江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな

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第24話 石段の上の空

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 神田お玉が池の師走は、復興に向けた普請の槌音に混じって、年越しの準備に追われる人々の活気が満ちていた。

十二月二十八日。
 藍凪屋の店先には、朝から「ペッタン、ペッタン」という小気味よい音が響き渡っていた。おめいが長屋に呼び入れた賃搗き(ちんつき)の男たちが、威勢よく餅を搗き上げている。湯気と共に立ち上る蒸したての米の甘い香りが、寒風に乗って路地裏まで広がっていった。

「さあ、おっちゃん、おさきちゃん! 搗きたてやで、丸めなはれ!」

 おめいの号令で、長屋の住人たちが集まってきた。江戸は角餅だが、大坂の大店、和泉屋の娘であるおめいにとって、正月は「丸餅」でなければ始まらない。

「江戸は角餅やけど、うちらはやっぱりこれや。角を立てんと、円満に縁を結ぶ……大坂あきんどの心意気やね」

 無骨な餅が次々と白く滑らかな丸形に変わっていく。おめいは、丸々と白く輝く餅を、お師匠さんや木戸番の善じい、およね一家や長屋の住人。それから、江戸に来てからお世話になった人々のもとへ、感謝を込めてお裾分けして回った。

 江戸へ来たあの日とは違う。掌に伝わる餅のぬくもりは、そのまま今の藍凪屋を支える人々の温かさだった。

二十九日。
 藍凪屋は「居店(いみせ)」の戸を閉め、正月休みに入った。だが、店の中では徳三が最後の大勝負に向け、鬼の形相で作業を続けていた。

 徳三が向き合っているのは、八井屋の隠居・嘉兵衛を魅せるための「古渡更紗(こわたりさらさ)の腰刺し煙草入れ」である。

「……よし、隙はあらへん。完璧に『縁』が結ばれたわ」

 徳三が満足げに呟き、次に目を向けたのは、傍らで修行を積んできた藍之助と、おさき、そして茂平の三人が密かに作り上げた「あるもの」であった。藍之助が修行で学んだ染め、おさきの丹精込めた刺し子、そして茂平の極上の真岡綿。

 藍凪屋で生まれた新しい絆の結晶とも言えるその出来栄えを、徳三は師匠の目で厳しく、しかし温かく確認した。

「嘉兵衛様は江戸一の目利きや。少しの綻び、心の緩みもあのお方は見逃さへん。だが……これなら届くかもしれんな」

 徳三の言葉に、店内にぴりりとした緊張が走る。八井屋の隠居・嘉兵衛。その名は、明日挑む壁の巨大さを改めておめいに突きつけた。

 夜、おめいは算盤を弾き、損料貸のツケが全て返されているのを確認した。一銭の狂いもない。だが、布団に入っても目は冴えたままだ。

(うちらの全てを注いだ。……けど、もし、あのご隠居に鼻で笑われたら?)

 闇の中で、心臓の鼓動が耳に響く。勝気なおめいでも、江戸の巨頭を前にする不安を完全に消し去ることはできなかった。

三十日。
 江戸の大晦日は、二八蕎麦を啜って早々に寝るのが縁起よしとされる。だが、明後日には八井屋への初荷のお披露目という大勝負が控えている。

「おっちゃん、景気付けに魚河岸(うおがし)行くよ!」

 おめいは徳三を連れ、正月準備でごった返し、熱気に包まれた日本橋の魚河岸を突き進んだ。

「大きなもんで景気を呼び込むんや。一番ええのを頼むよ!」

 不作の影響で物価は高騰していたが、おめいは迷わず、精のつくイワシと、縁起物の鯨を買い込んだ。他にも江戸では高価な白味噌と、雑煮用の野菜を購入し、へとへとで長屋に帰宅する。

「どこもかしこも、人が多すぎてたまらんわ」

 二人は少しだけ決戦を忘れ、心地よい疲労感を堪能した。

三十一日、大晦日。
 藍凪屋の台所では、三が日分の雑煮の仕込みが始まった。白味噌の甘い香りが、藍甕の匂いに満ちた店内に優しく広がっていく。仕込みが終わると、おめいは、明日のために用意した晴れ着を衣桁に掛けた。

 夜、二八蕎麦の出前を取り、脂の乗ったイワシと力強い鯨の肉で、明日への活力を蓄える。

「おっちゃん、明後日が藍凪屋の真の門出やで」

「分かっとるわ。江戸の度肝、抜いたるさかいな」

 二人は夜四ツの鐘が鳴る頃には布団に入り、静かにその時を待った。

文化十五年元旦。
 空は抜けるように晴れ渡っていた。おめいはまだ暗いうちから起き出し、井戸から若水を汲み上げた。

 朝餉には、およね一家と茂平を招き、大坂風の白味噌の雑煮を囲んだ。

「おねえちゃん、このお餅、とっても柔らかくて甘いです」

 おさきの笑顔と、春坊の無邪気な笑い声。およねの顔色も以前よりずっと良くなっている。

 食後、晴れ着に着替え、みんなで恵方参りへと出かけた。道中で合流した藍之助は、縹屋の若旦那らしい立派な姿だったが、その手には徳三から学んだ職人の魂が宿っていた。

 まずは氏神である神田明神へ。復興を願う多くの参拝客に混じり、一年の無事を祈った。

 その後、はる坊たちと別れ、おめい、徳三、藍之助、おさきの四人は、さらなる勝負運を求めて愛宕神社を目指した。

 日本橋に差し掛かった時だった。

 冬の澄み切った空に、真っ白な冠雪を頂いた富士山が鮮やかに現れた。その気高い姿は、叔父が魂を込めて作った、「勝色」の革の深い影と重なって見えた。

(泥と血と汗にまみれた革の匂い。あの格闘があったから、今があるんや)

 一度は全てを捨てたあの日の寒さが、胸の奥で蘇る。それでも、ここまで来たのだ。

「……綺麗や。うちらの覚悟も、あの雪と同じやね」

 おめいが呟くと、徳三が力強く頷いた。

 だが、そのすぐ先にある八井屋の本店前を通った時、再び緊張が走った。

 店番の若者たちは着飾ったおめいに見惚れていたが、奥に控える番頭は帳場の奥から、値踏みする秤のような目をこちらに向けていた。

「明日の四ツ半時分、ご隠居様に初荷のお披露目にお伺いしますとお伝えください」

 おめいは、悠然と言い残したが、背中には冷たい汗が伝う。八井屋の暖簾の重みは、想像以上だった。

 愛宕神社に着くと、目の前に、石の壁のような階段がそびえていた。

「さあ、この階段を登って、藍凪屋の運気を一気に上げるよ!」

 おめいは裾をさばき、一段ずつ踏みしめるように登り始めた。おさきも、藍之助も、徳三も。一歩登るたびに、迷いが削ぎ落とされていく。おさきはふらつきながらも、必死に食らいつく。

 頂上で江戸の町を一望した時、吹き抜ける寒風は、明日への祝福のように感じられた。

 帰り道、芝大神宮に寄り、賑わう境内を楽しみながら、おさきのために「千木筥(ちぎばこ)」のお守りを買った。箪笥が着物で満たされますように、おさきの幸せを願うおめいの姉心だった。

 一日の締めくくりは、お師匠さんに教えてもらった軍鶏(しゃも)鍋の店であった。

 鉄鍋の中で、弾力のある軍鶏の肉とネギが、甘辛い割り下と共に「グツグツ」と音を立てている。立ち上る湯気と、鶏の脂が焼ける香ばしい匂いが、四人の疲れを癒していった。

「旨い……! 身体の芯から熱くなってくるな」

 徳三の言葉に、おさきと藍之助も無我夢中で箸を動かす。

「あっつ……!」

 徳三が舌を出し、水をあおる。おさきがあわてて、自分の水も差し出す。

「おっちゃんはほんまにしゃあないな」

 みんなが笑い、和やかな空気が流れる。

 この四人で、明日は戦うのだ。おめいは熱い割り下を飲み込み、最後の一言を放った。

「明日はいよいよ本番。江戸一の目利き、嘉兵衛様に、藍凪屋の底力……見せつけたるわ」

 軍鶏鍋の熱気に包まれながら、四人の心は明日という決戦の日に向け、勝色の炎のように熱く、静かに燃え上がっていた。

 文化十五年。新しい時代の風は、もはやおめい一人に吹いているのではない。藍凪屋という一つの塊となった彼らの背を、確かな力で押し始めていた。
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