上 下
80 / 141
第四章 母の故国に暮らす

王家の森で

しおりを挟む
「帰って来た時には、お前の部屋は見違えているからね。ゆっくり楽しんでおいで」

 そんなアレクシアの言葉に見送られて、私はフェルディーン家の門を出た。早速、昨日買ってもらった服に袖を通し日除けに帽子を被り、新品のブーツを履いて、レナートの先導で二人と二頭――フィンとレイラ――と共に。
 昨日に引き続いての今日の外出は、今度こそ王都の観光が目的だ。そして私が不在の間に、私の部屋では大掛かりな模様替えが行われることになっている。

 何故そんなことが必要なのかと言えば、私の為にフェルディーン家が用意した部屋は、元はイレーネの私室だったから。これには、アレクシアから私の保護の話を聞いたイレーネが、使ってくれるよう希望したと言う経緯がある。
 どうせ誰も使っていないし、この先イレーネ自身が使う機会もないのだから、新しく部屋を用意するくらいなら保護する子にあげてちょうだい、と。そして、保護する子の好きにしてしまって、とも言っていたのだそうで。
 初日に部屋へ案内された時には、当時イレーネが使っていたままの内装ではあったけれど、私としてはそのままでも十分素敵な部屋だった為に、取り立てて変える必要は感じなかった。何より、子供の間一時的に保護されるだけの私に、そこまでしてもらうことは考えられなかったのだ。
 けれど、当然それでよしとするアレクシアではなく。「イレーネの部屋」を真実「ミリアムの部屋」にするのに、イレーネの好みで彩られた部屋のままでいい筈がないだろうと、かっと見開いた両目で迫られたのは言うまでもない。

 お陰で、昨日の午後の店巡りで家具店を訪れた際には、随分な時間を費やして新たな家具を全て買い揃えさせられてしまった。店に到着してもなお渋る私を、元の部屋にあった家具は商会を通して中古品として安く売りに出すか、公共の施設に寄付をするからとの言葉で丸め込んで。
 あとから考えれば、その言葉は、恐らく私の遠慮癖をよく知るレナートの入れ知恵だったのだろう。そう言っておけば、イレーネの家具が不用品とされることを危惧する私から、断り続ける理由を奪うことができることを、レナートはよく知っている。

 結果、その目論見通り、そう言うことならと渋々ながらも私は納得してしまった。
 そして、家具はおろか、壁紙からカーテンから絨毯に照明、私の部屋の模様替えに必要と思われるありとあらゆるものを、アレクシアの勢いに押されるままに決めさせられてしまったのだ。おまけに、短時間で模様替えを終わらせる為か、部屋の見取り図を店に持ち込み、購入する家具を決めると同時に部屋での配置をその場で考えると言う用意周到さで。
 途中、ご機嫌な店主から茶と菓子を振る舞われて疲労の回復を図れていなければ、私は次の店を巡る気力はすっかり失われていたことだろう。

 改めて昨日の買い物のことを思い出して、私は馬上で身震いした。昨日一日だけで、一体どれくらい散財させてしまったのか。考えるだけで気が遠くなる。
 今日は、私の疲労と散財の元凶であるアレクシアは部屋の模様替えの監督をすると言うことで共に行かないし、あとでラッセと合流するとは言え街を見て回ることが主なので、昨日のように散財することはないと思いたい。むしろ、そんな気配を感じ取ったら、散財駄目絶対、の気持ちで阻止しなければいけないだろう。
 私がひっそりと気合いを入れたところで、レナートが私をちらりと振り返った。

「少し遠回りにはなるが、急ぐこともないし、王家の森を経由して行こう。城にいる間は、ミリアムを連れて行ってやれなかったからな」

 屋敷を出発してわずか。前方には、住宅街を縫って走る一本の主要な道が視界を横切るように延びている。左手へ進めば坂を下って王都中心街へ、右手へ進めば住宅街の中を通って王家の森へと続くのだ。
 祈願祭後に自由に城の中を歩き回れるようにはなっても、様々な理由から、私は城の外へは出られなかった。勿論、その根底にあるのは私の身の安全の為であることは理解していたし、私にとっては城の敷地内だけでも十分な自由であったから、特にそのことに不満を抱くことはなかった。
 フィンが王家の森へ自由に遊びに行く姿を見てからは、少しばかりそれを羨ましく思いはしたものの、まさかレナートが私を連れて行きたいと思っていてくれたとは。思わぬ嬉しい提案に、無意識に私の頬が緩んだ。
 右へと進路を取るレナートに続きながら、私達は長閑な日差しの降り注ぐ中を、軽快な歩調で進んで行く。

「風が気持ちいいね、レイラ」

 時折、中心街へと向かう馬車と擦れ違いながら、私はレイラに話しかけた。その度にレイラは耳をぱたぱたと動かして、ご機嫌な様子を私に知らせてくれる。いまだにそこに聞こえる言葉はないけれど、それでもレイラの表情や仕草から感情を読み取ることには、私も随分と慣れたように思う。
 今朝も、レイラの元へ顔を出した時に、彼女が珍しく臍を曲げていることにもすぐに気が付いた。
 もっとも、その理由が、フェルディーン家へ居を移してから今日まで私が一度もレイラの元へ顔を出さなかったから、と言うことに辿り着くには、ほんの少し時間を要したけれど。
 言葉を尽くして謝罪し、レイラの体にブラシを当てながらフェルディーン家へやって来てからの私のことを話して聞かせ、今日は一緒に外出だと伝えてようやく機嫌を直してくれた時には、ほっとしたものだ。ちなみに今は外出にすっかりご機嫌で、レイラの軽やかな蹄の音が耳に心地いい。

 そんなレイラではあるけれど、レナートに対する厳しい態度はいまだ全く改善していない。その兆しすら見えない。フィンとはすっかり打ち解け合っていると言うのに、そのフィンの主であるレナートの、どこがそんなに気に食わないのか。目下、それだけが私のレイラに関する悩みである。
 そこさえ改善されてくれれば、私としては何も言うことはないのだけれど、なんとも頑固な年上の相棒だ。
 そんなことをつらつらと考えながら、屋敷が点在するばかりの静かで広い住宅街の道を進むこと、しばし。左手に進路を取った先の視界が、急に開けた。

「わぁ……!」

 レイラを止めて見た先に広がっていたのは、王城から見るのとはまた一味違った王都中心街の街並み。
 右手手前の王家の森から続く小高い場所に聳える王城に、見下ろす街の程近くに赤屋根の時計塔。それに隣接するように建つのは広い敷地を持つ警備兵団本部で、街を南北に貫く幅の広い街道の中ほどに作られた広場には、立派なクルードの礼拝堂が建つ。
 それらの街並みの奥を緩く蛇行するのは、王城の向こうから流れる滔々と水を湛えた川。住宅街側からの細い流れが途中で合流し、一つの大きな流れとなっている。その姿を建ち並ぶ建物に見え隠れさせつつ、陽光を反射して煌めいているのがよく見えた。

「手前の大きな十字路から真っ直ぐ行った先にある大きな建物は歌劇場で、そこから通りを二つ挟んだ右手に見えるのが図書館だ。隣は公園で、あの辺りは本屋や雑貨屋なんかもあって――」

 街並みの中で特徴のあるものを一つ一つ指差しながら、レナートが説明をしてくれる。
 昨日巡った店の場所も、あそこが、向こうが、と教えてもらい、馬車からの眺めだけだった記憶にしっかりとした位置が肉付けされていった。

「城から見る景色とはまた違って、素敵ですね」
「ここからだと、夕日が沈んでいくのも綺麗に見える。今日は一日天気もよさそうだし、帰り際にまた寄ってみるか?」
「はい! 見てみたいです!」

 アレクシアからは、今日は夕食の時間まで帰って来るなと言われているし、沈む夕日を眺めて帰るくらいが時間的にもちょうどいいだろう。今日の外出の締めが夕景とは、今から楽しみだ。
 そうして一通りレナートから街の大まかな説明を聞いたあと、私達は馬首を王家の森へと向けた。
 住宅街を通る道をひたすら進めば、やがて前方に豊かに生い茂る緑が見えてくる。王家の森と住宅街側とを隔てるように道が横たわった十字路を越えれば、そこから先は王家の森だ。中心街側からとは別に、住宅街側からも入ることができるよう、繁った木々の間を縫うように遊歩道が延びていた。

 馬に乗ったままでも十分な幅を持つそこへ進むと、途端に触れる空気に緑と土の香が濃くなる。
 野鳥の囀りがそこかしこから聞こえ、物音に視線を巡らせれば、木の幹を軽快に駆け上る栗鼠の姿が見えた。枝伝いに跳ねるように移動していく姿は愛らしく、私は思わずその姿を目で追ってしまう。そうかと思えば灌木の茂みに鹿の親子を見つけ、狐の姿を見かけ、澄んだ湧水の細い流れのそばでは鼬の姿を目にした。

 初めて入る王家の森は中へと進む度に私の目を楽しませてくれて、あちらこちらに目移りして仕方がない。まだ午前中のやや早い時間帯と言うこともあってか、森の中を散策する人の姿がまばらで、人よりも動物の姿の方が多かったことも心が弾んだ理由だろう。
 湖の外周に沿って整備された遊歩道は静かで、フィンとレイラ、二頭の進む足音と、時折風にそよぐ梢の爽やかな音しか聞こえない。
 やがて、休憩の為のベンチが設置された場所に差し掛かった時、レナートがフィンの足を止めた。その視線が湖の方を向くのにつられて首を巡らせれば、フィンが足を止めた先の小さな桟橋から開けた視界に、湖の美しい全景が広がっていた。

「綺麗……」

 フィンの隣でレイラの足を止め、私は湖の美しい光景に見入る。
 風が収まって凪いだ湖面は、鏡のように森の姿を、空を映し出して、そこにもう一つの世界を作り上げていた。
 今にも吸い込まれそうなほどに、目の前の森の姿とそれを余すことなく映す湖面は美しく、水鳥が気持ちよさそうに泳いで水面が揺らいでしまうまで、私はただじっとその景色に見入っていた。
 再びそよぎ始めた風に、ほぅ、と無意識に吐息が零れる。

「……あまりに綺麗で、吸い込まれてしまうかと思いました」
「俺も、これほど綺麗な景色を見たのは久々だ。ミリアムがいたお陰かもしれないな」

 私と同じく目の前の光景に見入っていたらしいレナートも、ほっと息を吐いて互いに顔を見合わせる。けれど、私はすぐに首を傾げた。
 どう言うことかと問えば、レナートからはさも当然のように、私が泉の乙女だからとの答えが返って来て、私はますます首を深く傾げてしまう。

「教えなかったか? 王都のこの湖と聖都エリュードの湖に、毎年リーテの雫が捧げられていると」
「そのことは教えていただきました。守護竜の大祭の時に、儀式の一環として捧げられるんですよね?」

 それは図書館通いの最中、私がリーテの雫についての書物を読んでいる時にレナートから聞いた話である。
 エリューガルには、この地の守護者となった黒竜クルードが、その身をシュナークルの山中からエリューガルにあるクルードの神殿そばの湖へと移し、その湖底で眠っているとの伝承がある。
 その為、伝承の湖でもあるエリュードの湖と、遷都がなったその年にクルードがその姿を顕現させたスヴェインの湖、この二か所を、クルードの為に清浄に保つと言う名目で、毎年リーテの雫が一滴、捧げられているのだ。
 ちなみに、聖都エリュードはかつての王都である。今ではクルードの聖地として、神殿が管理する巡礼の地となっており、毎年、守護竜の大祭中は最も賑わうのだとか。

「一滴とは言え、毎年捧げられているんだ。湖自体がリーテの力を知覚するようになっていても、不思議じゃないだろう?」

 なるほど、私はリーテから力を授かったリーテの愛し子、泉の乙女である。誰よりリーテの加護が強い人間と言っていいだろう。おまけに、今はリーテの雫を一瓶首から下げているのだから、よりリーテの力を身に帯びていることになる。
 尚更、湖に染み渡っているだろうリーテの雫が、私の存在に何らかの反応を示してもおかしくはない。

「だから、私のお陰だと」
「そう言うことだ」

 加えて、ある程度の水が湛えられた場所と言うのは、大きさの大小を問わず、リーテにまつわる者にとっては重要な媒体である水鏡となり得る。
 泉の乙女は、水鏡を通してリーテにまみえることができると言われているのだ。勿論、望めば常にと言うわけではない。けれど、これまでの泉の乙女は、その一生の内に何度かは、水鏡を通してリーテと言葉を交わしているらしい。
 今しがた見た揺らぎ一つない湖面は、正に水鏡と称するに相応しいものだった。
 だからこそ、私は湖面に吸い込まれそうだと思ったのだろうか。いまだに私の中に宿る力ははっきりと発現してはいないけれど、私がそう思ってしまうくらいには、私に宿るリーテの力が水鏡に吸い寄せられたのかもしれない。けれど、私が一向に水鏡に対して力を行使する気配がなかった為に、水鏡の状態が解かれて水面が揺らいだ――

「なんだか、湖に悪いことをした気分です。ただ、王家の森に寄っただけなのに……」

 もしも、私がレイラから降りて湖を覗き込んでいたら。いまだに泉の乙女としては中途半端な私だけれど、リーテの姿をその水鏡に見られただろうか。
 ふとそんなことを考えて、私は内心で首を振った。あれだけ綺麗に風景を湖面に写し取っていたのだ。覗き込めば、私の顔だってはっきりと映ったことだろう。それでは、私は湖面を見ることができない。
 私は、自分の顔を見ることが怖いのだから。
 もしも鏡に映る自分の顔を見てしまったらと考え、得も言えぬ恐怖に背筋が震えたところで、レナートから話題を変える一言が寄越された。

「ミリアム、手を」

 言われるままに手を差し出せば、そこに何かが乗せられる。そして、私は目を瞬いた。

「……羽根?」

 見覚えのある革紐に、それが今朝見たレナートが首から下げていたものであることには、すぐに気が付いた。けれど、その革紐に吊るされていたものが私には全く想像もしないもので、疑問符が浮かぶ。
 私の手の平にも収まる大きさの、鮮やかな瑠璃色の羽根。その色合いはとても珍しく、美しくはあったけれど、私の目には何の変哲もない鳥の羽根にしか見えず、何故そんなものをレナートが大事にしているのか、その理由が分からなかった。

「これは、ティーティスの羽根だ」

 思いもよらない答えに、私の目が見開かれる。私がティーティスと聞いて思い当たる鳥は、一種類しかいない。
 人前に姿を現すことは滅多になく、その姿を見られた者には幸運が訪れると言う、女神リーテの泉の守護者――その鳥だけだ。

「レナートさんはティーティスを見たことがあるんですか!」

 私は素直にレナートの強運とも言える運のよさに驚いて、わずかに高い位置にあるレナートの顔を見上げた。けれど、当の本人はゆるりと首を振って、否定の言葉を短くその口にする。

「残念ながら、俺は実際に見たわけじゃない」
「でも、これがティーティスの羽根なのは間違いないんですよね?」
「ああ。俺が直接ティーティスから渡されたから、それは間違いない」

 直接見ていないのに直接渡されたとは、これ如何に。
 謎掛けのようなレナートの言葉に疑問符を増やしたところで、レナートから祈願祭の日とその夜の夢、そして翌朝と彼に起こった出来事を聞かされて、今度は私の目が驚きに丸くなる。

「そんなことが……」

 生命の杯にリーテの雫が湧く直前、ほんの一瞬意識が眼前から失せたあの時に、まさか女神がレナートに語りかけていたなんて。

「祈願祭後にすぐ話してもよかったんだが、一度にあれこれ話しては君が混乱しかねないだろうから、その内……と思っていたら、すっかり忘れてしまっていた。話すのが遅くなって、悪かったな」
「いえ、そんな。お気遣いいただいて、ありがとうございました」

 けれど、これで少しばかりこれまでのレナートの不可思議な行動にも合点がいった。
 主に図書館で発揮されていた、レナートが私の視線に気付いたり、毎度都合よく私の元へと現れたりと言った、あの行動。常々疑問に思っていたけれど、きっと、このティーティスの羽根が何らかの方法でレナートに知らせていたに違いない。
 何と言っても、ティーティスは女神リーテの守護者なのだ。大仰な言い方になるし、レナートは本来キリアンの騎士ではあるけれど、泉の乙女である私の護衛をしてくれていたレナートは、王城にいた時の私にとってはティーティスと同じ守護者のようなもの。ティーティスがレナートの助けになるよう力を貸してくれていたと考えれば、辻褄は合う。

「でも、私からももっと早くレナートさんにお聞きしていればよかったですね。そうしたら、ずっと不思議に思い続けなくてよかったんですから」
「何か、気になっていたことがあったのか?」
「だって、図書館でいつもレナートさんと目が合うし、来てほしい時に来てくれていたじゃないですか。どうしてレナートさんには分かるのか、気になっていたんです。でも、すっきりしました」

 そう納得してティーティスの羽根を返却した私だったけれど、何故かレナートの方はわずかな困惑を浮かべて、返されたティーティスの羽根に視線を落としていた。

「ミリアムも、そう思っていたのか……」
「違うんですか? 私はてっきり――」

 言いかけて、私は次の言葉が口から出なかった。

(てっきり……何だと、思っていたんだっけ? 何か……形のある……?)

 あの日図書館で、私は驚かされてばかりのレナートの行動について、何を考えていたのだったか。
 いつものようにレナートに私の視線を気付かれて、やっぱり今日もと困惑して。つられるように、都合よく私の元へ現れることも改めて考えて。それで私は――ちょうどいいと、確かに何かを調べようとしたのだ。

(でも……何を? ちょうどいいと思ったのは、どうしてだったっけ?)

 生命の杯の時のようにぽっかりとそこだけ意識が飛んでいるのではなく、何かをした記憶はあるのに輪郭が滲んでぼやけて判然としない、忘れているとはっきり意識できる欠落が、そこにある。
 澱のような不快感が、じわりと胸に湧いた。同時に、忘れているものの中には何かとても大事なことがあったのではと言う不安と、今の穏やかな生活がまやかしであるかのような恐怖が、足元から忍び寄る。
 けれど、それが明確な形になるより先に、どこか納得しきれない様子のレナートの声が耳朶を打って、私の意識をそちらへ向けさせた。はっと目を瞬いて下がっていた視線を上げれば、手を顎に当て、わずかに眉根を寄せるレナートの顔が視界に入る。

「イーリスにも一度聞かれたことがあるんだ。だが、俺が図書館でミリアムの視線に気付くのは、君の足音が止まるから気にして見上げていただけだし、頃合いを見計らって呼びに行こうとしたら、たまたま君にとって都合がよかっただけで……」

 首を捻って唸るレナートの裏のない表情も木漏れ日に透ける金の髪も、ティーティスの羽根とはまた違う色味の澄んだ深い青の瞳も、どれもが私を安心させてくれる、いつもの見慣れた色彩で。
 普段と何ら変わらないレナートの姿を前にして、私の内に這い上がりかけていた不安と恐怖が、すっと引いていくのが分かった。

「……そう、だったんですね」

 ほっとしつつ、いくら静かな図書館内とは言え足音を聞き分けていたレナートに、私は内心とても驚く。それでも、レナートにとっては別段特別なことでもないのか、私の驚きに気付く様子はなくて。

「そうなんだが……ミリアムまでそう言うなら、ティーティスの羽根が俺の無意識に働きかけていることを、少し考慮に入れるべきなのかもしれないな。こいつに関連する文献は少なくて、分からないことの方が多いんだ」

 駄目元で、今度書庫で調べてみるかと当たり前のように納得して呟く普段通りのレナートに、私は相槌を打ちながら小さく微笑んだ。
 大丈夫。いつか終わってしまうかもしれないけれど、少なくとも今私が享受しているこの幸せな時間は、確かに存在している。まやかしなんかじゃない。
 ティーティスの羽根を首に掛け直し、遊歩道を中心街側の入口に向かって再びフィンを進ませ始めたレナートの背中を見つめながら、私は今しがた感じた不安と恐怖の記憶を、そっと頭の奥に押し込めた。
しおりを挟む

処理中です...