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第四章 母の故国に暮らす

森の魔女

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 男を素早く斬り伏せ、レナートは顔を上げて鋭く周囲を見回した。男を乗せていた馬が驚いて走り去る以外、緑の合間に人影はない。追撃が来ないことを見て取って、レナートは即座にフィンを走らせた。向かうのは、レイラの走り去った方向だ。

「……くそっ」

 苛立ちと焦燥が、思わずレナートの口から漏れ出る。
 自分の走れとの指示に、まさかレイラが全速力で走り出してしまうとは思わなかった。あれでは、ミリアムが振り落とされてしまいかねない。いや、今にも振り落とされて怪我を負っているかもしれない。そのことを考えると一秒すら惜しく、ますます焦燥が募る。
 同時に、あの場で自分が出した指示への後悔も押し寄せた。レイラに対して、その場に留まるよう指示を出すのが最善だったかと、己の過ちに歯噛みする。

 そんなレナートの思いを汲み取ってか、レイラのことを心配してか、はたまた両方か。レナートが何を言わずとも、森を駆けるフィンの速度は常よりも速い。それでも、ほんのわずかな時間差とは言え騎乗者のことを無視して疾走するグーラ種の速さには、到底追い付けるものではなかった。
 既にどこにも姿が見えなくなったレイラの姿を求めて、レナートはフィンと共に森を突き進む。

「ミリアム! レイラ!」

 大声で名を呼んでみても返る反応はなく、フィンはあっと言う間に森を抜け、湖を眼下に望む場所へと出てしまう。そこから見える湖岸に沿って視線を巡らせても、来た方向を振り返っても、見知った馬の姿も人の姿もなかった。
 揺れる水面に風にそよぐ木々、空を優雅に旋回する鳥に穏やかに照る太陽……レナートの内心の焦りなど素知らぬ顔の自然の姿が、そこにあるだけだ。長閑なばかりの森の様子に、フィンでさえも戸惑うように短く鳴いて耳を動かし、その不安をレナートへと伝えてくる。

「もう一度、森の中を探すぞ」

 フィンの不安を払拭するように首元を叩き、今度は速度を落として森の中へと入っていく。
 その、寸前。

「――っ!」

 意識の片隅を走った気配に、レナートは勢いよく背後を振り返った。強く引いた手綱に驚いたフィンが抗議の声を上げるが、それを無視して背後を見やる。
 だが、そこにあるのは眼下に広がる湖だけだ。そこに誰かが、何かがいる筈もない。それでも、レナートは確かにそこから何かを感じた。誰かの声を聞いた気がした。

「……まさか」

 ひやりと。背筋を嫌な汗が流れる。
 無意識に手が胸元に伸び、そこにあるティーティスの羽根の存在を確かめた。布越しに羽に触れた瞬間、見える筈のない水中の景色が過って消える。

 いや、そんな。だが。

 打ち消す思いとは裏腹に、レナートは突き動かされるようにフィンから降りて、崖へと駆けていた。思い出すのは、王家の森でミリアムと交わした会話。もしも、ティーティスの羽根がレナートの無意識に働きかけているのだとしたら。今、一瞬感じ取った気配は。過った光景は。
 考えるより先に、体が動く。気付けば、レナートは上着を脱ぎ捨て剣を投げ捨て、驚くフィンの気配を背後に、迷うことなく崖の下へと身を躍らせていた。あっと言う間に迫る水面を前に、レナートの冷静な思考が水中の一角に輝く何かを捉えて瞬く。

「ミリアム……!」

 派手な水音と共に湖へと落ちた一拍後、レナートは大きく息を吸い込んで、真っ直ぐ光を目指して泳ぎ始めた。
 一瞬見えた光景と過った水中の景色が見事に重なって、最悪を想像してしまいそうになる。それを慌てて振り払い、まだ間に合うと言い聞かせながら、レナートは歯を食いしばって水中を深く潜った。

 目指すのは、斜面に横たわる巨木だ。枯れた枝が方々に伸びたその中に、見覚えのある布地が広がっている。近付くにつれて見えてきたのは、枝に絡まる腰のリボン。力なく投げ出された細い腕と脱力した足、漂う金髪、その中に埋もれて閉じられた瞳。そして、レナートを導くように水中で光を反射する、リーテの雫の詰まった小瓶。
 水中で揺れる小さな体を捕まえて、レナートはまず真っ先に口を塞いだ。息を吹き込み、反応を見る。だが願った反応はなく、焦る気持ちをぶつけるように、体を水中に留める枝を力任せに蹴り付けた。
 たちまちくぐもった音と共に枝が折れ、レナートは自由になった体を抱えて一気に浮上する。

「ミリアム!」

 頬を叩いて声を張るが、水の冷たさにすっかり冷えた体は青白いまま反応はなく、その姿は初めてミリアムをこの腕に抱えた時を思い出させて、レナートの顔が険しく歪んだ。
 もう一度、二度。不安定な水面で息を吹き込み続ければ、三度目でようやく微かな反応が返ってきた。更に一呼吸を送り込めば、今度こそミリアムの体が大きく跳ねて、口から水が吐き出される。
 続けざまにミリアムが咳き込む姿に安堵して、その背を摩る。同時に、頭上からレナートの名を呼ぶ声が耳に届いた。

「レナート! こっちだ!」

 見れば、レナートが飛び込んだ崖からほど近い場所で、身を乗り出すオーレンの姿があった。手にはレナートが脱ぎ捨てた上着が握られ、その隣にはキリアンではなく、見覚えのない黒紫のローブを頭から被った人物が一人。
 フィンの姿はここから見えず、レナートは瞬間的に警戒をした。
 親友を疑う訳ではないが、見るからに怪しい者と共にレナートを岸ではなく崖下へと呼び寄せる行動は、どうにも不可解だ。咄嗟に腰に手をやるも、そこに望んだものはない。泳ぐのに邪魔になると外してしまったことを思い出し、眉根がきつく寄った。
 だが、逡巡する間にも、レナートもミリアムもその体は湖の水に冷やされていく。特にミリアムは、息こそ吹き返したものの力なくぐったりとして、意識の有無は判然としない。早く岸に上がらなければ危険だろう。

「いいから、早く来いっての! こっちの人は信用していいから!」

 必死に手招きをするオーレンからは、こちらを騙そうとする様子は見られない。だからと言って手放しで信用できるかと言えば、まだ怪しいのだが……それでも、今はその声に従うことが最善だろう。せめてと、先ほど折った木の枝を手に、レナートは意を決して崖へと泳いだ。
 そう距離があるわけではない筈なのに、すっかり冷えた体に人一人を抱えている所為か、やけに崖までが遠く感じる。ミリアムを救えた安堵が、少なからず緊張を解いたこともあるのだろうか。ようやく崖下へ着いた時には、流石のレナートでさえ疲労を感じて、大きく息が上がっていた。それでもミリアムだけは決して離すまいと抱く腕に力を込め、改めて崖上のオーレンを見上げる。
 と、ローブの人物の手から、小さな何かが一粒転がり落ちた。それはレナートのすぐそばにぽちゃりと落ちて――次の瞬間、猛烈な勢いでレナートの体が水中から押し上げられる。

「くっ!?」

 咄嗟にミリアムを庇うように抱き締めたレナートが目にしたのは、巨大な蔓。成人男性の腕の太さほどもあろう、木の幹にも似た蔓が、レナートとミリアムの体を搦め捕るようにして、崖上目指してぐんぐん伸びる光景だった。

「……は?」

 呆気に取られている間にオーレンの手がレナートを掴み、蔓から硬い地面へと転がるように引っ張り上げられる。そして、レナートの足が地面に着いた途端、蔓は役目を終えたとばかりに水中へ消えた。まるで現実感のない光景は、夢でも見ているかのようだ。
 地面にへたり込み、呆然と見上げたローブの人物は口元に笑みを湛えるだけで、何も言わない。だが、こんな芸当ができてしまうのは、この国では一部の者だけだろう。

「……聖域、の……?」
「んなことより! ミリアムちゃんは無事なのか、レナート!」

 自分の状況もミリアムの状態も一瞬忘れていたレナートは、オーレンの一声に弾かれるように腕の中を見た。今は、見知らぬ聖域の民に気を取られている場合ではない。

「ミリアム!」

 頬に触れ、顔に張り付く髪を拭って、名を呼びかける。そうすれば、ミリアムの薄い瞼がわずかに揺れて、そこから淡い色味の瞳が覗いた。上手く動かない手で胸元を寛げてやれば大きく胸が上下して、その顔に弱々しい笑みがほんのりと灯る。

「ミリアムちゃん、俺らが分かる?」
「…………ぁ……」

 力なく開いた口から、声にならない微かな音が吐息と共に零れ出る。頷く代わりにゆっくりと瞬きが応え、その反応にオーレンが大袈裟な仕草で胸を撫で下ろした。
 だが、安心してばかりもいられない。湖からは上がって来られたとは言え、レナートもミリアムもずぶ濡れだ。今すぐ濡れた衣服をどうにかしなければ、冷え切った体に体温は戻らず、結局危険なことには変わりない。

「オーレン! 急いで火を――」
「いいや、それには及ばない」

 レナートに答えたのは聞き慣れない声と、再びぽとりと落とされた小さな粒だった。レナートがぎょっとすると同時、濡れた衣服に落下したそれが弾けるように発芽して、今度はみるみる内に根を生やす。それはたちまち胴を這い足を這い腕を這って、レナートが抱くミリアムごと覆い尽くす勢いで根を伸ばしていった。

「なっ!?」
「じっとしていたまえ、騎士殿」

 反射的に根を振り払おうと腕を上げたレナートを、どこか笑みを含んだ声が柔らかく制し、声もなく驚くミリアムの口に何かを押し込んだ。

「何を!」
「心配しなくとも、毒ではない。少々酸味は強いものだが、疲弊した体に悪いものでないことは保証しよう」

 レナートが即座に腕を掴んだその前で、押し込まれたものを噛んでしまったのか、ミリアムの顔がぎゅっと縮まり、口が窄まる。か細く「酸っぱい」と漏らす声と共に頬に赤みが差すのが分かり、レナートは聖域の民を見た。

「あなたは……」
「私はただの通りすがり、名乗るほどの者ではない。だが、呼び名がなくては困ると言うのであれば……そうだな――」

 聖域の民が言葉を紡ぐ間にも、レナート達の体中を覆う根は湿った衣服の水を吸い取りながら瞬く間に芽を成長させ、ミリアムの手の辺りで一つの蕾を付け始めていた。
 やがて、見たこともない薄い青緑の柔らかな花弁が開き、広げた手から零れそうなほどの大輪の花が咲く。更に少しの時を経てレナート達の衣服が乾ききる頃には、花は萎れて胡桃大の実が生っていた。同時に、あれだけびっしりと体を覆っていた根は、役目を終えたとばかりに先端から干乾びて、砂のように風に乗って消えていく。
 最後に残った実を手に取ると、聖域の民は閃いたとばかりに弾んだ声を上げた。

「――うん。魔女……森の魔女、とでも言っておこう」

 同時にローブを脱ぎ去って、人とは違う容姿が露わになる。
 鼈甲色に輝く髪に、青磁色の淡い瞳。レナートの知る聖域の民の誰よりも細く長く、横へと伸びた美しい耳。
 レナート達を助けてくれた聖域の民は、年齢不詳の妙齢の女性の姿をしていた。

「森の、魔女……様?」
「君達と森で出会ったからな。そう言うことにしておいてくれたまえ。私は、目立つことは好まない質なのだよ。どうか、この出会いも内密に頼む」

 悪戯そうに笑う森の魔女の手がローブをミリアムへと被せ、レナート毎、包むように押し付ける。重たい色味の見た目にそぐわず、ローブからは優しい樹木の香りが漂い、今の今まで着ていた肌の温もりが、冷えた体に暖かかった。

「しかしまあ……友の用事に付いて来て久々に王都周辺を散策していたのだが、まさかあんな面白い場面に出会すとは。動物達の目を借りて、君達を見ていた甲斐があったよ」
「見ていた……?」

 王子の護衛としては見過ごせない一言にレナートが森の魔女を見やれば、相手は悪びれなく笑顔を寄越し、隣に座るオーレンも肩を竦める。

「実益も兼ねてはいるが、人間観察は私の趣味なのだよ、騎士殿。クルードに誓って悪用はしていないから、安心したまえ」
「お陰で、俺らも助かったんだよ。伸した野盗共をどうしようかってキリアンと困ってたら、お前を湖から引き揚げたみたいに蔓を出して全員縛ってくれてさ。んで、お前とミリアムちゃんを捜しに行こうとしたら、フィンがお前の上着咥えて走って来るだろ? そうかと思ったら、全然別の方向から、今にも死にそうな顔したレイラが突進して来るし」

 やれやれと息を吐き、オーレンがここに至るまでをレナートに簡潔に教えてくれる。
 曰く、森の魔女が動物の目を介して一部始終を見ていたお陰で、ミリアムがレイラから振り落とされて湖へ落下したこと、それを助ける為にレナートまで湖に入ったことを知ったのだとか。
 そのお陰で、常になく慌てたフィンと失神しそうなレイラの状況もすぐに理解し、レイラのことは一旦フィンに任せて、オーレン達はアシェルに乗って、慌ててここまでやって来たのだと言う。

「キリアンは今、俺らを降ろしたその足で、野盗共を運ぶ荷馬車を借りに近くの村まで行ってる。ブラウネル支部には掛け合えないしな」
「……そうか」

 ほっと息をついたレナートに、ほらよと軽い掛け声と共に、オーレンの手からレナートの上着と剣が渡された。

「私のローブは貸しておいてあげよう。あの種で衣服は乾かせたが、冷えた体を温めるまでの効果はないのでな」

 ミリアムの頬にかかった髪を、森の魔女がそっと耳にかける。腕の中のミリアムはいつの間にか眠っており、レナートはその眠りを妨げぬようにありがたくローブを着せて、自分も上着に袖を通した。
 そして、改めて森の魔女と名乗った聖域の民へと顔を向ける。

「助けていただき感謝いたします、森の魔女殿」
「いやなに、礼には及ばない。こちらとしても、久々にいいものを見せてもらったのだ。その礼とでも思ってくれればいい」
「いいもの、ですか……」

 先ほども、森の魔女は野盗との遭遇を面白い場面に出くわしたと表して、目を輝かせていた。レナート達当事者にしてみれば面白くも何ともないし、ミリアムに至っては危うく死にかけるところだったと言うのに。
 聖域の民は、人の常識からはやや外れた思考をしている者が多いとは言うが、それにしても、いくらこうして命が助かり大事には至らなかったとは言え、他者の不運を喜ぶのは不謹慎ではないだろうか。

「気を悪くしないでくれたまえ、騎士殿。これも私の性分と言う奴でな。悪気はないのだが、ああ言う場面に出会すと、ついつい心が踊ってしまうのだよ。無論、人死にが出そうであれば、即座に力を貸したとも」

 レナートの厳しい視線に気付いた森の魔女が、その顔に薄く苦笑を浮かべる。そのまま立ち上がり、すいとその手を宙へと伸ばした。

「騎士殿。リーテのお嬢さんが目覚めたら、伝えておいてくれないか」

 言葉尻に逆巻く風が上空から吹き付けて、見たこともない巨大な鷲が森の魔女の隣に降り立つ。

「ちょっ! でかっ!」
動物わたしの視線が気を散らせて申し訳なかったと。それから、ローブはお守り屋の店主にでも渡しておいてくれたまえ。まあ……できれば、私はしばらく聖花祭を楽しむつもりでいるから、シーナンのお守り屋に渡してくれると助かるんだが……そこはお任せしよう」

 驚きに目を丸くするオーレンを尻目に鷲の背に乗り、森の魔女がレナート達を見下ろした。

「ではな。騎士殿、兵士殿。実によいひとときを過ごせたこと、感謝する。クルードの殿下にもよろしく伝えておいてくれたまえ」

 そう言葉を残すと、森の魔女は巨大鷲と共に、あっと言う間にこの場から飛び去ってしまった。瞬きの間に巨体が空の彼方へ消えてしまうと、あとには野盗の襲撃やミリアムの溺水など何もなかったかのように、長閑な森と湖の変わらない景色が広がるばかり。
 唯一余韻のように逆巻く風だけが、確かに今ここに見たこともない巨大な鷲がいたこと、その鷲の背に乗って聖域の民が去ったことを知らせているが、それすら収まってしまうと本当に、今見た出来事は幻か何かだったのではと思うほどに穏やかな空気しか残らない。
 その空気の中、レナートはオーレンと無言で顔を見合わせ、数秒後、二人揃って脱力した。

「とんだ遠乗りになっちまったな……」
「……帰ったら忙しくなりそうだ」
「……なあ。それって、やっぱ俺も強制参加?」
「当事者だろ。きっちり付き合えよ」
「だよなぁー」

 再び、二人揃って今度は大きなため息を吐く。その音に、ミリアムの穏やかな寝息が小さく重なった。
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