江戸『古道具 藍凪屋 〜再生と縁結いの物語〜』

藍舟めいな

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第25話 雲上の茶事

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 文化十五年、一月二日。神田お玉が池の朝は、底から突き上げるような冷気とともに明けた。今朝の空気はどこか清々しく、新しい時代の幕開けを告げているようだった。

「さあ! 今日は藍凪屋の真の門出やで!」

 おめいの凛とした声が長屋に響く。まだ星の残る暗がりのうちから、藍之助とおさきが駆けつけてきた。

 土間では、昨晩から用意されていた白味噌の雑煮が火にかけられ、甘やかな香りが立ち込めている。

 大坂・和泉屋の味を再現した丸餅の雑煮は、角を立てず円満に縁を結ぶというおめいの願いが込められたものだ。
 熱い汁を啜り、冷え切った身体の芯を温めると、いよいよ身支度が始まった。

 おめいは、おさきのために秘かにあつらえていた着物を取り出した。 

「おさきちゃん、今日はこれを着なはれ」 

 それは、赤い小花が可愛らしく散りばめられた、年頃の娘にふさわしい華やかな縮緬の装いだった。
 おめい自身は、凛とした生成りの紬に、黒繻子の帯をキリッと締め、おさきとお揃いの赤い小花がちらっと見える半衿を合わせている。

 おさきに薄く白粉を叩き、紅を差してやると、土埃にまみれていた少女は、まるで神田明神の境内に咲く梅の花のように可憐に変貌を遂げた。 

 徳三もまた、大坂・和泉屋時代の最高級の一張羅に身を包んでいる。その佇まいは、普段のヘタクソな江戸言葉を操る「直しの徳さん」ではなく、かつて船場で名を馳せた一流の職人、和泉屋徳三郎そのものであった。

 一行は日本橋の髪結所へと向かい、江戸の空気を映した粋な姿に髪を整えた。
 仕上げに、徳三が長崎出島の異国の風を込めて作り上げた銀の簪をおめいとおさきの髪に差す。その繊細な曲線が、朝日に輝いた。

 そして、長屋に戻った一行の前で、徳三、藍之助、おさき、茂平の四人が密かに作り上げていた「絆の結晶」がお披露目された。 

「これこそが、藍凪屋の正装や」 

 徳三が差し出したのは、全員お揃いの印半纏であった。

 藍之助が徳三に教わりながら、自らの舌で藍の機嫌を識り、命懸けで染め上げた勝色の布地。袖と裾には、おさきが指先を赤く腫らしながら刻んだ緻密な刺し子が躍っている。

 襟には「藍凪屋」の文字が誇らしげに抜かれ、背面には大きな円の中に「藍」と「青海波」の紋様が描かれていた。

「円は藍凪屋そのものや。上は藍、下は凪を表す、波の上に一本線。荒波越えても色は濁らん」

 おめいは、初めて目にするその半纏の出来栄えに、言葉を失った。 

「……これぞ、藍凪屋やね」 

 大坂から逃れるように江戸へ来、泥を浚い、算盤を弾いて戦ってきた日々が走馬灯のように駆け巡る。

 おめいの目から、熱い涙がひとしずく零れ落ちた。

 四人は出来立てのパリッとした半纏を羽織り、同じ紋様が入った風呂敷で、嘉兵衛に贈る桐箱入りの煙草入れを包んだ。結び目に、初荷に相応しい宝船の絵を差し込んだ。

「いざ、敵地へ。日本橋を藍凪屋の色で塗り替えたるわ!」

 おめいを先頭に、一行は表通りへと踏み出した。今日は一月二日。江戸中が初荷の活気に沸いている。

 藍之助が「藍凪屋」の名を記した小旗を掲げる。勝色の半纏を纏い、四人が並んで歩き出すと、日本橋の大通りを行き交う人々は一様に足を止め、振り返った。
 出来立ての藍の、若々しくも力強い香りが冬の風に乗って広がる。その匂いだけで、道行く人々はこれがただの古着屋ではないことを悟った。
 その深い青は、江戸のどの紺屋が出す青よりも重厚で、見る者の魂を射抜くような輝きを放っていた。

 約束の刻。江戸本一の両替商「八井屋」の本店に到着したが、一行を待っていたのは予想外の言葉だった。 

「ご隠居様は茶会にお出かけです。こちらへ参るようにとの伝言です」

 おめいは一瞬拍子抜けしたが、すぐに算盤を弾くような速さで思考を巡らせた。指定された場所は、学問の地・お玉が池にも近い閑静な屋敷であった。 

「やられたわ……。ご隠居様、うちらを試してはるな」 

 茶席に招かれたということは、品物以前に「持ち主の器」を見定めるということだ。おめいは急ぎ道中で、最高級の「紫の袱紗(ふくさ)」と茶会に必要な扇子や懐紙を全員分買い込んだ。

 道中でお茶の作法があやふやな藍之助と、作法など知る由もないおさきに、大坂仕込みの厳しい所作を叩き込んだ。 

「ええか、おさきちゃん。背筋を伸ばして、歩く時は畳の縁を踏んだらあかんで。藍之助、あんたは大店の跡取りやろ、無様な姿見せたら縹屋の暖簾が泣くで!」 

 徳三は、和泉屋時代に身につけた作法を完璧に覚えてはいるものの、焦りを隠すように黙々と荷物持ちに徹していた。

 おめいは内心、身震いしていた。嘉兵衛がお茶を共にする面々といえば、江戸の経済を牛耳る巨頭たちに違いない。だが、ここで退けば藍凪屋の未来はない。

 茶会の場に到着し、奉公人に来訪を伝えると、戻ってきた奉公人が静かに告げた。 

「お隠居様より、おめいさんお一人だけ茶室へ通すようにとの仰せです。他の方々は控えの間にてお待ちください」

 おめいは一瞬、徳三たちの顔を見た。不安に揺れるおさきの瞳、覚悟を決めた藍之助の表情。おめいは深く頷き、桐箱を抱え直した。 

「……行ってきます」 

「頼んだで、おめい」 

 徳三の短い言葉を背に、おめいは桐箱を紫の袱紗で丁寧に包み直し、それを抱えて躙口へと向かった。

 導かれた茶室に入ると、そこには、名香「沈香(じんこう)」の幽かな残り香が漂っていた。線香の煙たさとは無縁の、研ぎ澄まされた静寂の香りだ。

 座していたのは、八井屋嘉兵衛を中心に、日本橋の大店の主や隠居たちが待ち構えていた。数名、見知らぬ顔もいたが、その誰もが放つ空気は、一介の古道具屋の娘を値踏みし、圧倒するに十分な威厳に満ちていた。

 おめいは重圧を真正面から受け止め、衣擦れの音さえも鋭く響く静寂の中、呼吸を整え、袱紗に包まれた桐箱を、吸い付くような所作で自分の膝前、わずかに右寄りに置く。

 おめいは気合を入れ、かつて大坂で千両を動かした和泉屋の娘としての誇りを胸に、彼女は深くお辞儀をした。

 伏せられていた長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。視線が嘉兵衛の瞳を捉えた瞬間、おめいの唇の両端が、蕾がほころぶように数ミリだけ上がった。

 媚びるのではない。自信に裏打ちされたその柔らかな微笑みは、冷え切った茶室にパッと陽だまりを作ったかのような、抗いがたい温かさを湛えていた。

 そこに、鈴を転がすような、それでいて芯の通った清らかな声が、静寂を裂くように響いた。

「お初にお目にかかります――」

 その第一声の余韻だけで、隠居たちは彼女がただの小娘ではないことを、肌で悟った。

「神田お玉が池、藍凪屋のおめいでございます。……本日は、江戸の冬を彩る、とっておきの『縁』を持ってまいりました」

 顔を上げたおめいの瞳には、一分(いちぶ)の迷いもない。茶室の空気が、わずかに震えた。

 江戸の巨頭たちの前で、藍凪屋の運命を賭けた大勝負が、今、始まった。

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