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第四章 母の故国に暮らす

早朝の風景

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 翌朝。
 まだ日が昇らない早朝に、私は自然と目が覚めた。
 昨日は結局、観光どころか一日買い物で様々な店を連れ回され、その疲労からか夕食を食べ終えたあとの記憶が曖昧だ。いつベッドに入ったかも、よく覚えていない。けれど、随分と早い時間に眠ってしまったことだけは確かなのだろう。二、三度瞬きをすればすっかり眠気は去って、私はそっとベッドから起き上がった。
 ゆっくりと伸びをして、同じくいつ閉めたのか全く記憶にないカーテンを開ける。太陽の目覚めを待つ空は、綿のような雲がわずかにあるばかりの晴天。もう随分と白んでいるところを見るに、じきに山の端から陽光が差し込んで来るように思われた。
 一度、ベッドを振り返る。昨夜、私が訪いを待てずに早々に寝てしまったからか、夕食時に今夜も一緒に寝ようと言っていたアレクシアの姿は、今日はない。そのことを少しばかり申し訳なく、寂しく残念に思いながら、同時にゆっくりと休ませてくれたことに感謝の気持ちを抱いて、私はバルコニーへと続く扉を開けた。
 深い緑の香をふんだんに含む、しっとりとした朝の空気が私の身を包む。少し前まではまだ微かにあった冷たさも今はなく、清々しさに満ちた空気を胸一杯に吸い込んだ。

「気持ちのいい朝……!」

 アルグライスにいた頃は、これくらいの時間には既に仕事に取り掛かっていたものだ。久々の早起きに、ほんの少しの懐かしさとこれまでに感じたことのない心地よさを味わって、私は目の前に広がる景色に見入る。
 広がる芝生の緑の中に、ところどころを膝丈の低木に囲まれた小道が走り、花壇が彩り、枝葉を広げた木が点在する。右手奥の木立の向こうには私兵団の宿舎、その隣にあるのは修練場。ただし、人の背丈ほどの木が並んで目隠しとなっている為、私のいる位置からは修練場の様子は窺えない。それでも、初日の案内時には賑わっていたそこも、今はまだ静まり返っていることは明白だ。
 その修練場からわずかに左、遠方の背の高い木立の向こうには、サロモンの両親が暮らしている別邸がある。灰青色の屋根の上端だけが辛うじて見える程度で、今はまだ暗い、朝の風景に溶け込むようにひっそりと存在していた。
 サロモン一家との仲は良好ではあるけれど、商会をサロモンに譲って一線を退いてからは夫婦二人で悠々自適な毎日を送っているそうで、今もどこかに旅行へ行っているらしく、主不在の別邸は日中でも木々に囲まれた静寂の中にあると言う。

 続けて視線を左手へと向ければ、本邸の脇に庭園が見えてくる。整然と植えられ、細部にまで手入れの行き届いたそこは、規模は小さいながらも王城の中庭と比べても遜色がない立派なものだ。また、隣接する温室も、エリューガルには見られない他国の珍しい植物が植えられている。それだけの庭と温室を持っているのは、商人として様々な国と交易を行うフェルディーン家ならではだろう。相応に来客も多いそうだけれど、庭園と温室はいつだって来客に好評なのだと、サロモンが少しばかり自慢げに教えてくれた。
 本邸の厨房のある辺りからは早くも煮炊きの煙が上がる様子も窺え、温室の更に向こう、畑や家畜小屋のある方角からは、鶏の鳴き声が微かに聞こえ始めている。
 そんな光景も、アルグライスでは馴染んだもので。けれど、それを目にして抱く感情は現在と過去とでは全く掛け離れて、少しばかり複雑な気持ちが私の胸を過った。

 あの頃は、とにかく必死だった。主人の機嫌を損ねないよう、他の使用人の迷惑にならないよう、誰より早く起きて仕事を始めていたものだ。母の分も生きなければと言う、義務にも似た強い気持ちに押されて、目の前しか見えていなかった。
 薄暗い朝の景色を見ても、ただその日の天気のことしか気にしていなかったように思う。晴れていればその日は仕事がしやすく、曇りならば洗濯物が乾きにくい。雨が降っていれば、泥汚れの掃除に追われる……そんなことばかり、真っ先に考えていた。毎日目にする変化に乏しい光景を目にして――きっと、本当は日々変化していたのだろうけれど、そんなことを気にする余裕がなくて――特別、何かを思うこともなかった。
 それが、今やこんなにも穏やかな気持ちで目覚め、見える景色の一つ一つを美しいと思っている。少し前にはまるで想像もしなかった日々の中に、私はいる。

「……夢みたい」

 十歳で記憶を思い出して、そこからとにかく家を出ることだけを目標に生きて、その先をどう生きるかなんてことは全く考えていなかった。まさか、こんなにも恵まれた生活が待っていようとは、当時の私に言って聞かせてもきっと信じないに違いない。
 そう言えば、今頃リンドナー家はどうなっているだろうか。
 これまで改めて思いを馳せることのなかった生家のことが、見える景色に引っ張られて、わずかに思い出された。
 どうせ、突然消えた私のことなんて誰一人として心配してもいなければ、探し出そうとも思っていないのだろうけれど。私一人がいなくなったくらいで、大きく変わるような家ではない。きっと、傍目には何一つ変わらない日々が流れているのだろう。いっそ、虚しいほどに。
 ただ、私がいなくなったことで、あの家の主人が別の使用人に当たり散らすようになっていたら、それは少しだけ申し訳なく思う。
 初めは母、次に私。この十六年近く、使用人に当たることが一部日常になっていた主人が、それを突然改められるとは思えない。だからと言って、私があの家に戻ろうと思うかと言えば、天地がひっくり返ったってあり得ないのだけれど。
 だって、私はあの家を、あの国を――捨てたのだから。

 過去を振り払うように頭を振る。そして、改めて穏やかな風の心地よさを全身で味わっていれば、東の空から待ちに待った太陽が姿を現した。
 一条の光がさっと大地を染め上げ、深い緑が一瞬黄金色の光を宿し、やがて瑞々しい緑へと輝き出す。数羽の鳥が太陽の目覚めを歓迎するように飛び立ち、静かな空気に澄んだ鳴き声がこだまする。
 頬に当たる朝日は温かく、たちまち夜の気配は消え去って、一日が始まる。
 それは、感嘆のため息が出るほどに美しい日の出の光景だった。
 景色に魅入られた私はしばらくその場に立ち尽くし、感動に胸を打ち震わせた。そして、不意に思う。
 母も、幼い頃は日々こんな美しい光景を見ていたのだろうかと。私は今、母が見たであろう景色をこの目にできているのだろうかと。
 もしもそうであれば、それはとても嬉しいと思う。同時に、いよいよ本当に、私は母の生まれ故郷で生きていくのだとの実感も湧いてくる。

 くっと、拳に力が入った。
 これから先のことに、不安がないわけではない。いつ私はこの身を狙われるか知れないし、キリアンは死なないとしても、いつか私の存在が他国の王太子を死に至らしめてしまうかもしれない。勿論、その時には私も死ぬのだろう。だから、いつまで生きていられるか分からない恐怖だって、全くないとは言わない。それでもアルグライスを出たことで、これまでとは明らかに違う道が私の前に延びているのは、確かなのだ。
 その道を、私は歩んでいく。今度こそ長く、無事に、できる限り平穏に。
 そっと胸元に手をやり、私はリーテの雫の入った小瓶の存在を確かめた。首に掛け続けていることにもすっかり慣れた、小さな重みだ。
 不思議と仄かに温かみを感じるそれを服の上から握り、瞼を閉じて祈る。

(……どうか、穏やかな日々が一日でも長く続きますように――)

 そうしてゆっくり目を開ければ、まるで私の祈りに呼応するように風が吹き抜け梢が騒めき、鳥の群れが空高くを目指して羽ばたく羽音がこだました。同時に誰かが外を歩く音が耳を掠め、私の視線が誘われるように階下へ落ちる。

「ミリアム……?」

 朝日に輝く明るい視界に見えたのは、わずかに驚きに目を見開き、立ち止まって私を見上げるレナートだった。その姿を目にして、私は一拍遅れて口角を上げる。

「おはようございます、レナートさん。お早いんですね」
「朝が早いのは君もだろう」

 おはよう、と挨拶を返しながら、レナートは屋敷に最も近い場所を通る小道から逸れて、私の部屋の下へと進路を変えた。
 朝日を浴びて、癖のある金髪をいつも以上にふわふわとさせるレナートは、これから運動でもするのか、動き易さを重視した簡素なシャツとズボンと言う出で立ちだった。
 城に滞在していた時にもレナートは早朝によく運動していたけれど、どうやらそれは実家でも変わらない習慣らしい。流石は王太子の騎士、と言うところだろうか。

「まさか、君の部屋のバルコニーに人影があるから驚いたよ」

 眠れなかったのか、それとも物音に目が覚めたのか。わずかに私を案じる思いが滲むレナートへ、私は明るく笑って首を横に振った。

「昨日、あまりに早くベッドに入ってしまったので、自然と目が覚めたんです。お陰で朝日の昇る光景を見られて、素敵な朝になりました」
「そうだったか。ゆっくり休めたならよかったよ」
「はい。レナートさんは、これから朝の運動ですか?」

 レナートが歩いていた小道は、私兵団の宿舎へと続くものだ。今のレナートの格好と併せて、彼が修練場へ向かおうとしていたことは明らかだろう。

「ああ。しばらくこちらに帰っていなかったから、どいつもこいつも手合わせしてくれと煩くて」

 どうやら、単にレナートの朝の習慣と言うだけではなく、これからの時間帯は、兵士達の朝食前の運動の時間なのだと言う。
 フェルディーン家は侯爵と言う地位、商人と言う仕事柄、昔から私兵団を所有している。彼らの仕事は屋敷の警備、一家や客人の護衛、交易品の護送が主だ。
 ところが、商会の規模が大きくなり扱う品も多岐に渡り始め、流通量の少ない希少な品などが増えてからは、商品の強奪等を目的に、屋敷に勤める使用人にまで危害を及ぼす愚か者が出始めるようになった。
 更にそこにアレクシアが嫁ぎ、異国の者でありながら近衛騎士団長、更には一時とは言え、王都警備兵団までを指揮下に入れてカルネアーデ卿の起こした事件に当たるなどしたことで、前国王派やキスタス人を忌避する一部からは強い反感を買った。
 けれど、本人には力で敵わない上、アレクシアはイェルドや救国の乙女である母と共に、国の為にその剣を振るった功労者の一人。彼女を貶める為の理由が欠片もない。その為、フェルディーン家で働く力の弱い侍女や童僕などが、アレクシアの代わりに度々標的にされることがあったのだそうだ。

 それらに対して当然怒り狂ったアレクシアが取ったのは、徹底的な報復。
 そして、レナートを身籠っていた時に続いて、ラッセを身籠っていたにも拘らずアレクシアが懲りずに暴れるのを目の当たりにしたフェルディーン家の私兵達は、自分達が不甲斐ない所為で今度こそ母子に危険が及んでしまうとの思いから、それまでより一層、鍛錬に身を入れるようになったのだとか。
 お陰で、アレクシアやレナートが時折手合わせをしてくれると言う恵まれ過ぎた環境であることも手伝って、今ではフェルディーン私兵団は、近衛騎士団、王都警備兵団に負けずとも劣らない実力を持つ者ばかりになっているとかいないとか。当然、その道を志す者達にとっての憧れの勤め先でもあるらしい。大変に狭き門だと言うことだけれど。
 そんなわけで、兵士達にとって日々の鍛錬は欠かせず、その流れでレナートも朝の運動はすっかり習慣化しているのだとか。加えて、兵士達に触発されて、本来ならば鍛える必要のない使用人達の中にも体を鍛える者が出ているそうで、屋敷に勤める使用人のおよそ三分の一は、その見かけによらず荒事への対応に慣れているのだと言う。
 その多くが女性であるのは、狙われる対象であると言う自覚と責任感からか、アレクシアへの憧れか。

「アレックスもエルメーアから帰って来て、暇な時は相手をしているだろうに……」

 レナートはそうぼやくけれど、手合わせを頼まれたことを決して嫌がっていないことは、その穏やかな表情を見ていれば分かった。
 余談だけれど、紅の獅子としてのアレクシアの話は、彼女が合同訓練に乱入してその事実が発覚した日から王城を辞すまでに、情報解禁とばかりにレナートにみっちりと聞いて、私は色々と知ることとなった。状況が状況だったとは言え、流石に身重の身で馬に乗ってあちこちを駆け回るだなんて、よく無事にレナートが生まれてきたものだと、それはもう眩暈がするほどに驚いたのは記憶に新しい。
 まさか、ラッセの時にも同じようなことが起こっていたとは知らなかったけれど、なるほど、それでは私兵団の皆がより体を鍛えるべく行動を起こそうとしたのも無理もない話だ。

「近い内に、ミリアムも一緒にどうだ? 昼間はうちの兵以外も修練場にいることが多いし、屋敷の人間と交流するのには打ってつけだ」
「はい。ぜひ」

 これから世話になる人達と仲を深めるのは、大事なことだ。それに、鍛えている使用人は女性が多いと言うことだし、全く護身の心得もなければ体力も腕力も平均以下の私のような人間でも身に付けられるものを、何か教わることができるかもしれない。
 そんな期待を胸に抱きながら喜んで返事をしたところで、私は、レナートの首に見慣れないものを見付けて目を瞬いた。
 襟ぐりの広いシャツから伸びる首に、細い革紐が掛かっているのだ。
 普段は襟のある騎士の制服をきっちりと着ていたから気付かなかったのか、それともたまたま今、身に付けているのか。どちらにせよ、レナートが私と同じく宝飾品の類ではない何かを首から下げていることに、私の中の好奇心がむくりと頭を擡げる。

「レナートさん。あの……首から何を下げているのか、聞いてもいいですか?」
「うん? ……ああ、これか」

 私自身の首元を指差しながら問えば、レナートはわずかに首を傾げたあと、思い出したように革紐を摘まみ上げた。

「……そうだった。忘れていた。ミリアムには、まだ話せていなかったんだったか」

 その言葉からは、私にもいずれ話すつもりであったことが窺える。と言うことは、レナートは常日頃から身に付けているものなのだろう。そしてそれは、私の耳に入れておくべきことで、つまりは何か私に関する重要なものだと言うことなのだろうか。
 気軽な気持ちで聞いたのに、思案するようにレナートが口を閉ざしたのを見て、私の中に小さな緊張が生まれる。何せこの国での私の立場は色々と複雑で、私の与り知らぬところで、私が思う以上に私の存在は大きく捉えられていたりするのだから。
 その時、私とレナートの間に不意に訪れた沈黙を破るように、レナートが歩いていた小道を修練場に向かって歩く使用人の姿が現れた。同時に、修練場にはいつの間にか人の気配が満ちていることにも気が付く。
 小道を行く使用人が、私が既に起きていることに対してか、一瞬意外そうな顔を見せつつにこやかに挨拶をして去って行く姿に、私とレナートの視線が、この時間の終わりを惜しむように互いに向けられた。

「悪い、ミリアム。こいつの話はあとでいいか?」
「……はい」

 こうしている間にも修練場は徐々にざわつき始めており、兵士達が運動を始めたことは明らかだ。手合わせの約束のあるレナートは、この場で私と話を続けるわけにはいかない。
 時間切れである。

「では……また、朝食の席で」
「ああ。また」

 そう言うや、私へと手を挙げたレナートはくるりと背を向けて、修練場へと歩き去ってしまった。
 私はぽつんと一人残された心地になりながら、朝日の眩しさに目を細めて、遠ざかるレナートの背を見つめる。
 口を閉ざした時は不安が胸を打ったけれど、首に下げたものについて語るレナートの口調は、私が思っていたよりも軽いものだった。事実、私に伝え忘れていたくらいだから、今すぐにどうこうと言う類ではないのだろう。
 それでも、すぐに答えを貰えなかったことがどうにも私の胸に蟠りを残して、すっきりしない。せっかく、予期せぬ早起きで素敵な朝日の光景に出会うことができ、清々しい気分でいたのに。
 ぷくりと頬を膨らませ、レナートの姿が庭木の向こうに見えなくなるまでしばらく見送って、私は一つ息を吐いた。そして、少しだけ口元を緩める。
 この朝の清々しい空気のように、清々しい気分のままではいられなかったけれど、朝一番にレナートと言葉を交わせたことは、素直に嬉しく思うのだ。
 私は今一度朝の空気を胸一杯に吸い込み、漂い始めたパン焼きのいい香りに今朝の朝食を思いつつ、部屋へと踵を返した。
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