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Ⅷ 優しさ、たくさん

116. チャンス

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 ご夫婦来訪の翌日。
 私は何をしようにも手がつかず、室内をうろうろと無為に過ごしていた。乾物屋のおばちゃんも同じ部屋で内職をしていたけれど、朝からずっとこの状態のためか、もはや何も言わない。

 そして昼を過ぎたころ、外に様子を見に行っていたバッソさんが帰ってきた。

「あ! あの人、たち、は……?」

 バッソさんは苦笑し、私の頭をくしゃりとなでる。

「安心しろ。無事、帰ってった」
「そ、そう」

 ご夫婦は村長の家に一泊し、そして日も高くなった先ほど、村を出たのだという。
 礼金も弾んでもらったし、これで村の設備を充実させられるぞ、なんてバッソさんは明るく言うけれど。
 私はほっとすると同時に、猛烈な後悔に襲われていた。

 本当にこれでよかったのだろうか。
 過去に怯え、逃げて、隠れて――。

「向き合う、チャンス……」

 ――だったかもしれないのに。

 ご領主様に色々と言われてからも、向き合うべきものなんてないって自分に言い聞かせていたけれど、本当はそうじゃないって気づいていた。
 あれ以来、徐々にだけれど、これまでのことも考えられるようにはなっていたのだ。忘れたふりをせずに、思い出すことができるように――。

 それでも今回のことは、あまりにも突然で、怖くなって逃げてしまった。

 あのご夫婦を知っている、と感じたのはきっと気のせいではない。
 ミュリエルとして暮らしている中で顔を合わせた誰かだろうと、ほとんど確信していた。

「あの、バ、バッソさん……」
「ん?」
「あの人たち、誰だった? なにしに、来たの……?」
「ああ、それな――」
「この間いらしたぼっちゃまの客人だとよ」

 返答は入り口のほうから聞こえた。見れば、数人の村人たちが室内に顔を出して覗き込んでいる。

「やほー、リアちゃん。遊び来たぜ」
「リアちゃん、今度はうちに泊まってな。今夜でもいいぞ」
「てめぇら、なに勝手に入って来てんだよ」
「まあ、いいじゃねーか。俺たちの仲だろー」

 やってきたのはバッソさんと同年代の男たち。すごく仲がいいが、昔からかなりの悪ガキで、乾物屋のおばちゃん曰く、ここ数十年で一番手のかかった世代だったとか。

「んで、さっきの話な」
「なんか、はるばるリングドル王国から来たとか言ってたぜ」
「おい、それ俺が教えようと――」
「結局、誰だかはいまいちわかんねーんだけどな」
「な、お前までっ」

 わいやわいや騒いでいる男とたちは気づかないが、私の心臓は爆発寸前だった。

 リングドル王国はここの隣国だ。距離だけを考えるならば来てもおかしくない。けれど、今私がいるこの国はかなりの小国で、大国であるリングドル王国のお貴族様が視察に来るような国ではなかった。
 ましてや、ここはこんな辺境の村だ。この村の存在を知っていること自体が奇跡的で、ご夫婦の来訪はとても偶然とは思えなかった。

 やはり、ご夫婦は私を捜しに来たのだろうか。私はもう、あの国のお貴族様の顔は忘れてしまったから、知り合いであったとしてもわからないけれど。

「あの人たち何か言ってた?」
「そうだなぁ。よくわからんが、暮らしている人とか、暮らしぶりとかを気にしてたか」
「あと、引っ越してきた人とか、訪れた人のこととかもな!」
「それって……」

 緊張し体がこわばる。

「まさか、こんな辺鄙な村に引っ越してくるやつなんかいるわけねーってのに、おかしなこと聞くよなあ」
「まったくだ。都会の人の考えることはわからんぜ。ははっ」
「みんな……」

 一度、目が合ってしまった。だから、村人たちの言葉で誤魔化せたとは思えない。それでもみんなの気持ちが嬉しくて、少しだけ恐怖が薄れた。
 ご夫婦は私を見つけ出すことなく帰って行った。その事実だけで今は十分ではないだろうか。もし、人手を集めて私を捕まえに来るのなら、その時は素直に捕まろう。村人たちに迷惑がかからないように。

「安心おし。みーんな、リアちゃんの味方だかんね」

 ――この村の人たちは優しすぎるな。

 ふとご領主様の言葉を思い出した。
 その通りだと思った。村人たちはみんな優しくて、身も心も支えてくれる。
 ご領主様は甘すぎると言ったのだけれど、でも、だからこそ。

 ――大丈夫。
 もう私は大丈夫だ。だから今日は、今日だけは、頼るのをやめよう。

「バッソさん、おばちゃん、みんな。ありがとう。私、帰るね」
「もうかい?」
「うん。少し、一人で考えたいことがあるの」

 バッソさんとおばちゃんは少し驚きを見せ、そして顔を見合わせる。

「わかった」
「悩みすぎるんじゃないよ」

 心配そうにしながらも、私の意思を尊重してくれた。私はみんなに見送られながらバッソさんの家をあとにする。


 それから二十分ほどかけて帰宅した。家についてすぐ水を一杯飲み、部屋の隅に置いていた木箱に腰を下ろす。

「さて、と――」

 声に出すのが最近の習慣だった。そうやって一つ一つ、事実と自分の気持ちを確認していくのだ。

 
 
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