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プロローグ

1.トラウマの記憶

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 きっと本質的に僕が悪いわけでは無いのであろう。

 誰かに話せば、僕の責任ではないと言ってくれるかもしれない。

 それでも、ふとしたときに思い出すのだ。

 あの光景を――

――宙を舞う、小さな体躯を。

――あの時の、少女の表情を。

―――――――――――――――――――――――――――――

 『須藤すどう たける』は世間一般からすると、"不幸"な男であった。

 黒より少しだけ茶色寄りな髪と目の色をした、母親譲りで少しタレ目な優しそうな印象を持たれる顔立ちであり、特に外見で不幸だというわけではない。

 声変わりを迎えた割には高い声と若干の童顔が相まって幼く見られがちではあったが、それも別に不幸と言うほどの事でもない。

 ではいったい何がと問われれば、幼い頃に両親を交通事故で無くし、武自信がその現場を目撃したという、それ故の"不幸"である。

 突然の発作で運転手の制御を失った大型のトラックが向かった先は公園に向かって歩いていた武たち一家のもとであった。

 武を抱いていた母は咄嗟に武を庇い、父は母と武を庇って轢かれた。
 
 全員死んでいてもおかしくはない大事故であったが、なんとか武だけは一命をとりとめたのである。

 周りの大人たちは奇跡だの何だのと騒ぎ立てていたが、武は幼いながらも明確に理解していた。

――「自分は両親のおかげで生きているのだ」と。

――そして、「両親にはもう会えないのだ」と。
  
 最初の頃は「自分のせいで死んだ」とか「あの日自分が遊びにいきたいなんて言わなければ」などと考え、鬱ぎ込んで泣きわめき、引き取ってくれた叔父を困らせたりもしたが、しばらくすれば考えもまとまり、落ち着きを取り戻していた。

 年齢のわりに聡かった武は、叔父を困らせないために泣かないようになり、その反動かあまり笑わないようにもなったが、彼との会話自体は違和感なく成立したため――いや、彼がそれを成立させることが出来たために、この"異常"に気が付く者が本人も含めてほとんど居なかったのである。

 そんな武の心の中では「自分も両親のように誰かを護って死ねるような人間になろう」という漠然とした目標の様なものができ、いつも頭のなかでは「いじめられてる人を見つけたらどう助けようか」とか「事故に巻き込まれそうな人を見つけたらこう助けよう」などと考えていた。

――そう出来てこそ"両親の死に意味が生まれる"と。

――誰かを"護ること"こそが自分の"生きる意味"だと考えていたのだ。

 中学を卒業した武は、高校からは叔父のもとを離れて一人暮らしを始めた。

 事故を起こした会社からの慰謝料と両親の保険金と貯金を叔父は一切手をつけずに残していてくれたため、バイト漬けの毎日になるようなことは無く、学生の本分である学業に専念することができ、概ね順風満帆の高校生活と言える状況であっただろう。

 そんな高校生活も一年と半年を過ぎた頃、武の身にささやかな不幸が訪れる。
 しかしそれは武にとって最大の不幸とも呼べるものとなった。

 交通事故にまたしても遭遇してしまったのである。

 今度は当事者ではなく第三者として。

―――――――――――――――――――――――――――――

 頭の鈍い痛みに目を覚ますと目に入ったのは見覚えのない天井だった。
 辺りを見回すと点滴や、ベッドに取り付けられた柵や仕切りのカーテンが目にはいる。
 ここはどうやら病院のようだ。

「どうして……病院に……?」

 寝起きでぼんやりとする頭をどうにか働かせて記憶を辿る。

「確か昨日は……放課後に学校で先生に質問をしに行って……その後に家に帰ってたら公園の辺りでトラックの排気ブレーキの音を聞いて……何があったんだっけ……」

 そうやって思考を巡らせていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
 引き戸を開ける音が聞こえ、続いてカーテンが開かれる。

「あら、須藤さん。良かった。気が付いたのね」

 入ってきたのは新人と言うほど若くもなければ、熟練と言うほど年を重ねてもいなさそうな、まさに"中堅"といった感じの女性の看護師さんだった。
 いつか聞いた話であるが、ナース服のような所謂"制服"と呼ばれるものの効果は絶大なようで、人は理解の及ばない状況にあればあるほど無条件にそれを着用した人物を"信用の置ける人物なのだ"と意識させられるらしい。

 その例に違わず、未だに置かれている状況を理解できない自分は実に無防備で無警戒に、それこそ"これ幸いに"と言った感じでその女性に状況の説明を求めた。
 きっとそういう状況を利用した詐欺があれば、自分はさらっと騙されてしまうのだろう。
 しかしそんな事象にはそうそう出会う筈もなく、自分の信用に違うことなく彼女は実に冷静に「推測ではあるけど」と前置きをしてから説明をしてくれた。

 話を簡単にまとめると、どうやら自分は家路の途中で転倒して頭を打ち、気を失って歩道に倒れている所を夜道を散歩中の近所のおじさんに発見されてここに運び込まれたらしい。
 なんとも間抜けな話だ。

「もう検査はしたのだけれど、患部はこけた時に打ったそのおでこの怪我だけみたいだから退院したければ今日にでも大丈夫よ」

「はぁ、では今日にでも」

「それと、申し訳ないけど本人確認のために持ち物確認もさせてもらったわ。学校と保護者の方にももう連絡はしてあるからね」

「あ、ありがとうございます」

「ああ、それと保護者の方から伝言よ。『大事無いなら連絡は良い。気をつけて生活しなさい』だそうよ」

「……はい。何から何までありがとうございました」

「診断書と荷物と、一応塗り薬もつけておきますから、受け取りに後で受付まで来てちょうだいね」

「了解しました」

 そんなやり取りの後、言われた通り受付に寄ってから病院をあとにしたのであった。
 家に帰ると時刻はお昼すぎであり、室内は休日にしか感じることの無いような暖かな温度で、今日が平日だとわかっている自分には違和感しか無かった。
 ひょっとしたら他人の部屋なのではと感じてしまうほどだ。

 その後は、病院側が連絡してくれているとはいえ、一応自分からもした方が良いであろうと考え、学校に連絡を入れた。
 電話に出た事務らしい人に「大事をとって今日は休む」という旨を伝えると、正直自分の事なんてまったく知らないだろうに、心底心配そうに「お大事に」などと言ってくれた。
 社交辞令なのだろうとはわかっていても、何故か少し救われたような気になるものだ。

 実際無理をしたくない程度には頭痛がするため、その日はゆっくりと過ごし、そのまま眠った。

――何か大事なことを忘れている気がする。

 そんなモヤモヤを抱えて――

―――――――――――――――――――――――――――――

「…………痛い」

 次の日の目覚めは最悪であった。
 只でさえ何かを忘れている気がして心中穏やかでないのに、頭の怪我がズキズキと痛むのだ。
 しかし自分は高校生。
 ただでさえ一日休めばすぐに授業についていけなくなってしまう。
 どんなに気分が最低でも学校に行かねばならない。

「さて、行くか。……行ってきます」

 両親と過ごしていた時以来、答えの返ってきたことのない挨拶をして家を出る。
 意味の無い行為かもしれないが、虚しいだけだとわかっていても何故かこの行為に固執してしまう。
 自分にもよくわからないが、何か諦められないものがあるのかもしれない。
 もはや作業じみた動作で鍵をかけ、いつもの通学路を暫く歩いていると後ろから追い付いてきた友人が声をかけてきた。

「よう武! なんか病院に運ばれたって聞いたけどもう大丈夫なのか?」

「おはよう。まだ若干痛むけど、おちおち休んでもいられないからね」

「まあ昨日はそんなに難しい内容でも無かったから後でノート見せてやるよ」

「お。ありがとう」

 他愛ない会話だ。
 いつも通りだ。
 でもやはり自分は何かを忘れている気がする。

 「そういえば、気を失って倒れてたんだろ? どの辺なんだ?」

 「えーっと……最後の記憶があるのが確かちょうどあのへ……ンッ!?」

 説明しようと道路を見たその刹那、頭に鋭い痛みが走った。

(そうだ……女の子がいた……)

 歩道で暗い中辺りをしきりに見回している小さな女の子がいたのだ。

(迷子かと思って声をかけたら……焦って道路に飛び出して行って……)

 そこにトラックが走ってきて、自分はそれを当然助けようと――

(助け……ようと……して……?)



――そうだ。

――動けなかった。

(いや、僕は助けようと……)

――怖じけづいた。

(助けようと……したんだ……)

――でも、動けなかった。

 (ああいう場で……動ける人間になるんだって……)

――"自分も死ぬかも"と思ったんだ。

(誰かを護って死ぬことが怖いなら……)

――両親の死の意味は。

(目の前の命も護れないようなら……)

――僕の……生きる意味は……。

――い」

(僕の……僕のせいで……)

「おい!」

「…………え?」

「おい! 大丈夫か武? いきなり頭押さえて黙りこんで……」

「あ、あぁごめん。ちょっと……ボーッとしてた……」

「本当に大丈夫か?」

「……うん。まだちょっと痛いけど、大丈夫だよ。ごめんね。ありがとう」

「まあ……それなら良いけど……」

 自然な態度を装いながらそのまま学校に行ったが、それからの日々は酷いものだった。

 友人と話をするたびに思うのだ。

――『あの子にはどんな友達ができるはずだったのであろうか』と。

 微笑みあいながら歩く家族を見て思うのだ。

――『あの子にはどんな家族がいたのだろうか』と。

 朝、忙しく行き交う人々を見て思うのだ。

――『あの子はどんな仕事に就いたはずだったのだろうか』と。

 町で隣り合って歩く恋人たちを見て思うのだ。

――『あの子には将来どんな出逢いが待っていたのであろうか』と。

 夜、眠りにつく前に否が応にも考えてしまうのだ。

――『あの子にはどんな未来が待っていたのであろうか』と。

――『どんな幸せが、悲しみが、喜びが、苦難が、希望が、不安が、愛が、仲間が、別れが――

――『どんな人生が待っていたのであろうか』と。

―――――――――――――――――――――――――――――

 全て、僕が動けていれば、僕に少しの勇気があれば、存在していたはずの未来なんだ。

 誰かに何と言い繕って貰おうが、僕は一人の人間の人生を奪ったのだ――両親に護られたこの命で。
  
 僕の意味を失った生はきっと忘れる事が出来ないだろう。

 この記憶を――

――救えない自分への"失望"を。

――護れない意志への"絶望"を。




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