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プロローグ
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黒いコンビニのマットを踏む。
自動ドアが開かれたその先には、梅雨盛りの六月には似つかわしくない晴れた青空が広がっていた。
今日は雨降らないんだったか。鶴見陽樹は今しがた買った弁当とお茶、そしておにぎり二つを脇に抱えながら、ぼんやりとのどかな青空を仰いだ。その時、スラックスのポケットに忍ばせていたスマートフォンが小刻みに震える。
「ちょっと、あんた今どこにいるの!」
スマホ越しから聞こえてきた友人の高い声は、何の構えもなく電話に出た陽樹の鼓膜を大きく震わせた。
「はい、もしもし」
「もしもしじゃないわよ、今日の昼休みまでには貸してた公民のノート返してねって散々言ってたのに、いくら待っても来ないしハルのとこの教室見に行っても居ないし」
「あぁ、忘れてた」
「だからどうしてあんたは!」
電話越しで聞こえるキリキリと軋む様な友人の声に、陽樹はスマホを耳元から少しだけ離した。
「ノートの提出期限は今日の放課後までなのにどうして忘れられるの? 他にノート借りれる人が居ないっていうからクラス違うあんたに貸してあげたのに、よくも人の恩を仇で返す様な事を」
「悪かったって、今返しに行くから」
それじゃあ、と陽樹は通話を無理矢理終了させた。通話を切る直前まで友人の小言が聞こえていたが、後で会った時に謝れば良いだろうと開き直る。
来る日も来る日も雨が降り続いていたが、束の間の休息の様に今だけは穏やかな青空が広がっている。鳶が上空で旋回し、空は高く澄んでいる。気持ちの良い風は、昨日泥水で新品のスニーカーを汚してしまった陽樹の心を少しだけ軽くさせた。
早く学校に戻らねばと、百八十三センチもある大きな背を少し丸めながら陽樹は小走りで歩き出した。
六月二十二日水曜日、時刻は十二時四十五分。昼休憩は十三時で終わりそこから午後の授業が始まる。陽樹はそれまでに自分が通う学校に戻らなければいけないが、道路一つ挟んでコンビニの向かいには、彼が通う私立高校のフェンスがもう既に見えている。道路を斜め横断して職員駐車場から敷地内に入れば、生徒用玄関まで僅か一、二分で到着するのだ。
小走りになりながら陽樹は道路を渡る。
白い半袖のブラウスと黒いスラックスから、彼がその私立高校の生徒である事は一目瞭然であったが、それにしても並の人よりもある背丈と肩幅のお陰で、陽樹は幾分か実年齢よりも高く見られた。後頭部を刈り上げツーブロックに仕立てた髪型も、その要因の一つかもしれない。
比較的交通量の多い道路を渡りきり、教師のみが出入りする駐車場スペースに陽樹は踏み入った。駐車場の向こう側にそびえ立つ四階建ての校舎はL字型になっており、職員駐車場側が特別教室棟、左手奥に延びた棟が普通教室棟、そして特別教室棟の反対側には体育館や記念館などの別棟がある。
果たして、友人に公民のノートを返してから腕の中の軽食にありつける時間はあるのだろうか。
きっと小言をまた聞くはめになるだろうと、陽樹は常に縦皺が入った眉間の皺を更に深める。職員駐車場の砂利を踏んだ。砂利は小さな虫の鳴き声の様な音を鳴らす。そして彼はおもむろに立ち止まり、四階建ての校舎を見上げた。それは彼がここを通りかかる時の癖であった。
今日一番高い位置にいる太陽が、綺麗に整列した校舎の窓を反射させる。まるで並んだ窓達が一斉に陽樹の事を見下ろしている様だった。
その中で四階の、陽樹から見て右角の部屋の窓、他の窓達と比べ一切差異の無いその窓を陽樹はしばらく見つめた。窓は目映い青空を反射して白く光り、遠く離れた陽樹からは室内の様子など全く見えない。しかし窓越しに、一瞬だけ影のような何かが隅の方で動いた様な気がした。
恐らくそれは気のせいではない。陽樹は知っている。特別教室棟の四階角部屋で、昼休みになるといつも窓際にパイプ椅子を寄せ、一心不乱にそこで絵を描く青年を、鴨居生人という青年をよく知っている。
もう一年以上前の事であるが、陽樹はよく覚えていた。同い年であるという以外何の接点もなかった生人との、奇妙な繋がりを。風変わりな青年が描く、噛みつかんばかりに激しく何かに縋り付くネズミの絵を。
その時ふと、陽樹は窓際の影と目が合ったような気がした。影が人であるかも分からない程に遠く離れているにも関わらず、何故か陽樹はそんな気がしたのだ。そして彼はすぐに目を逸らした。時間で言えばほんの一秒にも満たない時間であった。
陽樹は再び、生徒用玄関に再び小走りで向かった。
その一ヶ月後、七月二十二日。
まるで全ての人々に祝福が届けられた様な、雲一つない青空の日だった。
鴨居生人は校舎の四階窓から飛び降りた。自殺だった。
自動ドアが開かれたその先には、梅雨盛りの六月には似つかわしくない晴れた青空が広がっていた。
今日は雨降らないんだったか。鶴見陽樹は今しがた買った弁当とお茶、そしておにぎり二つを脇に抱えながら、ぼんやりとのどかな青空を仰いだ。その時、スラックスのポケットに忍ばせていたスマートフォンが小刻みに震える。
「ちょっと、あんた今どこにいるの!」
スマホ越しから聞こえてきた友人の高い声は、何の構えもなく電話に出た陽樹の鼓膜を大きく震わせた。
「はい、もしもし」
「もしもしじゃないわよ、今日の昼休みまでには貸してた公民のノート返してねって散々言ってたのに、いくら待っても来ないしハルのとこの教室見に行っても居ないし」
「あぁ、忘れてた」
「だからどうしてあんたは!」
電話越しで聞こえるキリキリと軋む様な友人の声に、陽樹はスマホを耳元から少しだけ離した。
「ノートの提出期限は今日の放課後までなのにどうして忘れられるの? 他にノート借りれる人が居ないっていうからクラス違うあんたに貸してあげたのに、よくも人の恩を仇で返す様な事を」
「悪かったって、今返しに行くから」
それじゃあ、と陽樹は通話を無理矢理終了させた。通話を切る直前まで友人の小言が聞こえていたが、後で会った時に謝れば良いだろうと開き直る。
来る日も来る日も雨が降り続いていたが、束の間の休息の様に今だけは穏やかな青空が広がっている。鳶が上空で旋回し、空は高く澄んでいる。気持ちの良い風は、昨日泥水で新品のスニーカーを汚してしまった陽樹の心を少しだけ軽くさせた。
早く学校に戻らねばと、百八十三センチもある大きな背を少し丸めながら陽樹は小走りで歩き出した。
六月二十二日水曜日、時刻は十二時四十五分。昼休憩は十三時で終わりそこから午後の授業が始まる。陽樹はそれまでに自分が通う学校に戻らなければいけないが、道路一つ挟んでコンビニの向かいには、彼が通う私立高校のフェンスがもう既に見えている。道路を斜め横断して職員駐車場から敷地内に入れば、生徒用玄関まで僅か一、二分で到着するのだ。
小走りになりながら陽樹は道路を渡る。
白い半袖のブラウスと黒いスラックスから、彼がその私立高校の生徒である事は一目瞭然であったが、それにしても並の人よりもある背丈と肩幅のお陰で、陽樹は幾分か実年齢よりも高く見られた。後頭部を刈り上げツーブロックに仕立てた髪型も、その要因の一つかもしれない。
比較的交通量の多い道路を渡りきり、教師のみが出入りする駐車場スペースに陽樹は踏み入った。駐車場の向こう側にそびえ立つ四階建ての校舎はL字型になっており、職員駐車場側が特別教室棟、左手奥に延びた棟が普通教室棟、そして特別教室棟の反対側には体育館や記念館などの別棟がある。
果たして、友人に公民のノートを返してから腕の中の軽食にありつける時間はあるのだろうか。
きっと小言をまた聞くはめになるだろうと、陽樹は常に縦皺が入った眉間の皺を更に深める。職員駐車場の砂利を踏んだ。砂利は小さな虫の鳴き声の様な音を鳴らす。そして彼はおもむろに立ち止まり、四階建ての校舎を見上げた。それは彼がここを通りかかる時の癖であった。
今日一番高い位置にいる太陽が、綺麗に整列した校舎の窓を反射させる。まるで並んだ窓達が一斉に陽樹の事を見下ろしている様だった。
その中で四階の、陽樹から見て右角の部屋の窓、他の窓達と比べ一切差異の無いその窓を陽樹はしばらく見つめた。窓は目映い青空を反射して白く光り、遠く離れた陽樹からは室内の様子など全く見えない。しかし窓越しに、一瞬だけ影のような何かが隅の方で動いた様な気がした。
恐らくそれは気のせいではない。陽樹は知っている。特別教室棟の四階角部屋で、昼休みになるといつも窓際にパイプ椅子を寄せ、一心不乱にそこで絵を描く青年を、鴨居生人という青年をよく知っている。
もう一年以上前の事であるが、陽樹はよく覚えていた。同い年であるという以外何の接点もなかった生人との、奇妙な繋がりを。風変わりな青年が描く、噛みつかんばかりに激しく何かに縋り付くネズミの絵を。
その時ふと、陽樹は窓際の影と目が合ったような気がした。影が人であるかも分からない程に遠く離れているにも関わらず、何故か陽樹はそんな気がしたのだ。そして彼はすぐに目を逸らした。時間で言えばほんの一秒にも満たない時間であった。
陽樹は再び、生徒用玄関に再び小走りで向かった。
その一ヶ月後、七月二十二日。
まるで全ての人々に祝福が届けられた様な、雲一つない青空の日だった。
鴨居生人は校舎の四階窓から飛び降りた。自殺だった。
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