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6:屈従
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代々漁業を営む伊藤家の長男・一郎が、籤屋の存在を知ったのは、島唯一の小学校に上がって、少し経ったころだった。
村の子供たちが小学校へ上がると、大人たちは籤屋の存在を知らせる。それから籤屋を無視するように、一郎ら子供たちへ注意を促した。
痴呆の症状が出し始めていた一郎の祖父をはじめとする老人連中などは、子供心にも大げさと感じる調子で、籤屋の恐ろしさを伝えてきたものだ。
大人たちの警告は、子供たちの籤屋への興味を大いに喚起した。
恐らく、クラスメートたちの頭の内には、籤屋に対する好奇心で満たされていたはずだ。
もちろん、一郎も例外でなかった。
誰だって、身近な物に興味を持つ。まして、籤屋は怖いもの見たさを大いに刺激する存在だ。
大人なら恐怖が勝る情報であっても、子供が興味が先に立つものだ。
一郎が三年生になった際「誰か引かないかな?」という声が、クラスで起こった。
誰が言ったかは、思い出せないが、いつも芒洋として捉えどころのないクラスメートからだったはずだ。
冗談めかしているものの、探るような、煽るようなトーンで、声は発せられた。
静かな子供の声は、村の小さな学校で、子宇女村特有のイベントをスタートさせる合図だった。
籤屋に対する誠に子供らしい無責任な声は、次第に積極的となり「誰が引かないかな」から「誰が引くか決めようぜ」となるまでに、さほど時間は掛からなかった。
ガキ大将格として一目を置かれていた一郎は、自分が籤を引く役目を押し付けられるだろうと、覚悟した。
たとえ子供であっても、リーダーとしてクラスを仕切るには、資質を示さなければならなかった。
ようは「偉そうにすんなら、度胸を見せろよ」と言う声が、クラス内から出てくるわけだ。
一郎もそれほど籤屋を忌避していたわけではなかった。
少なくとも当時の一郎は、恐怖心より、好奇心と期待のほうが勝っていた。
当時の一郎は、籤屋の外見に引かれていたのだった。
籤屋の外見は、毎日変化している。
一郎が知る限り、詰襟を着たメガネの学生や、ショート・ボブの少女、壮年の武道家然とした厳つい男、着物姿の老女、作業着の太った中年男性等々、多岐にわたっていた。
一郎が最も心惹かれた籤屋は、二十代前半と思われる、一見すると優しげな微笑を称えた、長い黒髪の美しい女性の姿をしていた。
籤屋の美しい外見に惹かれて、内心で接触を希望する者は、一郎の他にもいたかもしれなかった。
籤屋の外見が時折美しくなるのは、罠のようなものなのか、気まぐれなのか、一郎が成人した今になっても、わからなかった。
実は籤屋は複数いるのかと考えもしたが、答えは誰にもわからなかった。
なにせ、人外と見なされている存在だ。
ともかく一郎は、日に日に強まる「引くよね、リーダーなんだし」といった声無き声を、毎日聞く羽目になっていた。
成人していたなら、無責任な他人の声などは、無視してやっただろう。ただ、小学生の一郎に、クラスの空気を無視するような度胸も、上手く誤魔化す如才なさもなかった。
クラス内の空気が「いつ籤を引くのだろう」から「まだ引かないのか。まさか、普段は威張っているくせに、ビビって籤を引かないんじゃないだろうな」という風に変わりかけたある日、一郎は、籤を引こうと決意した。
いくら好奇心をそそられる存在で、しかも、たまに魅力的な美人の姿を取るとはいえ、籤屋の恐ろしさは、物心ついた頃には大人たちにタップリと刷り込まれていた。
自他共に認めるガキ大将である一郎も、好奇心や、リーダーとしての義務感、クラスメートの圧力よりも、躊躇が先行した。
一人で籤屋に挑む勇気のなかった一郎は、立会人という名目で、クラスメートの一人を強引に連れて行った。
クラスメートを誘った時の会話は、大人となった後でも、一郎はよく覚えていた。
「お前立会人な」
「やだよ怖いよ」
「いいから、来いよ」
嫌がるクラスメートと、強引なガキ大将、なんとも漫画的な構図と、語彙の少ない子供らしく単純なやり取りだった。
普通なら、懐かしさと子供っぽさに苦笑するところかもしれない。だが一郎は、思い出す度に、後悔で顔は強張り、喉は引きつった。
いざ籤屋を前にすると、恐怖以外のいかなる感情も湧かずに、立ちすくむだけだったからだ。
この時の籤屋は、長い黒髪の美人で〝当たり〟な外見をしていた。
圧倒的に上位な存在であると肌で理解し、一郎は、自身の弱さや小ささを初めて自覚した。
釈迦を前にした孫悟空という例えほどには、牧歌的な体験ではなかった。
悪童に見下ろされる虫のような、どうしようもない絶望感だった。
籤屋の前面に立った一郎は、ガキ大将というクラス最上位の階級を捨て去り、人としての尊厳は放棄された。
一郎は、ただの矮小な動物となっていた。
勇ましさはもちろん、ずる賢さもなかった。
開けた場所で単独行動を余儀なくされたネズミのような、惨めな生き物に成り下がっていた。
ついでに、卑怯卑劣でもあった。
一郎は咄嗟に、付き添いのクラスメートを、籤屋に差し出していた。
大人となった後も、たまに思い出しては軽く奇声を発してしまうことがある。一郎がクラスメートのランドセルを押した時に口を突いた。一郎の中にある矮小さと卑劣さを自覚させた言葉だ。
「こいつが、なにか賭けるって」
この時、一郎は直立不動の姿勢をとっていた。
上位者の機嫌を損ねず、容赦を貰うためだった。
村の子供たちが小学校へ上がると、大人たちは籤屋の存在を知らせる。それから籤屋を無視するように、一郎ら子供たちへ注意を促した。
痴呆の症状が出し始めていた一郎の祖父をはじめとする老人連中などは、子供心にも大げさと感じる調子で、籤屋の恐ろしさを伝えてきたものだ。
大人たちの警告は、子供たちの籤屋への興味を大いに喚起した。
恐らく、クラスメートたちの頭の内には、籤屋に対する好奇心で満たされていたはずだ。
もちろん、一郎も例外でなかった。
誰だって、身近な物に興味を持つ。まして、籤屋は怖いもの見たさを大いに刺激する存在だ。
大人なら恐怖が勝る情報であっても、子供が興味が先に立つものだ。
一郎が三年生になった際「誰か引かないかな?」という声が、クラスで起こった。
誰が言ったかは、思い出せないが、いつも芒洋として捉えどころのないクラスメートからだったはずだ。
冗談めかしているものの、探るような、煽るようなトーンで、声は発せられた。
静かな子供の声は、村の小さな学校で、子宇女村特有のイベントをスタートさせる合図だった。
籤屋に対する誠に子供らしい無責任な声は、次第に積極的となり「誰が引かないかな」から「誰が引くか決めようぜ」となるまでに、さほど時間は掛からなかった。
ガキ大将格として一目を置かれていた一郎は、自分が籤を引く役目を押し付けられるだろうと、覚悟した。
たとえ子供であっても、リーダーとしてクラスを仕切るには、資質を示さなければならなかった。
ようは「偉そうにすんなら、度胸を見せろよ」と言う声が、クラス内から出てくるわけだ。
一郎もそれほど籤屋を忌避していたわけではなかった。
少なくとも当時の一郎は、恐怖心より、好奇心と期待のほうが勝っていた。
当時の一郎は、籤屋の外見に引かれていたのだった。
籤屋の外見は、毎日変化している。
一郎が知る限り、詰襟を着たメガネの学生や、ショート・ボブの少女、壮年の武道家然とした厳つい男、着物姿の老女、作業着の太った中年男性等々、多岐にわたっていた。
一郎が最も心惹かれた籤屋は、二十代前半と思われる、一見すると優しげな微笑を称えた、長い黒髪の美しい女性の姿をしていた。
籤屋の美しい外見に惹かれて、内心で接触を希望する者は、一郎の他にもいたかもしれなかった。
籤屋の外見が時折美しくなるのは、罠のようなものなのか、気まぐれなのか、一郎が成人した今になっても、わからなかった。
実は籤屋は複数いるのかと考えもしたが、答えは誰にもわからなかった。
なにせ、人外と見なされている存在だ。
ともかく一郎は、日に日に強まる「引くよね、リーダーなんだし」といった声無き声を、毎日聞く羽目になっていた。
成人していたなら、無責任な他人の声などは、無視してやっただろう。ただ、小学生の一郎に、クラスの空気を無視するような度胸も、上手く誤魔化す如才なさもなかった。
クラス内の空気が「いつ籤を引くのだろう」から「まだ引かないのか。まさか、普段は威張っているくせに、ビビって籤を引かないんじゃないだろうな」という風に変わりかけたある日、一郎は、籤を引こうと決意した。
いくら好奇心をそそられる存在で、しかも、たまに魅力的な美人の姿を取るとはいえ、籤屋の恐ろしさは、物心ついた頃には大人たちにタップリと刷り込まれていた。
自他共に認めるガキ大将である一郎も、好奇心や、リーダーとしての義務感、クラスメートの圧力よりも、躊躇が先行した。
一人で籤屋に挑む勇気のなかった一郎は、立会人という名目で、クラスメートの一人を強引に連れて行った。
クラスメートを誘った時の会話は、大人となった後でも、一郎はよく覚えていた。
「お前立会人な」
「やだよ怖いよ」
「いいから、来いよ」
嫌がるクラスメートと、強引なガキ大将、なんとも漫画的な構図と、語彙の少ない子供らしく単純なやり取りだった。
普通なら、懐かしさと子供っぽさに苦笑するところかもしれない。だが一郎は、思い出す度に、後悔で顔は強張り、喉は引きつった。
いざ籤屋を前にすると、恐怖以外のいかなる感情も湧かずに、立ちすくむだけだったからだ。
この時の籤屋は、長い黒髪の美人で〝当たり〟な外見をしていた。
圧倒的に上位な存在であると肌で理解し、一郎は、自身の弱さや小ささを初めて自覚した。
釈迦を前にした孫悟空という例えほどには、牧歌的な体験ではなかった。
悪童に見下ろされる虫のような、どうしようもない絶望感だった。
籤屋の前面に立った一郎は、ガキ大将というクラス最上位の階級を捨て去り、人としての尊厳は放棄された。
一郎は、ただの矮小な動物となっていた。
勇ましさはもちろん、ずる賢さもなかった。
開けた場所で単独行動を余儀なくされたネズミのような、惨めな生き物に成り下がっていた。
ついでに、卑怯卑劣でもあった。
一郎は咄嗟に、付き添いのクラスメートを、籤屋に差し出していた。
大人となった後も、たまに思い出しては軽く奇声を発してしまうことがある。一郎がクラスメートのランドセルを押した時に口を突いた。一郎の中にある矮小さと卑劣さを自覚させた言葉だ。
「こいつが、なにか賭けるって」
この時、一郎は直立不動の姿勢をとっていた。
上位者の機嫌を損ねず、容赦を貰うためだった。
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