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第六章 境界線にて

1・薄暗いモニタールームから村を監視する仕事

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 添田は暗いモニタールームで、律歌と北寺の暮らす村の様子を監視する仕事に戻った。
 律歌は添田の指定した座標位置に戻っていた。南の森の中を、血相変えて探し回っている北寺の近くに戻してやったのだ。思惑通りに北寺にすぐに見つけられて、支えられるように律歌は山を下りていく。
 やれやれだ。添田はため息をついた。
 末松律歌と北寺智春。この施設に入所している患者の中で言えば、この二人はかなりの問題児だ。
 自転車でY軸座標めいっぱいまで移動したかと思えば、野宿をして山を越えようとしていたこともあった。その時添田は慌ててアマトに命じてキャンプ用品をすべて回収し、阻止した。見せしめのつもりでやったのに、律歌たちは怯まない。今度はおもちゃのラジコンを改造して山を越えてしまった。二人はループに気付いた様子だったが、それからしばらく大人しくしていた。今のうちにループ問題を解決しておこうと奔走していたら、まさか気球を自作して打ち上げてくるとは。添田は「風」の強さを上げ、気球の高度が天井部に到達しないように仕向けた。Z軸方向にはオブジェクトを何も用意しておらず、そこまで到達させるわけにはいかない。ロープの長さから計算すれば、それで簡単に阻止できるはずだった。だが、律歌はロープを切るという命知らずの暴挙に出て――結局また、添田は出し抜かれてしまった。彼女は無の空間に入ってしまった。こうなったらもう自分が直接出向くしかなかった。国からの要請に合わせ正確なデータを取るために、ログイン寸前の記憶を封じて迷い込ませる形を採用しているが、律歌のような者を見ていると、いっそのこと説明から始めた方がよかっただろうかと思うこともある。
 久々に相対した律歌は添田のことをすっかり忘れていた。だが彼女は昔と全く変わらず突拍子もないことをやっては人を惹きつけて、それでつい、俺までしゃべりすぎてしまった――。つい、このままずっと彼女と話していられたら、なんて流されそうになった。でも、それは無理だ。律歌の記憶の扉をノックしてしまいそうになる。
 モニタールームでぼうっと思い出に浸っていると、失礼します、と事務員の女性が入室してきた。
「添田さん、厚労省の方がお見えです。応接室にお通ししております」
「ああ、ありがとう。すぐ行く」
 プロジェクトの担当官が試験資料を取りに来たのだろう。昨日シャワーを浴びておいてよかった。もう何か月自宅に帰っていないのやら。あのグレーの空間に負けず劣らず無味乾燥なこの施設にずっと寝泊まりしている。この施設を作る時、当直のためだとか適当に理由つけて宿泊設備を充実させておいたのが正解だったと心底思う。家のベッドよりは硬いけれども。
 さて、お偉方になんと報告するべきか。添田は画面越しに律歌をもう一度だけ見ると、次の瞬間には客人への返答を練るために頭を回転させ始め、モニタールームを出た。 



「りっか、よかった……!」
 律歌は森で彷徨っているところを北寺に発見され、ぎゅうっと抱きしめられた。
「もう二度と会えなくなるのかと思った。ごめんね」
「どうして北寺さんが謝るのよ」
 山の奥、道を外れた草むらの中。偶然というにはできすぎなほどタイミングよく北寺が通りかかり、律歌は二秒と経たず救出された。律歌は北寺のまだ蒼白な顔に触れた。とても冷えていた。
「心配かけたわね」
 北寺の瞳が潤んで、顔が近づく。その瞬間、律歌は先ほどの添田の表情を思い出していた。添田のあのまっすぐな視線を。互いに目が離せない、心通うような感覚。心の中がじわりと温かくなるような。
「……っと、それより、神様に会ってきたの私」
 律歌は北寺から距離を取り、切り替えるように言葉を並べた。
「ここは、天国なの……かな? なんか、なんかね、よくわからないのだけど、私、気球に乗ったまま風に流されて、気づいたらあたり一面グレー一色の場所にいたの。それでね、男の人が立っていて……。あ、いや、まあそこは遥か上空のはずなんだけど、でも、なんていうのかしら。足元も天井も同じ色で、もう高さとか奥行きとかもないような、変な空間で、そこで、同じ年くらいの男の人に話しかけられて」
「……添田さんだったのかな?」
 どこか躊躇うように、しかしはっきりと、北寺はその名を出した。
「そうよ」
 北寺は空いた距離を縮めようとすることもなく、
「あのさ、りっか。おれはここは、天国じゃないと思う」
「そうなの?」
「うん。歩きながら話そうか」
 草をかき分け小道に出ると、家に向かって歩きだした。
「あのね、山がループしていただろう」
 まだ眠い寝起きのような顔で、虚ろに告げる。
「あれがヒントだった。たぶん、プログラムを省略したんだよ。座標がマックスになったらゼロに戻ってるだけだ」
「どういうこと?」
 律歌はその予測に、先ほどの添田の話が重なるのを感じた。
 添田も、サービスを順次拡張とか、β版とか、設定とか、天国には似つかわしくない単語を並べていた。
「天国じゃないなら、北寺さんはなんだと思うの?」
 律歌の質問に、北寺は意を決したような強い口調で答えた。
「仮想空間だと思う」
「仮想空間?」
 律歌は足を止めた。
「そう。添田さんは、その管理人だね。アマトはまあ、ゲームで言えばNPCかな。応対のパターンが見えてきただろう?」
 北寺の言う通り、アマトのお姉さんに何度も同じ質問を繰り返していると、奇妙なほど同じ調子の返答が返ってくることがあった。昔、共働きの両親の代わりに家にいた子守りロボットみたいな。
「でも……ここが……仮想世界? それって……」
 仮想世界といえば、デジタルデータで作られた世界――現実とは違う、見せかけの世界のことだということは律歌も知っている。現実の体に装置を取り付けて、視覚、聴覚、触覚などの五感に、人体に起きている電気刺激を模して人工的に作られた別の電子信号を流す。すると、身体感覚に錯覚が生じ、作られた世界を本物の現実世界と思い込むことで、まるで自分が別の世界に存在している状態が成り立つ仕組みだ。
「たぶん、俺や律歌の本体は元の世界に眠ったような状態で置いてあるんだ。ここは誰かが作ったゲームの中ような人工的な世界」
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