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ソーラス
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広いリビングだった。
ひとりになると余計にそう感じる。
綾瀬の着替えを待つ間、直冬はすることもなくぼんやりと周囲を見回した。
部屋の真ん中にポツンと置かれたモスグリーンの布張りのソファとガラスのテーブル。壁掛けの大型テレビ、他には家具らしい家具も見当たらない。
もっともこれだけの高級マンションともなれば、物を収容するスペースには事欠かないだろう。
しかし、なんとういか生活の匂いのするようなものがあまりないのだ。
すべてが不自然なくらいきちんと整頓されている。まるですぐにでも引っ越しできるように片付けられているのだ。
綾瀬はこんなところで毎晩、過ごしているのだろうかと直冬は思った。
壁には作り付けの書棚があった。
それが唯一、この部屋の住人の個性を知る手掛かりになりそうなものだった。
天井まで届くその書棚には本がぎっしりと詰まっていた。
棚の上の方には立派な装丁の外国製の絵本が表紙をこちらに向けて並んでいる。真ん中あたりには文学全集や辞典類がぎっしりと詰まっていた。
どうやら綾瀬はかなりの読書家らしい。彼女は成績優秀だと聞いたことがある。
金持ちで頭も良いのに、なぜあの学校に通っているのだろうと、ふと直冬は思った。もっと相応しい私立のお嬢様学校のようなところに行っていいはずだ。
ひょっとして沢井がこの学校を選んだからだろうか?
下の棚に目をやると、そこには見慣れた背表紙があるのに直冬は気づいた。ラノベのレーベルだ。直冬が読んだこともあるタイトルもあった。
それはどれも異世界ファンタジーと言われるジャンルの作品だった。
高一の女の子がラノベを読んでいることじたいは不思議でもなんでもないのだが、普段の彼女のクールな印象とはそぐわない気がした。
「お待たせ」
戻ってきた綾瀬を見て、直冬は「えっ?」と驚きを漏らしてしまった。
シャワーを浴びてきたのだろう、濡れた髪をタオルで拭っている彼女が着ているののは臙脂色のジャージだった。
いやジャージだけなら、直冬だって部屋着として愛用している。しかし、そのジャージの胸には、もうだいぶ薄くはなっていたけど、「綾瀬」とマジックで書かれた白い布が貼り付けてあった。
直冬の視線に気づいたのか綾瀬は両手で胸を隠してしゃみこんだ。
「なっなによ、その目!これが家の中ではいちばんくつろげるんだから」
少し涙目で抗議する。
「たしかにそうかも……でもそれって中学のときのじゃないの?」
「そうよ。だってこの洗いザラされた生地の肌触りがいいんだもん」
頬をぷっと膨らませる。その表情を見ていると、自分が彼女に抱いていた印象と随分違うなと直冬は思った。
教室での彼女はいつもどこか遠くをみているようで、周りのことにはあまり関心を払わない、冷めた雰囲気を漂わせていた。
自分の今居る場所に馴染めない居心地の悪さ、ほんとうの自分はもっと別な場所にあるのに、それを見失ってしまって、途方に暮れているような、孤独で寂しい姿だった。ひょっとすると自分はそんな彼女に共感にも似た恋心もったのかもしれない。
しかし、今目の前居る彼女はまるで違う少女のように見える。表情豊かに感情の振幅を表し、いかにも楽しげに語る。
どちらがほんとうの綾瀬なのか直冬には判然としなかったが、そのどちらも直冬には魅力的だった。そして綾瀬美月の存在が自分の乾ききった心に潤いを与えてくれているのだと強く感じた。それは直冬の人生に欠落していたなにかだった。
「ところで頼みの件なんだけど」
「ああ! ごめんなさい。すぐに脱線しちゃうよね」
綾瀬はカウチの上にきちんと座り直すと、幾分、視線を泳がせながらいった。
「わたし、ソーラスがやりたいの」
ちょっとした沈黙が二人の間に流れた。最初に沈黙を破ったのは直冬だった。
「ソーラスって、パソコンゲームのソーラスだよね?」
「ええそうよ」
それ以外に何があるという調子で綾瀬はこたえた。
「つまりそれをインストールすればいいってことなのかな。それくらいならお安い御用だけど、なんでまたソーラスなわけ?」
話題の大作とはいえ、それはあくまでも日本ではマイナーな存在のパソコンゲーマーの間での話だ。
「それを話すとちょっと長くなるんだけど、ほら柏木がいつも話している眼鏡かけた太った人」
「矢島?」
「そう矢島! 二人がソーラスの話をしているのをこっそり聞き耳を立てていたのよ」
矢島の席は綾瀬と近い。三枝と西野のやり取りが鬱陶しくて、授業の合間の休み時間は矢島のところに出向く。話題は自然とソーラスのことになる。
しかし綾瀬がパソコンゲームなんかに興味を持ったというのは意外すぎて、直冬はどう解釈していいのかわからなかった。
「それで興味が湧いたから、ネットで調べてみたの。それでこれを見つけたわけ」
綾瀬はノートパソコンを開いて見せた。
「これってソーラスのスクリーンショットかな?」
「そう、この塔はゲームの世界の中にあるんでしょ?」
「僕もまだ始めたばかりだから行ったことはないんだけど、雰囲気からしてかなりの高レベルゾーンにある建物っぽいね」
「そうなんだ。実はね。私、この塔のことを知っているんだ」
知っているとはいったいどういう意味なんだろう。
ひとりになると余計にそう感じる。
綾瀬の着替えを待つ間、直冬はすることもなくぼんやりと周囲を見回した。
部屋の真ん中にポツンと置かれたモスグリーンの布張りのソファとガラスのテーブル。壁掛けの大型テレビ、他には家具らしい家具も見当たらない。
もっともこれだけの高級マンションともなれば、物を収容するスペースには事欠かないだろう。
しかし、なんとういか生活の匂いのするようなものがあまりないのだ。
すべてが不自然なくらいきちんと整頓されている。まるですぐにでも引っ越しできるように片付けられているのだ。
綾瀬はこんなところで毎晩、過ごしているのだろうかと直冬は思った。
壁には作り付けの書棚があった。
それが唯一、この部屋の住人の個性を知る手掛かりになりそうなものだった。
天井まで届くその書棚には本がぎっしりと詰まっていた。
棚の上の方には立派な装丁の外国製の絵本が表紙をこちらに向けて並んでいる。真ん中あたりには文学全集や辞典類がぎっしりと詰まっていた。
どうやら綾瀬はかなりの読書家らしい。彼女は成績優秀だと聞いたことがある。
金持ちで頭も良いのに、なぜあの学校に通っているのだろうと、ふと直冬は思った。もっと相応しい私立のお嬢様学校のようなところに行っていいはずだ。
ひょっとして沢井がこの学校を選んだからだろうか?
下の棚に目をやると、そこには見慣れた背表紙があるのに直冬は気づいた。ラノベのレーベルだ。直冬が読んだこともあるタイトルもあった。
それはどれも異世界ファンタジーと言われるジャンルの作品だった。
高一の女の子がラノベを読んでいることじたいは不思議でもなんでもないのだが、普段の彼女のクールな印象とはそぐわない気がした。
「お待たせ」
戻ってきた綾瀬を見て、直冬は「えっ?」と驚きを漏らしてしまった。
シャワーを浴びてきたのだろう、濡れた髪をタオルで拭っている彼女が着ているののは臙脂色のジャージだった。
いやジャージだけなら、直冬だって部屋着として愛用している。しかし、そのジャージの胸には、もうだいぶ薄くはなっていたけど、「綾瀬」とマジックで書かれた白い布が貼り付けてあった。
直冬の視線に気づいたのか綾瀬は両手で胸を隠してしゃみこんだ。
「なっなによ、その目!これが家の中ではいちばんくつろげるんだから」
少し涙目で抗議する。
「たしかにそうかも……でもそれって中学のときのじゃないの?」
「そうよ。だってこの洗いザラされた生地の肌触りがいいんだもん」
頬をぷっと膨らませる。その表情を見ていると、自分が彼女に抱いていた印象と随分違うなと直冬は思った。
教室での彼女はいつもどこか遠くをみているようで、周りのことにはあまり関心を払わない、冷めた雰囲気を漂わせていた。
自分の今居る場所に馴染めない居心地の悪さ、ほんとうの自分はもっと別な場所にあるのに、それを見失ってしまって、途方に暮れているような、孤独で寂しい姿だった。ひょっとすると自分はそんな彼女に共感にも似た恋心もったのかもしれない。
しかし、今目の前居る彼女はまるで違う少女のように見える。表情豊かに感情の振幅を表し、いかにも楽しげに語る。
どちらがほんとうの綾瀬なのか直冬には判然としなかったが、そのどちらも直冬には魅力的だった。そして綾瀬美月の存在が自分の乾ききった心に潤いを与えてくれているのだと強く感じた。それは直冬の人生に欠落していたなにかだった。
「ところで頼みの件なんだけど」
「ああ! ごめんなさい。すぐに脱線しちゃうよね」
綾瀬はカウチの上にきちんと座り直すと、幾分、視線を泳がせながらいった。
「わたし、ソーラスがやりたいの」
ちょっとした沈黙が二人の間に流れた。最初に沈黙を破ったのは直冬だった。
「ソーラスって、パソコンゲームのソーラスだよね?」
「ええそうよ」
それ以外に何があるという調子で綾瀬はこたえた。
「つまりそれをインストールすればいいってことなのかな。それくらいならお安い御用だけど、なんでまたソーラスなわけ?」
話題の大作とはいえ、それはあくまでも日本ではマイナーな存在のパソコンゲーマーの間での話だ。
「それを話すとちょっと長くなるんだけど、ほら柏木がいつも話している眼鏡かけた太った人」
「矢島?」
「そう矢島! 二人がソーラスの話をしているのをこっそり聞き耳を立てていたのよ」
矢島の席は綾瀬と近い。三枝と西野のやり取りが鬱陶しくて、授業の合間の休み時間は矢島のところに出向く。話題は自然とソーラスのことになる。
しかし綾瀬がパソコンゲームなんかに興味を持ったというのは意外すぎて、直冬はどう解釈していいのかわからなかった。
「それで興味が湧いたから、ネットで調べてみたの。それでこれを見つけたわけ」
綾瀬はノートパソコンを開いて見せた。
「これってソーラスのスクリーンショットかな?」
「そう、この塔はゲームの世界の中にあるんでしょ?」
「僕もまだ始めたばかりだから行ったことはないんだけど、雰囲気からしてかなりの高レベルゾーンにある建物っぽいね」
「そうなんだ。実はね。私、この塔のことを知っているんだ」
知っているとはいったいどういう意味なんだろう。
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