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1.修道女、純潔を脅かされる
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アンジェラは聖女像に頭を垂れ跪き、祈りを捧げていた。閉じたまぶた越しに光を感じ、目を開けると、石像の上空には金色の文字がふわふわと浮いている。
『汝、立ち去りたくば、純潔を失え』
薄暗いため見間違えたのか。
アンジェラは遮光眼鏡を外し、目を凝らした。
文字は右に左にと揺れながらも、読み取ることはできる。何度繰り返しても同じだ。
「立ち去りたくば、純潔を失え? どういう意味なの……?」
つぶやいた瞬間、文字の正体に気づき、慌てて小聖堂の入り口に向かう。
朽ちかけた木製扉の周囲には黄金色の細かな粒子が漂っていた。扉を塞ぐように浮遊するそれに、アンジェラは躊躇うことなく指先を伸ばす。
バチンッ!
「……っ」
人差し指は火花が散る勢いで弾かれた。アンジェラは痛む指先を庇い、眉を吊り上げる。
神々しく輝く文字の正体は、修道女のごく一部――聖女を目指す者たちが扱う結界である。アンジェラも聖女を目指しているので、見覚えがあって当然だ。
問題はその解除方法である。
純潔を失え――とはすなわち。
「誰かとセ、セックスしろってことでしょう? ……穢らわしい条件だわ」
修道女に誰かと淫らな関係を持てと要求するなど、自ら命を絶てと言っているようなものだ。
いや、それ以前に。
「ここには私しかいないのよ。術をかけた奴は間抜けね」
結界を施した者を馬鹿にしても、状況は変わらない。
冷静になろうと、通路の左右に並べられた長椅子に腰かけ、胸の前で両手を組んだ。
「明日は大事な儀式が控えているのに……運よく誰かが通り過ぎるのを待つしかないのかしら」
落ち着こうすればするほど、腹が立ってくる。
修道院では多くのシスターたちが日夜質素に暮らし、なかでも聖女を目指す者たちは信心深く、神に仕えていた。
毎年王都に拠点を置く中央教会から高位の神父たちが訪れ、彼女たちのなかから、聖女候補者を選ぶ。
明日はその儀式――聖女にふさわしい者を選別するための面談が行われるのだ。
静寂に包まれる深夜、儀式に参加する予定のアンジェラは寝付けず、心を静めるためこっそり自室を抜け出した。
小聖堂は修道院の本棟から回廊で繋がった別棟にあり、人気がない。
一人で考え事をするにはちょうどよいと踏んだのだが……。
翌朝の祈りの場にアンジェラが現れなければ、姉妹たちが探してくれるはずだ。
それにしても、立ち寄る者のいない小聖堂に結界を張るなど、余程の暇人がいたものである。
アンジェラは唇を噛み締め呆れると同時に、ふと悪い予感を覚えた。
「もしかして、私を意図的に閉じ込めようとしている……?」
アンジェラを儀式に参加させたくない何者かが、結界を張ったのだとしたら――。
閉鎖された空間で共同生活を送っているのだから、誰が何をしているのか把握するのも難しくはない。
悲しくも、アンジェラには嫌がらせをされる心当たりがある。
入口の他に外と繋がっているのは、天井にほど近い壁にある小さな窓だ。左右の窓にカンテラをかざしても、灯りは届かず闇に包まれている。
はしごでもない限り、小柄なアンジェラでは、窓に触れることすらできない。
そもそも結界は扉だけではなく、部屋全体に施されているため、窓を破れたとしても、脱出は叶わないだろう。
ふわふわと金色の粉が目の前を過ぎり、アンジェラは忌々しく払いのけた。
――他に脱出する方法はないのかしら。
アンジェラは脇に置いた聖典を手に取る。皮の装丁はしっかりしているものの、中身は粗悪な紙の束だ。両手に収まるほどの聖典は垢にまみれ、今にもページが抜け落ちそうである。
修道院で暮らし始めてから肌見放さず持ち歩いている、アンジェラの大切な道標だ。
結界の種類を確かめようとアンジェラが書物に目を落とした、その時。
祭壇手前の石床が重い音を響かせ、浮きあがった。
――え、何かの仕掛け……?
アンジェラは、長椅子の上で尻込みする。ベールに覆われた頭皮から汗が吹き出してきた。その間にも床の一部はゆっくりと持ち上がっていく。
――地下室があるの? なら外に繋がっているのかしら?
――いや、そもそもこんな夜更けに誰が。
人ならざるモノだったらどうしようかと、内心怯えながらも、逃げ出せずじっとしているアンジェラの前に現れたのは。
「……、レ、レオナルド神父?」
「うわ……もうこんなに暗くなっていたのか。おや、シスター・アンジェラ、ごきげんよう……と言える時間でもなさそうですね」
床から這い出てきた細身の青年は、短い黒髪を照れくさそうに掻きながら、へらりと笑い、白い粉が散ったカソックの胸元をパタパタとはたいた。
青年はレオナルド・ユンカー。修道院では数少ない男性聖職者である。
不思議そうにアンジェラを見た後、「ああ、そうか明日は、例の儀式があるのですね。特別な日でも神への祈りを忘れないとは、さすがです」と黒い双眸を柔らかく細めた。
こんな状況でなければ礼の一言でも返せるが、今はそれどころではない。
「……ファーザー・レオナルド。貴方に謝らなければならないことがあります」
「はい?」
濁りのない黒い瞳を丸くして、首をかしげる神父に、アンジェラは罪悪感を抱く。
しかし、言わなければ始まらない。
ピンク色の唇を噛みしめ、アンジェラはぽつぽつと現状を告げた。
✚
「つまり貴女が男を知らないと、ここから出られない、ということですか。そんな条件付きの結界があるとは。いやあ、修道女のみなさんは優秀だ」
「感心されている場合ではありません。このような忌まわしい結界を編み出すのは、修道院の規則に反しています。……力の無駄遣いだわ」
レオナルドは緊張感のない様子で長椅子の端に座り、アンジェラを苛立たせた。
彼との間にカンテラを置いて距離を取っていても、アンジェラは警戒心を解かないでいる。
厳しい修道院生活で笑顔を絶やさない彼は、【生きた聖人】だと尊敬されているが、誰にでも優しく接する彼が、アンジェラは苦手なのだ。
他の修道女とレオナルドが回廊の端で雑談を交わしている最中に、そばを通りかかった時のことだ。会釈をし、レオナルドと目が合うやゾッとする。口元は柔らかく微笑んでいるのに、黒い瞳は少しも笑っていなかった。
アンジェラが瞬きする間に、レオナルドは目元を慈悲深く細め、「ごきげんよう、シスターアンジェラ」と低い美声で応じる。
それ以後、アンジェラはレオナルドに薄気味悪さを抱くようになった。
元々、レオナルドは用事のある時以外、アンジェラに声をかけない。
村人への施しの場で、ともに作業をする場合でも、必要最低限の会話しか、したことがなかった。
避けられているのは一目瞭然だ。
もともとアンジェラは、怠惰な者にも許しを与えるレオナルドが気に食わないのだから、お互い様である。
――それなのに。
認めたくはないが、こうした心細い状況下で彼が存外に落ち着いていることにアンジェラは安堵していた。予期せぬ出来事に遭遇すると、苦手な相手でも心強く思ってしまうのだろうか。
みずから告解部屋に籠るのとはわけが違う。
ベールの中はしっとりと汗ばみ、脱ぎたい衝動に駆られる。だが人前で髪をあらわにすることはできず、焦りを紛らわせようと、アンジェラは早口で捲くし立てた。
「ファーザー・レオナルド。貴方がいてくださって安心しました。申し訳ありませんが、脱出する方法を探しますので、もう少しお待ちください」
「結界の条件を満たす以外に、解除方法に心当りはあるのですか?」
「……やれるだけのことは、やってみるつもりです」
アンジェラにも結界術の心得はある。知恵をしぼれば、戒めを解く手掛かりを見つけられるだろう。
アンジェラは両手に握りしめた聖典に望みをかけるのだった。
✚
紙が擦れ、小聖堂内の静寂をやぶる。
「シスター・アンジェラ、あまり無理をすると風邪をひきますよ」
祭壇の前に座り込むアンジェラの肩に薄い毛布をかけ、レオナルドは心配そうに顔を覗き込んでくる。手元の書物に集中するアンジェラは「ありがとうございます」と上の空で答えた。
「進捗はあまりよくなさそうですね」
「そ、そんなことはありません!」
隅から隅まで聖典に目を通そうが、小聖堂内を歩き回ろうが、解除の手掛かりはいっこうに見つからない。
結界はアンジェラをあざ笑うように、金色のとぐろを巻いている。ふわふわと変幻自在に漂う粉塵にアンジェラは「なんなのよ」と、またもや悪態を吐いた。
編まれた結界は、驚くほど緻密である。これを自分と同じ聖女を志す者が施したとは到底思えない。いや、思いたくないだけなのかもしれない。
――こんなに手間のかかる方法で私を閉じ込めたくなるほど、私は恨まれているの?
そんな人間が聖女を目指していいのか、アンジェラは不覚にも落ち込みそうになったのだが。
「……! えっ!」
突如背後から伸びた両腕に身体を包み込まれ、悩みは吹き飛んだ。
腹の前で組まれた節くれだつ指先に、頭が真っ白になる。
「ファ、ファーザー・レオナルド! 何を……」
「私にできることは貴女を温めることしかないと思いましてね」
肩越しに振り返ると、苦笑するレオナルドの顔が間近に迫っていた。彼の息遣いが頬にあたり、アンジェラは喉が引きつる。
「い、いえ……そ、そのような気遣いは結構です」
レオナルドの薄い胸板を押し返すも、びくともしない。
――か弱そうに見えて、力は強いのね。
アンジェラは遮光眼鏡越しにレオナルドを睨んだ。柔らかな口調とは裏腹に、彼は腕の力を緩めない。口元は微笑んでいるのに黒い瞳は、井戸の底のように昏く沈んでいる。
以前に見かけた、普段とはちぐはぐな様子に、アンジェラは唾を飲み込んだ。
――聖人を演じるなら、完璧にこなしてほしいわ。
「と、とにかく私はこの毛布だけで十分です。神父様は別でお休みになっていてください」
アンジェラは慌てて顔を逸らし、膝上に広げた聖典に視線を落とした。
突っぱねるも、彼が離れていく気配はない。それどころか、レオナルドの体温で背中がじんわりとあたたかくなってくる。
アンジェラはさらに動揺した。文字を目で追いかけていても内容が素通りしていく。
「あのですね……」
「いやあ、この毛布しか、暖をとる術がないのですよ。無礼をお許しください」
何もしませんよと、レオナルドは苦笑した。
そう言われてしまえば、手元の書物に集中するしかない。
レオナルドは言葉通り、アンジェラをあたためる役に徹している。背中の暖かさはアンジェラを励ましているようで、しばらくするとレオナルドの存在を忘れていった。
✚
どこからか甘い匂いがする。
アンジェラはハッと瞼を開けた。目の前には変わらず金色の結界文字が聖女像を穏やかに取り囲んでいる。
――夢なら良かったのに。
アンジェラは肩を落とした。どうやら座り込んだまま眠ってしまっていたようだ。
「……っ」
身じろぎした瞬間、折りたたんだ両脚が痺れ、呻き声が漏れる。身体は傾けても倒れるどころか、暖かくて柔らかいものに包まれていた。
恐る恐る背後を振り返ると、
「おはようございます」
満面の笑みでレオナルドが応えた。
「ファーザー!……す、すみません」
「といっても数十分ですよ。夜明けはまだ先です」
左右を見れば、壁の上部にある窓の外は、いまだ暗く沈んでいる。
カンテラのなかでは蝋燭の炎が小さく揺らめき、アンジェラたちをほのかに照らし出していた。
レオナルドはアンジェラを引き寄せ、「冷えてきましたね」と白い息を吐きだす。床は石畳で暖炉もない部屋だ。
そもそも夜を明かす場所ではない。
離れなければと思うものの、毛布とレオナルドの腕のあたたかさから逃れるのは至難の技である。
レオナルドの神父服からは、甘い匂いが立ち上っていた。彼が扱っている薬草の匂いだろうか。
心臓の鼓動がうるさい。
――は、離れないと……。
もぞもぞと身体を動かすと、尻に硬いモノが当たった。アンジェラは驚き、背筋をぴんと伸ばす。後ろにはレオナルドしかいないはずだ。
「……ファーザー・レオナルド」
「どうかしましたか?」
「私の後ろに、何か、いるようなのですが……」
「私以外何もいませんが?」
レオナルドは前を向いているはずなので、気が付かないはずがない。アンジェラは彼には見えない何かがいるのかと血の気が引いた。
怯えているのを悟られたくはないが、隠し事をして事態を悪化させてはならない。アンジェラは使命感で恐怖をねじ伏せた。
「あの、硬いモノが私のお、お尻辺りにいるのですっ!」
羞恥を覚悟して叫ぶと同時に、運悪くカンテラの灯が消え、悲鳴をあげそうになった。
「本当に何もいませんので、安心してください」
レオナルドはアンジェラの腹をきつく抱きしめ囁いた。ますます尻に当たるものの感触が明確になり、アンジェラは混乱する。
「で、ですが……」
レオナルドが宥める間にも、それはさらに硬くなっている気がするのだ。
アンジェラは自分だけおかしくなってしまったのかと絶望し、レオナルドが囁いた言葉を聞き逃しそうになった。
「シスター・アンジェラ、私とセックスをしましょう」
『汝、立ち去りたくば、純潔を失え』
薄暗いため見間違えたのか。
アンジェラは遮光眼鏡を外し、目を凝らした。
文字は右に左にと揺れながらも、読み取ることはできる。何度繰り返しても同じだ。
「立ち去りたくば、純潔を失え? どういう意味なの……?」
つぶやいた瞬間、文字の正体に気づき、慌てて小聖堂の入り口に向かう。
朽ちかけた木製扉の周囲には黄金色の細かな粒子が漂っていた。扉を塞ぐように浮遊するそれに、アンジェラは躊躇うことなく指先を伸ばす。
バチンッ!
「……っ」
人差し指は火花が散る勢いで弾かれた。アンジェラは痛む指先を庇い、眉を吊り上げる。
神々しく輝く文字の正体は、修道女のごく一部――聖女を目指す者たちが扱う結界である。アンジェラも聖女を目指しているので、見覚えがあって当然だ。
問題はその解除方法である。
純潔を失え――とはすなわち。
「誰かとセ、セックスしろってことでしょう? ……穢らわしい条件だわ」
修道女に誰かと淫らな関係を持てと要求するなど、自ら命を絶てと言っているようなものだ。
いや、それ以前に。
「ここには私しかいないのよ。術をかけた奴は間抜けね」
結界を施した者を馬鹿にしても、状況は変わらない。
冷静になろうと、通路の左右に並べられた長椅子に腰かけ、胸の前で両手を組んだ。
「明日は大事な儀式が控えているのに……運よく誰かが通り過ぎるのを待つしかないのかしら」
落ち着こうすればするほど、腹が立ってくる。
修道院では多くのシスターたちが日夜質素に暮らし、なかでも聖女を目指す者たちは信心深く、神に仕えていた。
毎年王都に拠点を置く中央教会から高位の神父たちが訪れ、彼女たちのなかから、聖女候補者を選ぶ。
明日はその儀式――聖女にふさわしい者を選別するための面談が行われるのだ。
静寂に包まれる深夜、儀式に参加する予定のアンジェラは寝付けず、心を静めるためこっそり自室を抜け出した。
小聖堂は修道院の本棟から回廊で繋がった別棟にあり、人気がない。
一人で考え事をするにはちょうどよいと踏んだのだが……。
翌朝の祈りの場にアンジェラが現れなければ、姉妹たちが探してくれるはずだ。
それにしても、立ち寄る者のいない小聖堂に結界を張るなど、余程の暇人がいたものである。
アンジェラは唇を噛み締め呆れると同時に、ふと悪い予感を覚えた。
「もしかして、私を意図的に閉じ込めようとしている……?」
アンジェラを儀式に参加させたくない何者かが、結界を張ったのだとしたら――。
閉鎖された空間で共同生活を送っているのだから、誰が何をしているのか把握するのも難しくはない。
悲しくも、アンジェラには嫌がらせをされる心当たりがある。
入口の他に外と繋がっているのは、天井にほど近い壁にある小さな窓だ。左右の窓にカンテラをかざしても、灯りは届かず闇に包まれている。
はしごでもない限り、小柄なアンジェラでは、窓に触れることすらできない。
そもそも結界は扉だけではなく、部屋全体に施されているため、窓を破れたとしても、脱出は叶わないだろう。
ふわふわと金色の粉が目の前を過ぎり、アンジェラは忌々しく払いのけた。
――他に脱出する方法はないのかしら。
アンジェラは脇に置いた聖典を手に取る。皮の装丁はしっかりしているものの、中身は粗悪な紙の束だ。両手に収まるほどの聖典は垢にまみれ、今にもページが抜け落ちそうである。
修道院で暮らし始めてから肌見放さず持ち歩いている、アンジェラの大切な道標だ。
結界の種類を確かめようとアンジェラが書物に目を落とした、その時。
祭壇手前の石床が重い音を響かせ、浮きあがった。
――え、何かの仕掛け……?
アンジェラは、長椅子の上で尻込みする。ベールに覆われた頭皮から汗が吹き出してきた。その間にも床の一部はゆっくりと持ち上がっていく。
――地下室があるの? なら外に繋がっているのかしら?
――いや、そもそもこんな夜更けに誰が。
人ならざるモノだったらどうしようかと、内心怯えながらも、逃げ出せずじっとしているアンジェラの前に現れたのは。
「……、レ、レオナルド神父?」
「うわ……もうこんなに暗くなっていたのか。おや、シスター・アンジェラ、ごきげんよう……と言える時間でもなさそうですね」
床から這い出てきた細身の青年は、短い黒髪を照れくさそうに掻きながら、へらりと笑い、白い粉が散ったカソックの胸元をパタパタとはたいた。
青年はレオナルド・ユンカー。修道院では数少ない男性聖職者である。
不思議そうにアンジェラを見た後、「ああ、そうか明日は、例の儀式があるのですね。特別な日でも神への祈りを忘れないとは、さすがです」と黒い双眸を柔らかく細めた。
こんな状況でなければ礼の一言でも返せるが、今はそれどころではない。
「……ファーザー・レオナルド。貴方に謝らなければならないことがあります」
「はい?」
濁りのない黒い瞳を丸くして、首をかしげる神父に、アンジェラは罪悪感を抱く。
しかし、言わなければ始まらない。
ピンク色の唇を噛みしめ、アンジェラはぽつぽつと現状を告げた。
✚
「つまり貴女が男を知らないと、ここから出られない、ということですか。そんな条件付きの結界があるとは。いやあ、修道女のみなさんは優秀だ」
「感心されている場合ではありません。このような忌まわしい結界を編み出すのは、修道院の規則に反しています。……力の無駄遣いだわ」
レオナルドは緊張感のない様子で長椅子の端に座り、アンジェラを苛立たせた。
彼との間にカンテラを置いて距離を取っていても、アンジェラは警戒心を解かないでいる。
厳しい修道院生活で笑顔を絶やさない彼は、【生きた聖人】だと尊敬されているが、誰にでも優しく接する彼が、アンジェラは苦手なのだ。
他の修道女とレオナルドが回廊の端で雑談を交わしている最中に、そばを通りかかった時のことだ。会釈をし、レオナルドと目が合うやゾッとする。口元は柔らかく微笑んでいるのに、黒い瞳は少しも笑っていなかった。
アンジェラが瞬きする間に、レオナルドは目元を慈悲深く細め、「ごきげんよう、シスターアンジェラ」と低い美声で応じる。
それ以後、アンジェラはレオナルドに薄気味悪さを抱くようになった。
元々、レオナルドは用事のある時以外、アンジェラに声をかけない。
村人への施しの場で、ともに作業をする場合でも、必要最低限の会話しか、したことがなかった。
避けられているのは一目瞭然だ。
もともとアンジェラは、怠惰な者にも許しを与えるレオナルドが気に食わないのだから、お互い様である。
――それなのに。
認めたくはないが、こうした心細い状況下で彼が存外に落ち着いていることにアンジェラは安堵していた。予期せぬ出来事に遭遇すると、苦手な相手でも心強く思ってしまうのだろうか。
みずから告解部屋に籠るのとはわけが違う。
ベールの中はしっとりと汗ばみ、脱ぎたい衝動に駆られる。だが人前で髪をあらわにすることはできず、焦りを紛らわせようと、アンジェラは早口で捲くし立てた。
「ファーザー・レオナルド。貴方がいてくださって安心しました。申し訳ありませんが、脱出する方法を探しますので、もう少しお待ちください」
「結界の条件を満たす以外に、解除方法に心当りはあるのですか?」
「……やれるだけのことは、やってみるつもりです」
アンジェラにも結界術の心得はある。知恵をしぼれば、戒めを解く手掛かりを見つけられるだろう。
アンジェラは両手に握りしめた聖典に望みをかけるのだった。
✚
紙が擦れ、小聖堂内の静寂をやぶる。
「シスター・アンジェラ、あまり無理をすると風邪をひきますよ」
祭壇の前に座り込むアンジェラの肩に薄い毛布をかけ、レオナルドは心配そうに顔を覗き込んでくる。手元の書物に集中するアンジェラは「ありがとうございます」と上の空で答えた。
「進捗はあまりよくなさそうですね」
「そ、そんなことはありません!」
隅から隅まで聖典に目を通そうが、小聖堂内を歩き回ろうが、解除の手掛かりはいっこうに見つからない。
結界はアンジェラをあざ笑うように、金色のとぐろを巻いている。ふわふわと変幻自在に漂う粉塵にアンジェラは「なんなのよ」と、またもや悪態を吐いた。
編まれた結界は、驚くほど緻密である。これを自分と同じ聖女を志す者が施したとは到底思えない。いや、思いたくないだけなのかもしれない。
――こんなに手間のかかる方法で私を閉じ込めたくなるほど、私は恨まれているの?
そんな人間が聖女を目指していいのか、アンジェラは不覚にも落ち込みそうになったのだが。
「……! えっ!」
突如背後から伸びた両腕に身体を包み込まれ、悩みは吹き飛んだ。
腹の前で組まれた節くれだつ指先に、頭が真っ白になる。
「ファ、ファーザー・レオナルド! 何を……」
「私にできることは貴女を温めることしかないと思いましてね」
肩越しに振り返ると、苦笑するレオナルドの顔が間近に迫っていた。彼の息遣いが頬にあたり、アンジェラは喉が引きつる。
「い、いえ……そ、そのような気遣いは結構です」
レオナルドの薄い胸板を押し返すも、びくともしない。
――か弱そうに見えて、力は強いのね。
アンジェラは遮光眼鏡越しにレオナルドを睨んだ。柔らかな口調とは裏腹に、彼は腕の力を緩めない。口元は微笑んでいるのに黒い瞳は、井戸の底のように昏く沈んでいる。
以前に見かけた、普段とはちぐはぐな様子に、アンジェラは唾を飲み込んだ。
――聖人を演じるなら、完璧にこなしてほしいわ。
「と、とにかく私はこの毛布だけで十分です。神父様は別でお休みになっていてください」
アンジェラは慌てて顔を逸らし、膝上に広げた聖典に視線を落とした。
突っぱねるも、彼が離れていく気配はない。それどころか、レオナルドの体温で背中がじんわりとあたたかくなってくる。
アンジェラはさらに動揺した。文字を目で追いかけていても内容が素通りしていく。
「あのですね……」
「いやあ、この毛布しか、暖をとる術がないのですよ。無礼をお許しください」
何もしませんよと、レオナルドは苦笑した。
そう言われてしまえば、手元の書物に集中するしかない。
レオナルドは言葉通り、アンジェラをあたためる役に徹している。背中の暖かさはアンジェラを励ましているようで、しばらくするとレオナルドの存在を忘れていった。
✚
どこからか甘い匂いがする。
アンジェラはハッと瞼を開けた。目の前には変わらず金色の結界文字が聖女像を穏やかに取り囲んでいる。
――夢なら良かったのに。
アンジェラは肩を落とした。どうやら座り込んだまま眠ってしまっていたようだ。
「……っ」
身じろぎした瞬間、折りたたんだ両脚が痺れ、呻き声が漏れる。身体は傾けても倒れるどころか、暖かくて柔らかいものに包まれていた。
恐る恐る背後を振り返ると、
「おはようございます」
満面の笑みでレオナルドが応えた。
「ファーザー!……す、すみません」
「といっても数十分ですよ。夜明けはまだ先です」
左右を見れば、壁の上部にある窓の外は、いまだ暗く沈んでいる。
カンテラのなかでは蝋燭の炎が小さく揺らめき、アンジェラたちをほのかに照らし出していた。
レオナルドはアンジェラを引き寄せ、「冷えてきましたね」と白い息を吐きだす。床は石畳で暖炉もない部屋だ。
そもそも夜を明かす場所ではない。
離れなければと思うものの、毛布とレオナルドの腕のあたたかさから逃れるのは至難の技である。
レオナルドの神父服からは、甘い匂いが立ち上っていた。彼が扱っている薬草の匂いだろうか。
心臓の鼓動がうるさい。
――は、離れないと……。
もぞもぞと身体を動かすと、尻に硬いモノが当たった。アンジェラは驚き、背筋をぴんと伸ばす。後ろにはレオナルドしかいないはずだ。
「……ファーザー・レオナルド」
「どうかしましたか?」
「私の後ろに、何か、いるようなのですが……」
「私以外何もいませんが?」
レオナルドは前を向いているはずなので、気が付かないはずがない。アンジェラは彼には見えない何かがいるのかと血の気が引いた。
怯えているのを悟られたくはないが、隠し事をして事態を悪化させてはならない。アンジェラは使命感で恐怖をねじ伏せた。
「あの、硬いモノが私のお、お尻辺りにいるのですっ!」
羞恥を覚悟して叫ぶと同時に、運悪くカンテラの灯が消え、悲鳴をあげそうになった。
「本当に何もいませんので、安心してください」
レオナルドはアンジェラの腹をきつく抱きしめ囁いた。ますます尻に当たるものの感触が明確になり、アンジェラは混乱する。
「で、ですが……」
レオナルドが宥める間にも、それはさらに硬くなっている気がするのだ。
アンジェラは自分だけおかしくなってしまったのかと絶望し、レオナルドが囁いた言葉を聞き逃しそうになった。
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