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第四章 母の故国に暮らす

末っ子の夢

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 私とレナートが、思いの外広かった王家の森を十分堪能してから街中を進み、商業地区の一角に構えられたフェルディーン商会へと到着したのは、時計塔の鐘が昼を知らせる一時間ほど前のこと。レナートのあとに付いて商会の建物の裏手へ回れば、待ち合わせの時間にはまだ早かったけれど、既にそこには待ちきれない様子のラッセがいた。
 騎士らしく動き易さを重視した服装でいるレナートとは違い、仕事をしていたこともあってか、一目見て上等と分かる仕立ての三つ揃いの礼服姿のラッセはいかにも商会の若旦那と言う風体だった。それでも、満面の笑みを浮かべて私達へ向かって手を振る姿は、屋敷で顔を会わせるのと変わらないもので。

「ようこそフェルディーン商会へ、ミリアム。それにレイラも」

 彼の性格なのか、それともレイラがグーラ種であることを知っているからなのか、当たり前のようにレイラにも声を掛けて、ラッセが嬉しそうに私達を出迎えてくれる。

「お待たせしてしまってすみません、ラッセさん」
「ううん、全然。僕が楽しみで待ちきれなかっただけで、時間通りだよ」
「お前、仕事は終わったのか?」
「当然でしょ。僕を誰だと思ってるのさ、兄さん」
「……そうかよ」

 気安い兄弟の会話を聞きながら、私はレイラから降りて労うようにその首に触れる。これから私がレナート達と街中を観光する間、レイラはここで留守番だ。

「レイラにもお土産を買って帰って来るから、それまでフィンと一緒に大人しく留守番していてね」

 初めての場所に残していくことを少しばかり心配しながら声を掛ければ、レイラは大丈夫とばかりに私へ顔を寄せてくれた。けれどそれも束の間、何故か私の背後へと首を巡らせると、そのまま私の背中をラッセへ向けて押しやったのだ。そして、レイラの突然の行動に思わずよろめいた私をラッセが難なく支えれば、レイラは実に満足げな顔をして、レナートに対しては一瞥すらくれることなく商会の人に手綱を引かれて去って行く。
 その行動からは、絶対にレナートには私のことを任せないと言う強い意志がありありと感じられ、レイラの徹底したレナート嫌いに私は内心で呆れた。

「うわぁ……。話に聞いてはいたけど、本当にレイラは兄さんのことが嫌いなんだね。兄さん、彼女に一体何したのさ?」
「知るか。俺の方が聞きたいくらいだよ」

 建物の向こうへ連れて行かれるレイラの後ろ姿を揃って見つめながら、呆気に取られるラッセと渋面のレナートと言う、対照的な表情を浮かべた二人が隣に並ぶ。

「気難しいスーリャでさえ、兄さんのことは気に入ってるのにね」
「いつもレイラが本当にすみません、レナートさん」

 レイラ達グーラ種は人間の言葉を理解できるのだから、人間がそうするように、外出中で他人の目がある場所では、少しくらい余所行きの態度を取ってくれてもいいだろうに。どうしてレイラは、場所を問わずレナートに対する態度を崩そうとしないのか。
 私が思い描くレイラとレナートが仲よくなる未来が更に遠のいた気がして、私の口からため息が零れる。
 ちなみにフィンは、レイラがレナートを嫌う理由を知っているのか、レイラの様子をその目にしたあと、レナートに対して同情しつつも面白がるような眼差しを送っていた。フィンらしいと言えばらしい反応だけれど、自分の主が仲のいい相手に嫌われていると言うのに、随分と暢気なものである。

「ラッセさんも、巻き込んでしまってすみません」

 転ぶほどの勢いはなかったけれど、ラッセが手を伸ばしてくれていなければ、私は今頃、足を縺れさせて頭からラッセに突っ込んでいたかもしれない。ここまでの道中、レイラを走らせることはなかったとは言え、それなりに長時間の乗馬を終えた直後の足は、少しばかり覚束なかったのだ。
 これから楽しく出掛けようと言う時に、案内を買って出てくれたラッセに怪我をさせてしまうようなことがあっては、あまりに申し訳ないことになるところだった。

「ああ、気にしないでミリアム。母さんや兄さんと違って僕は頭脳労働派だけど、それでも、女の子一人支えられるくらいには力はあるから」

 ぐっと腕を上げて拳を握ってみせたラッセは、そこで「でも」と続け、私へと改めて手を伸ばした。そして、そのまま私の手を嬉しそうに、優しく握り締める。

「またこんなことが起こると危ないから、僕と手を繋いでおこうか。ちょうど、レイラにミリアムを頼まれたことだし。ね?」
「ありがとうございます。その……今日は、よろしくお願いします」

 テレシアともエイナーとも違う、成人男性の大きな手が私の手を握っている――そのことに、どことなくくすぐったさを感じながら、私達はラッセの案内で商会をあとにした。

「少し早いけど、色々見て回るのは午後からにして、まずは食事にしよう」

 たいして面白味がないと言う商業地区を案内もそこそこに通り抜け、まずラッセの足が向かったのは、飲食店の屋台が立ち並ぶ広場だった。ここはレナートと共に丘の上から見た街道にあった大きなものとはまた別で、建物に囲まれた中にぽっかりと空いた空間に、様々な屋台が犇めき合っている。

 食欲を刺激する美味しそうな匂いが空気中に充満し、まだ昼前だと言うのに、広場は既に大勢の人で賑わっていた。少し見ただけでも、祈願祭で私が食べたのと似たようなものを売る店から、全く見たことのない料理を売る店まで、文字通り目移りしそうなほど並んでいる。食べ歩き向きの料理を提供する店もあるけれど、基本的に各店の周囲には飲食の為のテーブルが用意されており、少なくない人がそこで食事をしていた。
 それらを忙しなく首を動かして眺めていた私は、ラッセに手を引かれ、後ろにレナートが付いてくれていなければ、すぐにでも人にぶつかっていたことだろう。
 よくここに食べに来ると言うラッセは、物珍しさ故にすぐに足が止まる私に対して、嫌な顔をするどころか嬉しそうに店のお薦め料理を挙げては、食べ歩きのできる大きさのものはすぐに買って、私に手渡してくれた。
 そうして、何軒目かの屋台の前で、揚げたてのじゃがいも料理を三人で分け合って食べている時のこと。

「どうしよう、兄さん。僕、今凄く幸せかもしれない……」

 私がうっかり口の端にソースを付けてしまったのを拭ってくれたラッセが、はっとしたように目を見開いて、小さくそう呟いたのだ。見上げたラッセは瞳を幸運に輝かせ、顔を仄かに赤らめて、心なしか興奮しているようでもある。
 一方、レナートもラッセの呟きを受けて視線を向けてはいたものの、どこか呆れた半眼は実に面倒臭そうだった。

「そうかそうか、よかったな」

 その証拠に、口から出たのは全く心がこもっていない適当な相槌。けれど、ラッセはそのことに気付いていないのか気付いていても全く気にしていないのか、宙へと視線を向けて、感極まったように胸を押さえた。

「父さんがいない間の仕事を頑張っていた僕へのご褒美がこれって、本当にいいのかな? こんなことが現実に起こるなんて、夢じゃないよね? いや、夢でも十分幸せだけど。ああ……女神リーテ、ありがとう。ミリアム、ありがとう! 幸せ過ぎて僕は胸が一杯だよ……!」

 最後には私の手を両手で掴んで、ラッセは私へ向かって何度も感謝の言葉を繰り返す。
 そんなラッセの様子からは、彼が多大な幸せを噛み締めているのだと言うことは理解しても、ラッセの幸せと私への感謝とが結び付かず、私は戸惑うままにレナートへと助けを求めた。

「……末っ子の夢なんだそうだ」
「末っ子の夢?」

 思わず鸚鵡返しに繰り返しつつ、私はその言葉の意味を考えた。
 末っ子が夢に見るもの。末っ子が欲しがるもの。末っ子にないもの。得て幸せを感じるもの。そして、今の状況。つまり――

「年下の兄弟……?」

 私が呟いた、次の瞬間。

「――そう! そうなんだよ、ミリアム! 僕には兄さんも姉さんもいるのに、弟と妹がいない! でも、もう母さんもあの年だから四人目なんて望めなくて、こうなったら姪っ子か甥っ子で我慢しなきゃならないのかな、なんて思ってたんだ。……それが! 奇跡だよ! まさに僕の理想とする妹みたいな子がうちに保護されるなんて!」

 私の呟きを聞きつけたラッセが、突然爛々と瞳を輝かせて眼前に迫って来た。そして、この時を何度夢見ただろうかと芝居がかった大仰な手振りで、彼の熱のこもった語りが始まる。

 曰く、アレクシアのような強い妹でもなく、イレーネのような奔放な妹でもなく、思わずこちらが手を差し伸べたくなる、そんな庇護欲をそそる子兎のような妹が理想だったのだと。そして、妹と手を繋いで出掛け、あちらこちらをラッセが案内し、妹が欲しがったものは全部買い与えてあげる。食事時には、うっかり口の端に付いた汚れを拭ってあげたり拭ってもらったりして、一緒に笑い合うなんてことができたら最高だと。
 他には、二人で遠乗りに出掛け、乗馬の腕を披露して「兄様格好いい!」と言われたいだとか、勉強中に分からないところを見事回答して「流石兄様!」と言われたいだとか、釣りに料理に弓に、仕事に打ち込む姿に――とにかく、末っ子の弟ではなく兄としてのラッセの姿を見せて妹に尊敬されるのが夢なのだと。それはもう熱く、熱く語ってくれた。

「ミリアムは本当の妹じゃないからこれ以上を望んだら女神様から罰が当たりそうだけど、ぜひ……! ぜひ! 僕のことを一度でも『ラッセ兄様』って呼んでくれたら、僕の人生に悔いはないよ! いつ死んでもいい!」
「呼んでやらなくていいからな、ミリアム」
「兄さん、酷い!」

 僕の人生最大の夢なのにと嘆くラッセは感情が高ぶっているのか、いつまでも芝居じみて大袈裟だ。私はそんな彼から、握られたままの手をそっと引き抜いた。ついでにレナートへと体を寄せて、周囲の視線から逃れる盾にする。顔が熱いのは、今食べたじゃがいも料理が熱かった所為ではないだろう。

 多くの屋台に狭い通路、ひっきりなしの人の往来。そんな中でのラッセの夢語りは、実に人々の注目の的だった。語っていた時間はそう長くはないものの、かと言って短くもなく、私の両手を握り締めて熱く語るその姿は、さながら芝居の一幕だ。
 その様子に、少なくない人が何事かと足を止めた。そして、最初に滔々と語るラッセを目にし、次に語られる私へと視線が動き、最後には納得したように微笑み頷きながら去って行くのだ。
 そんな視線に晒されて平静でいられるほど、私の心臓は頑丈ではない。
 加えて、ラッセの語った夢の一部は今日これまでに、実際私が体験したことばかりで。だからラッセは始終嬉しそうだったのかと、予期しない形でラッセの機嫌のよさの理由を知ってしまったことも、どこか私には恥ずかしさを覚えるものだったのだ。
 そうして私がレナートの背に隠れるように体をずらした直後、レナートの呆れに満ちた平坦な一言が、ラッセの瞳を衝撃に見開かせる。

「ところでな、ラッセ。お前、黙ってるんじゃなかったのか?」
「あ――」

 吐息が零れるような小さな音が耳を掠めたかと思ったら、ぴたりと動きを止めたラッセの表情が一瞬にして後悔と絶望に染まる。そして、レナートの後ろから顔を出す私と視線が合った直後、頭を抱えて天を仰いだ。

「うわぁーっ! またやってしまったぁ……っ!」

 先ほどまでの生き生きと夢を語っていた姿はどこへやら、ラッセはどん底にまで落ち込んだ様子で、その場にしゃがみ込んでしまった。そのあまりの落差に目を瞬き、私はレナートへ説明を求めて顔を向ける。
 一体、ラッセはどうしてしまったのか。何をそんなに後悔しているのか、と。

「こいつは、興奮すると周りが見えなくなって、自分が思っていることを語り尽くすまで止まらないところがあるんだ。商談では、これが相手を褒めちぎる方向に向かうことが多くて、上手くいくらしいんだが……」

 レナートは軽く肩を竦めて、何と言うこともないとばかりにすぐに答えてくれたけれど、その内容はどこか私が求める答えとはずれていて。

「いえ、そうではなくてですね?」
「つまり、それだけミリアムとの外出が嬉しかったんだろう。で、話す気がなかった夢をうっかり暴露して落ち込んでいる、と。いつものことだが、自業自得だな」

 色こそアレクシア譲りだけれどそれ以外はサロモンに似たラッセは、剣の腕も父に似てからきしなのだと聞いたのは、初日か、その翌日か。三人姉弟の中でもイレーネにすら劣る為、ラッセは一家の中で最もサロモンの血が濃いと言われているのだと言う話を、私はふと思い出した。
 けれど、と思う。レナートに対しても思ったことだけれど、どれだけ外見がサロモンに似ていても、その血が濃く見えていても、確かにラッセもアレクシアの子だ、と。
 好きなことに対して興奮して周りが見えなくなるなんて、それこそアレクシアにそっくりだろう。
 そのことを本人が素直に後悔してしまえるのは、ラッセの優しい性格が故。もしかすると、ラッセが末っ子で、面倒見のいいレナートが兄としてすぐそばにいたからこそ、ラッセの中に形成された優しい一面なのかもしれない。
 勿論、兄であるレナートが優しいことは、私もよく知っている。彼の優しさが、時に少し分かり辛いことも。

「レナートさん、わざと私に教えましたよね?」

 私に向かって感謝の言葉を繰り返していたラッセは、喜びを溢れさせてはいたけれど、それでも暴走してしまわないように自制に努めていたように思う。あくまで、できるだけ控えめに喜びを語っていた。
 その箍を外す切っ掛けを与えたのは、レナートの一言。そして、きっととどめになったのが私の一言だ。当然、私にはそんなつもりはなくて、まんまとレナートの策に嵌められてしまったのだけれど。昨日、アレクシアの手綱を無理矢理握らされた時のように。

「……さぁ?」
「もうっ」

 とぼけてみせるけれど、口元を緩めて肩を竦めたのがレナートの答えだ。
 私は笑いを噛み殺すレナートを一睨みして前方で蹲るラッセの元へ行き、その視線の高さを合わせた。

「ラッセさん」

 呼びかけに、ラッセの頭がゆるりと上がる。そして、自嘲気味の笑顔がそこに浮かんだ。

「ミリアム、ごめんね。引いたでしょ。この歳にもなって妹が欲しいとか、その妹にお兄さんぶってこんなことやあんなことがしたいとか思ってるなんて。しかも、それがちょっと叶っただけで有頂天になるくらい喜んでるんだよ、僕。……気持ち悪かったよね」

 弱々しい声と共に、最後には深いため息が零れる。
 力なく落ちているラッセの手は、先ほどまではあんなにしっかりと私の手を握ってくれていたのに、今はもう私へ伸ばされる気配すらなくて。だから、気付いた時には私からラッセの手を握っていた。
 ラッセが驚いて目を丸くするのにも、笑みを浮かべる。

「私も楽しかったですよ。ラッセさんと手を繋いで街を歩くの」

 ラッセの動機はどうであれ、年上の男性と手を繋いで街を歩くなんて経験、私には殆ど初めてと言ってもいいだろう。テレシアの時ともエイナーの時とも全く違う、私よりも遥かに力強く大きな手に優しく手を引かれる――そんな経験とは一生縁がないとさえ思っていたのだから、私の内心の喜びはラッセに勝るとも劣らないかもしれない。

 それに、思えばレナートには、手を差し伸べて支えられたり頭を撫でられたり、抱き締められたことはあっても、手を繋いで行動をしたことはなかった。城内ではそんなことをする必要がなかったからだと言われてしまえばそれまでだけれど、そもそも、私の中にレナートと手を繋ごうと言う発想自体、存在しなかったのだ。だから、ラッセと手を繋いで歩くのは新鮮さに溢れていて。
 その気持ちを素直にラッセに伝えれば、彼の瞳が、今度は驚きよりも喜びに大きく見開かれた。アレクシアと同じ深碧色の瞳に一瞬希望が灯り、そして、嘘を恐れるように瞬く。

「……本当? 僕が保護先の家の人間だからって、無理してない? 遠慮して言ってない? ……いいんだよ? 本当のことを言ってくれても」

 そう言っておいて、改めて自分の言動に落ち込んだのか、ラッセの視線がわずかに落ちた。同時に頭も前傾して、私の前に旋毛が現れる。髪質は全く違うのに、レナートと同じ場所、同じ向きに渦を巻いている旋毛が。
 そんなところもでも、レナートとラッセ二人が兄弟であるのだと改めて知らされた気がして、私は込み上げる嬉しさに笑みを深めた。

「そうですね……。全く遠慮していないと言うと、嘘になります。なんせ、私は遠慮の塊なので。それに、ラッセさんのこともレナートさんのことも、私のお兄様と思うことも難しいです。ですから、ラッセさんの希望を叶えて差し上げることもできません」
「……うん、そうだよね」

 ますます落ち込んでいくラッセを握った手に力を込めることで励まし、私は折っていた膝を伸ばした。そうすればつられてラッセの顔が上がり、赤みのある金髪の間から綺麗な深碧色が再び現れる。
 その瞳に向かって、私の心からの言葉を紡ぐ。

「でも、私は今日の外出をとても楽しみにしていましたし、実際に今、とても楽しんでいます。私のこと、今日はたくさん案内してくださるんですよね、ラッセさん?」
「それは――」
「じゃあ、午後もよろしくお願いします。……あ。でもその前に、まだ一つも甘いものを食べていないですし喉も乾いたので、まずは次のお薦めの屋台に連れて行ってください!」

 言い淀むラッセの言葉に被せるように力強く告げれば、ラッセの瞳が私を捉えてゆっくりと瞬いた。そして立ち上がり、私とラッセの視線の高さが逆転する。

「いいの、ミリアム?」
「はい。勿論です!」
「――っ、ミリアム……っ!」

 感極まったように声を震わせ、ラッセの両腕が私を包み込むように迫る。けれどそれは、直前で割り込んだレナートに無情にも阻止されてしまった。

「ちょっと、兄さん! 何で邪魔するのさ!」
「煩い。公衆の面前でミリアムに抱き着こうとするな」
「今の流れは堂々と抱き着いてよかったでしょ! むしろ、抱き合ってミリアムと笑い合うまでが流れだったのに!」

 頭を掴まれ、あと少しのところで私に届かない両腕を暴れさせながらラッセが不満を叫べば、次の瞬間、レナートの指がラッセの額を強く弾く小気味のいい音が響いた。それはそれは痛そうな、実にいい音が。

「痛……っ!」

 実際に相当痛かったのだろう。額を押さえて蹲ったラッセの目の端には涙が滲んで、その姿を見る私にも痛みを想像させて、思わず身が竦む。
 けれど、レナートの方は痛がるラッセを自業自得と言いたげに一瞥するだけで、やりすぎたとは欠片も思っていないらしい。それどころか、じゃあ次は自分が、とばかりに私の手を握り、それを目にしたラッセの口から「ずるい!」と言う非難の声が狭い路地に響く始末だ。

「何がずるいんだ。いちいちお前は煩いな、本当に」
「だって、ずるいでしょ! ミリアムと手を繋いでたのは僕なのに!」
「だからどうした?」
「レイラにミリアムのことを任されたのは僕なんだけど!」
「それなら俺には、屋敷に帰るまでのミリアムの安全を守る義務があるんだが」
「こんな時だけ騎士だってこと持ち出すのもずるいよね、兄さんは!」
「持ち出すも何も、ただの事実だろうが」

 たかが私と手を繋ぐ程度のことでどちらも譲らず睨み合う兄弟と、そんな二人を微笑ましく眺める周囲の視線とを前にして、私の中に小さな小さな苛立ちが灯る。そしてそれは、すぐにぱちっと弾けた。

「お二人共、公衆の面前で下らない言い合いをしないでください! 私の手は二本あるんですから、こうしたらいいじゃないですか!」

 二人が私へ顔を向けると同時、私は空いた片手でラッセの手を掴み、二人に向かって見せつけた。
 私の右手にはレナートの左手が、私の左手にはラッセの右手が、それぞれ握られている。

「……これなら、文句はないですよね?」

 二人を交互に睨み付け、二人が私の言葉に何らかの反応を示すのを待たずに、私は左手を振り上げて足を踏み出した。当然、それに引っ張られたラッセとレナートからは慌てた気配を感じたけれど、私はそれすら無視して歩き出す。

「早く次の屋台に行きますよ、ラッセさん! 案内してください!」

 私の王都観光は始まったばかり。こんなくだらないことで、時間を浪費している場合ではないのだ。どこからともなく感心するような声と拍手が聞こえる中を、私は兄弟と両手を繋いだまま、力強く進んだ。

「……ねぇ、兄さん」
「……ん?」
「僕、やっぱり凄く幸せかも。今日で、いっぱい夢が叶いそうだよ」
「そうかよ。……よかったな」

 兄弟二人のそんなやり取りを、雑踏の中に聞きながら。
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