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家で死にたくなりました
幸福
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客観的に。いや、どう考えたとしても失恋のようなものを味わったからと言って、その好きな人の家に勝手に入ったりはしない。
しかも、その好きな人の下着までも盗んでいるんだから頭が可笑しいにもほどがある。
冷静ではなかったとしても、これは人間としてやってはいけないことだ。
今すぐにでも、ポケットの中に入っている彼女の下着を見せ。許されようと土下座なりなんなりをするのがまともな人間だと思っているのに。
彼女に呼びとめられたからって、ソファーに座って、もてなされている場合じゃない。
袖を引っぱられたとしても、強引に逃げるべきだったことは分かっているのに。ぼくはまだ、彼女と可能性があるとでも。
「あ、帰らなくて正解でしたね」
キッチンのほうから移動をしてきた彼女が傍らで膝をつき、コーヒーの入っているマグカップとクッキーがのっている皿を。目の前の木製のテーブルの上に並べている。
多分オーブンを使っていた気がするから、彼女の手づくりクッキーなんだろう。そう、考えていたせいなのか思わずのどを鳴らしていた。
「あんなに雨が降っているので風邪を引いていたかもしれませんね」
雨音でリズムを取っているようで窓のほうに視線を向けたまま彼女が鼻歌を口ずさんでいる。
そんな彼女の姿をしばらく見つめていたが首を大きく左右に振り、可愛らしい黒い下着を盗んでいることを思いださせた。
彼女との可能性なんてない。おそらくは、あの白髪の男と恋人同士なんだから。
「そうですね。それじゃ、手づくりクッキーをいただきますね」
だから、この目の前の手づくりクッキーを食べられるだけでも幸せなんだ。ぼくは彼女の下着を盗んでしまうような人間なのに。
「どうぞどうぞ。まあ、料理が下手なので、あんまり期待しないでくれると助かります」
確かに、言っているように料理が得意ではないらしく、クッキーはどれもこれもいびつな形をしている。
けど、充分だった。こんなぼくのために、つくってくれたものであることに違いない。
いびつな形のクッキーを口の中に入れる。
「うん。美味しいですよ」
甘すぎるような気もするがコーヒーに合わせてくれたのかもしれないな。
「良かった」
普段は見せないであろう気のゆるんでいる彼女の表情を見たからか、こちらもつい笑みを浮かべていた。
雨音を聞きながら、しばらくの間。彼女と楽しく会話をしていく。これで最後だから、そんな甘いことを考えていると。
会話をしている最中、彼女のほうから着信音のようなものが聞こえてきた。おそらく、スマートフォンかなにかなんだろう。
「えっと、すみません。電話がかかってきてしまったみたいで」
「どうぞどうぞ。かまいませんよ」
彼女との楽しい会話のせいで、自分のおかれている状況を忘れてしまっていたようで、ぼくはそう言ってしまった。
「本当にごめんなさい。多分、兄さんから」
彼女はまだ口を動かしているが、ぼくの耳には聞こえない。いや、違う。頭が真っ白になっていて。
そうだ、ぼくは今。彼女の下着を。
頭が働かなくなり、心臓を握りつぶされていくような。
「あの、どうかしましたか?」
着信音が響き続けているスマートフォンをもっている彼女が首を傾げながら、こちらを見つめている。
「あ、いえ。お恥ずかしい話なんですけど、トイレのほうを」
「えと、玄関の近くにあるので。一人で平気ですか?」
鏡がないから分からないが青白い顔をしているらしく彼女が不安そうにしていた。
「ええ。ご心配なく」
腹は痛くない。が、そんな風に見えるようにトイレに駆けこんでいく。
どうする? どうすれば良いんだ?
それしか頭に浮かんでこない。パニックになっているようで、ぼくはズボンのポケットから彼女の黒い下着を取りだして、鼻の辺りに近づけていた。
気のせいかもしれないが、ほのかに彼女の良いにおいがしたような。そのおかげなのか少しずつ冷静になってきている。
万一、電話をしている相手が彼女の兄ではなかった場合。
もしくは、電話の相手が彼女の兄ではあるが、ぼくのことを話さないでいてくれれば。
いや、最悪を想定しておくべきだな。幸いにも相手は、か弱い女の子。こちらがその気になれば力尽くで逃げられる。
こちらが心配するようなことは、なにも。
こんこんこん。
ゆっくりと、トイレの扉をノックする音が聞こえてきた。それにびくつき、慌てて彼女の黒い下着をズボンのポケットに押しこんでいく。
「あの、平気ですか?」
扉越しに、普段通りの彼女の平静な声が。落ち着いている、と言うことは。まだばれていないんだろうか?
どちらにしても、このままトイレにいればあやしまれてしまうな
少しだけトイレの扉を開き、その隙間から彼女の顔をのぞいた。先ほどと同じで、それほど違いはないように見えるが。
「あの、もしかして。先ほど食べたクッキーで、お腹のほうが」
「そんなことはないので、お気になさらず」
「そうですか。良かった」
本当に安心をしてくれているようで、彼女が大きく息をはきだしている。
ぼくの存在のことは、ばれてはなさそうだけど限界だな。もう、ここにはいられない。
確認しておく必要もなさそうだが、一応。
「電話。お兄さんからだったの?」
「えと、大学の先輩。と言うよりは友人ですかね。最近遊びにこないからどうしたの? 的なことを」
「仲が良いんだね、その先輩と」
「そうなんだと、思います」
たどたどしい感じだけど、その先輩とやらとの線引きがむずかしいからだろうな。
もしも、ぼくの存在に気づいているなら、もっときんちょうをしていても可笑しくないはず。
はじめから、彼女の兄の友人ではない。と気づいているのであれば別だが、そんなやつを招き入れる理由なんて。
「雨もやんできたようなので、そろそろ」
これ以上考えても意味はない。目的は達成しているんだし、ここにいる理由もない。
「そうですね。その、すみません。わたしの身勝手につき合ってもらって」
「いえいえ。こちらこそ感謝をしたいくらいですよ。ずぶぬれになるところを助けてもらったようなものなので、それに」
「それに?」
ぼくの言葉を真似ながら、不思議そうな顔つきをしている彼女。
「それに、とても楽しかったです」
本当に、全ての運の使い切ってしまったと思うほどに。彼女との、この短い時間は幸せなものだった。
「それは良かったです。あ、そうだ。少し、玄関のほうで待っていてもらえますか?」
時間とか、色々と平気ですかね? と彼女がぼくに確認をしてきている。
「ええ。家に帰るだけですから」
「近くにあるんですか?」
なんで、彼女がそんな質問をしているのか分からないけど肯定しておくか。家が近くにあるのは本当のことだし。
「ええ。まあ、どうしてそんなことを?」
「見たことのない傘やらレインコートがないので、そうなのかな? と思っただけです。家が近くだったら、少しくらいぬれてもって考える可能性が高いですからね」
雨にぬれても家が近くにあるのなら、すぐにシャワーを浴びることもできるでしょう。と彼女は説明を続けていた。
「ははっ。まるで探偵だね」
別に彼女を侮っていた訳ではないが、傘やレインコートがなかっただけで、そんなことまで分かるものなのか。
「探偵と言うより、性格が悪いだけだと思いますよ。今のは、二つ目に浮かんできた推測だったので」
「二つ目? もう一つあるってこと?」
「そうですね。聞きたいですか?」
自分で言っていたように性格が悪いと思われたくないらしく、彼女がそんな風に聞いてきている。
個人的には彼女がとんでもない悪意のある言葉を並べ立てようと。いや、むしろ聞いてみたいと思ってしまうな。
「好奇心ですかね。逆にそれを聞いてみたいと思ってしまってますね」
「好奇心はなんとやら、とも言いますけど。わたしは良いものだと思いますよ」
一瞬、彼女の目が真っ黒になったような。
「えっと、もう一つは。なにかしらの犯罪をしようとこの家にきた、って可能性でした」
あ、でも兄さんの友人だとすぐに分かったのでそれはないな、と思いましたよ。彼女が慌てて説明を続けていた。
多分、ぼくが青ざめた顔になったから弁明をしているつもりなんだろうが、それは。
「で、でもさ。傘やレインコートがなかっただけで、そんな可能性は考えないと思うんだけどな」
「だから、わたしの性格が悪いんですよ」
「邪推をしちゃうってこと?」
「そうじゃなくて、この家に住んでいる人間を全員、殺すから。外にでる必要がないって考えるので」
家の外にでなければ、傘もレインコートも必要ないでしょう。そう、彼女は普段通りに平静な声で言っている。
「な、なるほど」
「時間もあるようですし、奥でコーヒーでも飲みますか?」
さらに青ざめているであろう、ぼくの顔を見たからか彼女がそんな提案をしてくれた。
「ありがたいけど、遠慮をさせてもらうよ。また雨が降ってくる可能性もあるからね」
「傘か、レインコートを貸しましょうか」
「平気平気。本当に家が近くだから」
それに、もう彼女と会うことはできない。
会えば、確実にズボンのポケットに入っている彼女の黒い下着のことで警察に。
「そう言うのであれば。えっと、それじゃあ玄関のところで、少しだけ待っていてもらえますか」
「分かりました。その、時間はあるので慌てないでも平気ですよ」
学校じゃないけど、廊下で転ばれても大変だしな。それに今は、なにごともなくこの家からでることが先決。
そう考えれば、リビングキッチンのほうに移動して姿が見えなくなっている彼女を待たないで、この家からでるべきなんじゃ。
いや、逆にそんなことをするほうが彼女に疑われてしまう可能性が高いかもしれない。
結局、どちらの選択もしないままに彼女がタッパーのようなものをもった状態で戻ってきてしまった。
「お待たせして、すみません」
三分も経ってないんだろうが色々と考えていたせいか、確かに戻ってくるのが遅かったような気がする。
「そんなに経ってないかと。それで、なにをもってきてくれたんですか?」
「あのいびつなクッキーですね。好評だったので、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます」
差しだしているタッパーを受け取る時に、ぐうぜん彼女の指に触れてしまった。冷たいが、とてもやわらかくて、ぼくの中にあったなにかがゆっくり首をもたげたような感覚。
よく見れば、雨でぬれているからか彼女の身につけている白いワンピースが透けて。
「あの、どうか」
薄らと、可愛らしい下着を見せつけてきている彼女を押し倒そうと。
「え? あっ」
近づいた瞬間、雨でぬれていたせいなのか声を上げながら足を滑らせている。
後頭部を激しく打ちつけて、鈍い音が廊下全体に響いていく。幸い、彼女の頭から血はでていないが。
打ちどころが悪かったようで、あお向けに倒れたまま彼女は全く動く気配がない。
普通、こんな時は倒れている彼女のことを心配するはずなのに、今のぼくは。
「最高だ」
ぼくの唇は、そう勝手に動いている。
目の前でか弱い女の子が気絶をしているのに、ぼくは幸運だと認識していた。
すでに、一時間ほど経ったような気もするが強く後頭部を打ちつけたのか。ソファーに寝かせている彼女は、まだ目を覚ます気配がない。
廊下に寝かせたままと言う訳にもいかないので、リビングキッチンのほうに移動させてきたが本当に良かったんだろうか?
気絶をしているだけなんだし、病院に電話でもして逃げたほうが正しかったようにも。
そうだ。彼女が目を覚ますまで介抱をするつもりでもなかったのだから、そうするべきだった。今からでも遅くはない。
それが簡単で最善のやりかただと分かっているのに。
ソファーに寝かせている彼女の可愛らしい寝顔を見て、生唾を飲みこんでいた。先ほどのもたげたなにかがぼくの身体を勝手に動かそうとしている。
「この家には誰も、いないんだよな」
思わず、そう口にしていた。確かに、ぼくと彼女以外の人間はこの家の中にいない。
それに、また雨が強く降りだしてきていてどんなことをしたとしても音が。
思い切り、頭を左右に大きく振った。
次々と浮かんできている邪悪な想像を振り払おうとキッチンに向かい、大量の水を口の中にながしこんでいく。
落ち着け。冷静になるんだ。そんなことをすれば、今までの努力のようなものの全てが水の泡になってしまう。
病院に連絡をして、この家からでる。それが今の最善だ。そうだそうだ、そうするのが一番良いやりかた。
そして、彼女にとっても。
ははっ、窃盗犯風情がテレビドラマの主役にでもなっているつもりなんだろうか。
やっぱり頭が可笑しいにもほどがあるな。
ソファーに寝かせている彼女のほうに近づいて、もう一回。その可愛らしい寝顔を見させてもらう。
「さようなら」
盗んだ彼女の黒い下着を返しておこうかとも思ったがやめておいた。これは、ぼく自身が背負うべき罪なんだからな。
どこかヒロイックな気分にひたりながら。リビングキッチンからでようと、ドアノブを触ったのとほとんど同時に。
「本当に良いのか?」
酷く冷たい、なんの感情もこもってない声が聞こえてきた。ぼくと彼女以外の人間は、誰もいないはずなのに耳もとで小さく響いている。
「いや。お前がそれで良いなら、なにも言うことはないんだがな」
唇が勝手に動。違う、ぼくが本当に思っていることを声にだしてくれているのか?
「これでおわりなんだ。ソファーに寝かせている彼女と会うことはもうないだろう。それなのに」
や、やめろ。それ以上は、その本音は。
「お前のやりたかったことを、やらなくても良いのか? こんなチャンスはもう」
ぼくに伝えたいことを口にしたからか声は聞こえなくなった。そして胸の辺りにあったであろう黒いなにかが広がっていく。
「さようなら。ぼく」
はじめまして。いや、今までうそをついていたことを謝るべきかな。いずれにしても、もう逃げられない。
「いや。逃げる必要がなくなった、だな」
ズボンを下ろし、可愛らしい寝顔の彼女を見ながら。
「今が、人生で最高の瞬間だ」
ぼくの身体から、勢い良く飛びだした白い液体を彼女の顔面に浴びせていた。
しかも、その好きな人の下着までも盗んでいるんだから頭が可笑しいにもほどがある。
冷静ではなかったとしても、これは人間としてやってはいけないことだ。
今すぐにでも、ポケットの中に入っている彼女の下着を見せ。許されようと土下座なりなんなりをするのがまともな人間だと思っているのに。
彼女に呼びとめられたからって、ソファーに座って、もてなされている場合じゃない。
袖を引っぱられたとしても、強引に逃げるべきだったことは分かっているのに。ぼくはまだ、彼女と可能性があるとでも。
「あ、帰らなくて正解でしたね」
キッチンのほうから移動をしてきた彼女が傍らで膝をつき、コーヒーの入っているマグカップとクッキーがのっている皿を。目の前の木製のテーブルの上に並べている。
多分オーブンを使っていた気がするから、彼女の手づくりクッキーなんだろう。そう、考えていたせいなのか思わずのどを鳴らしていた。
「あんなに雨が降っているので風邪を引いていたかもしれませんね」
雨音でリズムを取っているようで窓のほうに視線を向けたまま彼女が鼻歌を口ずさんでいる。
そんな彼女の姿をしばらく見つめていたが首を大きく左右に振り、可愛らしい黒い下着を盗んでいることを思いださせた。
彼女との可能性なんてない。おそらくは、あの白髪の男と恋人同士なんだから。
「そうですね。それじゃ、手づくりクッキーをいただきますね」
だから、この目の前の手づくりクッキーを食べられるだけでも幸せなんだ。ぼくは彼女の下着を盗んでしまうような人間なのに。
「どうぞどうぞ。まあ、料理が下手なので、あんまり期待しないでくれると助かります」
確かに、言っているように料理が得意ではないらしく、クッキーはどれもこれもいびつな形をしている。
けど、充分だった。こんなぼくのために、つくってくれたものであることに違いない。
いびつな形のクッキーを口の中に入れる。
「うん。美味しいですよ」
甘すぎるような気もするがコーヒーに合わせてくれたのかもしれないな。
「良かった」
普段は見せないであろう気のゆるんでいる彼女の表情を見たからか、こちらもつい笑みを浮かべていた。
雨音を聞きながら、しばらくの間。彼女と楽しく会話をしていく。これで最後だから、そんな甘いことを考えていると。
会話をしている最中、彼女のほうから着信音のようなものが聞こえてきた。おそらく、スマートフォンかなにかなんだろう。
「えっと、すみません。電話がかかってきてしまったみたいで」
「どうぞどうぞ。かまいませんよ」
彼女との楽しい会話のせいで、自分のおかれている状況を忘れてしまっていたようで、ぼくはそう言ってしまった。
「本当にごめんなさい。多分、兄さんから」
彼女はまだ口を動かしているが、ぼくの耳には聞こえない。いや、違う。頭が真っ白になっていて。
そうだ、ぼくは今。彼女の下着を。
頭が働かなくなり、心臓を握りつぶされていくような。
「あの、どうかしましたか?」
着信音が響き続けているスマートフォンをもっている彼女が首を傾げながら、こちらを見つめている。
「あ、いえ。お恥ずかしい話なんですけど、トイレのほうを」
「えと、玄関の近くにあるので。一人で平気ですか?」
鏡がないから分からないが青白い顔をしているらしく彼女が不安そうにしていた。
「ええ。ご心配なく」
腹は痛くない。が、そんな風に見えるようにトイレに駆けこんでいく。
どうする? どうすれば良いんだ?
それしか頭に浮かんでこない。パニックになっているようで、ぼくはズボンのポケットから彼女の黒い下着を取りだして、鼻の辺りに近づけていた。
気のせいかもしれないが、ほのかに彼女の良いにおいがしたような。そのおかげなのか少しずつ冷静になってきている。
万一、電話をしている相手が彼女の兄ではなかった場合。
もしくは、電話の相手が彼女の兄ではあるが、ぼくのことを話さないでいてくれれば。
いや、最悪を想定しておくべきだな。幸いにも相手は、か弱い女の子。こちらがその気になれば力尽くで逃げられる。
こちらが心配するようなことは、なにも。
こんこんこん。
ゆっくりと、トイレの扉をノックする音が聞こえてきた。それにびくつき、慌てて彼女の黒い下着をズボンのポケットに押しこんでいく。
「あの、平気ですか?」
扉越しに、普段通りの彼女の平静な声が。落ち着いている、と言うことは。まだばれていないんだろうか?
どちらにしても、このままトイレにいればあやしまれてしまうな
少しだけトイレの扉を開き、その隙間から彼女の顔をのぞいた。先ほどと同じで、それほど違いはないように見えるが。
「あの、もしかして。先ほど食べたクッキーで、お腹のほうが」
「そんなことはないので、お気になさらず」
「そうですか。良かった」
本当に安心をしてくれているようで、彼女が大きく息をはきだしている。
ぼくの存在のことは、ばれてはなさそうだけど限界だな。もう、ここにはいられない。
確認しておく必要もなさそうだが、一応。
「電話。お兄さんからだったの?」
「えと、大学の先輩。と言うよりは友人ですかね。最近遊びにこないからどうしたの? 的なことを」
「仲が良いんだね、その先輩と」
「そうなんだと、思います」
たどたどしい感じだけど、その先輩とやらとの線引きがむずかしいからだろうな。
もしも、ぼくの存在に気づいているなら、もっときんちょうをしていても可笑しくないはず。
はじめから、彼女の兄の友人ではない。と気づいているのであれば別だが、そんなやつを招き入れる理由なんて。
「雨もやんできたようなので、そろそろ」
これ以上考えても意味はない。目的は達成しているんだし、ここにいる理由もない。
「そうですね。その、すみません。わたしの身勝手につき合ってもらって」
「いえいえ。こちらこそ感謝をしたいくらいですよ。ずぶぬれになるところを助けてもらったようなものなので、それに」
「それに?」
ぼくの言葉を真似ながら、不思議そうな顔つきをしている彼女。
「それに、とても楽しかったです」
本当に、全ての運の使い切ってしまったと思うほどに。彼女との、この短い時間は幸せなものだった。
「それは良かったです。あ、そうだ。少し、玄関のほうで待っていてもらえますか?」
時間とか、色々と平気ですかね? と彼女がぼくに確認をしてきている。
「ええ。家に帰るだけですから」
「近くにあるんですか?」
なんで、彼女がそんな質問をしているのか分からないけど肯定しておくか。家が近くにあるのは本当のことだし。
「ええ。まあ、どうしてそんなことを?」
「見たことのない傘やらレインコートがないので、そうなのかな? と思っただけです。家が近くだったら、少しくらいぬれてもって考える可能性が高いですからね」
雨にぬれても家が近くにあるのなら、すぐにシャワーを浴びることもできるでしょう。と彼女は説明を続けていた。
「ははっ。まるで探偵だね」
別に彼女を侮っていた訳ではないが、傘やレインコートがなかっただけで、そんなことまで分かるものなのか。
「探偵と言うより、性格が悪いだけだと思いますよ。今のは、二つ目に浮かんできた推測だったので」
「二つ目? もう一つあるってこと?」
「そうですね。聞きたいですか?」
自分で言っていたように性格が悪いと思われたくないらしく、彼女がそんな風に聞いてきている。
個人的には彼女がとんでもない悪意のある言葉を並べ立てようと。いや、むしろ聞いてみたいと思ってしまうな。
「好奇心ですかね。逆にそれを聞いてみたいと思ってしまってますね」
「好奇心はなんとやら、とも言いますけど。わたしは良いものだと思いますよ」
一瞬、彼女の目が真っ黒になったような。
「えっと、もう一つは。なにかしらの犯罪をしようとこの家にきた、って可能性でした」
あ、でも兄さんの友人だとすぐに分かったのでそれはないな、と思いましたよ。彼女が慌てて説明を続けていた。
多分、ぼくが青ざめた顔になったから弁明をしているつもりなんだろうが、それは。
「で、でもさ。傘やレインコートがなかっただけで、そんな可能性は考えないと思うんだけどな」
「だから、わたしの性格が悪いんですよ」
「邪推をしちゃうってこと?」
「そうじゃなくて、この家に住んでいる人間を全員、殺すから。外にでる必要がないって考えるので」
家の外にでなければ、傘もレインコートも必要ないでしょう。そう、彼女は普段通りに平静な声で言っている。
「な、なるほど」
「時間もあるようですし、奥でコーヒーでも飲みますか?」
さらに青ざめているであろう、ぼくの顔を見たからか彼女がそんな提案をしてくれた。
「ありがたいけど、遠慮をさせてもらうよ。また雨が降ってくる可能性もあるからね」
「傘か、レインコートを貸しましょうか」
「平気平気。本当に家が近くだから」
それに、もう彼女と会うことはできない。
会えば、確実にズボンのポケットに入っている彼女の黒い下着のことで警察に。
「そう言うのであれば。えっと、それじゃあ玄関のところで、少しだけ待っていてもらえますか」
「分かりました。その、時間はあるので慌てないでも平気ですよ」
学校じゃないけど、廊下で転ばれても大変だしな。それに今は、なにごともなくこの家からでることが先決。
そう考えれば、リビングキッチンのほうに移動して姿が見えなくなっている彼女を待たないで、この家からでるべきなんじゃ。
いや、逆にそんなことをするほうが彼女に疑われてしまう可能性が高いかもしれない。
結局、どちらの選択もしないままに彼女がタッパーのようなものをもった状態で戻ってきてしまった。
「お待たせして、すみません」
三分も経ってないんだろうが色々と考えていたせいか、確かに戻ってくるのが遅かったような気がする。
「そんなに経ってないかと。それで、なにをもってきてくれたんですか?」
「あのいびつなクッキーですね。好評だったので、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます」
差しだしているタッパーを受け取る時に、ぐうぜん彼女の指に触れてしまった。冷たいが、とてもやわらかくて、ぼくの中にあったなにかがゆっくり首をもたげたような感覚。
よく見れば、雨でぬれているからか彼女の身につけている白いワンピースが透けて。
「あの、どうか」
薄らと、可愛らしい下着を見せつけてきている彼女を押し倒そうと。
「え? あっ」
近づいた瞬間、雨でぬれていたせいなのか声を上げながら足を滑らせている。
後頭部を激しく打ちつけて、鈍い音が廊下全体に響いていく。幸い、彼女の頭から血はでていないが。
打ちどころが悪かったようで、あお向けに倒れたまま彼女は全く動く気配がない。
普通、こんな時は倒れている彼女のことを心配するはずなのに、今のぼくは。
「最高だ」
ぼくの唇は、そう勝手に動いている。
目の前でか弱い女の子が気絶をしているのに、ぼくは幸運だと認識していた。
すでに、一時間ほど経ったような気もするが強く後頭部を打ちつけたのか。ソファーに寝かせている彼女は、まだ目を覚ます気配がない。
廊下に寝かせたままと言う訳にもいかないので、リビングキッチンのほうに移動させてきたが本当に良かったんだろうか?
気絶をしているだけなんだし、病院に電話でもして逃げたほうが正しかったようにも。
そうだ。彼女が目を覚ますまで介抱をするつもりでもなかったのだから、そうするべきだった。今からでも遅くはない。
それが簡単で最善のやりかただと分かっているのに。
ソファーに寝かせている彼女の可愛らしい寝顔を見て、生唾を飲みこんでいた。先ほどのもたげたなにかがぼくの身体を勝手に動かそうとしている。
「この家には誰も、いないんだよな」
思わず、そう口にしていた。確かに、ぼくと彼女以外の人間はこの家の中にいない。
それに、また雨が強く降りだしてきていてどんなことをしたとしても音が。
思い切り、頭を左右に大きく振った。
次々と浮かんできている邪悪な想像を振り払おうとキッチンに向かい、大量の水を口の中にながしこんでいく。
落ち着け。冷静になるんだ。そんなことをすれば、今までの努力のようなものの全てが水の泡になってしまう。
病院に連絡をして、この家からでる。それが今の最善だ。そうだそうだ、そうするのが一番良いやりかた。
そして、彼女にとっても。
ははっ、窃盗犯風情がテレビドラマの主役にでもなっているつもりなんだろうか。
やっぱり頭が可笑しいにもほどがあるな。
ソファーに寝かせている彼女のほうに近づいて、もう一回。その可愛らしい寝顔を見させてもらう。
「さようなら」
盗んだ彼女の黒い下着を返しておこうかとも思ったがやめておいた。これは、ぼく自身が背負うべき罪なんだからな。
どこかヒロイックな気分にひたりながら。リビングキッチンからでようと、ドアノブを触ったのとほとんど同時に。
「本当に良いのか?」
酷く冷たい、なんの感情もこもってない声が聞こえてきた。ぼくと彼女以外の人間は、誰もいないはずなのに耳もとで小さく響いている。
「いや。お前がそれで良いなら、なにも言うことはないんだがな」
唇が勝手に動。違う、ぼくが本当に思っていることを声にだしてくれているのか?
「これでおわりなんだ。ソファーに寝かせている彼女と会うことはもうないだろう。それなのに」
や、やめろ。それ以上は、その本音は。
「お前のやりたかったことを、やらなくても良いのか? こんなチャンスはもう」
ぼくに伝えたいことを口にしたからか声は聞こえなくなった。そして胸の辺りにあったであろう黒いなにかが広がっていく。
「さようなら。ぼく」
はじめまして。いや、今までうそをついていたことを謝るべきかな。いずれにしても、もう逃げられない。
「いや。逃げる必要がなくなった、だな」
ズボンを下ろし、可愛らしい寝顔の彼女を見ながら。
「今が、人生で最高の瞬間だ」
ぼくの身体から、勢い良く飛びだした白い液体を彼女の顔面に浴びせていた。
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