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第四章 母の故国に暮らす

決意のその後

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 その後、館の中を案内すると言うマーリットからの申し出を断り、私達は宿への帰路に就いていた。一時は神殿騎士が門に立っていた所為で入館を躊躇していた観光客の流れも、彼らがいなくなったことで元に戻り、行き交う人の流れの中を私達もまた歩きながら、馬車乗り場を目指す。

 本音を言えば、マーリットの言葉に甘えたい気持ちは少なからずあった。けれど、リーテに直接言葉を貰えたことで私の中の呪いに対する焦りが少しばかり和らいで、是が非でも、と言う気持ちにはならなかったのだ。それに、間接的とは言え多くの観光客に迷惑をかけてしまったことも、私の中にこれ以上特別な待遇に甘んじることへの躊躇を生んだ。
 マーリットは残念そうにしていたけれど、またいつか、今度は観光客の数が落ち着いている頃にでも出直すつもりだ。次はぜひ、ハラルドと共に来てみたい。

「本当によかったの、ミリアム?」

 相変わらず強い風に帽子を押さえて空を仰ぎ見たところで、ライサが私へと気遣わしげな視線を寄越した。ちらちらと背後を気にしている様子が見え隠れして、私は小さく笑いながら頷く。

「うん、いいの。ここにはまたいつでも来られるし――」
「そうじゃなくて。……いや、そっちもいいのかなって思うけど、今あたしが言ってんのはあいつの方だってば」

 あいつ、と嫌そうな顔で指差す先には、館の門前で深々と腰を折ってこちらを見送るヒューゴの姿がある。ハラルドにも劣らない綺麗な姿勢は、彼の騎士服姿も相まって、初対面の最悪の印象が霞むくらいには実に凛々しい。実際、館へ向かう観光客の内、女性の多くがヒューゴの姿に一度は目を奪われている。
 それでも微動だにせず私達へ向かって頭を下げ続けているヒューゴからは、真剣に私の言葉に向き合おうとしてくれていることが強く伝わってきた。その姿を見ていると、自然と私の口元に笑みが浮かぶ。

「……うん。ヒューゴさんのことも、私はこれでいいと思ってるよ」
「えぇ……本当にいいの? あたしが言うのもなんだけど、もうちょっと考えた方がよくない? それに……」

 私の返答にライサは顔を引き攣らせ、次にそっと窺うように私達の一歩前を歩くイーリスの横顔を見上げた。
 眉のつり上がった険しい表情に、引き結んだ唇。肩に力を入れ、日傘を握り潰さんばかりの強さで掴んで歩く姿からは、イーリスの苛立ちがありありと見て取れる。

「あいつがいたら、イーリスの機嫌が滅茶苦茶悪くなるじゃんっ。あたし、あんな苛々したイーリスばっか見るの、やだよ?」

 イーリスに届かないよう、ライサが私の耳元で囁く。その顔は、私に考え直せと切実に訴えていた。そんなライサに、私はただただ苦笑を浮かべるしかできない。ライサがそう思うのも無理もないからだ。
 私が二年待つと告げたあの時、それに感謝を示して殊更深く頭を下げたヒューゴは、実は私の足先に口付けていたのだ。勿論、靴を履いていた為に直接私の足に触れてはいないし、だからこそ私は気付かなかったのだけれど、私の隣に座っていたイーリスは違った。彼女の位置からは、角度的にしっかりとヒューゴの行動が見えていたのだ。そして、それを目にした瞬間、イーリスは烈火の如くに怒り散らした。

 足先……爪先への口付けが意味するのは、相手への崇拝。初対面で剣を捧げると一方的に告げた挙句にその行動では、イーリスが怒るのも無理もないことだろう。
 加えて、これもまた自分なりの決意の表れなのだと、悪びれるどころか胸を張って堂々と言い放ったヒューゴの態度も、火に油を注いだ。結果、二人は救護室から外へと飛び出し、あわや決闘寸前まで行きかける。
 騒ぎに気付いた神殿騎士達が駆け付けてイーリスを止めてくれていなければ、今頃どうなっていたことか。それでも、まさか大の男が三人がかりでようやくと言うことになるとは思わなかったけれど。
 その結果、怒りを十分に発散できなかったイーリスは、現在すこぶる不機嫌なのだ。

「でも……ヒューゴさんも、悪い人ではないから」
「えぇー」

 ヒューゴから暴言を吐かれたライサからの、納得がいかないと言う不平の声を聞きながら、門前で頭を下げ続けているヒューゴの随分と小さくなった姿を人の流れの先に見て、私は目を細めた。
 ライサやイーリスには悪いけれど、きちんと言葉を交わしてみれば、やはりヒューゴは純粋で真面目で律儀で、私には嫌いになれそうにない人だ。

 これまでこの国で出会った人の中で、好意とはまた別の感情をこんなにも真っ直ぐ私へ向けてくれたのはヒューゴが初めてで、私としては実は嬉しくもあったのだ。崇拝なんて言われると背中が痒くなるほどに大仰で尻込みしてしまうけれど、騎士に憧れを抱く私にとって、騎士から忠誠を誓われることもまた、密かな憧れで。
 勿論、現実味のない夢物語がいつか叶うなんて思ったこともなく、純粋に素敵なお話だと憧れていただけだった。けれど、そんな憧れを叶えてくれるかもしれない人が現実に現れたなら、尚更放っておけないではないか。

「……ミリアムのお人好し」

 口を尖らせたライサから零れた一言に、私は眉尻を下げて笑む。
 私にそんな意識はないけれど、傍から見れば私の行動はその一言に尽きるのだろう。私自身がライサの立場ならば、私だってそう思ったに違いない。
 ただ、これまで他者に変わり者と距離を置かれ避けられる人生を数多く繰り返し続けた所為か、逆にどんな形であれ、私へ気持ちを向け手を伸ばそうとしてくれる人に対しては、本当に嫌な気がしないのだ。
 笑う私にライサの呆れ交じりの横眼が刺さり、私は反省するように身を縮めた。けれど、ライサの目にはそれは反省とは映らなかったらしい。もう、と呆れた声を漏らして、それから諦めたようにため息を吐かれてしまった。
 そんな私達を、イーリスの隣を歩いていたテレシアが振り返って笑う。

「ふふ。ミリアムにも早く、ミリアムのことを『止めてくれる人』を探してもらわなくちゃ駄目かしらね」
「えっ?」

 不意に出てきた言葉に、私は目を瞬いた。
 それは、昨日私が言いかけて、突風の所為で立ち消えてしまったものだ。結局、あれからは一度も話題に上ることがなかったので、ちゃんと聞こえていなかったか忘れてしまったのだろうと思っていたのだけれど。

「イーリスもね、ヒューゴのことで何かあると、いつもそれを止めてくれていたのが、兵団で医師の助手をしていたフレデリクなのよ」

 医師の立場から淡々と仲裁に入り、有無を言わさず医務室へイーリスを連れて行き、イーリスが満足するまで愚痴に付き合ったフレデリク。そんなことを繰り返して今の二人があるのだと耳打ちするテレシアに、たちまち不機嫌をどこかへやったイーリスの慌てた声が飛ぶ。

「ちょっと、テレシアっ?」
「あら。聞こえていたの、イーリス」
「聞こえていたの、じゃないわよっ。私にも聞こえるように言っておいて……っ!」

 突然話題に出されたことが恥ずかしいのか、私やライサには知られたくなかったのか。その頬は苛立ちとは別の意味で仄かに朱に染まっており、眉を吊り上げてテレシアを睨んでいても、まるで恐ろしさはなかった。テレシアもテレシアでイーリスの慌て振りを楽しそうに笑うだけで、欠片も悪いと思っていないことがよく分かる。
 二人がそのまま言い合い始めるのを横目に、私はライサと顔を見合わせ肩を竦めた。

「ミリアムを止めるのは、騎士とか兵士じゃないと無理だと思うな、あたし」
「それって、私が言葉だけじゃ言うことを聞かないと思ってる?」
「だって、ミリアムって案外喋るより動くじゃん? だったら、ミリアムに必要なのは、フレデリクさんみたいに言葉で止める人より、レナートみたいに力で止める人だって」
「私、レナートさんから力尽くで止められたことはないんだけど……」

 いや、一度、危うく自死しかけたところを体当たり気味に止められたことはあったか。ああ言う場面では、確かに力の方が物を言うかもしれない。それでなくとも、私が願う「止めてくれる」は、力のある人でなければ叶えられないことではある。

「あ。でも、だからってヒューゴはないけど! あいつは絶対ないからね、ミリアム!」

 思い出したように渋面になるライサに小さく噴き出し、私は今一度館の方を振り返った。
 既に遠く離れた門は大勢の人の向こうに隠れ、ヒューゴの姿をそこに見つけることはできない。それでも、ずっと頭を下げ続けていた姿を思い出しながら、確かにヒューゴには私は止められないだろうと、素直に思った。
 ヒューゴは、私の騎士になりたいと言ったのだ。そんな彼に、主を殺すも同然のことは頼めないし、それを口にすることは彼の決意を冒涜する行為でもある。
 馬鹿な考えを振り払うように小さく首を振り、私は前へと向き直った。そうして、到着した馬車乗り場で馬車を待つ。


〝――――セ…………ィ……、ル……――――〟


 やがて、やって来た馬車に乗り込む際、止むことのない強い風の音に混じって誰かの声を聞いたような感覚を最後に、私は母の生家の地をあとにするのだった。


 ◇


 西日に染まる窓外の景色から室内へと視線をやって、彼女はソファに座ってのんびりと茶を味わうマーリットへと足を向けた。彼女が歩く度に黒紫色のローブの裾が揺らめき、樹木の香りが優しく漂う。

「君はあれでよかったのかい、マーリット?」

 マーリットの向かいのソファに腰掛け、用意された茶に口をつけながら、彼女は満足気に微笑むマーリットを見て片眉を上げた。
 彼女は、マーリットが名付け子の娘と会うことを、それはそれは楽しみにしていたことを知っていた。それなのに、いざ会ってみるとマーリットは始終素直さの欠片もない言葉ばかりを娘へ投げて、娘を困らせてばかり。案の定、娘はマーリットのことを酷く警戒し、彼女が少しばかり期待した、祖母と孫のような間柄で打ち解けて会話をする雰囲気など、どこにもなかった。
 鳥の目を通して様子を窺っていた彼女は、二人の様子に正直落胆していた。

「ええ、勿論。あれでよかったのよ」
「……君は、相変わらず頑固だな」
「だって、ミリアムに神殿に来られては困るんですもの。警戒してくれなくては」

 マーリットのにこやかな表情に嘘はなく、心底からそう思っていることが彼女にもはっきりと伝わってきた。だからこそ、彼女は溜息を漏らす。

「やれやれ。今日この日の為に君に使われたと弟殿下が知ったら、さぞや立腹することだろうな」

 娘が神殿に対する警戒心をより抱きやすいよう、マーリットが敢えて王城で弟殿下と言葉を交わしたことを、彼女は知っていた。
 いや、それのみならず、彼女は人より多くのことを知っている。例えば、この国にやって来てからの娘の大まかな暮らし振り、祈願祭の詳細、王家に対して牙を剥かんとする者達の動向……様々な動物達の耳目を通して彼女は見聞きし、己の中へと蓄えてきた。そして彼女は、それらのことを必要に応じて、彼女の数少ない友であるマーリットへと伝えてきた。

 初めは、目が見えず体も不自由なマーリットに乞われて、彼女自身が興味を持った出来事をたまに話す程度だった。だが、マーリットの地位が上がるにつれて徐々に変化し、今では国内外の様々なことを話して聞かせるようになっている。
 彼女にとっても唯一、目が見えず彼女の姿を正確に知覚できないと言う点で、気兼ねなく接することのできる相手であることも手伝ったのだろう。そしてマーリットは、彼女の話を自分の為に、この国の為に使っている。
 とは言え、今回のことに彼女自身が一枚噛んでいることに、少なからず申し訳ない気持ちを抱いていた。

「エイナー殿下のことは、わたくしも少しは反省しているのよ。だけど、わたくしが思っていた以上にご立派に成長なさっていたものだから、あんまり嬉しくなってしまって」

 マーリットは悪びれずに笑うが、その所為であの小さな子供は徒に不安を煽られ、怒りを煽られ、マーリットに対して無茶をしてしまった。見えない相手を視ようとするには、彼の体はあまりに若く、経験が足りない。力の使い方を誤れば己に返って来るのは、自明の理である。
 息子が倒れたと知らせを受けた父王が人払いをした執務室で頭を抱え、仕事を放って一晩息子のそばについていたことは、彼女だけが知ることだ。流石にこのことばかりは、マーリットにも伝えていない。
 もっとも、そうやって後悔するくらいならば、マーリットの意図に気付いた時点で父である彼が上手く対処すべきだっただろうにと、彼女は呆れながら覗き見をしていたのだが。

「だけど……ミリアムが私の連れて来た子を騎士候補にしたと知っても、エイナー殿下を怒らせてしまいそうね。少し、可哀想なことをしてしまったかしら」
「少しどころか、十分酷だと思うがね。相手はまだ十の子供だろうに」
「守護竜の祝祭で聖都にいらした時には、謝っておかなければね」
「ぜひともそうしてくれたまえ。私には子供を虐める趣味はないのだよ、マーリット」

 テーブルに出ている菓子を摘まみながら、彼女は思う。今回のことは、彼女の与えた情報で、娘が取るであろう行動を予測した上でのことだったとは言え、万が一があり得なかったとも言えない。
 だから、彼女は少しばかり意地悪な質問をしてみることにした。

「マーリット。もしも、お嬢さんが君の言葉に屈して神殿へ行くと言っていたら、君はどうしたんだい?」

 マーリットは彼女の質問に可愛らしく首を傾げて、それでも、特に困った様子も見せずに即答した。

「その時は、ミリアムができるだけ早く神殿を出て行きたくなるように仕向けるだけよ。わたくし、意地悪は得意なの」

 まるで、それはそれで楽しくなりそうと言わんばかりの笑みに、彼女は呆れながら眉根を寄せる。

「やれやれ。そんなことをすれば、お嬢さんに心底から嫌われてしまうだろうに」
「あら、現実にはそうならなかったのだから、いいじゃない。立派な孫で嬉しく思っていてよ」
「……立派、か」

 彼女の呟きに、マーリットがカップを置いて、窓の方へと顔を動かした。
 西日は、ゆっくりと森の向こうへ沈もうとしている。その光景を彼女がはっきりと見ることはないが、太陽の光だけは感じていることだろう。笑みを消したマーリットの横顔は、その光の先に、見えぬ何かを見通そうとするかのように真剣だった。

「……ここだけの話なのだけれどね。わたくし、ミリアムがあの子を騎士候補に考えてくれるとは、思っていなかったの。困らせるだけ困らせて、神殿を嫌って警戒してくれたらそれでいいと思って。その為に、あの子を連れて来ていたのだもの。だから、ミリアムがあれほどに物を考えられることに、本当に驚いてしまって」

 マーリットが知る娘の過去は、彼女と共にこの地を訪れていた女騎士が調べ上げ、まとめた報告書から得たものだ。勿論、彼女も同様のことしか知らない。

「ねえ。あなたはどう思って?」

 長年、使用人として虐げられる生活をしてきたとは思えない立ち居振る舞い、言葉遣い、思慮深さでマーリットと見事に対峙してみせた娘。
 娘の言動は、実に立派なものだった。この国にやって来てから身に付けたわけではないことは、度々覗き見てきた彼女は知っている。加えて、娘はその知識も年齢にそぐわず豊富に有していた。
 さしもの彼女でも、聖域へ繋がるシュナークル山脈から遠く離れた場所までは、己の力は及ばない。山脈から離れれば離れるほど、その地のことはその地へ足を運ばなければ知り得ず、彼女はこれまでに幾度もわざわざ世界を巡っては知識を得てきた。だからこそ、娘の知識が決して一使用人の、それも子供に知り得るものではないことは、彼女は十分理解していた。

 特に愛し子の扱いについては、神殿の中枢や王族と言った一握りの者の秘密だ。一使用人どころか、高位貴族ですら知る者はいないだろう。それを、娘はさも当然のこととばかりに告げてみせた。
 娘がリーテの愛し子であることを踏まえれば、女神の気紛れでそれらの知識を授けられたとも考えられる。しかし、娘の口振りは誰かに教えられた知識を披露しているとは思えなかった。娘自身が得た知識として、娘の中にあるものだった。
 明らかに、娘は普通ではない。しかし、彼女には、それが何ゆえであるのかを解明できるほどの知識も力もない。

「私も君には正直に言うのだが、お嬢さんがどうやってあれだけの知識を得たのか……それは私にも分からないのだよ。実に謎で、興味深く……少しばかり恐ろしい」
「まあ。あなたにも分からないことがあるのね」

 驚いたようにマーリットの顔が窓から彼女へ戻って、見えない目が瞬き、開いた口に手が添えられる。その純粋な驚きように、彼女はからりと笑って肩を竦めた。

「勿論だとも。私は神ではなく、ただ長く生きているだけの聖域の民なのだから。どれだけ長く生きたとしても、神ほどには知識も力もないものさ」
「……そうなのね」

 マーリットの表情がわずかに陰り、痛みを堪えるようにくしゃりと歪む。

「ミリアムは、一体何を背負わされているのかしら。あの子は、長く生きてくれるのかしら。……わたくしは嫌よ? エステルもミリアムも、二人揃ってわたくしを置いて先に逝ってしまうなんて」

 切実な思いのこもった一言に、彼女もまた、痛みを堪えるように瞳を眇めた。
 二十五年前の事件は、よくも悪くも、彼女にとっても激しく感情が揺さぶられる出来事だった。名付け親であるマーリットにとっては、もっと耐え難い出来事だったことは想像に難くない。
 そして、名付け子を含む一族の殆どを失ったマーリットにとって、突如現れた娘の存在は、正に希望だ。それなのに、その娘にもまた何かが重く圧し掛かっている。彼女にも分かり得ない、神の力が及んでいる。
 マーリットの娘を思う不安は、よく分かることだった。

「正に、神のみぞ知る、と言う奴だな」
「気紛れな神に祈るしかないのね」

 力なく笑ったマーリットがカップを手に、喉を潤す。しばし何事かを考えるように目を閉じて、穏やかな沈黙が室内に満ちた。
 それから、この話題はもう終いとばかりに、マーリットが「ところで」と明るい声で切り出した。

「次の新作はいつ頃になるのかしら? もう三年出していないでしょう? わたくし、待ち遠しくって」

 胸の前で手を合わせて期待を滲ませるマーリットに、彼女も暗い話題はこれで終いと気持ちを切り替え、足を組み替えて笑う。

「心待ちにしてくれているとは、ありがたい。次は、男の友情物語をと思っていてね。久し振りに自分の足で王都へやって来て、よかったと思っているところなのだよ」
「あら。では、王都であなたのお眼鏡に適う人物に出会えたのね」
「ああ。お陰で、ついつい彼らに私の姿を見せてしまった」

 彼女は、その時の光景を思い出す。
 娘のことが気になり付かず離れずの位置から見ていたものが、気付けば間近に覗いていて。うっかり娘に気取られたのは誤算だったものの、大して気に留めずにいてくれたのは幸いだった。そして、それも含めて娘達四人は彼女を大いに楽しませてくれた。
 まさか、野盗が出現し、更には娘が湖で溺れてしまうとは予想しなかったが、逆に、そのことが彼女の創作意欲を酷く刺激してくれた。

「随分前から構想だけはあったのだが、騎士殿と兵士殿は正に打ってつけだった」

 幼い頃から互いを知り、その実力も拮抗し、それでいて騎士と兵士と言う違う立場から国を守らんとする若者二人。彼女はこれまでも長い人生で似たような関係性の人々を多く見てきたが、そんな彼らを表現するのにも、十年近く振りに彼女自身の目で間近に見た二人は、実に適任だった。
 どうにも止まっていた筆が、今は水を得た魚のように紙の上を滑っている。

「まあ……ふふ。それは面白い物語ができそうね。わたくしが好む恋愛物語でないのが、少しだけ残念だけれど」
「そちらは、次々回作に期待していてくれたまえ。勿論、君の希望を盛り込んだ物語も、いずれ書くつもりでいるとも」
「それなら、わたくしはもっと長生きをしなくてはね」

 彼女の綴る物語は、あくまで実在する人物を元にしている。現実に即した物語を綴ることもあれば、全くの空想世界の物語を綴ることもあるが、そこに登場する主要人物達は、一人ないしは複数の、実在する人物を元にして描いている。
 物語は、人間の観察を趣味とする彼女の観察記録代わりのようなものだ。だから、彼女が最も長く見続けているエリューガルの民は、実は知らない内に彼女の物語の登場人物にされている。
 中には、マーリットのようにわざわざ彼女に希望の物語を依頼する者もいるが、目立つことを好まない彼女は滅多に人前に姿を現さず、故に依頼者の数もほんのわずかだ。

「ぜひとも、そう願おう」

 彼女の言葉を請け負うようにマーリットが笑い、それからゆっくりとソファの背凭れへと身を預けた。
 太陽はいつの間にか森の向こうへ姿を消して、空が茜色に染まっている。やや暗くなった室内の様子に彼女はゆっくり立ち上がり、その足を窓へと向けた。

「では、私はそろそろお暇しよう。君と語り合えて楽しかった」
「ええ、わたくしも。また、いつでもいらしてちょうだい」

 開けた窓に、行儀悪く足を掛ける。その背に、マーリットの期待の滲んだ声が掛かった。

「ねえ。最後に、二人の名を聞いてもいいかしら? ――テルツァ」

 彼女が筆名として使っている名を口にしたマーリットを振り返り、彼女は勿論と頷く。同時に風が逆巻いて、上空から巨大な鷲が滑空してきた。


「……『月華の騎士』と『山嶺の剣士』――構想当初から、私の気に入りの名だ」


 吹き込む風にカーテンが揺れる中、彼女の告げた一言は、静かに部屋に弾んで落ちた。
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