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Ⅴ いざ、帰らん!
60. 春告げの花は甘く
しおりを挟むベイル様が連れて来てくれたのは春萌ゆる美しい丘陵地帯だった。岩のブルーグレーと若草色の絨毯が広がる丘に、白い花が点々と咲いている。
「わあ、きれい!」
馬車から降りた私は、そのあまりの美しさに思わず声を上げた。おくれ髪をなびかせる風はまだひんやりとしているが、日差しは暖かく心地いい。空も青くすがすがしく、私は両手を広げて深呼吸した。
「スノードロップだよ。気に入ってくれた?」
「はい! とても!」
「よかった」
そう言ってベイル様は口元を緩ませた。
一見冷たくも見える美貌。何故か私は最初から怖いとは思わなかった。そんな美貌の持ち主が、うっすらといえども笑みを浮かべれば、見惚れずにはいられない。気づけば景色ではなく、ベイル様のその顔から目が離せなくなっていた。
「ミュリエル?」
「あ、はい! ごめんなさい、け、景色に見とれてぼうっとしてました」
「いいよ。こんなに喜んでもらえるなら、連れて来たかいがあった。せっかくだから、あの辺りに座ってゆっくりしようか」
「は、はい! そうしましょう!」
慌て過ぎて元気よく返事をしてしまう。すぐにそれがお嬢様らしくないことに気づき、血の気が引くが、横目で窺ったベイル様に気にしている様子はなく、私は安堵した。
きっと今の私は以前のミュリエルとは違ってしまっているだろう。そのことにベイル様やセーファス様が気づいていないとは思えない。けれど二人は今の私を成長した私として受け入れてくれているようだった。
完全に素を出すわけにはいかないけれど、ミュリエルらしくしなくてはという気負いがなくなっただけでも気持ちはかなり楽だ。そういった面でも、私はベイル様たちに救われていた。
ベイル様が選んだ場所はちょっとした岩陰だった。この辺りに木陰はないので、風を遮ってくれるこの岩陰を選んだのだろう。いつものようにエスコートをしてもらって移動し、それからベイル様は敷物代わりに自分の上着を広げた――ところまでは予想通りだった。けれど、ベイル様は何故かそのまま自分で座ってしまう。
――え?
私が戸惑ったのも仕方ないだろう。紳士のベイル様はいつもそうやって、自分の上着の上に私を座らせていたのだから――。
「きゃっ」
突然、ベイル様が私の腕を強く引っ張った。ピンヒールではないものの、それなりのヒールの靴を履いていた私は、この不安定な足場では堪えることができなかった。ベイル様に引っ張られるままに、その腕の中へと倒れ込んでしまう。
「え、あ、ベイル様!? 大丈夫で――」
「私が引っ張ったんだ。怪我をするようなヘマはしない。それより、ほら、ここに座って。風が冷たいから、しっかりと私に寄り掛かるといい」
クルリと体を反転させられて、ベイル様の膝の間に、抱え込まれるようにして座る。さらにベイル様の腕が私のおなかへと回され、ぐっと後ろに引き寄せられた。
「え、あ、え……ええっ!?」
丘を吹き抜ける風にずいぶんと体温を奪われていたらしい。ベイル様の腕の中は温かかった――が。
洋服越しに感じるベイル様の体温。それを意識せずにはいられなかった。鼓動が早くなっていく。これだけ密着しているのだ、ベイル様にもそれはバレてしまっているだろう。
恥ずかしい。どうすればいいのかわからない。あまりにも私の心の許容をオーバーした事態に私の頭の中は真っ白だった。
どうすることもできず、かちこちになって固まっていると、耳元でクスリとした笑い声が聞こえた。
「緊張してる? 恥ずかしい?」
「そん、な……聞かないで、ください……」
まるでか弱い少女のような声が出て、さらにパニックになる。
「私も緊張してる。私の腕の中に、愛しいミュリエルがいるんだ。緊張しないわけがない。――聞こえるだろう? 私の心臓はもう、破裂してしまいそうなんだ」
「……あ」
自分の心臓の音に混ざって、ベイル様の早鐘のような鼓動を感じる。それだけ密着しているということに改めて気づかされ、恥ずかしくて仕方ないのに何故か喜びを感じた。
本当に私はどうしてしまったんだろう。自分が自分でないようで、私は落ち着かなかった。
「ミュリエル……キス、していい?」
「えっ!?」
その直後、チュッという音と一緒に、頭のてっぺんに柔らかく温かな感触を得る。
「今はこれで我慢しておく」
湧き上がったのは猛烈な恥ずかしさとくすぐったさ。もっと、とねだりそうになって、私はとうとう自分の気持ちを認める。
――私、ミュリエルこと水井茉莉はベイル様に恋してる。
その想いは不思議とストンと胸に落ちて、今までにない熱を生んだ。
それから無言のまま、けれどどこか温かな気持ちで、静かにスノードロップの咲く丘を眺め続けた。
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