その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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 この状態を受け入れられたら、どんなに楽になるだろう。
 食事の皿を下げに侍女が出て行ってしまうと、一人リュシエンヌは思う。
 頭の片隅には今でもジュリアスの言葉がその優しい声と共にはっきり残って何度となく繰り返される。
 その言葉さえなければ、ジュリアスを失望させることもない。
 考えるだけで胸がつまり、リュシエンヌは大きく息を吐き出した。
 膝の上で広げられることなく置かれた本にポツリと涙がこぼれる。
「いっけない、伯爵様のご本っ! 」
 今度何時会えるかもわからない、二度と返せないかも知れないとわかっていながらも借り物の本に染みをつけてはと慌ててこぼれた涙を拭う。
 気を取り直して読みかけの頁を開き文字を目で追い始めると集中できないうちに廊下が騒がしくなった。
「医師はまだか? 」
「今向かっていると連絡は入っております」
「どうして急にこんなことになる? 
 今朝まではお元気だった筈だ」
 気が立っているのか、荒い口調の会話と共に慌てたような足音が入り混じる。
 ここにきてから一度でも耳にしたことのない喧騒に嫌な予感がした。
 
「姫君、騒がしくなって申し訳ございません」
 洗濯物を抱えて戻ってきた侍女が青ざめた顔色のまま言う。
「どうかしたの? 」
「あ…… その、陛下がお倒れになったそうです」
 リュシエンヌの耳に入れていいのか侍女は一瞬戸惑ったようだったが、それでも素直に口にする。
「国王様が? 大丈夫なの? 」
「まだお医者様が到着しなくて、詳しいことはわかりませんけど。
 きっとお疲れが溜まっていただけのことだと思いますよ。
 ご心配には及びません。
 ご幼少の頃から風邪一つひかないほどお丈夫な方ですから」
 何事もないように言って女は仕事に戻っていった。
 
 
 侍女の言葉は希望的推測に過ぎなかったのか、あれから三日経ち、四日経っても城の喧騒は収まらなかった。
「姫君、お部屋を移りましょうか? 」
 お茶を出しながら侍女が訊いてきた。
「構わないけど、どうして? 」
 突然の提案にリュシエンヌは首を傾げる。
 この城がどのくらい広いかわからないがリュシエンヌに許された空間はこの一部屋だけだ。
 国王の許可なく城外どころか城の中でさえ出歩くことは許されていない。
 それはこの女が一番よくわかっているはずだ。
 だが指示を出す男はまだベッドの中から出られないらしい。
 この部屋は城の中枢近くにあるらしく、誰に聞かなくてもその様子がありありと伝わってくる。
 
「新しいあの医者、本当に大丈夫なのか? 」
「はい、熱が下がりさえすれば何とかなるという見立てです」
「前の医者はもう無理だと言っていたじゃないか。
 右手が腐り落ち、その毒が体中に回りもうどうにもならないと」
 壁の向こうを急ぐ足音と共に声を押さえた会話が聞えてくる。
「ほら、ここのお部屋は少し騒がしいですから。
 陛下がまたきてくださるまでにはもう少し時間が掛かりそうですし、本をお読みになるのでしたら集中できるように、静かなお部屋に移動しませんか? 」
 それを聞かせたくないとばかりに侍女が慌てて口を開いた。
 無理に引っ張り出したような言葉の侍女の声は上ずり視線があさっての方向を向いている。
 何かを隠しているのは明らかだ。
「事情を説明してくれる? 」
 リュシエンヌは侍女の顔をじっと見つめた。
「ですから、静かなお部屋に…… 」
「ええ、その騒がしい訳を」
 明らかにリュシエンヌの視線から逃れようとする侍女の目を逃さず見つめて強引に笑みを作った。
「その、ですね。
 陛下の病なんですが…… 
 詳しくはわたしにもよくわからないんですけど、どうやら戦場で拾ってきた伝染性の病の可能性もあるとの医者の見立てなんです。
 それでお預かりしている姫君に病が移ったらいけないということになりまして。
 こちらのお部屋は陛下のお部屋の隣ですから一応安全を期して、少し遠くのお部屋へ移っていただくほうがいいのではないかということになりました」
 隠せないと踏んだのだろう。
 女は言葉を選びながら答える。
「ここ、国王様のお部屋の隣だったの? 」
 どうりで男が臥せってから人の出入りが絶えず、病状が筒抜けになっているはずである。
「ご存知ありませんでしたか? 
 こちらは元王妃様の居室だったと申し上げたと思いますけど」
「それは聞いたけど…… 」
 まさか捕虜同然の自分をこんな城の中枢近くに置くなど考えてもみなかった。
「これは陛下の命ではなく、わたし達の一存ですから、後に何かあった場合はわたくし達が責任をとりますから」
「そう言うことなら、移動します」
 話の間にすっかり冷めてしまったお茶を手にリュシエンヌは頷いた。
 どう考えても自分の今の居場所の方が異常だし、何よりここで自分が命を落としては開戦の火種になりかねない。
 これまでの城の様子から国王の病状が相当悪化しているのは確かだろう。
 こんな時に余計な迷惑までかけたくない。
 そんな思いで精一杯だった。
「申し訳ありません。
 ここ程ではありませんけど、以前のお部屋よりましなお部屋をご用意しますから」
「ううん、あのお部屋でいいわ。
 ただ、その前に一つだけお願い聞いてくれる? 」
 女が動き出すより先にお茶のテーブルを離れると、リュシエンヌは手直にあった私物を纏め始めた。
「なんでしょう? 」
「国王様に会わせてくれる? 」
 何故か、恐らく暫くは会えないと思うと、もう一度だけ顔を見ておきたくなった。
「叶えて差し上げたいのは山々ですけど、恐らく無理だと思いますよ。
 先ほども申しました通り、伝染病の可能性があるんです。
 戦場から拾ってきたのなら無理もない話なんですが。
 ですから…… 」
 侍女は眉根を困惑気味に寄せ残念そうに首を横に振る。
「そう、なの。
 ごめんなさい、無理言って」
 その言葉に侍女の一存だけではどうにもならないことを悟り、リュシエンヌはうなだれながら謝った。
「本当に、申し訳ありません。
 準備もありますし、お部屋を移っていただくのは明日にすることにして。
 姫君、少しだけ待っていていただけますか? 」
 何かを思いついたように声をあげると侍女は部屋を駆け出してゆく。
 
 
「姫君、お待たせしました。
 陛下に会いに行きましょう」
 夜半過ぎ、何処に行っていたのか食事の用意など必要な時以外姿を消していた侍女が戻ると、声を落として耳打ちする。
 そして、何故かドアではなく壁に向かった。
「少しだけお手伝いいただいていいですか? 」
 壁際に置かれた小ぶりのカップボードを動かそうとでも言うように手を掛ける。
 小ぶりとは言え、重厚なつくりのそれは女一人の手には余る仕事のようだ。
 僅かに動かすだけで、侍女の息が上がる。
 慌てて手を貸すとようやく人一人が通りぬけられるだけの隙間ができた。
「確か、この辺りに…… 」
 カップボードの背が押し付けられていた壁を蝋燭の炎を頼りに何かを探し、次いでポケットから鍵を取り出した。
「皆さんには内緒ですよ」
 必要はないと思われる口止めをしながら見つけた鍵穴に差し込んだ鍵を回す。
 軽いきしんだ音を立てて扉が開いた。
 祖母の邸にもあったバックヤードに繋がる通路はこうした壁に窶してあることが多い。
 ただ少し違ったのは、扉の先が通路ではなく広い豪華な空間だったこと。
 暗くて蝋燭の灯りだけではよくわからないが、傍らに天蓋付きの大きなベッドの置かれた豪華な設えの部屋だ。
「ここ? 」
「昼間も言いましたけど、姫君のお部屋は以前王妃様の居室でしたから、陛下のお部屋と繋がっているんです。
 このドアは暫く使っていませんでしたから、鍵を探すのに手間取ってしまいましたけど」
 声を落として侍女が言う。
「姫君、急いで下さいな。
 すぐに誰かが戻ってきます」
 侍女に促され、リュシエンヌは足音を忍ばせてベッドの枕元に近付いた。
 むっとした薬草と肉が腐り果てたような悪臭が入り混じった匂いが鼻をつく。
 今日昼間聞えてきたあの会話が蘇る。
 視線を移すと右手には包帯らしきものが分厚く巻かれている。
 枕に頭を預けたままの男は、既に意識すらないのか身動きさえしない。
 妙な赤紫色に腫れあがった顔には脂汗が滲んでいる。
「ひっ! 」
 声にならない悲鳴が上がる。
 思わず気が遠くなりよろめいた体を侍女が抱きとめてくれた。
 気を取り直し、もう一度ベッドに横たわる男の顔を覗き込む。
「ごめんなさい」
 男の顔を見つめながら心の中でりゅしえんぬはつぶやいた。
 あれだけよくしてもらっていたのだ。
 本当なら自分の身の保身など考えずに側についていてあげるべきだと思う。
 だけど、侍女が言うように本当に流行り病だとしたら。
 せめて争いの火種にだけはなりたくない。
 無意識に男に顔に伸びた手は寸前のところで侍女に取り押さえられた。
「いけません、姫君。
 病が移ります。
  行きましょう、姫君。
 これ以上長居をしては見つかってしまいます」
 声を掛けることさえできないまま、男から引き離された。
 
 
◆◇◆ ◆◇◆ ◆◇◆ 
 
 
 窓を開けると吹き込んでくる冷たい風と共に重い沈んだ鐘の音が響き部屋に広がる。
 あれから十日。この部屋で聞く二度目の葬送の鐘だ。
 誰に聞かなくてもその鐘の音が国王の死を物語る。
「姫君、窓を閉めてくださいな。
 お風邪を召してしまいますわ」
 お茶のトレーを運んできた侍女が声を掛けてきた。
「うん、ありがとう。
 でも大丈夫よ。
 風が冷たいほうが気持ちいいもの」
 答えて女に向けた視線を窓の外に戻す。
 これでよかったんだと思う。
 もう、毎夜ジュリアスに罪悪感を持ちながら他の男に抱かれることはない。
 だけど、何故か物悲しい気がするのは何故だろう。
 ぼんやりと窓の向こうに広がる空を眺めていると、視界の端を何か大型の鳥が横切った。
「な…… 」
 いやな予感が脳裏に広がる。
 そう認識した途端、城の奥のほうから今まで聞いたことのない怒涛のような音が一気に押し寄せてきた。
 複数の荒々しい足音、悲鳴、剣の交わる音。
 中枢から少し離れているこの場所でさえもはっきりわかる喧騒。
「なんでしょうね? 見てきます。
 姫君は動かないで下さいね」
 おおよそはなんなのか見当がついているのだろう。
 侍女は顔を引きつらせ部屋の外へ走り出る。
「あのっ! 
 困るんです。
 この先には誰もっ…… 」
 その足音が消えないうちに慌てた侍女の声が響き、たった今閉まったドアが乱暴に開けられる。
 突然男に押し入られるという予期せぬ出来事に、リュシエンヌは壁際に身を寄せる。
「やっと、見つけた」
 安堵の息をこぼした声には聞き覚えがある。
 恐る恐る顔をあげると、抜き身の剣を下げた鎧姿の男。
 かつて、近衛を率いていた王弟の中でも剣の扱いが抜きん出て、王弟の信頼の厚かったという噂の人物。
「伯爵、さま? 」
 思わず口から出たリュシエンヌの言葉に男が大きく頷いた。
「いたぞ、侵入者はこっちだ! 」
 男の後を追うようにこの城の衛兵が何人も流れ込んでくる。
「だから、我が国の姫を黙って返してくれれば、私としてもこれ以上剣は交えたくないのだがね」
 呟いて男はリュシエンヌを背に追っ手に向き直ると剣を構えた。
「やめて! 伯爵様」
 いくらこの男が、剣の名手だとしても一対複数では無理がある。
 リュシエンヌは悲鳴にも似た声をあげた。
「お気遣いなら無用だよ、リュシエンヌ」
 答えた男の足元に、衛兵達が全て倒れるまでにはそう時間は掛からなかった。
 程なく、息も乱さずに、男はリュシエンヌに向き直る。
「遅くなりました、姫君様。
 陛下の命により、お迎えに上がりましたよ」
 以前と全く変わらない笑顔を男はリュシエンヌに向けた。
 
 
 
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