その溺愛は青ざめた月の見せる幻影のようで、

弥湖 夕來

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「本当に、良かったですわ。無事にお戻りになられて」
 真新しいドレスを着せ付けながら侍女が安堵の息を吐いた。
「正直言ってしまいますとね、お嬢様のお顔はもう見られないと思っていたんです。
 ですが陛下は、リュシエンヌ様は絶対に取り戻すと仰って、こちらのお部屋を片付けることをお許しくださいませんでしたのよ」
「そう? 」
 身支度を侍女に任せながらリュシエンヌはぼんやりとその場に立っていた。
 昨夜のあの別人のようなジュリアスを目の当たりにしてしまうと、侍女の言葉がなんとなく空々しく思える。
「ええ、他の客間はいろんな方がお泊りになったんですけどね。
 このお部屋だけは家具一つ動かすなとお命じになられて…… 
 やっぱり陛下のお言葉どおり、少し大きくなられたみたいですね。
 ドレスの丈も短くなっていますし、お胸の辺りもきつくないですか? 
 大至急、ドレスを新調しませんと」
 何がおかしいのか女は言いながら意味深な笑みを浮かべる。
 次いで大きく開いたデコルテに柔らかなショールをふわりと纏わせる。
「陛下も、少し手加減なさってくださればいいのに。
 これでは迂闊に人前に出られませんね」
 呆れたようにため息をこぼされ、女の視線の先にある自分の胸元を目にリュシエンヌは顔を真っ赤に染め上げた。
 白い肌に無数にばら色の花弁が浮かび上がる。
「今夜の舞踏会はご遠慮されたほうがよさそうですね」
 ため息混じりに言われ、リュシエンヌはデコルテ周りもショールをかき寄せた。
「舞踏会? 」
「ええ、戦勝記念のお祝いだそうですよ。
 隣国とはもう何年も小競り合いを繰り返していましたし、あちらの城を制圧してようやく決着がついたんです。
 ですから、皆大喜びで…… 
 何もお聞きになっていませんか? 
 てっきり陛下はお嬢様をエスコートなさるものだとばかり思っていましたのに」
 女は首を傾げた。
「あ、でも陛下はお嬢様のお体のことを考えたのかも知れませんね。
 一年近くも軟禁生活では、さぞお疲れになっていらっしゃるでしょうし」
 自分だけつまはじきにされたことになんとなく視線を落としていると、取り繕うように言われた。
「どちらにしても、お召し物は大至急手配しますから」
 言葉が過ぎたと思ったのだろう。
 女は逃げるように部屋を飛び出していった。
 
 
 部屋の中に色とりどりの布が広がる。
 下着用のリネン、コルセットの毛織物。
 ローブにするタフタやビロード。
 異国渡りの高価な絹。
 それらが全て明るい華やかな色ばかりだから、部屋中にまるで花が咲き零れたようだ。
「全て陛下がご用意くださったんですよ」
 とりわけ明るいばら色の絹地を手にうっとりと目を細めながら侍女が言う。
「お嬢様を着飾らせるには、金はいくら掛かってもかまわないと仰って」
 言葉どおり、傍らには高価な宝石をあしらったパリュールまで揃えられている。
「とりあえず、日常着だけあればよかったんだけどな」
 手近にあったレース地に何気なく手を伸ばしながらリュシエンヌは呟いた。
「お嬢様、お目が高い。
 そちらはレース織りで名高い隣国産のものの中でも最高級のものですよ」
 さっきから広げた布をとっかえひっかえリュシエンヌの胸元に充てて顔映りを見ていたタイユールが声を張り上げた。
「では、そのレースの生えるお色の生地にしましょうか? 」
 いかにも気の乗らないリュシエンヌの気を引き立てるように促す。
 リュシエンヌは睫を伏せると首を横に振った。
 
 先日呟かれたジュリアスの言葉が何度も脳裏に繰り返される。
「そのことを忘れてはいけない」
 念を入れて言われなくても忘れることなんかできない。
 もしあの時、あの封書を開かずに燃やしてしまっていたら。
 誰にも見つからない場所に慎重に保管していれば、あんなことにはならなかったはずだ。
 そう思うと胸が苦しい。
 手が血に染まったに同然の自分がこんなに着飾っていいのかと思うとせっかくの心遣いにも気が進まなかった。
 
 何度目かのため息をついていると、突然ドアの辺りがざわめいた。
「賑やかだね」
 ふらりと姿を現した華やかな男の姿に、反射的にリュシエンヌの顔が綻ぶ。
「まあ、陛下お見苦しいところへ…… 」
 侍女とタイユールは慌てて部屋中に散らかった布地を取りまとめに掛かった。
「いいよ。
 ちょっと時間が空いたからリュシーの顔を見に来ただけだし」
 ジュリアスは優雅な身のこなしでリュシエンヌに歩み寄ると、そっと額にキスを落とした。
「食が細くなっているって聞いたけど、よかった、元気そうだね」
 以前と全く変わらない優しい笑顔を向けられ、リュシエンヌは戸惑った。
 ふと先日のあのジュリアスは自分の勘違いなんだと思えた。
 いつでも優しくて穏かで、忙しい執務の時間をやりくりして国境沿いの祖母の邸まで会いにきてくれる。
 今まで知っていたジュリアス以外には考えられない。
「ずっと、建物の中から出られなかったんだし、帰ってきてもそれじゃ気が滅入って当たり前か」
 白い手が優雅に差し出される。
 おずおずとその手に自分の手を重ねると、当然のように握りこまれ強く曳かれる。
「おいで、少し気ばらしに出よう! 」
「陛下? 」
 追ってくる侍女や侍従の声を無視してジュリアスはリュシエンヌの手を握ったまま駆け出した。
 
「待って、お兄様。
 少し、ゆっくり…… 」
 手を握られたまま走られると、少し速い男の足取りについてゆけず、たちまちリュシエンヌの息は上がる。
「ごめん、速かったかな? 」
 乱れた息で訴えると、ようやくジュリアスの足が止った。
 心外だとでも言いたそうな表情を向けられる。
 確かに、祖母の邸で暮らしていた時には走る事は何ともなかった。
 だけど、今は少しの急ぎ足でも息が切れる。
「じゃ、少しだけ近道をしよう」
 悪戯を思いついた子供のように目を輝かせると、不意にジュリアスは大階段を通り抜けた先を曲がる。
 白漆喰で彩られた煌びやかな装飾は姿を消し、剥き出しの石壁の狭い通路へ入り込んだ。
 確かここは、一年前連れてこられた時に通った通用口に接しているはず。
 ここから全てが始まっている。
 いやな記憶が蘇り、リュシエンヌは眉を顰めた途端に目の前が白く染まる。
 同時に忙しく立ち働く人々の活気付いた足音が無数に耳に届いた。
「ほら、こっちだよ」
 溢れる光に睫を瞬かせていると男に手を引かれた。
 馬が轡を並べた厩舎を抜け、その先に見えた木立を目指しているようだ。
 見栄えを計算して作られた樹木の垣根を越えると視界が一気に開ける。
「わぁ…… 」
 目の前に広がる大きな馬場にリュシエンヌは声を上げた。
 訓練中と思われる何頭かの見るからに若い馬がゆっくりと歩を進めている。
 馬の姿を見るのも久しぶりだ。
「リュシーに見せたかったのはね、あっち」
 その傍らで小ぶりな白毛の牝馬に寄り添う月毛の仔馬を指差した。
 見るからにまだ生まれて間もない仔馬は白毛の母馬にぴったりと寄り添い少しも離れようとしない。
 その姿にふと自分と母が重なった。
「ね、お兄様。
 わたし何時になったら帰れるの? 」
 口を付いてでる言葉。
 この一年片時も忘れたことなどなかった。
 突然いなくなった娘を探してまた発作を起こし、弱っているのではないかと気が気ではない。
「帰れないよ」
 馬場を取り囲む柵に肘を乗せ、遠くの馬を見つめる視線を話さずにジュリアスは答える。
「お兄様? それってどういうことなの? 」
 一瞬聞き間違えかと思った。
 人質としての役目がすめばもう自分には用がない筈だ。
 当然帰してもらえるとばかり思っていた。
「帰さないよ。リュシーはずっとここにいるんだ」
 背後から抱きしめられると耳もとで囁かれる。
「やっと、僕の手元に戻ってきたんだ。
 もう放さない」
 項に顔を埋め何度となくキスを繰り返しながら言うジュリアスの言葉が熱を帯びる。
「お兄様。
 お願い、少しだけでも帰りたいの」
 そう言うのが精一杯だった。
 子供の頃から大好きだったこの男に、そんな風に言われると離れたくなくなってしまう。
 このままずっと一緒にいたいと思っていたのはこっちのほうだ。
 だけどどうしても気に掛かることがある。
「わかっているよ。
 叔母上の事だろう? 
 どうだろうね? 
 今君が顔を出すのは利にはならないと思うんだ」
「お母様、どうかしたの? 」
 その言葉にリュシエンヌの顔から血の気が引く。
「ん? 
 君が隣国へ旅立ったあと、医者の勧めで君の身代わりを立てたんだそうだ。
 何しろ君の母上は娘の姿が見えなくなると酷い発作を起こしていたらしいから。
 今ではその小さな子供を自分の娘だと思い込んでいるそうだよ。
 そんなところに突然成長したリュシーが顔を出したらどうなるのかな? 」
 妙に冷めたジュリアスの口調。
 確かに、発作を起こした母は半狂乱であの時のままの小さな娘を求めた。
 例え目の前に自分がいても、絶対に娘だとは認めなかった。
 辛い記憶が蘇る。
 ジュリアスの言葉どおりだ。
 恐らく母は、今の自分など娘とは認めない。
 それどころか他人と認識して拒否し、酷い発作を起こしかねない。
 リュシエンヌは唇を噛み締めそっと視線を落す。
「リュシーのおばあ様には一度こちらに来ていただけるように手配したから。
 それで許してくれるかな? 」
 悔しいけど、頷くしかなかった。
 本当は例え娘と認めてもらえなくても、一度この目で母の様子を見ておきたい。
 だけど、母の病状の悪化を考えると、それにも踏み切れない。
 このままジュリアスの言うとおり母には会わないほうがいいのかも知れない。
 こんな時、あの伯爵だったらどんな風に手配してくれただろう? 
 隣国へ赴く前に母と祖母のことを引き受けてくれたあの男なら…… 
 そういえば、帰国後以来全く顔を見ていない。
 男の存在を改めて認識してリュシエンヌは首を傾げた。
「ね、もう一つ訊いていい? 
 テニエ伯爵様は? 
 わたし、あの時助けてもらったお礼も言っていないの」
 口を付いてでた言葉に、ジュリアスの顔があからさまに歪んだ。
「ああ、あの男ならあのままあの城に残ってもらったよ。
 とりあえず制圧したからといってそのまま引き上げる訳にも行かないからね」
 あからさまに邪魔だとでも言いたそうな顔ではき捨てるように言う。
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