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エピソード4:精神と共感覚の試練( 里中ユカ 17歳) Ver.6
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月日はあっという間に過ぎ、ユカは17歳になった。
学園生活も二年生に進級し、落第の危機は遠い過去の出来事だ。
日々の厳しい訓練は、彼女の共感覚をさらに研ぎ澄ませ、模擬任務では抜群の成果を上げるようになっていた。
身体能力も判断力も飛躍的に向上し、もう入学当初の頼りないユカではない。
だが、完璧なエージェントへの道は、まだ先が長い。
特に、感情を捨てるという教官の教えと、レイの抱える苦悩が、ユカの心の奥底に小さなトゲのように刺さっていた。
ある日の午後、訓練室で一人、ストレッチを終えたユカに、教官のよく通る声が響いた。
「里中、そこにいたか。」
教官は腕を組み、いつものように感情を一切感じさせない声で話しかける。ユカはびくりと肩を震わせ、反射的に背筋を伸ばした。
「は、はい!教官!」
「貴様の最終評価が出た。進路指導室へ来い・・・おっとっと…いや…」
教官が言葉を区切ると、一瞬だけ間の抜けた沈黙が落ちる。
ユカは怪訝そうに首を傾げた。
「えっ?」
「里中さんの最終評価が出ましたよ。進路指導室へ来てください…」
教官は、まるで読み上げているかのように、突然丁寧な言葉遣いになった。
「えっ、えっ~~!?なんでいきなり敬語になってるんですか!?」
ユカは目を丸くして、思わず叫んだ。
あまりのギャップに、緊張感が吹き飛ぶ。
「いや、ほら、最近コンプライアンスがさ、厳しくなっていてだな。
上層部からの通達で、生徒への高圧的な態度は控えるようにと…」
教官は珍しく視線を泳がせ、若干の気まずさを滲ませる。
「もう、逆にびっくりですよ!私、教官のいつも通りの方が大丈夫なんですけど!」
ユカは呆れたように肩をすくめた。
「そうか…まあ、私も慣れないが、頑張るわ…では、来い。」
教官はすぐにいつもの調子に戻り、踵を返して歩き出した。
ユカは、何とも言えない気分で、その後を追った。まさか教官にも、そういう面倒ごとがあるなんて。
進路指導室は、普段はあまり使われないためか、ひっそりと静まり返っていた。薄暗い室内に、ユカの心臓がドクドクと鳴り響く。
教官が促すまま席に着くと、一枚の書類が目の前に静かに置かれた。
「里中。お前の共感覚は、学園史上稀に見るものだ。
過去の事象を詳細に再現し、感情の機微まで読み取る能力は、特筆すべき点がある。」
教官は書類に視線を落としたまま、淡々と告げた。その言葉に続くものが、ユカの心に重くのしかかる。
「だが、同時に、お前には決定的な弱点がある。」
「お前!?戻ってるし…まあ、いいですけど。で、弱点ってなんですか?」
ユカは思わずツッコんだが、教官はまるで聞こえなかったかのように話を続ける。
「他者の苦痛や悲しみに共感しすぎ、任務遂行に必要な冷徹さを欠く。」
教官は初めてユカの目をまっすぐ見据えた。
その瞳は、一切の揺らぎなく、ユカの心の奥底を見透かすかのようだ。
「未来本部エージェントに、感情は不要だ。
感情は判断を鈍らせ、失敗に直結する。
お前はそれを排除せねばならん。」
教官の言葉は、まるで氷の刃のようにユカの心に突き刺さった。
レイが言っていた「感情を捨ててしまえば、何のために戦うのか分からなくなる」という言葉が脳裏をよぎる。
「で、でも…感情を排除するなんて…そんなこと、私に…」
ユカの声は震え、言葉が途切れる。
「それが命令だ。」
教官は一切の反論を許さず、冷たく言い放った。
ユカの心の中で、教官の冷徹な命令と、レイの苦悩、そして自分自身の戸惑いが激しく衝突する。
「お前には、その能力を最大限に活かせる単独任務が用意されている。
そのためには、この弱点の克服が必須だ。
来週から、『精神感応訓練』を受けることになった。」
「っ!精神感応訓練…ですか!?」
ユカの体が、恐怖に震えた。
学園で最も過酷と噂される訓練。
感情を完全に制御し、他者の精神に深く潜り込むための最終段階の訓練だ。
そして、それは感情が本当に排除されてしまうという恐ろしい噂も伴っていた。
「そうだ。これは、お前の能力を最終段階まで引き上げ、感情的な弱点を克服するための、最後の機会だ。」
教官の声には、微塵の情もなかった。
その日の夜、ユカは訓練室の隅で、レイを見かけた。
その顔色はいつも以上に蒼白で、何か重いものを抱えているようだった。
ユカは意を決して、レイに近づく。
「レイ…私、精神感応訓練を受けることになったの。」
ユカが告げると、レイはゆっくりと顔を上げた。
その目には、ユカと同じ、深い不安と、深い諦めのような色が混じっていた。
「…そうか。やはり、お前もか。」
レイの声は、か細い。
「レイも受けたの?」
「ああ。一度だけ…」
レイは遠い目をして、言葉を選んだ。
「あの訓練は…心を根こそぎ奪い去る。
感情を排除する、というより…感情を感じさせないようにする。
だがな、ユカ…」
レイは言葉を詰まらせ、ユカから目を逸らす。
「レイ、何なの?続き、教えて!」
ユカは、レイの腕を掴んで必死に食い下がった。
レイは、ユカの真っ直ぐな瞳に、一瞬戸惑ったように見えたが、やがて静かに首を横に振った。
「…無意味だ。」
その短い言葉に、ユカは凍りついた。
「なっ…無意味って…どういうこと!?」
ユカは思わず声を荒げた。
「感情は、決して排除できない。どれだけ訓練を積んでも、心の奥底に、必ず残る。
そして、それはいつか、任務の邪魔になる…と、教官は言うだろうが…」
レイは疲れたようにため息をついた。
「むしろ、感情がなければ、何のために戦うのか、何を守るのか…それが分からなくなる。
お前は、感情を大切にしろ。
それは、お前だけの武器だ。
感情を排除してしまえば、お前はただの機械になるだけだ。」
レイの言葉は、教官の命令とは真逆だった。
ユカは混乱し、どちらの言葉を信じればいいのか分からなかった。
「私…どうしたらいいの…」
ユカは絞り出すような声で呟くと俯いた。
レイは、ユカの肩にそっと手を置いた。
その手は、冷たかった。
「答えは…お前自身の中にある。
お前が何のために戦うのか、何を守りたいのか…それを見つけられれば、おのずと道は開けるはずだ。」
翌日、ユカは精神感応訓練の部屋へと向かっていた。
扉を開けると、そこには無数のケーブルと接続されたカプセルのような装置が並んでいる。
その一つに、教官がすでに準備を整えていた。
「里中、来たか。そこに横になれ。」
教官は手慣れた様子で指示を出す。
「はい…」
ユカは緊張しながらカプセルに横たわった。
頭部には複雑なセンサーが取り付けられ、全身をケーブルが這う。
「この訓練は、お前の共感覚を増幅させ、過去の対象の精神に深く潜り込むものだ。
感情が流れ込んでくるだろうが、全て情報として処理しろ。
個人の情を挟むな。」
教官の声が、スピーカー越しに聞こえる。
「始め!」
教官の合図と共に、カプセルがゆっくりと閉じられる。
周囲は一気に暗闇に包まれ、ユカは微かな機械音しか聞こえなくなった。
次の瞬間、ユカの脳裏に、強烈なイメージが流れ込んできた。
「…う…ぐ…!」
ユカの喉から、苦しげな声が漏れた。
(な…何これ…?)
目の前に広がるのは、焦げ付いた廃墟。
そこには、絶望に顔を歪ませた、見知らぬ男が崩れ落ちていた。
男の感情が、津波のようにユカに押し寄せる。
「…裏切り…!許さない…!なぜだ…!」
激しい怒り、そして愛するものを失った悲しみ、全てを奪われた絶望…。
それらの感情が、ユカ自身の感情と混ざり合い、彼女の精神を深くえぐっていく。
男の憎悪が、まるで自分のもののようにユカの全身を駆け巡り、内臓がねじれるような吐き気を催す。
「うあああああ!!」
ユカは悲鳴を上げ、もがいた。カプセルの中で体が跳ねる。
「里中!感情を遮断しろ!情報だけを抽出しろ!」
教官の冷静な声が響くが、ユカの耳には届かない。
男の記憶が、フラッシュバックのようにユカの意識を支配した。
彼は、仲間だと信じていた者に裏切られ、全てを失ったのだ。
その壮絶な体験が、ユカの脳裏に鮮明に再現される。
男の絶叫が、ユカの耳に直接響く。
「あああああ!死ねえええええええ!!」
ユカの意識は、激しい感情の奔流に飲み込まれそうになる。
体が、心臓が、まるで他人のものであるかのように暴れだす。
「だ…だめ…!こんな…!」
ユカは必死に抵抗した。このままでは、自分が男の感情に飲み込まれてしまう。まるで悪夢を見ているようだった。
その時、ユカの脳裏に、なぜかアザレア教官との訓練の時を思い出した。
そう、自分の中での恋愛観…「おじさん好き」のことだ。
(どこかに、いいおじさんとの出会いないかなぁ…)
(もちろん、それは、世間で言われる「パパ活」という意味ではない。
あくまで、ユカにとっての「おじさん」とは、経験豊富で、包容力があって、そして何より、どこかちょっぴり可愛い、魅力的な男性のことなのだ。)
激しい感情の濁流の中で、ユカの脳内に唐突に、しかし強烈に、彼女にとっての安心感の象徴である「おじさん」という概念が強く割り込んだ。
それは特定の人物ではなく、彼女が「おじさん」という存在に対して抱く、落ち着きと温かさ、そしてどこか頼りになるような、複雑な感情の集合体だった。
その瞬間、感情の奔流が、一瞬だけ、和らいだように感じた。
「はぁ…はぁ…」
ユカは荒い息を吐きながら、必死で意識を集中させた。
男の感情は確かに重い。
しかし、そこに自分の「好き」という感情の錨を下ろすことで、わずかながら冷静さを取り戻せたのだ。
(これが…感情を捨てるってことなの…?)
ユカは自問自答した。
いや、違う。
感情を捨てるのではなく、感情の濁流の中でも、自分の「核」となる感情を見失わないこと。
それが、レイの言っていた感情を大切にするということではないだろうか。
ユカは、男の感情の中から、真実を炙り出すことに集中した。
男の絶望と憎悪の根源にある、たった一つの、しかし決定的な情報。
それは、裏切りの日、現場にいたもう一人の人物のかすかな気配だった。
その気配が、とある組織に繋がっていることをユカは確信する。
「情報、特定…完了…」
ユカは意識が遠のく中で、かろうじて呟いた。
「よし!訓練終了!」
カプセルが開けられ、ユカは外に放り出されるように転がり落ちた。
全身から汗が噴き出し、吐き気がこみ上げる。
「ぐっ…おえっ…!」
ユカは床に膝をつき、必死で吐き気をこらえた。
顔面は真っ青だ。
教官が、ユカを冷徹な目で見下ろしていた。
「どうだった、里中。感情に流されたか?」
ユカは震える声で、顔を上げた。
「い…いえ…感情に流される…ことは…ありませんでした…」
ユカはそう答えたが、実際は必死で感情の奔流を抑え込んだ結果だ。
「そうか。ならば良し。これで、お前を単独任務に出せる。」
教官は満足そうに頷いた。
その夜、ユカは自室のベッドでぐったりと横になっていた。
あの訓練は、まさに地獄だった。
もう二度と体験したくない。
だが、あの「おじさん好き」という感情が、本当に自分を救ったのだろうか?
ユカは首を傾げた。
あんな修羅場に、まさか自分の恋愛感情が割り込むなんて、自分でも信じられない。
「…やっぱり私、ちょっと変なのかなぁ…」
ユカは小さく呟くと、自嘲気味に笑った。
しかし、その心には、確かな手応えが残っていた。
感情は排除できない。
だが、感情を制御し、利用することはできる。そして、自分を支える核となる感情を持つことの重要性。
(レイ…あなたは、このことを言いたかったのね…)
ユカは、レイの言葉の真意を理解した。
そして、エージェントとして、感情を捨てるのではなく、感情と共に戦うという、自分なりの道を見出したのだ。
明日の朝には、初任務の詳細が伝えられるだろう。
ユカの新たな戦いが、今、始まろうとしていた。
学園生活も二年生に進級し、落第の危機は遠い過去の出来事だ。
日々の厳しい訓練は、彼女の共感覚をさらに研ぎ澄ませ、模擬任務では抜群の成果を上げるようになっていた。
身体能力も判断力も飛躍的に向上し、もう入学当初の頼りないユカではない。
だが、完璧なエージェントへの道は、まだ先が長い。
特に、感情を捨てるという教官の教えと、レイの抱える苦悩が、ユカの心の奥底に小さなトゲのように刺さっていた。
ある日の午後、訓練室で一人、ストレッチを終えたユカに、教官のよく通る声が響いた。
「里中、そこにいたか。」
教官は腕を組み、いつものように感情を一切感じさせない声で話しかける。ユカはびくりと肩を震わせ、反射的に背筋を伸ばした。
「は、はい!教官!」
「貴様の最終評価が出た。進路指導室へ来い・・・おっとっと…いや…」
教官が言葉を区切ると、一瞬だけ間の抜けた沈黙が落ちる。
ユカは怪訝そうに首を傾げた。
「えっ?」
「里中さんの最終評価が出ましたよ。進路指導室へ来てください…」
教官は、まるで読み上げているかのように、突然丁寧な言葉遣いになった。
「えっ、えっ~~!?なんでいきなり敬語になってるんですか!?」
ユカは目を丸くして、思わず叫んだ。
あまりのギャップに、緊張感が吹き飛ぶ。
「いや、ほら、最近コンプライアンスがさ、厳しくなっていてだな。
上層部からの通達で、生徒への高圧的な態度は控えるようにと…」
教官は珍しく視線を泳がせ、若干の気まずさを滲ませる。
「もう、逆にびっくりですよ!私、教官のいつも通りの方が大丈夫なんですけど!」
ユカは呆れたように肩をすくめた。
「そうか…まあ、私も慣れないが、頑張るわ…では、来い。」
教官はすぐにいつもの調子に戻り、踵を返して歩き出した。
ユカは、何とも言えない気分で、その後を追った。まさか教官にも、そういう面倒ごとがあるなんて。
進路指導室は、普段はあまり使われないためか、ひっそりと静まり返っていた。薄暗い室内に、ユカの心臓がドクドクと鳴り響く。
教官が促すまま席に着くと、一枚の書類が目の前に静かに置かれた。
「里中。お前の共感覚は、学園史上稀に見るものだ。
過去の事象を詳細に再現し、感情の機微まで読み取る能力は、特筆すべき点がある。」
教官は書類に視線を落としたまま、淡々と告げた。その言葉に続くものが、ユカの心に重くのしかかる。
「だが、同時に、お前には決定的な弱点がある。」
「お前!?戻ってるし…まあ、いいですけど。で、弱点ってなんですか?」
ユカは思わずツッコんだが、教官はまるで聞こえなかったかのように話を続ける。
「他者の苦痛や悲しみに共感しすぎ、任務遂行に必要な冷徹さを欠く。」
教官は初めてユカの目をまっすぐ見据えた。
その瞳は、一切の揺らぎなく、ユカの心の奥底を見透かすかのようだ。
「未来本部エージェントに、感情は不要だ。
感情は判断を鈍らせ、失敗に直結する。
お前はそれを排除せねばならん。」
教官の言葉は、まるで氷の刃のようにユカの心に突き刺さった。
レイが言っていた「感情を捨ててしまえば、何のために戦うのか分からなくなる」という言葉が脳裏をよぎる。
「で、でも…感情を排除するなんて…そんなこと、私に…」
ユカの声は震え、言葉が途切れる。
「それが命令だ。」
教官は一切の反論を許さず、冷たく言い放った。
ユカの心の中で、教官の冷徹な命令と、レイの苦悩、そして自分自身の戸惑いが激しく衝突する。
「お前には、その能力を最大限に活かせる単独任務が用意されている。
そのためには、この弱点の克服が必須だ。
来週から、『精神感応訓練』を受けることになった。」
「っ!精神感応訓練…ですか!?」
ユカの体が、恐怖に震えた。
学園で最も過酷と噂される訓練。
感情を完全に制御し、他者の精神に深く潜り込むための最終段階の訓練だ。
そして、それは感情が本当に排除されてしまうという恐ろしい噂も伴っていた。
「そうだ。これは、お前の能力を最終段階まで引き上げ、感情的な弱点を克服するための、最後の機会だ。」
教官の声には、微塵の情もなかった。
その日の夜、ユカは訓練室の隅で、レイを見かけた。
その顔色はいつも以上に蒼白で、何か重いものを抱えているようだった。
ユカは意を決して、レイに近づく。
「レイ…私、精神感応訓練を受けることになったの。」
ユカが告げると、レイはゆっくりと顔を上げた。
その目には、ユカと同じ、深い不安と、深い諦めのような色が混じっていた。
「…そうか。やはり、お前もか。」
レイの声は、か細い。
「レイも受けたの?」
「ああ。一度だけ…」
レイは遠い目をして、言葉を選んだ。
「あの訓練は…心を根こそぎ奪い去る。
感情を排除する、というより…感情を感じさせないようにする。
だがな、ユカ…」
レイは言葉を詰まらせ、ユカから目を逸らす。
「レイ、何なの?続き、教えて!」
ユカは、レイの腕を掴んで必死に食い下がった。
レイは、ユカの真っ直ぐな瞳に、一瞬戸惑ったように見えたが、やがて静かに首を横に振った。
「…無意味だ。」
その短い言葉に、ユカは凍りついた。
「なっ…無意味って…どういうこと!?」
ユカは思わず声を荒げた。
「感情は、決して排除できない。どれだけ訓練を積んでも、心の奥底に、必ず残る。
そして、それはいつか、任務の邪魔になる…と、教官は言うだろうが…」
レイは疲れたようにため息をついた。
「むしろ、感情がなければ、何のために戦うのか、何を守るのか…それが分からなくなる。
お前は、感情を大切にしろ。
それは、お前だけの武器だ。
感情を排除してしまえば、お前はただの機械になるだけだ。」
レイの言葉は、教官の命令とは真逆だった。
ユカは混乱し、どちらの言葉を信じればいいのか分からなかった。
「私…どうしたらいいの…」
ユカは絞り出すような声で呟くと俯いた。
レイは、ユカの肩にそっと手を置いた。
その手は、冷たかった。
「答えは…お前自身の中にある。
お前が何のために戦うのか、何を守りたいのか…それを見つけられれば、おのずと道は開けるはずだ。」
翌日、ユカは精神感応訓練の部屋へと向かっていた。
扉を開けると、そこには無数のケーブルと接続されたカプセルのような装置が並んでいる。
その一つに、教官がすでに準備を整えていた。
「里中、来たか。そこに横になれ。」
教官は手慣れた様子で指示を出す。
「はい…」
ユカは緊張しながらカプセルに横たわった。
頭部には複雑なセンサーが取り付けられ、全身をケーブルが這う。
「この訓練は、お前の共感覚を増幅させ、過去の対象の精神に深く潜り込むものだ。
感情が流れ込んでくるだろうが、全て情報として処理しろ。
個人の情を挟むな。」
教官の声が、スピーカー越しに聞こえる。
「始め!」
教官の合図と共に、カプセルがゆっくりと閉じられる。
周囲は一気に暗闇に包まれ、ユカは微かな機械音しか聞こえなくなった。
次の瞬間、ユカの脳裏に、強烈なイメージが流れ込んできた。
「…う…ぐ…!」
ユカの喉から、苦しげな声が漏れた。
(な…何これ…?)
目の前に広がるのは、焦げ付いた廃墟。
そこには、絶望に顔を歪ませた、見知らぬ男が崩れ落ちていた。
男の感情が、津波のようにユカに押し寄せる。
「…裏切り…!許さない…!なぜだ…!」
激しい怒り、そして愛するものを失った悲しみ、全てを奪われた絶望…。
それらの感情が、ユカ自身の感情と混ざり合い、彼女の精神を深くえぐっていく。
男の憎悪が、まるで自分のもののようにユカの全身を駆け巡り、内臓がねじれるような吐き気を催す。
「うあああああ!!」
ユカは悲鳴を上げ、もがいた。カプセルの中で体が跳ねる。
「里中!感情を遮断しろ!情報だけを抽出しろ!」
教官の冷静な声が響くが、ユカの耳には届かない。
男の記憶が、フラッシュバックのようにユカの意識を支配した。
彼は、仲間だと信じていた者に裏切られ、全てを失ったのだ。
その壮絶な体験が、ユカの脳裏に鮮明に再現される。
男の絶叫が、ユカの耳に直接響く。
「あああああ!死ねえええええええ!!」
ユカの意識は、激しい感情の奔流に飲み込まれそうになる。
体が、心臓が、まるで他人のものであるかのように暴れだす。
「だ…だめ…!こんな…!」
ユカは必死に抵抗した。このままでは、自分が男の感情に飲み込まれてしまう。まるで悪夢を見ているようだった。
その時、ユカの脳裏に、なぜかアザレア教官との訓練の時を思い出した。
そう、自分の中での恋愛観…「おじさん好き」のことだ。
(どこかに、いいおじさんとの出会いないかなぁ…)
(もちろん、それは、世間で言われる「パパ活」という意味ではない。
あくまで、ユカにとっての「おじさん」とは、経験豊富で、包容力があって、そして何より、どこかちょっぴり可愛い、魅力的な男性のことなのだ。)
激しい感情の濁流の中で、ユカの脳内に唐突に、しかし強烈に、彼女にとっての安心感の象徴である「おじさん」という概念が強く割り込んだ。
それは特定の人物ではなく、彼女が「おじさん」という存在に対して抱く、落ち着きと温かさ、そしてどこか頼りになるような、複雑な感情の集合体だった。
その瞬間、感情の奔流が、一瞬だけ、和らいだように感じた。
「はぁ…はぁ…」
ユカは荒い息を吐きながら、必死で意識を集中させた。
男の感情は確かに重い。
しかし、そこに自分の「好き」という感情の錨を下ろすことで、わずかながら冷静さを取り戻せたのだ。
(これが…感情を捨てるってことなの…?)
ユカは自問自答した。
いや、違う。
感情を捨てるのではなく、感情の濁流の中でも、自分の「核」となる感情を見失わないこと。
それが、レイの言っていた感情を大切にするということではないだろうか。
ユカは、男の感情の中から、真実を炙り出すことに集中した。
男の絶望と憎悪の根源にある、たった一つの、しかし決定的な情報。
それは、裏切りの日、現場にいたもう一人の人物のかすかな気配だった。
その気配が、とある組織に繋がっていることをユカは確信する。
「情報、特定…完了…」
ユカは意識が遠のく中で、かろうじて呟いた。
「よし!訓練終了!」
カプセルが開けられ、ユカは外に放り出されるように転がり落ちた。
全身から汗が噴き出し、吐き気がこみ上げる。
「ぐっ…おえっ…!」
ユカは床に膝をつき、必死で吐き気をこらえた。
顔面は真っ青だ。
教官が、ユカを冷徹な目で見下ろしていた。
「どうだった、里中。感情に流されたか?」
ユカは震える声で、顔を上げた。
「い…いえ…感情に流される…ことは…ありませんでした…」
ユカはそう答えたが、実際は必死で感情の奔流を抑え込んだ結果だ。
「そうか。ならば良し。これで、お前を単独任務に出せる。」
教官は満足そうに頷いた。
その夜、ユカは自室のベッドでぐったりと横になっていた。
あの訓練は、まさに地獄だった。
もう二度と体験したくない。
だが、あの「おじさん好き」という感情が、本当に自分を救ったのだろうか?
ユカは首を傾げた。
あんな修羅場に、まさか自分の恋愛感情が割り込むなんて、自分でも信じられない。
「…やっぱり私、ちょっと変なのかなぁ…」
ユカは小さく呟くと、自嘲気味に笑った。
しかし、その心には、確かな手応えが残っていた。
感情は排除できない。
だが、感情を制御し、利用することはできる。そして、自分を支える核となる感情を持つことの重要性。
(レイ…あなたは、このことを言いたかったのね…)
ユカは、レイの言葉の真意を理解した。
そして、エージェントとして、感情を捨てるのではなく、感情と共に戦うという、自分なりの道を見出したのだ。
明日の朝には、初任務の詳細が伝えられるだろう。
ユカの新たな戦いが、今、始まろうとしていた。
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