています」
 唇を噛んで視線を合わせずにリュシエンヌは答える。
 本当は昨日祖母の前でしたように泣き出したかった。
 取り乱して、どうして自分なのかと問い詰めたかった。
 だけど、そんな子供じみたことをして嫌われるのが怖くて口を閉ざす。
「待っていて。
 できるだけ早く策をこうじて迎えに行くから」
 何か案でもあるのか、ジュリアスは自信を持った目を向けて言う。
 リュシーはその言葉に頷いた。
 
 程なくして少女を乗せた馬車はゆっくりと走り出す。
「迎えに行くから」
 そう言われたのはこれで二度目だ。
 一度目は叶わなかった。
 リュシエンヌは胸元のリングを握り締める。
 二度目だって叶えられるとは限らない。
 和平協定の為に送られる人質では国家間の状況によっては首を括られることがあることくらいリュシエンヌでも理解している。
 だからきっとジュリアスの顔を見るのはこれが最後だろう。
 そう思っただけで胸が痛くなる。
「リュシエンヌ。
 どうかしたかい? 」
 窓の外から掛かられた聞き覚えのある声にリュシエンヌは顔をあげる。
「いえ、何も…… 」
 脳裏に浮かんだ最悪の情景を振り払うように視線を向けると、馬に乗ったテニエ伯爵の顔がある。
「伯爵様、どうしてここに? 」
 思いもかけないことにリュシエンヌは目を見開いた。
「無理に頼んで姫君の護衛の中に入れて貰ったんだよ。
 いきなり誰も知らない中で一人じゃ心細いだろう? 
 国境までしかいけないけど、それまでの退屈凌ぎに位なるだろうからね」
 柔らかなグレーの瞳が笑いかけてくれた。
 リュシエンヌの不安を少しでも取り除いてあげようと言うのか、男の瞳や声のトーンは普段にも増して穏やかでやさしい。
「本当は隣国まで付き添ってやりたいところだけど。
 さすがに私たちは国境を越えられないことになっているから」
 労わるように男は続ける。
「伯爵様…… 
 あの、ごめんなさい」
 昨日の祖母の話の様子では、こうなることを知っていて、こうなることを阻止してくれようとして、伯爵はあの指輪を贈ってくれた。
 それに応えられなかったことが心苦しくて、申し訳なくて。
 リュシエンヌはただ謝ることしかできなかった。
「言っただろう? 
 私に向かって様は不要だよ。
 君は公爵家の姫君なんだから。
 毅然として前を向いておいで」
 まるでこれからのことを自覚させるように男は言った。
 
 
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