空に沈む

Nasuka

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1章

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 あの男は地面を歩くとき、きっと数センチばかり宙に浮いていたんだと思う。陽樹がそう思ってしまう程には、鴨居生人は浮世離れした人間であった。
 陽樹と生人には、本来同学年であるという以外接点はない。
 彼らが通う私立高校は、一学年全七クラスで大きく三つのコースに別れている。特別進学コース、進学コース、もう一つがスポーツ進学コースだ。特別進学は主に国公立大学等進学を目指した学生が集まり、進学は主に専門学校や就職を目的とした学生が集まるが、スポーツ進学だけはまるで特殊だ。
 中学時代にある程度スポーツ分野で優秀な成績を納めた者達が、スポーツ推薦を通して入学する。スポーツに力を入れたこの学校では全国大会に出場する部活も多く、プロスポーツ選手や指導者を目指す者が多く集まる。学内にはジムも併設されており、正にスポーツに特化した学校と言えた。
 特に部活動では抜きん出てラグビー部が強く、過去に何度も全国大会で優勝を果たしている。幼い頃から地元のラグビークラブに所属していた陽樹だったが、彼が推薦でスポーツ進学コースに入学し、すぐにラグビー部で頭角を現していった事に驚く者は、彼の周りでは誰もいなかった。
 一方生人は特別進学コースの文系クラスだ。スポーツ方面の栄光ばかりが目立つ学校であったが、有名私立大学とのパイプも太く、私大受験の際に学校推薦枠の多さでも評判が良い。陽樹は生人に対してそれほど勉強に懸命に励んでいたという印象を持っていないが、少なくとも特進に入ったという事は、生人もまた大学進学も見通していたのだろう。
 スポーツ進学と特別進学、例え同じフロアにこの二つのコースの教室があったとしても、分野も遠ければ実際の教室の距離も遠く、接点は全く無い。そんな彼らが接点を持つことになったのは、陽樹が入学して間もない一年の五月であった。
 その時一年になったばかりの陽樹は、図書室と間違えて四階資料室に足を踏み入れた。
別の階にある図書室とは違い、四階資料室は主に地域の郷土史や資料、新聞、地元出身の著名人の書籍や、学内で発行された広報誌などが保管されている。地域の歴史にいつでも気軽に触れられるように、と用意された場所だ。その為資料室の扉は常に解放されていて、いつでも生徒が利用できるようになっていた。しかし資料室を利用する者は少なく、その実態は雑多な資料が集まるただの書庫と化していた。
最初陽樹は人が居る事など想像もしていなかった。彼が資料室の扉に手をかけた時、室内は薄暗く電気は付いていなかったからだ。加えて引き戸を開けてすぐ目の前には、スチール製の骨組みがむき出しになった本棚がある。大きな本棚が縦に四つ程並んでおり、雑多な資料をぎっしり詰めながら狭い部屋の奥まで続いている。部屋の奥まで進み、そこで既に資料室に居座り始めていた生人と、ばったり出会ったのだ。
 生人は本棚を越えた先にある、パイプ椅子と大きなテーブルが置かれた資料閲覧用のスペースで、まるで資料室の孤独な王様の様に一心不乱にスケッチブックを囓っていた。
 囓っていた、と見えたのは一瞬で、実際彼は窓際にパイプ椅子を置き、組んだ足の上にスケッチブックを乗せながら絵を描いている様だった。余りにも猫背であった為、陽樹がそういう印象を受けただけだ。半袖から伸びた不健康に白い腕は奇妙に長く、俯いて顔を隠す長い前髪は画用紙の上で踊り滑っている。テーブルの上には幼稚園児がよく使うような十二色入りのクレヨンセットが置いてあり、使い込み過ぎて短くなったクレヨン達は、それぞれ赤なんだか青なんだか見分けがつかないぐらい他の色で汚れていた。
 クレヨンを握り、陽樹の存在にも気づかず一心不乱に描くその姿は、まるで飢えた犬が餌の入った皿にがっつくようであった。何をそんなに懸命に描いているのかと近づいて覗き込めば、そこには赤銅色のネズミが数匹描かれていた。
陽樹には絵の善し悪しなど全く分からない。彼がその絵を見て最初に感じたものは、怖い、であった。グロテスクな描写があった訳でも、色使いがおどろおどろしい訳でもないのだが、ネズミは地面に爪を立て威嚇する様にこちらを睨み上げている。それはまるで執念深く何かにしがみつき、決してその抱えている物を離すまいとしている様だった。
 描いている本人の気迫も相まって、陽樹はしばらく目が離せなかった。ようやく顔を上げた生人と陽樹は目が合ったが、その目はまるで近所に出現した不審者でも見る様な、不快感を露骨に現した目だった。
 その日以降陽樹は昼休憩になると、気が向けば四階資料室に立ち寄る様になった。本棚にあった適当な本を手に取り、大きな机を挟み生人とは反対側のパイプ椅子に座って本を広げる。小さな文字が整列する本の三十ページ目ぐらいを開き、文字ばかりの紙を眺めながら奇妙な絵描きを視界の端で捉えていた。
 陽樹は、別に生人と親友の様に親しい関係になりたかった訳ではなかった。
 言うなれば、動物園の中の動物を見に行く様な好奇心だ。無料で見られる世にも奇妙な絵を描く獣がいる。クラスは違うがきっと同じ一年で、恐らく彼はとんでもなく変わり者だ。
 陽樹を動かしたきっかけといえば、これだけで十分であった。 
 生人は大抵昼休憩には資料室にいた。資料室にあるたった一つの窓にパイプ椅子を寄せ、スケッチブックに齧り付いていた。スニッカーズやソイジョイなどを頬張り、弁当などまともな昼食を摂っている姿を陽樹は見たことがない。
 資料室通いが週一回から週二回、週三回と回数が多くなるにつれて、陽樹が生人と会話を交わす機会も増えた。
 基本的に生人は無口であった。「いつもここで描いてんっすか」と初めて陽樹が声をかけた時も、クレヨンが紙を擦る音を鳴らし続けるのみだった。目の前に居る青年は実はこの世の者では無いんじゃないかと、陽樹は何度も瞬きをして彼の立体感を確認したものだ。
 その内コンパクトな単語であれば一つか二つ返事をする様になったが、陽樹が初めて鴨居生人という名前を知ったのは、彼と出会って一ヶ月過ぎた頃であった。
 時間が経つにつれて、生人との会話が増えていく。そうして分かった事は、彼は饒舌に何かを語る時と一切何も話さない時の差が激しいという事だ。
 何も話さない時は今までと変わらず、陽樹の声が生人に届くまでに何者かがたたき落としているのではないか、そう疑う程無視を徹する。
 一方饒舌に話す時は、陽樹から何も尋ねていなくても喋り続ける。彼は存外話したがりだった様だ。その上話の内容は、これまた拍子を外した音楽の様にずれた内容ばかりだ。例えば陽樹から明日の天気を尋ねたとしても、おもむろに黄昏れた眼差しで窓の向こうの空を指さし、「あそこに鳶が飛んでるだろ?」と何故か突然鳶の話を始める。
 またある時、何でこんな所で描いてんだと陽樹は聞いてみた事もある。
 確かにこの資料室であれば人もほとんど入っては来ず、静かに絵に集中したいのであれば最適だ。しかし絵を描く作業に適した場所ではない。教師が来たら注意されてもおかしくはない。
 それを尋ねれば、生人は走らせ続けていた右手を止め、ひとしきり思案した後にこう言った。
「固定化されたルーティン、集団を好まず単独主義、ちょっと逸脱した行動、これから名を馳せるアーティストの前段階としては上々だろ。それにここは、潜りやすい」
 にやにやと意味ありげにこちらを振り返ってきた。陽樹には全く意味が分からなかった。
「どういう事?」とその時陽樹は聞き返したが、再び右手を動かし始めていた生人から返事は無く、代わりに窓の外にはどこまでも潜っていけそうな空が広がっていた。 
 昼休みだけの奇妙な交流は約一年半も続いた。動物園の動物を見るぐらいの好奇心にしては、随分と長く続いた。これは陽樹自身も自分に驚いた。生人との会話が他の友人との会話と比べて特別楽しかった訳でも、ましてや気が合った訳でもない。好奇心も初めの頃よりは随分と薄まってしまっていたが、昼休憩に資料室に行くという行為が、陽樹の中で最早ルーティンと化してしまっていた。
 しかし終わりは唐突だった。生人と出会ってから一年半が過ぎた頃、彼らが二年生の夏の終わりを迎えたちょうどその頃、陽樹は資料室通いをぱたりと止めた。
 以来、生人が自殺するまで二人は一度も話した事がない。


 羽虫が陽樹の睫毛にぶつかった。鬱陶しそうに片手でそれを払いながら、彼はいつもより遅いペースでクロスバイクのペダルを漕ぐ。半袖のブラウスの袖口からぬるい夜風が彼の腕を撫でた、風は陽樹を中心に二つに別れる。二十時を過ぎたその道は、県道ではあるものの街灯は乏しく静寂に沈んでいた。数メートル先に見えた小さな公園の入り口にある電灯が、生まれたての影の様にひっそりと佇んでいる。
 陽樹はぬるく湿った空気を鼻から吸い込む。その吸い込んだ空気の中に彼が先ほど嫌というほど嗅いだ、畳の青い匂いと線香の甘い匂い、そして誰かの服に染み付いた煙草の臭いが紛れている気がした。
 七月二十九日金曜日、夏休みに突入して四日が経った今日、陽樹は生人の通夜に参列し今はその帰路についていた。
 そこで見た遺影の中の生人は、陽樹が初めて彼に会った時のようにどこか不機嫌そうであった。何が気に入らないのか下唇をとがらせ、探る様にじっとこちらを見る彼の写真が白百合に埋もれる様に真ん中にあった。
 最後の写真だっていうのに、こんな写真が選ばれて可哀想な奴だ。
 式場で生人を見た陽樹が最初に思った事は、悲しいでも、寂しいでもなかった。
 生人の通夜は通常よりもずっと遅れて執り行われた。本来、故人の死亡日翌日から数日以内に通夜が行われる。しかし生人の通夜は、死亡日から一週間後の七月二十九日に行われた。陽樹はその理由に関して、一切何も分からない。先ほど聞いた喪主からの別れの言葉でも「本来よりも些か通夜の日取りが遅くなってしまい」としか触れていない。しかし遅れた原因は、事情を知らない陽樹にも容易に想像出来た。
 校舎四階の角部屋は資料室である。生人はそこから飛び降りた。
 七月二十二日の朝八時頃、ちょうど生徒達が登校する少し前の時間帯だ。陽樹は実際に現場に遭遇した訳ではない。彼が登校した時は既に生人の姿はなく、生人が落ちたであろうその付近には野次馬が群がっていた。皆一様にスマホを高く上に上げ、何かを撮ろうとしていた為、陽樹自身も何だか分からないが気になってその撮影会に参加した。後になって彼は知ったが、皆がカメラを向ける先にあったものは、規制線の向こうで慌ただしく動く警察官達と、更にその向こうの未だ生々しくアスファルトに残る血の跡だった。
 学校側は生人の自殺の対応に追われていた。その日学校は休校となり、保護者を対象とした説明会が翌日行われた。休校自体は長くはなく、数日後にはすぐに通常通りの登校となった。しかし自分達の学校から自殺者が出た、というニュースは生徒達に異様な興奮と熱気を孕ませた。教師達は生徒達に精神的なショックを与えないようにと、極めて通常通りに振る舞おうとしていたが、連日訪れる警察や教育委員会の職員等が一部の生徒達を呼び出して事情を伺っていた事も、余計に非日常感を際立たせた。
 陽樹は警察に何も聞かれなかった。生人とは接点が無いと思われたのだろう。それは当たり前のことだったのかもしれない。陽樹と生人の接点は一年も前、しかも昼休みの僅かな時間でしかない。自分も呼び出されるのではと身構えていたが、誰からも生人との関係を聞かれる事は無かった。それは陽樹に安堵を与えると同時に、生人との繋がりを記憶ごと否定された様に感じた。
 人気のない夜道を陽樹は進む。コオロギかスズムシか、陽樹には何の虫か分からない生き物達の声が、そこかしこから頻りに聞こえてくる。住宅街であるこの道を今日陽樹は初めて通った。家から学校まで一駅分のみ電車を利用しているが、通学路以外の道を通る事はほとんどない。斎場から駅までこの道を通る方が分かりやすかった為、地図アプリに頼る事もなくペダルを漕いだ。
 先ほど見てきた光景を思い出す。大勢の親族と、それに紛れる様に参列した学校関連者。生人の担任教師は終始俯き、遺影の中の彼と目を合わせる事はなかった。校長や教頭は、情けないほどに脂汗の浮かんだ顔で数珠を握っていた。一方生徒側は陽樹の他に生人のクラスメイトも参列していたが、経典を読み上げる最中うつらうつらと船を漕いでいた者もいた。それを見て、貧乏ゆすりをしながらひたすら苛立ちを表明している者もいた。
 そんな中一等陽樹の目を惹いたのが、喪主の隣でうなだれる様に座っていた長い黒髪の女性だ。彼女は通夜が終わった直後、いきなり悲鳴の様な叫び声を上げたのだ。生人が入った棺桶に縋り付き、ひたすら息子の名前を呼び続けていた。ゆるく波打つ髪を振り乱し、喪主が彼女を何とかなだめようと肩を掴む手を払いのけ、叫び続ける。
 あの女性がきっと母親なのだ。甲高い彼女の声が、いつまでも陽樹の耳の中で反響した。
 生人は死んだ。現実味のないその事実が本当に現実であると、陽樹は理解出来ている様で実感が沸かない。生人の死を悼む気持ちはあるが、思い出される記憶の数々が眉をしかめる程遠く、浸れる程深くはない。別に現実逃避をして生人の死を否定している訳ではなかったが、悲しみに暮れるには沸き上がる感情が不足している。
 何故生人は自殺をしたのだろうか。今日通夜に行けば、陽樹は何か分かるような気がしていた。本当であれば本日の出席もどうしようか悩んでいた。かれこれ一年以上も交流が無い、友人と呼べるのかも不安な相手に、手を合わせられても迷惑ではないのかという考えが過った。
 しかしそれでも生人の自殺の理由が知りたかった。青年は確かにいつも孤独だったが、彼と自殺の組み合わせが陽樹には笑ってしまうぐらい不釣り合いに思えて、本当は自殺なんかではなかったんじゃないかと陽樹は考えたのだ。だが実際に葬式に出席しても、生人が何故死んだのか語られる事はなく、斎場の歪な空気だけが彼の死因の異質さを語っていた。
 等間隔で点を打つ様に置かれた電灯を辿っていけば、やがて小さな公園の前に佇んでいた電灯が目の前までやってきた。薄暗い道のその先に、こちらよりも数段明るい大通りの様子が見える。横に長く伸びた大通りまで出てしまえば、後は通りに沿って進むだけで駅に辿り着く。
 見慣れた通りが見えてきて陽樹はほっとする。
 大通りに出るその手前でもう一つ電灯が佇んでいたが、その根元には緑色のネットがかけられたゴミ捨て場があった。ゴミ収集日のスケジュール表が立て札に張られているにも関わらず、黄色い張り紙が張られたゴミ袋がいくつか放置されている。
 何の気はなく、通りすがりにふとそのゴミ捨て場に目を遣った陽樹は、放棄されていたいくつかの黄色い張り紙の中から、周りと様子が異なるそれを見つけた。それは無意識の中で引っかかってしまった違和感で、完全に通りすがってしまった後で自分が何か違和感を感じた事に改めて気付く。
 慌ててブレーキをかけて過ぎてしまったゴミ捨て場を振り返る。電灯の根元に、緑色のネットからはみ出す様な姿勢で大きな板の様なものが立てかけられていた。
 それが何であるか確かめようと陽樹が近づいたのは、純粋な彼の好奇心からであった。
 板の表面は青く、ロウを塗った様な光沢がある。クロスバイクから降りて近づいて見れば、それは大柄な陽樹が両手を広げて長辺が収まる程の、一枚の絵画の様だった。縦長の木版に画用紙が水張りされ、不法投棄の黄色い張り紙が絵画の真ん中に貼り付けられている。電灯がスポットライトの様に絵画を上から照らしていたが、絵画は他の不法投棄のゴミと同じ顔をしてそこにいた。
 珍しいゴミを見つけたな、そう思い絵画の前で陽樹はしゃがむ。
 青さばかりに目を取られ、空模様を描いた風景画かと思ったが、よく見れば下半分では黒い岩陰や珊瑚の様なものが見受けられる。海の中を描いた絵画なのかもしれない。何度も何度も擦りつけられ重ねられた青色は、立体的な質感の色の層を作っている。色を重ね、伸ばし、ぼかして、また重ねていく。その過程が陽樹には目に浮かぶようだった。 
 しかし黄色い張り紙のせいで絵の全体を見ることが出来ない。だから張り紙を剥がそうと、その絵画に陽樹は手を伸ばした。
 手を伸ばし、指先がつるりとした絵画の表面に触れた。
 触れた、と思った瞬間、陽樹が足裏に感じていたアスファルトの感覚が消えた。
 突如として足下の地面が抜け落ちたのだ。まるで大きな落とし穴がそこにあったみたいに、文字通り陽樹の足下は無くなった。地面だけではない。彼を包む辺り一体の真夏の夜の空気は強風と共に消え去った。すぐ隣に立てかけたクロスバイクも、電灯の明かりも、聞こえていた虫の声も、遠くを走る車の音も、湿気った夜の匂いも、全てが地面と一緒にすとんと底に落ちていった。それは世界が一変した、というよりも世界が根本から変わった、そんな感覚としか陽樹には言い様がなかった。まるでスイッチをオンにするみたいに、現実と夢の境界線がはっきりと見えてしまったみたいに。
 風が全身をなぶった。代わりに彼を包んだ世界は青空であった。陽樹は空に放り出されていた。何十メートルも高い所から落とされたかの様に、強風が彼の背中から駆け抜けていく。落ちていくのに浮き上がる様な浮遊感を覚えた。鮮烈に青い空が目の前に広がっていた。呆れてしまう程に広い青空の中に彼はぽつんと落ちていく。高い所から墜落していくという、突如として出現した理不尽な状況に呆然とするしかない。息の吸い方も吐き方も忘れてしまった。世界の存在と自分の存在を瞬時に知った。体が青空に溶けていく。溶けていく最中彼が見た物は、頭上の遙か上で翼を広げて飛ぶ、一匹のネズミであった。
 

 二年前の八月末の事である。その日は、三十度越えの真夏日であった。
 爆ぜる様に青い昼下がりの空が、窓の向こうで広がっている。天井を知らない空の青さは、誰が見てもこの世界に果てはないのだと教えている様だ。白い筋の様な雲が風に乗せられ、遠くの方で灰色の大きな雲に変形していった。
 窓枠の向こうに見える空に陽樹は目を細めて、もう一度目の前に座る生人を見遣った。
 今日の彼もスケッチブックにひたすら絵を描いている。スケッチブックと顔の距離が今日は遠く、何度か椅子の背もたれを軋ませる音を鳴らした。彼の姿勢によってその日は気分が乗っているのか、乗っていないのかが分かる。猫背になればなるほど調子良く集中しており、陽樹が話しかけても返事がない。そして姿勢が良くなればなるほど気分が乗らず手遊びが多くなり、大体ずっと喋っている。生人曰く、”明度”が高い時が一番見通しがよく、絵もよく描けるのだそうだ。背もたれにだらしなく背を預けながら、しかし眼差しは真剣にスケッチブックを見つめる今日の生人は、果たして”明度”が高いのか低いのか。陽樹は改めて首をかしげた。
「何でネズミばっか描いてんの?」
 ステンレス製の弁当箱の中から、からあげを箸で突き刺して持ち上げる。生人との距離は確かにあるが、長身の陽樹にとってはちょっと首を伸ばせばスケッチブックの中身は容易に見えた。
 ただスケッチブックを覗いても、彼が描いているものは大抵小さな鼠の絵だった。時折空を飛ぶ鳶や窓枠にひっついた蠅、電信柱に止まるカラスなんかも描いてはいるが、窓枠から見える範囲で何も題材が無ければ、大抵そのネズミが姿を現す。
 生人が描くネズミに、初め陽樹も眉を潜めた。全体的に赤銅色に塗られた毛並みは血液を連想させ、抉る様に黒く塗られた小さな目は何よりもそのネズミの意地汚さを象徴していた。見る者によっては目を背けたく絵かもしれない。グロテスクな印象さえ覚えるその絵は、しかし見慣れてしまえばどうと言う事はない。むしろ何故いつもネズミなのか、ネズミがそんなに大好きなのかの方が陽樹は気になった。
「陽樹、こいつの種類は何だと思う」
「ドブネズミ」
「どぶ? どこが」
 生憎陽樹が知っているネズミの種類は、ハツカネズミかドブネズミと二つの選択しかない。
「レミングです」
 生人は抱えていたスケッチブックを両手で持ち直し、陽樹が見えやすい位置に掲げる。まるでえさでも探す様に地面を這う数匹のネズミがそこに描かれていた。今日は黒炭のみで描かれていたが、泥の臭いがたちこめてきそうなネズミたちだ。
「北極付近に生息する体長十センチほどの小さなネズミだ。草食で草やコケなんかを食べて生きている。和名は旅鼠。三,四年周期で個体数が急激に増減する事が知られているが、大増加した時に住処を求めて集団移住するらしい。名前の由来はそこから来ている。ちなみに今俺が描いてるのはノルウェーレミング」
 まるでネズミ博士だな。弁当箱に最後に残った、ほうれん草の炒め物をつまみながら思う。
「そしてレミングは、ある逸話で有名だ」
 紙芝居のようにスケッチブックを掲げる生人は得意気な笑みを浮かべた。
「ネズミっていえば、あの有名な遊園地のキャラクターしか知らねぇよ」
「遠からず惜しいな」
 ほうれん草を口に入れて眉間の皺を深める陽樹とは対象的に、生人は尚も楽しそうに口角を上げた。
「実はミッキーがそのレミングだったとか」
「あぁずれたね。ただ、ミッキーの生みの親がその逸話に関係してるってだけだけだが」
 生人は持っていた黒炭をくるりと回し、格好つける様に先端を陽樹に向けた。
「まぁ大事なのはそこじゃない。ぶっちゃけ逸話もウォルト・ディズニーもどうでもいい。つまり俺が言いたいのは、生存本能を究極に突き詰めたその先だ。生存本能に相反する本能は存在し得るのかという問いにも直結する。生きるという、たったそれだけの宿命を背負った生き物に対して、俺はどこまでも鋭利に尖った目で深海に潜り続けていく。このネズミはその象徴、イメージキャラクターみたいなもんだよ」
「ほぉ」
「俺版ミッキーって感じ」
「へぇ」
 途中まで理解出来ていた説明が、途中から化学反応を起こして一気に解読困難なブラックホールに成り代わった。生人は自分の得意分野の話になると楽しくなってしまうのか、自身の考えを非常に難解な抽象画の様に表現する。それは、話を聞いている陽樹に理解される事を前提としていない。今まで彼が自身の考えを人に説明する機会が無かったからこの様になったのか、初めから理解なんて求めてもいないのか、それとも理解されたくないのか。
 しかし陽樹はその理解不能な生人の発言を、わざわざ理解出来るまで追求する様な事はしなかった。凡人にはいくら聞いたって理解出来ないんだろうな、とぼんやりと聞き流す。
「じゃあ生人版のプーさんは?」
「ホッキョクグマとか」
「プーさん白くなったな」
 急に生人の対応が雑になった。興味の対象からずれた質問だったのだろう。
「てかお前のミッキーの逸話って何なの」
 軽食で買ってきた鮭のおにぎりに陽樹は手を伸ばす。生人の視線は合い変わらずそのネズミに注がれていた。
「集団自殺。ディズニーが作り上げた、逸話だよ」
 

 陽樹は目を開く。彼の目の前でドアが開かれた。その先にあった景色は、陽樹が今さっき見ていた鮮烈な青空よりもずっと穏やかな昼の青空だった。
 何度も瞬きをした。すると彼の目の前で自動ドアが閉じる。透明なドアにはよく行く学校前のコンビニのロゴが描かれている。しばらく経つと自動ドアは再び開いた。やはりそこにはあくびをしたくなる様な青空が広がっており、目の前の道路では車が行き交っている。陽樹の後ろから来た大人の女性が、さも邪魔そうな目を彼に向けて外に出ていく。
 ここでようやく今、自分が立っている場所が夜八時のゴミ捨て場ではない事に気付いた。
 急いで辺りを見回せば、すぐ近くにはエナジードリンクが棚に陳列されており、レジカウンター内にいる店員と数人の客が不審そうな目で陽樹を見ている。紛れもなくそこは学校前のコンビニであった。加えて自身の手には身に覚えのないコンビニ弁当とお茶、そしておにぎりが二つ抱えられている。
 つい先ほどまで陽樹は、生人の通夜を終えて家路に着いていたのだ。次第に冴えてきた頭は余計に陽樹に混乱を与える。確かに数秒前までは辺りは真っ暗であり、公園近くのゴミ捨て場の前に立っていた、そう彼の記憶は主張する。
 これは夢なのか、それともさっきまでの事が夢なのか。後ろから入ってきた客にまた迷惑そうな顔をされ、一先ず陽樹は外に出た。その時、スラックスの中のスマホが震えている事に気付く。画面を見れば中学時代からの友人、坂口紬からの着信であった。
「ちょっと、あんた今どこにいるのよ!」
 開口一番紬の怒声が陽樹の鼓膜に響く。既視感のある場面に陽樹は更に困惑を覚えた。
「公民のノート! 今日の昼休みまでに返してねって散々言ってたのに、いくら待っても来ないしハルのとこの教室見に行っても居ないし電話かけても出るの遅いし」
「公民?」
「貸してたでしょノート、提出期限今日の放課後までの」
 まさか忘れてたわけ? と紬の苛立ちが更に顕著になる。
 進学コースである紬は陽樹とクラスが違うものの、中学二年の頃から同級生でありよく知れた仲である。同じ文系を選択している事もあり、あまり授業を真剣に聞かない陽樹はよく紬を頼っていた。特に公民に関してはノート提出が求められる科目であった為、陽樹はよく紬からノートを借りていた。
 最近でも陽樹は公民のノートを紬から借りている。しかしそれは一ヶ月前、六月二十二日に彼女に返している。更に言えば夏休み前に、提出したノートは既に教科担当から返却されている。
「ちょっと待て。ノートは大分前に返しただろ。締め切りだってとっくに過ぎてるし、もう返却もされて」
「はぁ? ノートはあんたから返されてないし、締め切りは今日! ほんと、いい加減にしてよね」
 紬の言っている事が分からない。絶対にさっきまで夜のゴミ捨て場にいたんだ、そう陽樹は確信をもって言えるが、頭上で広がる青空と高く上った太陽が陽樹の確信をせせら笑った。
「紬、今日って七月二十九日、だよな」
 恐る恐る陽樹はそう尋ねる。またしても呆れた様に「はぁ?」と聞き返された。
「何言ってるの? ちょっとしっかりしてよ」
 最初に聞いた怒声よりも、その一言は陽樹の耳によく残った。 
「今日は六月二十二日でしょ」
 生人が死んだ日が七月二十二日。その日からちょうど一ヶ月前の六月二十二日に、時間が巻き戻っていた。
 
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