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しおりを挟む気をつかってくれたのか、部屋の中にバスタブを運び込み湯を張る重労働を女は一人でやってのけた。
ドアの外までは誰か他の人間の気配があるのだが、侍女は絶対に部屋の中へはいれずに作業を済ませる。
「陛下をお許しくださいね」
バスタブにつかったリュシエンヌの髪を梳きながら、侍女は申し訳なさそうに呟いた。
「一人娘のマルティナ王女さまを亡くされて気が立っておいでだったんです。
それなのに、重臣が余計な推測をお耳に入れたものですから……
まさかこんなことになるなんて」
困惑気味に侍女は続ける。
「ティナ様が?
亡くされたって? な、に? 」
妙な言葉が理解できなくてリュシエンヌはぼんやりと訊きかえす。
三日前マルティナを乗せた馬車は輿入れのために出立したはずだ。
「輿入れしたんじゃなかったの? 」
城の隣に建つ神殿で、嫁ぎ先の国から迎えに来た新郎の代理の者と仮の結婚式を済ませ、その日の内に旅立った。
神殿の鐘の音と祝賀ムードで沸き立った城の空気が落ち着いてからまだ一日ほどしか経っていない。
「それが、おいたわしいことに、姫様を乗せた馬車が事故にあったんです。
国境付近の渓谷で馬車もろとも谷底へ落ちたとかで、姫様はお亡くなりになったんですよ」
「そん、な…… 」
なんて言っていいのか言葉が見つからない。
あの日のマルティナの顔は今でもはっきり覚えている。
確かに嫁ぐ日、最後に顔を見せてくれたマルティナは明らかに気乗りしない様子でありながらも、元気そのものだった。
「じゃ、今日の神殿の鐘は…… 」
今まで訊いたことのない重い鐘の音はマルティナの死を悼んでのものだったのだろう。
「正直言ってしまいますとね、この婚姻をティナ姫様以上に嫌がっていたのは陛下ご自身でしたから。
重臣に押されて不承不承お決めになったお話だったんです」
侍女は気の毒そうに眉根を寄せた。
「姫様がお亡くなりになった事で、婚姻先との和平条約も白紙に戻りましたし、何より姫様を亡くされたことが耐えられなかったのでしょう。
その上、その事故は単なる事故ではなく誰かの陰謀ではとの噂までまことしやかに囁かれて、それが陛下の耳に入ったものですから。
わたくしどもだけではありませんよ。
今城中の人間が陛下のお怒りを買うのではとびくびくしています。
まさか、このような形で陛下の怒りが姫君に向くなんて…… 」
……それでも、国王の怒りが自分に向いたことで、誰かを助けることができたのなら。
マルティナならそう言うだろうか?
最後に見たマルティナの毅然とした顔が脳裏に蘇った。
壁の向こうの通路を急ぐ誰かの足音が部屋の前で止った。
軽くノックの響く音にリュシエンヌはびくりと身を硬くした。
恐らく一度ではすまない事はジュリアスで身をもって知っている。
「大丈夫ですよ、姫君」
テーブルの傍らで控えていた侍女がなだめるように言ってドアを開けに向かう。
部屋の境で下働きと思える身なりの女と二・三言葉を交わして侍女は洗い立てのシーツを持って戻ってきた。
その白さがまた昨夜の出来事を連想させる。
リュシエンヌの様子を目に侍女は抱えていたシーツを慌ててチェストの中にしまいこんだ。
「ご心配なさらなくても平気です。
陛下は今朝から遠征に出かけていますからね。
最低でも、三・四日は戻りませんから」
女の言葉にリュシエンヌはようやく一つ息をついた。
「それよりも、お食事。済ましていただきませんと」
女は困惑顔で朝食の皿が広がったままのテーブルに視線を送る。
「……もう、いいわ。
下げて」
すっかり冷めてしまったお茶のカップをテーブルに戻し、リュシエンヌは立ち上がった。
いつもなら、ここで残しておいたパンのかけらを持って窓辺に向かうところだが、その気のもならず窓の側に座り込んだ。
「でしたら、こちらだけでも、お口に入れてくださいませんか? 」
新しく入れなおされたお茶と共に、焼き菓子の乗った皿がリュシエンヌの前に差し出された。
窓から差し込む光に焼き菓子は金色に輝き、蜂蜜とバターの甘い香りが漂う。
「こ、れ…… 」
懐かしさにリュシエンヌは侍女を見上げた。
一番のお気に入りだったハニーケーキは、ここに来てから一度もお茶の席に上がったことがない。
マルティナが言うのにこの国で蜂蜜は主に薬として使われており、菓子には使わないのが一般的だとか。
「お好きだと、以前、ティナ姫さまとのお茶の時に仰っていましたわよね? 」
侍女が笑みを浮かべる。
「ありがとう」
正直食欲はなかったけれど、せっかくの心遣いを無駄にするのは申し訳なくて、リュシエンヌは皿の菓子に手を伸ばす。
一口齧ると蜂蜜の甘さが口の中に広がり、菓子は舌の上でとろりと溶け消えてゆく。
材料は同じでもレシピが違うのか、よくテニエ伯爵が持ってきてくれたものはもっと食感がしっかりしていた。
でも味は同じだ。
そんなことを思い出すと知らずに湧いた涙がこぼれ落ちた。
「どうしました? おいしくなかったですか? 」
侍女が慌てて駆け寄ってきた。
「ううん、そうじゃなくて。
なんか、凄く懐かしいような気がして……
泣くところじゃないはずなんだけど」
こぼれた涙を拭いながらリュシエンヌは女に笑いかける。
「それなら、良かったですわ。
陛下が作らせた甲斐がありました」
「陛下が? これを? 」
「ええ、もし姫君がショックで食事が咽を通らないようなら食べさせろと仰って。
料理人は異国のお菓子なんて焼いたことがなかったみたいで、妙な顔をしていましたけど」
「じゃぁ、クックにもお礼を言ってたって伝えてね」
リュシエンヌは少しだけ女に笑いかけた。
自分を弄り辱めた王が、どうしてこんな心使いをしてくれるのか、その意図がわからない。
だけど、この他人ばかりの敵国の城で、自分のことを少しでも気に掛けてくれる人がいることが感じられてなんとなく嬉しかった。
鎧戸の開けられる音にリュシエンヌは目を覚ます。
「おはようございます、姫君。
今日も届いてますよ」
窓辺で笑いかけてくる侍女が視線を送るテーブルの上にはりんごが入った籠が置かれていた。
「今日のも? 」
「もちろんです」
首を傾げて贈り主を聞く前に侍女が大きく頷いた。
「昨日は本で、一昨日はお花…… 」
チェストの上に置かれたそれらに視線を向けるとリュシエンヌはため息をこぼした。
あの日以来毎朝、国王から届けられる贈り物。
侍女に話を訊いたのか、リュシエンヌが好きなものばかり。
「国王様は、何を考えているのか、な? 」
あの日、国王は明らかに自分を辱めるのが目的で抱いた。
怒りに任せて殺す勢いで人質の下を訪れたのを、重臣に説得されかろうじて思いとどまったのだから、考えようによっては命拾いをしたのだと思う。
なのに、それから毎日、リュシエンヌの機嫌を取るかのように届けられる贈り物。
それも高価すぎて「貰ういわれはない」と突っ返すことができない程度のものばかりなのが始末が悪い。
「謝罪のつもりなんだと思いますよ。
遠征先から毎日ご命令が届くのですから、よほど気が咎めていらっしゃるのでしょう」
やんわりと侍女が言う。
「だったら、今までみたいに捨ておいてくれればいいのにね」
リュシエンヌは籠の中のりんごを手に呟いた。
ついこの間まで、ずっとそんな生活だった。
この部屋を訪れるのはマルティナと侍女だけ。
そもそもマルティナにさえリュシエンヌの存在は秘密裏にされていたらしい。
国王どころか、他の臣下さえ様子を見に来たことさえなかった。
身の回りの世話をしてくれる侍女と食事だけ与えて、適当に生かしておけばいいそんな思いがありありと伝わってくるような生活だった。
ずっと、そのままでよかったのに。
日々届けられる品物は自分の存在を忘れていないということを強調されているようで恐ろしくなる。
「皮、剥きましょうか?
それとも料理人に言いつけてパイかコンポートにでもして貰います? 」
手に取ったりんごを受け取りながら侍女が訊いてきた。
「お待ちください、陛下っ! 」
返事をする前に廊下の方が急に騒がしくなった。
慌てふためく女の声に、男女複数のいくつかの足音が入り混じる。
「宮廷育ちの姫君の朝は遅いものです。
まだベッドの中にいるものをお起こししてはおかわいそうですわ。
わたくしが様子を見て参りますからっ! 」
「そうか?
俺はそうは聞いていないが」
足音が止ると、ノックもなしにいきなりドアが開いた。
反射的に視線を向けたリュシエンヌの躯が凍りつく。
「やはり、起きていたな」
テーブルの前に立ったリュシエンヌの姿を目に国王の顔が得意げに綻んだ。
「土産だ、姫」
男は遠慮なく部屋に入り込んでくると、手にしていた鳥かごをリュシエンヌに差し出した。
「え? あの…… 」
植物の蔓を編んで造った簡素な鳥かごの中で鮮やかな黄色の羽を持つ小鳥が甲高い泣き声を上げた。
「可愛い」
戸惑いながらもリュシエンヌはその愛らしさに目が釘付けになってしまう。
「気に入ったか? 」
瞳を輝かせて籠の中の小鳥をじっと見つめるリュシエンヌの顔を目に、国王は満足そうに顔をほころばせた。
「遠征先の南方の市場で見つけた。
姫の話し相手には丁度良いいだろう? 」
その優しそうな笑顔がテニエ伯爵を思い起こさせる。
この贈り物が伯爵からの物だったら、素直に喜べるのに。
「ありがとう」
そう思いながらおずおずと礼を言う。
明らかに人の手で飼育された囀る声の美しい小鳥は、きっと高価な物だと思う。
小鳥のあまりの可愛さに「高価な物を」と突っ返したいような、それにはおしいような妙な葛藤を抱えてしまった。
「籠は後々、用意させよう。
金製がいいか? それとも銀細工か? 」
「いえっ、このままでっ」
それ以上の言葉が出てこないうちにリュシエンヌは声をあげた。
なぜか異常に上機嫌なこの様子では、リュシエンヌの言葉や表情一つで高価な物を用意しかねない。
そんな気がした。
「姫には欲がないのか? 」
男が呆れたような顔をリュシエンヌに向ける。
欲ならある。
物なんて要らない。
今すぐに国に帰して欲しい。
母と祖母の下に。
そしてジュリアスと、伯爵の少しでも近くに居たい。
願うことはそればかりだ。
でもそれが叶わないことは充分にわかっている。
もし帰れるとすれば首を落とされ、その首だけだ。
リュシエンヌはそっと睫を伏せた。
「……また、来る」
不意に掻き曇ってしまったリュシエンヌの顔に気を悪くしたのか、男は憮然とした態度で部屋を出て行ってしまった。
「さ、姫君。
食事にしましょう。
そちらのりんごはあとで料理人に姫君のお好きなりんごのパイにしてもらいますね」
急に重くなった空気を振り払うように侍女が明るい声を上げた。
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