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第26話 数奇者の審判
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茶室「輪締館」の内部は、静謐という名の重圧に支配されていた。名香「沈香」の幽かな残り香が、冷え切った一月二日の空気を重く、高貴なものに変えている。
上座に座る八井屋の隠居・嘉兵衛が、不意に自らの右手をさすりながら声を上げた。
「……おめいさん。あいにく、老骨が祟って手が震えてかなわん。……あんた、大坂で仕込まれたその手並み、ここで見せてはくれまいか?今日は上方からのお客様もお見えだ。宇治の抹茶も用意してある。無理を承知で頼むが、わしの代わりに茶を立ててはくれまいか?」
おめいの背筋に、冷たい汗が伝った。嘉兵衛の隣には、目利きの厳しさで知られる日本橋の大店の主たちが、獲物を狙う鷹のような目でこちらを見ている。
(……試されてる。品物を見せる前に、うちの『器』を測るつもりや)
おめいは震えそうになる指先を黒繻子の帯の陰に隠し、大坂・和泉屋の娘としての誇りを込めて頭を下げた。
「……滅相もございません。ご隠居様のお役目、至らぬ点も多々ございましょうが、無作法ながらお立ていたします」
嘉兵衛から差し出された茶碗を受け取った瞬間、おめいは危うく声を上げそうになった。それは、時代を経て潤んだような黒い光沢を放つ、楽家の名碗であった。
(……なんちゅうもんを。これ一つで長屋が何軒建つんや……)
しかし、おめいの所作は乱れなかった。和泉屋で厳しく仕込まれた上方流の作法が、身体に染み付いている。茶筅が湯を裂くシャッシャッと軽やかな音が、静寂の中に響く。
きめ細やかな泡が立ち、宇治抹茶特有の深く、甘やかな香りが茶室いっぱいに広がった。
おめいが茶筅を置き、静かに退くと、茶室には再び鋭い静寂が降りた。
茶碗の中には、翡翠のような深い緑の上に、雪のようにきめ細やかな泡が均一に広がっている。嘉兵衛がその茶碗を手に取った瞬間、節くれ立った指がぴたりと止まった。
隣に座る客人は、立ち上る香りに吸い寄せられるように目を細め、茶碗の中の「景色」を食い入るように見つめている。嘉兵衛は一口啜る前に、愛おしむように茶碗の縁を指先でなぞった。
嘉兵衛の口元が、わずかに、だが確かに緩んだ。
嘉兵衛が一口すすり、口元に伝わる泡の弾力と、湯の温度に満足そうに頷いた。続いて上方からの客人が驚嘆の声を上げたことで、ようやくおめいは一息ついた。
菓子が出され、場の空気がわずかに緩んだその時、嘉兵衛の瞳が鋭い光を宿した。
「……では、そろそろ『縁』とやらを、お見せいただこうか」
ついに、この時が来た。 おめいは、道中で新調した最高級の紫の袱紗を、丁寧に解いた。桐箱の蓋を開け、嘉兵衛の前に差し出す。
「藍凪屋の初荷にございます。古渡更紗の腰刺し煙草入れ。……お納めください」
茶室が、一瞬にして凍り付いたような静寂に包まれた。おめいは一瞬、焦りを覚える。だが、その静寂は拒絶ではなく、あまりの出来栄えに言葉を失った、畏怖に近い呆気であった。
「……この発色。本当に古渡なのか……。しかし新渡には出せぬなんとも言えぬ深い色合い……。この茜の枯れ具合は古渡ならではの、時が止まったような落ち着いた彩りだな」
一人が絞り出すように呟くと、堰を切ったように目利きたちが身を乗り出した。
「この前金具……赤銅に純金の亀か。生きておるようだ」
「これは……黒柿か! 墨を流したようなこの縞模様、これほどの埋もれ木をどこで見つけたのだ」
嘉兵衛が、突然、雷が落ちたような大笑い声を上げた。
「全面古渡更紗にこの鮮やかさ。おめいさん、お主はわしを贅沢禁止令で捕まえさせる気か?」
おめいは、看板娘としての最高の微笑みを浮かべて答えた。
「いいえ、とんでもございません。八井屋の嘉兵衛様なら、家宝だと仰れば、お役人様とて、野暮なことは言わはりまへん。」
「なるほどな。……それで流行りの提げ物じゃなく腰刺しにしたのか……。」
嘉兵衛は煙草入れを手に取り、その吸い付くような手触りと、徳三が命を削って修復した更紗の文様を愛おしそうに撫でた。
「お主、なかなかやりよるの。……して、これに何両の値を付ける?」
おめいの脳裏に、徳三の執念が去来した。
「百両。……百両にございます」
茶室に再び沈黙が訪れた。百両といえば、長屋の住人が一生遊んで暮らせるほどの巨額だ。
「……まぁ、冗談ですわ」
おめいは悠然と微笑み、算盤の珠を弾くような声で続けた。
「ですが、使っている素材の希少さ、そして叔父がこれを蘇らせるために費やした時間と魂……それらを合わせれば、五十両はいただきたいところでございます」
目利きたちは、一斉に笑い出した。
「はっはっは! なかなか剛気なお嬢様じゃ。大坂の商魂は恐ろしいな」
だが、笑い声はすぐに、商売人の熱を帯びた。
「嘉兵衛殿、五十両か……。よし、わしが五十五両出そう。それを譲ってくれまいか?」
「いや、わしは六十両だ!」
静かな茶室に、扇子を指先に当てる乾いた音と、欲を隠しきれない目利きたちの低い声が重なる。
おめいはその展開に、内心で呆気に取られながらも、商人としての勝利を確信した。
嘉兵衛は苦笑しながら、全員を制するようにゆっくりと手を上げた。
「やれやれ、これほどの数奇者たちを集めたわしの間違いだった。……ちょいとからかってやるつもりで茶会を開いたんじゃがわしの負けじゃ。おめいさん、お主の望み通り、百両で買ってやろう」
嘉兵衛は、おめいの瞳をまっすぐに見据えた。
「藍凪屋という新しい『縁』に百両だ。他の者にこんな逸品取られるなんざ、八井屋の名が廃る」
数奇者の顔をした嘉兵衛の顔に、
「良いご縁をいただきました。」
おめいは華やかな笑顔で、答えるのであった。
茶室の外には、澄んだ青空が広がっている。お玉が池の泥の中から産まれた「異色の彩」が、今、江戸の頂点で百両の重みを背に、藍凪屋の暖簾が初めて風を孕んだ。
上座に座る八井屋の隠居・嘉兵衛が、不意に自らの右手をさすりながら声を上げた。
「……おめいさん。あいにく、老骨が祟って手が震えてかなわん。……あんた、大坂で仕込まれたその手並み、ここで見せてはくれまいか?今日は上方からのお客様もお見えだ。宇治の抹茶も用意してある。無理を承知で頼むが、わしの代わりに茶を立ててはくれまいか?」
おめいの背筋に、冷たい汗が伝った。嘉兵衛の隣には、目利きの厳しさで知られる日本橋の大店の主たちが、獲物を狙う鷹のような目でこちらを見ている。
(……試されてる。品物を見せる前に、うちの『器』を測るつもりや)
おめいは震えそうになる指先を黒繻子の帯の陰に隠し、大坂・和泉屋の娘としての誇りを込めて頭を下げた。
「……滅相もございません。ご隠居様のお役目、至らぬ点も多々ございましょうが、無作法ながらお立ていたします」
嘉兵衛から差し出された茶碗を受け取った瞬間、おめいは危うく声を上げそうになった。それは、時代を経て潤んだような黒い光沢を放つ、楽家の名碗であった。
(……なんちゅうもんを。これ一つで長屋が何軒建つんや……)
しかし、おめいの所作は乱れなかった。和泉屋で厳しく仕込まれた上方流の作法が、身体に染み付いている。茶筅が湯を裂くシャッシャッと軽やかな音が、静寂の中に響く。
きめ細やかな泡が立ち、宇治抹茶特有の深く、甘やかな香りが茶室いっぱいに広がった。
おめいが茶筅を置き、静かに退くと、茶室には再び鋭い静寂が降りた。
茶碗の中には、翡翠のような深い緑の上に、雪のようにきめ細やかな泡が均一に広がっている。嘉兵衛がその茶碗を手に取った瞬間、節くれ立った指がぴたりと止まった。
隣に座る客人は、立ち上る香りに吸い寄せられるように目を細め、茶碗の中の「景色」を食い入るように見つめている。嘉兵衛は一口啜る前に、愛おしむように茶碗の縁を指先でなぞった。
嘉兵衛の口元が、わずかに、だが確かに緩んだ。
嘉兵衛が一口すすり、口元に伝わる泡の弾力と、湯の温度に満足そうに頷いた。続いて上方からの客人が驚嘆の声を上げたことで、ようやくおめいは一息ついた。
菓子が出され、場の空気がわずかに緩んだその時、嘉兵衛の瞳が鋭い光を宿した。
「……では、そろそろ『縁』とやらを、お見せいただこうか」
ついに、この時が来た。 おめいは、道中で新調した最高級の紫の袱紗を、丁寧に解いた。桐箱の蓋を開け、嘉兵衛の前に差し出す。
「藍凪屋の初荷にございます。古渡更紗の腰刺し煙草入れ。……お納めください」
茶室が、一瞬にして凍り付いたような静寂に包まれた。おめいは一瞬、焦りを覚える。だが、その静寂は拒絶ではなく、あまりの出来栄えに言葉を失った、畏怖に近い呆気であった。
「……この発色。本当に古渡なのか……。しかし新渡には出せぬなんとも言えぬ深い色合い……。この茜の枯れ具合は古渡ならではの、時が止まったような落ち着いた彩りだな」
一人が絞り出すように呟くと、堰を切ったように目利きたちが身を乗り出した。
「この前金具……赤銅に純金の亀か。生きておるようだ」
「これは……黒柿か! 墨を流したようなこの縞模様、これほどの埋もれ木をどこで見つけたのだ」
嘉兵衛が、突然、雷が落ちたような大笑い声を上げた。
「全面古渡更紗にこの鮮やかさ。おめいさん、お主はわしを贅沢禁止令で捕まえさせる気か?」
おめいは、看板娘としての最高の微笑みを浮かべて答えた。
「いいえ、とんでもございません。八井屋の嘉兵衛様なら、家宝だと仰れば、お役人様とて、野暮なことは言わはりまへん。」
「なるほどな。……それで流行りの提げ物じゃなく腰刺しにしたのか……。」
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「お主、なかなかやりよるの。……して、これに何両の値を付ける?」
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だが、笑い声はすぐに、商売人の熱を帯びた。
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