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Ⅵ 決断は遅きに失し
76. 優しさと気遣いと
しおりを挟む悪い夢を見たときは、人に話すと正夢にならないという。
夢といっても音だけだけれど、私はそれに縋ることにした。
廊下でセーファス様とお話をする、いつもの朝の風景。
いつもの、とはもう言えないかもしれない。あるはずの姿が一つ足りず、休暇明けからセーファス様が戻って来られるまでは、ここで誰かと挨拶を交わすこともなかった。
いつも、とか、当たり前、とか言っていても、結局は不変じゃない。レイラ様が離れていってしまったように。ベイル様のお気持ちが変わってしまったように――。
「ミュリエル? 大丈夫? ずいぶんと疲れてるみたいだね」
「あ……ごめんなさい。私、ぼうっとしてました?」
「うん、ちょっとね。まあ、例の夜会ももうすぐだし、準備で大変なのはわかるけど……無理をしてはいけないよ」
「はい。ありがとうございます」
セーファス様はさりげなく手の甲で私の頬をなで、またさっと戻す。
不意打ちの接触に私は硬直した。セーファス様の表情がまた切なさを含むもので一層胸が締めつけられる。
「で、殿下……」
「ああ、ごめん。つい、ね。また顔色が悪くなった気がするなって思って」
それこそあの夢のせいだろう。あの音で飛び起きたあと、気づけば朝になっていた。はっきりと自覚のある睡眠不足だ。
とはいえ、ここで夢の話をするつもりはない。話すとしたらセーファス様ではなく――。
「あ、ミュリエル様。おはようございま――っ、で、殿下っ。も、申し訳ございません」
やってきたのはメリッサさん。殿下に気づかず無視する形になってしまったため、慌てて謝罪する。
「ああ、いいよ、ドビオン伯爵令嬢。気にしないで」
「そんな、その本当に申し訳ございません。それからその……おはようございます」
「うん、おはよう」
「おはようございます、メリッサさん」
セーファス様に続いて私も挨拶を返す。
ちょうど思い浮かべたタイミングでメリッサさんがきた。もし、あの夢うつつに聞いた音の話をするなら、メリッサさんしかいないと思っている。
できることなら早く話して忘れてしまいたかった。でも、まだここにはセーファス様がいるのでしばらく辛抱だ。セーファス様には悪いと思いつつも早く二人になりたくてじりじりとした。
「そういえば、聞いたよ。またミュリエルと仲良くしてくれてるんだってね」
「あ、はい。その、申し訳ありません」
「どうして謝るんだい?」
「それは私が……一度、ミュリエル様を傷つけてしまっていますから。殿下も私を、今さら虫のいいやつだとお思いではありませんか?」
「さて、どうかな? 私は自分が事情も聞かずに非難するような人間ではないと思っているけれど」
メリッサさんは迷うように視線を泳がせ、それから決心したかのような面持ちで口を開く。
「事情などと言えるような大それたものではありませんが、聞いていただけますか? 私は――ミュリエル様にはレイラ様がいるから大丈夫、と言い訳してずっと逃げていたんです。本当は、ちゃんと両親と向き合って自分の意見を主張しなくてはならなかったのに。だから……レイラ様がミュリエル様を無視しているのを見て、今度こそと思ったのです。本当に辛いときに側にいるのが、友だちというものでしょう? 私が友だちだなんていうのはおこがましいというのはわかっていますけれど」
確かに始めはメリッサさんが戻ってきたことを疑ったし、不安や戸惑いも大きかった。でもそこに、安堵や喜びがなかったわけではないのだ。
私は首を振って、両手でメリッサさんの手を取る。それから私の気持ちがきちんと伝わるように、視線を合わせた。
「おこがましくなんてないわ。声をかけてもらってすごく嬉しかった。むしろメリッサさんこそ、私なんかが友だちでいいの? こんな何もできない――」
「もちろんですわ! ミュリエル様はとても素敵な方ですもの」
メリッサさんもまた、私の手を両手でギュッと握り締めて力強く頷く。その迷いない答えに私はほっとした。
本当にメリッサさんが戻ってきてくれてよかったと思う。
そんな私たちを、セーファス様は柔らかな眼差しで見守っていた。
「よかったね、ミュリエル」
「はい」
そこでメリッサさんがはっと顔をあげる。それから申し訳なさそうに視線を泳がせた。
「ごめんなさい、その……お二人の邪魔をしてしまいました。私、先に教室に入らせてもらいますね」
ななな何を! と焦っていると、隣でセーファス様がクスリと笑った。
それで冷静になり、私は慌ててメリッサさんを呼び止める。
「メ、メリッサさん! あの、あとで聞いてほしいお話があるの。いいかしら」
「もちろんですわ。次の休み時間にでもお話いたしましょう」
メリッサさんは一瞬驚いた顔を見せ、それから柔らかく微笑んで答えた。
そこでセーファス様が待ったをかける。
「いや、今日は私ももう戻ろうと思う。だから、今からでも二人で話すといい」
「ですが……」
「私がいいと言っているのだ。気にしなくていい。ではまたな」
「ありがとうございます。はい、ではまた」
これはもしかしなくても、私がそわそわとしていることに気づいていたのだろうか。
気を遣わせてしまって悪かったと思う反面、助かったと喜ぶ自分がいた。
セーファス様には今度、埋め合わせをしよう。何か贈りものでも用意したら、喜んでくれるだろうか。
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