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第四章 母の故国に暮らす

重なる記憶、忘れていたもの

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 あ、と思った瞬間には私の体はレナートに抱えられて地面に伏せ、鹿が寸前までいた場所に矢が突き刺さる。直後にもう二矢が空を裂き、一矢は鹿を、もう一矢は私が座っていた辺りを掠めて地面を抉った。
 その光景と、庇われた腕の隙間からオーレンとキリアンが素早く剣を抜く姿に、一拍遅れて心臓が縮むような恐怖が私を襲う。

 瞬時に脳裏を過ったのは、私を狙っているだろう誘拐犯の存在。私もキリアンも変装しているのにどうしてと、当然の疑問が沸く。けれど同時に、それより遥かに起こり得る状況が存在することに、私はひゅっと鋭く息を吸った。
 どうして、思い至らなかったのだろう。
 少しの変装など、私の繰り返す人生の前では無意味だ。これまでだって、どんなに足掻いたところで、最後はいつも同じ結末が待っていたではないか。
 幾度も経験してきたことが、洪水のように流れ来る。私と王太子とが揃う場所、襲い来る殺意、嫌になるほど経験してきた痛み、悲鳴、怒号、苦しみ、血の色、最期の瞬間。

「――ぁ」

 白い花に血が落ちる。鹿が駆け去り、野鳥のけたたましい鳴き声と、飛び立つ羽音がやけに大きく耳朶を打つ。見上げた窪地の縁には、弓を手にした男達。腰には剣。手斧を持つ者、槍を持つ者、馬に乗る者。見るからに人相の悪い集団が私達の前に居並ぶ姿が、数多の記憶に綺麗に重なる。
 にやついた顔に、剣がちらつく。男の下卑た視線に、背筋がぞっとする。

(ああ……)

 前触れなんて、いつもなかった。その瞬間は突然やって来て、そしてあっと言う間に命を刈り取る。私とフィロンと、周囲の多くの人々と。後悔なんて、する間もない。代わりに大きな諦念が、ただただ重く私に伸し掛かる。今度もまた駄目だったと。
 けれど今回ほど、どうして今かと思ったことはないかもしれない。こんなに楽しくて嬉しくて心が満たされて、幸せに溢れたこの瞬間に、この人生が終わるだなんて。
 吐き気と共に、絶望が来る。首が絞まる。幸せが砕けて体が凍る。目の前が赤く染まって、息ができない。耳鳴りが聴覚を奪って、音が絶える。

(ああ……きっとこれは、罰なんだ)

 国が違うこと、キリアンが死なないこと、私を思ってくれるたくさんの優しい人達。あまりに幸運なことがこの身に起こりすぎて、私が忘れてしまっていたから。勝手に勘違いして、希望を抱いてしまったから。
 キリアンが死なないならば、私も生き延びられるかもしれないと。この国で、生きていけるかもしれないと。
 そんな幸運、私にあるわけがないのに。

(だって私は……――)

 陽光を弾く凶悪な光が、まるで時が止まったかのようにはっきり私の目に見えた。獰猛な生命の、暗く澱んだ光が視界を埋める。私を飲み込み、死へ誘う。
 眼前に迫った光が消えたのは、その直後。耳を劈く金属音が鼓膜を叩いて、はっとする。続いたのは誰かの指笛。浮く体。花畑を踏み荒らす足音に、空を切る矢。男達の下品な歓声。走る誰かの息遣い。
 溢れる音に、私は束の間、呆然とした。

「勘弁しろよ! 問答無用で斬りかかってきやがって! 禁猟区で猟をしてたのはそっちだろうが!」
「ミリアム狙いの刺客じゃないだけ、まだましだろ」
「今は、逃した鹿の代わりにめっちゃ狙われてるけどな!? 俺らのお嬢様に指の一本だって触れさせてやるかっての!」
「……おい、レナート。今度、ブラウネルの兵団支部に抜き打ちで行くぞ。あいつら、職務怠慢にもほどがある」

 揺れる視界を、次々に木々が通り過ぎていく。その中で、オーレン達の声が緊迫感なく飛び交った。
 不意に景色の揺れが収まり、かと思えば全員がそれぞれ木の幹を背に隠れ、半瞬遅れて矢が通過する。見当違いの方向に飛んで行った矢は遠くの木に刺さって止まり、驚いた栗鼠が木を駆け降りて逃げ去った。
 その光景を現実味の薄い感覚で眺めてから、私はすぐそばにある顔をゆるりと見上げた。金の髪と青い瞳。それは何度瞬いても消えることなくそこにあり、私の視線に気付いたのか、ふっと降りて来た顔には安堵を覚える柔らかな笑みが灯っていて。つい今しがたまで私の為に花を編み、髪に飾ってくれた温かな手が、今度は私の頬をそっと撫でる。

「……レ、ナート……さん……?」
「怖い思いをさせて悪かったな、ミリアム」

 ゆっくりと体を下ろされ、私の足が地面に着く。思わずよろけた体はレナートの腕によってすぐに支えられ、そのまま強く引き寄せられた。触れる温もりに体の強張りがわずかに解れ、私はようやく自分がまだ生きていることを理解する。
 それでも、不安は拭えない。いつの間にか男達の声が消えた森は、不自然な静けさに包まれて、どこか恐ろしさを湛えて私達を囲んでいる。どこから男達がその姿を現すのかと考えるだけで、私の体は勝手に震えた。
 落ち葉が擦れる音は、風か、人か、はたまた獣か。微かな物音にさえ過剰に反応してしまう私の体をレナートが優しく撫でて、大丈夫だとの言葉を耳に届けてくれる。

「ミリアムのことは俺達が守るから、心配するな」
「で、でも……っ」

 いくら三人が剣の腕が立つと言っても、私を抱えていては、レナートは剣を振るえない。実質二人で何人もの男達を相手にすることになるのに、それで私達が無事にこの場を切り抜けられると、楽観的には考えられなかった。何より私がここにいることで、繰り返す人生が三人を、キリアンを死に追いやってしまうかもしれないのだ。

 だと言うのに、レナートは変わらず私に笑みを向けるし、先ほど交わした会話同様、オーレンもキリアンも見える表情に焦りも恐れも窺えず、死の影を意識すらしていない。ちらりとこちらに視線を向けたオーレンが、こんな状況だと言うのに片目を瞑って笑いかけるのに、私は茫然としてしまった。
 この場で、私をただ安心させる為だけに浮かべられた気休めなどではない、明るい表情。それは、極めて冷静に状況を分析し、その上で自分達がここで大怪我を負うとも死ぬとも思っていない、実に自信に溢れたもので。
 それを裏付けるように、オーレンとキリアンの間で言葉が囁き交わされる。

「つか、あいつら何なんだよ? どこにも通報しないでやるから、俺らのことなんか相手にしねぇで帰ってくれねぇかなぁ。こっちは楽しい遠乗りの最中だっての。仕事をさせんな、仕事を」
「恐らく、聖花祭の旅行客を狙う野盗の類だろう。四、五年前に一掃した筈なんだが、また湧いて出るとはな」

 しゃがんだ姿勢でそっと木の幹から顔を覗かせ、背後を確認しながらオーレンがぼやけば、キリアンが同じ木の幹から別方向へと視線を向けて、ため息を吐く。

「そう言う輩は一人いたら百人いると思えって、俺の爺さんが言ってたぜ? 徹底的にやらなきゃ駄目だってよ」
「前回は、大本を叩き損ねたわけか。……だったら、ここの支部だけを当たっても駄目だぞ、キリアン。怪しいところを一斉に叩くぐらいでなきゃ、また逃げられる」
「それなら、むしろこれから二、三人捕らえて会議中の城の議場に突き出してやった方が、手っ取り早そうだ」

 そうすれば、話を聞くと言う名目で地方官を城に留め置けるし、キリアン不在の理由もでっち上げられる。その上、野盗も捕らえられて一石二鳥、いや三鳥だとキリアンが一人頷き、それにオーレンも挙手で賛成を示す。ただ一人、レナートだけが渋い顔なのは、恐らく私がいるからだろう。

「あの、私なら……」

 言いながらキリアンへと顔を向け、そこに見えたものにぞっとした。少し離れた灌木の茂みに人影。きらりと一瞬光が見えて、咄嗟に叫ぶ。

「キリアン様、後ろ――っ!!」

 光が奔り、振り返ったキリアンの体が衝撃に大きく仰け反った。伸ばした手は間に合わない。キリアンが頭部に矢を受け倒れる姿に、私は足から崩れ落ちる。

「――ぁ……」

 目の前の光景がフィロンの死に重なった。やはりキリアンであっても、彼が王太子である限り、私の存在が死を呼ぶのだ。
 多大な後悔が押し寄せて、私の胸が潰れそうに痛んだ。

「まずは一人ぃー!」

 獲物を仕留めたと喜ぶ声が、キリアンの倒れ伏す音と共に私の耳に虚しく響く――かに思われた。
 けれど。

「心配いらない、ミリアム」

 最初に聞こえたのは、私を抱えたレナートの落ち着いた声。

「うっわ、ちょっと油断した!」

 次に聞こえたのは、幹を蹴り付け枝へと跳んだオーレンの弾む声。
 そして――

「俺以外の奴なら死んでいたかもしれんが……残念だったな」

 キリアンの平然とした声がはっきり聞こえて、私は大きく目を見開いた。

(……無、事……?)

 私の見つめる先、しっかりと両足で大地を踏み締めて立つキリアンは、どこにも傷を負った様子はない。頭部に刺さった筈の矢も、血の一滴も見せずにキリアンの手の中にある。
 レナートに抱えられてぐんぐん遠ざかる景色の中、私がこの目で見たのは、あまりに想像とかけ離れた光景だった。

 瞬きの間に男が倒れ、横から黒い影が躍り出る。嘶き、その背にキリアンが乗り、奪った弓矢がオーレンに投げ渡された。木にぶら下がったオーレンが、すかさず逆さの姿勢で矢を放つ。聞こえてくるのは、知らない男の呻き声。怒号に剣戟、風切り音。
 荒々しい音が満ちる森の中、私の視界は再び揺れて、木々が次々背後へ流れた。やがて、喧騒が遠ざかり葉擦れの音が大きく聞こえ始めた頃、不意に襲った浮遊感に思わず体が竦む。

「……っ」

 同時に軽い着地の衝撃。反射的に瞑った目を開いてみれば、ようやく景色の流れが止まっていた。
 恐る恐る見上げれば、軽く息を弾ませるレナートの背後に、私の背丈ほどの崖がある。これまでとは違う軽やかな音に首を捻れば、足元には流れの早い小川が一つ。
 ぴたりと崖に背を付け耳を澄ませて今来た方向を確認し、追って来る者の姿がないことに、ようやくレナートが大きく息を吐いた。私を抱く腕の力も緩められ、そっと地面に下ろされる。私はそのまま、その場にへたり込んでしまった。
 私自身が走ったわけでもないのに心臓が煩く鳴って、呼吸が荒い。全身が震える。今見た光景が、頭から離れない。
 明らかに頭部に命中した矢に、仰け反る体。男も確信するほどの完璧な一射。それなのにキリアンは平然と立って動き、喋り、駆け付けたアシェルに跨り剣まで振っていた。
 あれが、クルードの加護。キリアンに与えられた、決して傷付かない体。

(本当に、本当だったんだ……)

 決して、キリアンの言葉を嘘だと思っていたわけではない。けれど、この目で実際見てみるまでは、どこかで信じきれていない私がいた。
 それを今、目の前で見せられて。

(……死なない、んだ)

 キリアンは、死なない。王太子は、死んでいない。私もまだ、生きている。
 じわりと込み上げる実感に何故か視界まで滲んできて、私は小さくしゃくり上げた。隣に膝を付いたレナートに抱き寄せられ、私は逆らうことなくレナートの体に寄りかかる。その温かさと、常より早い心臓の鼓動が何よりも私に生を実感させて、私はレナートの胸に顔を押し付けた。

「怖かったな」

 頭と背を撫でられながら、私は身動ぎするように首を横に振る。
 確かに、怖くはあった。突然壊された楽しいひとときに、野盗達のあまりの恐ろしさに、今でも震えは完全に収まっていない。オーレンが怪我を負わないかも心配だ。
 けれど、今はそれより何より、生きている嬉しさの方が勝っていた。まだ完全には安心できる状況ではないと言うのに、キリアンの死が遠ざかった事実は、何よりも私を安堵させた。
 そのまま、しばし静かな時が過ぎる。

 徐々に落ち着いていくレナートの心音、変わらない温もり。耳に心地いいせせらぎに、爽やかに吹く風。今しがたまでの荒々しい現実が嘘のように穏やかな時間は、油断をしたら瞼が落ちてしまいそうだった。
 その内に、規則的な蹄の音が遠くから聞こえ始め、それがまた眠りを誘う音となって私の意識が束の間遠ざかる――寸前で、私は勢いよく顔を上げた。
 目にしたレナートの横顔にも、わずかな警戒が見て取れる。

「レナ」

 思わず開いた口は即座にレナートの手に塞がれて、私は己の迂闊な行動を恥じた。すぐさまきつく口を閉じ、レナートの腕の中、息を殺してじっと耳を澄ませ、震えそうになる体を叱咤する。
 徐々に近付く蹄の音は、よくよく聞けば一頭ではなく複数で。話し声こそしないものの、迷いなくこちらを目指していると分かる音に、私の中で恐怖が再び頭を擡げた。
 やがて間近に迫った音は、草を掻き分ける音を大きくさせて真上で止まり。

〝キタヨー!〟

 そんな明るい声と共に見知った顔が現れて、私の体から一気に力が抜けた。

「遅いぞ、フィン! お前を呼んでどれだけ経ってると思ってるんだ! 少しはアシェルを見習え!」

 レナートが、再会を喜ぶより先に小声ながらもフィンを叱れば、フィンはあからさまに視線を逸らして後退る。その態度は、罰が悪そうにしつつも指笛の音にちゃんと駆け付けたのにとの不満も垣間見え、そのあまりに普段と変わらぬ様子は、こんな状況だと言うのに私をどこか安心させた。
 そして、そんなフィンの隣からもう一頭、月毛色の顔が私を見下ろす様に、私は今度こそほっとする。

「レイラ……!」

 軽やかに崖を下りて私へ顔を寄せるレイラに、私は座り込んだまま両手を挙げて鼻筋に触れた。少しばかり上がった息が、レイラがここまで常になく駆けて来たことを知らせて、私の胸が熱くなる。

「よかった……フィンとずっと一緒だったのね。あなた達は、襲われたりしていない? 怪我もない?」

 問えば、レイラは大丈夫だと示すように私の顔に鼻面を押し付け忙しく尾を振り、無事を示した。続けて、早く行こうと誘うように私の腕の下に鼻を押し込み、私を立ち上がらせようとしてくる。
 確かに、今は無事でも、このままこの場に留まり続けていては危険だろう。いつ何時、オーレン達の手を逃れた野盗がここまでやって来るかもしれないのだから。
 レナートから差し出された手を握って立ち上がり、私は改めてレイラの首に抱き着いた。色々なことが一度に起こりすぎて、そうでもしないと、笑った膝がすぐさま私を地面へ逆戻りさせてしまいそうなのだ。
 嬉しそうに体を寄せてくるレイラの存在が、私にとっても今はとても嬉しかった。

「ミリアム、君は湖に。ああ言う手合いは、よほどでなければ人目の多い場所には出て行かない。レイラも、頼んだぞ」
「レナートさんは?」
「俺も、この森の外れまでは一緒に行く。君の安全が第一だ」
「でも、お二人が……」
「あいつらのことなら、心配ない」

 それぞれ鞍に跨り、片手に剣を、片手に手綱を握ったレナートが、鋭い表情ですぐさま馬首を巡らせる。私もそれに倣ってレイラの手綱をしっかりと握り、気を引き締めてあとに続いた。
 川のせせらぎが遠ざかり、二頭が地面を踏み締める音だけが森の中に聞こえる。静けさが反対に緊張を呼び、落ち着いていた筈の私の心臓の鼓動は、否が応でも早まっていく。

 鳥の羽音、小動物の足音、風に揺れる梢、レイラ達の息遣い。緊張が高まるにつれて私の耳には些細な音まで大きく聞こえてくるようになり、その音に飲まれて、自分が上手く呼吸できているかも分からなくなる。視界が明滅するのは木漏れ日の所為か、私の緊張がそう見せるのか。
 そうして、いよいよ数多の音に飲まれて世界が回るような感覚に陥りかけた時、乱暴に草木を踏みしだく音が一際大きく耳に飛び込んで、脇から馬が一頭現れた。驚きに、レイラが手綱を無視して大きく跳ね、私の体も大きく揺れる。

「きゃっ」
「見つけたぜぇっ! 女だっ!!」

 品のない濁声にレナートの舌打ちが重なり、重たい金属音が鼓膜を揺さぶる。咄嗟にレイラの首にしがみ付いた私の背に、すかさずレナートの声が飛んだ。

「走れ! レイラ!」

 その瞬間、ぐんと体が後ろに引かれ、かと思ったらこれまでにない速度でレイラが駆け出し、思わず私は目を瞑る。レイラの力強い蹄の音が森の静寂を乱し、同じくらい強い声が、たった一つの言葉を私に届けた。

〝マモル!〟

 レイラはどこをどう走っているのか、私の体は時に右に振れ左に振れて、目を瞑っていても目が回りそうだった。更には大きく跳躍をして、その動きに体が鞍から浮き上がる。必死に首にしがみ付いていても反動で何度も手が離れそうになり、その度に私は慌ててレイラの鬣を掴んだ。
 それでも、これまで景色を楽しむ乗馬しかしたこともなければ、そもそも体力筋力共に平均か、下手をすればそれ以下の私には、この速度にこの体勢は、決して長時間持つものではない。じりじりと痺れ始め、次第に感覚が失せる両腕に、私は冷やりとした恐怖を過らせた。

 グーラ種の身体能力は、普通の馬より遥かに優れている。馬で二日かかる距離を半分の時間で駆け、自分の背丈の三倍はある高さを軽々と飛び越え、また、どんな急斜面でも難なく駆け降りる。神グズゥラの加護による頑強な肉体が生み出す力は、いずれを取っても普通の馬を遥かに凌駕するのだ。そんな彼らが本気を出せば、尚更、普通の馬とは比べ物にならない。
 勿論、そんなグーラ種に乗るには、人間の側も相応に訓練が必要だ。レナート達は当然、馬より早いその背に跨り、通常では考えられない崖を登っては降り、人もグーラ種も怪我なく動けるように、日々訓練を重ねている。そうしてやっと、グーラ種を乗りこなせるようになるのだ。
 けれど私は違う。本気で走るレイラの速さに、体がついて行かない。

「……レ、イラ……待って」

 何とか声を出してみるけれど、猛然と走るレイラが私の声に気付く様子はなかった。彼女から聞こえる声は、ひたすら「守る」とそればかり。私を守ることに必死になるあまり、他のことに気が回っていないのだ。
 そんなレイラの姿を見て、思う。きっと、これまで主人を持たず王城で暮らしていたレイラにとっても、こんな荒事は初めてのことなのだと。そうであるなら、レイラが私同様この事態に恐怖を感じていてもおかしくはない。これまでは、荒事に慣れたフィンが隣にいたから気丈に振る舞えていただけなのだろう。それが突然、一頭だけで私の安全を任されて。
 普段は私の姉ぶっていても、レイラだって私とほんの少ししか違わない女の子なのだ。フィンと違って、騎士と共に十分な訓練をしたこともない。
 どれだけ怖い思いをしているだろう。どれだけ私を守らなければと必死だろう。

「レイラ……ごめん、ね」

 守ってもらうばかりの弱い主人で。レイラの気持ちを汲んでやれない駄目な主人で。
 薄く開けた視界には緑ばかりで、自分達がどの辺りにいるのか全く見当もつかない。せめてこの先に湖があり、レイラがそれを目にして落ち着いてくれることを祈りながら、私はレイラの気持ちに応える為に、何とか掴まる手に力を込めた。

 ――けれど。その時は唐突に、残酷に訪れる。

 レイラが不意に方向を変え、私の体が左に大きく振れた瞬間。しっかり掴んでいた筈の鬣が指の間からするりと抜けて、私の体はものの見事に宙へと投げ出されてしまった。

(あ――)

 必死なレイラは、気付かない。木々の間をすり抜けて、私の体は太陽の元へと躍り出る。迫る地面の更に先、風に押し出されるように、私の体は遥かな崖から飛び出した。
 真っ逆さまに落ちるその先は――
 反射的に目を瞑った一瞬後、どぱんと派手な音を立て、薙いだ水面に大きな波紋が広がった。

 *

 不思議なほど、体が深く沈んでいく。思った以上に冷たい水にたちまち体が凍り付き、まとわりつく服が更に私の動きを封じる。慌てて見開いた目に、首から下げたリーテの雫が視界を横切るのが見えて、私の姿が
 水中で揺蕩う髪が、大きく広がっている。水の色を写し取った金髪は澄んだ緑に染め代わり、いつもの私の姿がそこに現れていた。

「――っ!!」

 その姿をはっきり目にしてしまった瞬間、私の中のぼやけた記憶が鮮明になる。
 雷鳴の轟く図書館。薄紅の髪の聖域の民、リリエラ・ルルエラ。呪わしき贄。呪いの容れ物。母の似姿。割れた鏡。死を望んだ私。
 どうして、こんな大事なことを忘れていたのだろう。それとも、忘れさせられていたのだろうか。
 きっと、後者だろう。そうでなければ、誰も図書館でのことを口にしないのは不自然だし、あの日私が選んでレナートが部屋に届けるよう言った本が、私の手元に届かなかったことの説明が付かない。
 呪いやまじない、お守りに関する本。それを私が手にすれば、せっかく忘れさせたことも思い出してしまうと思ったのだろう。

 分かっている。忘れさせたのは、私のことを思ってなのだと。皆の優しさだと。そうすることが私を守ることになると、皆が思ったからなのだと。
 分かっているのに、騙されたような気持ちが湧き上がって仕方がない。
 忘れていなければ、こんなに素直に幸せに浸らずに済んだのに。忘れていなければ、生きることにこんなにも希望を抱くこともなかったのに。

(――ああ、でも。このまま湖の底に沈んでしまえば)

 そんな思いが過ると同時、私は苦しくなった息に堪らず口を開いて、逆らうことなくそのまま意識を手放した。
 完全に意識が黒く塗り潰される寸前に、私の名を呼ぶ誰かの声を聞きながら――
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