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第四章 母の故国に暮らす

狩りへ向けて、新たな気持ちで

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 その日、王城の一室にはキリアン達王族、レナート達側近の他に、警備兵団長とその息子のリンストルム親子、兵団参謀のハラルドと言う面々が集っていた。
 名目は野盗捕縛の報告となっているが、実際はそれはおまけで、この場で話されるのは主にに関する近況報告である。

 ちなみに、キリアン達が遭遇して存在が発覚した野盗達は、その後アレクシアを中心に徹底的に山狩りを行った結果、他に四つほど、ブラウネルを擁するアインレーデ地方の山間部に潜んでいた集団を捕らえることに成功した。今も警備兵団を中心に周辺の捜索と警戒は続いており、ひとまず聖花祭の旅行者の安全は確保されたと言っていいだろう。
 野盗との繋がりを疑った地方官も、晩餐会の最中にキリアンの名で個別に呼び出して野盗と対面させれば、こちらが驚くほどあっさりと認めた。
 まさかキリアンが会議欠席中に野盗と遭遇し、それを捕縛していたとは思いもしなかったからだろう。加えて、自分の手引した野盗がよりにもよって愛し子に襲い掛かってしまった事実は、地方官を素直に白状させるのに十分だったと見える。
 決して、キリアンの帰城に気付いたエイナーが、うっかり野盗との対面の場にやって来た所為などではない。地方官が一瞬にして顔を青くさせ、こちらが聞いてもいないことまで喋り出したのも、決してエイナーがいた所為などではない。と思いたい。

 ともあれ、地方官の素直な供述によって、キリアン達が疑った通りアインレーデの警備兵団内部にも野盗達と繋がっている者がいることも判明し、一夜にして大勢の捕縛者が出る結果となった。
 そしてこの大捕物のお陰で、キリアンが会議を欠席していたのはこの為だったと皆が勝手に勘違いし、欠席をよく思っていなかった者も納得せざるを得なくなったのは、キリアンにとっては非常に幸いだった。
 これで、実は会議期間中、友人宅で茶会を楽しみ恋人宅で二人きりの時間を楽しみ、再び友人宅で休暇と称してゆっくり過ごし、締めに遠乗りに出掛けていたとは、恐らく誰も思うまい。
 実際、お前達の王太子殿下は、とある筋から得た情報により旅行客を守る為、地方官達が各地方に不在になる会議期間中、少ない供と駆けずり回っていたのだ――そんな態度でいれば、捕らえた者達は誰が情報を漏らしたのかと疑心暗鬼に陥って、取り調べでも非常に役立った。こう言う時は、大変有利に働く自分の目付きの鋭さに感謝してしまう。

 テレシアとシーラによって出された紅茶に口をつけて、キリアンは力が入ってしまっていた眉間を解すように指で揉み、小さく息を吐いた。そして、向かいに座るエイナーの様子を窺い見る。
 キリアンの可愛い弟は、イーリスとライサからの旅行中の報告を聞いて以降すっかり落ち込んで、こちらに旋毛を見せる勢いで視線が手元に落ちていた。
 キリアンが不在中の出来事は、既にカニアから報告を受けている。その中には当然、エイナーが会議に参加したその日に何があったのか、イェルドが会議参加者の中にいた件の首謀者に対して何をしたのか、と言った内容も含まれていた。
 だから、エイナーなりに精一杯頑張ってマーリットと対峙し、自分達やミリアムのことを思ってはっきりと彼女の提案を拒否したことも、キリアンは知っていた。それなのに、そのミリアム本人がマーリットと対面して彼女の提案に前向きな返答をしたと聞けば、エイナーが衝撃を受け、落ち込んでしまうのも無理もないことだろう。

 報告を聞いた当初は、何故ミリアムを止めなかったのかと声を荒らげる場面もあったエイナーだったが、ミリアムが自らの意思で選択したことだとイーリスとライサそれぞれに言われてからは、花が萎れるように椅子の上で沈黙を続けている。
 ただし、沈黙が長く続いているのは、マーリットにしてやられたなと口では言いながらも、イェルドが実に楽しそうに笑って報告を聞いていたからでもあるのだろう。父の態度が、エイナーをすっかり不機嫌にさせたのだ。
 お陰で、ただでさえ欠席のアレクシアの代わりに急遽呼ばれたことで、緊張と共に顔色を悪くしているライサは輪をかけて青い顔をしているし、ラーシュはラーシュでこの事態に動じることこそないものの、イェルドに対して苛立っているのがはっきりと分かる目付きをしていて、どうにも不穏だ。

 なお、このことについて既にミリアム本人から話を聞いていたレナートはと言えば、それが原因なのか朝から不機嫌一色で、キリアンですら近寄り難い雰囲気を放っている。一切の無駄口を叩かず、キリアンに対する嫌味すら一言もなく黙々と仕事をこなす姿は、正直、恐怖以外の何物でもない。
 まったく、会議中にイェルドを通じて釘を刺したと思ったのに、マーリットも余計なことをしてくれたものだ。そして何より、ミリアムもよくもまあそんな選択をしたものだと思う。
 そんなことを考えながら、キリアンがもう一口紅茶で喉を潤したところで、さて、とイェルドが口を開いた。

「――本題に移ろうか」

 言葉と共に、イェルドが一通の手紙をその手に示す。
 繊細ながらどこか歪んだ文字が書きつけられた黄ばんだ紙の下部には、大きな耳に長い鼻――エリューガルでは見ることのない、象と呼ばれる獣の頭部があしらわれた紋章が描かれていた。
 その獣を紋章に用いるのは、シュナークル山脈を挟んで西側にある、エリューガルの隣国に他ならない。だが、象の鼻の付け根から象徴的に伸びる牙を見て、キリアンは眉を顰めた。その象の牙は、右側にのみ描かれていたのだ。
 ツェレト峡谷を挟んだ隣国の紋章に描かれる象の牙は、左側に一本である。
 キリアンのみならず、手紙に注目した誰もが「何故」と言う顔をしたのを見て、イェルドが頷く。

「これは、ツェレマルジュ老公からの密書でね」

 ツェレマルジュ老公――エリューガルの西の隣国ツェレユディウ公国の兄弟国であるツェレマルジュ公国の、年老いた女公のことだ。
 エリューガルとはツェレユディウを通じて国交はあるが、キリアン自身は女公と直接の面識はない。彼女についての知識として知っていることは、夫や二人の息子、一人娘を相次いで亡くし、娘が遺した今年でようやく六歳になる孫が成人するまでの間、ツェレマルジュの元首を務めていると言うことくらいだ。
 ただ、近年は高齢の為か政務に支障を来すほどに体調を崩すことも多くなっているそうで、公国内では孫に早々に公位を継がせよとの声が上がっていると聞く。だが、孫があまりに若いことに難色を示す者は少なくなく、現状、ツェレユディウの助けを借りて何とかやっている状態だとか。
 そんな国の長が、助けの手を差し伸べているツェレユディウに内密で、わざわざエリューガル国王へ密書を送るとは、何があったのか。

「これによると、公太子がユディウの者の手によって毒殺されかけたそうだ。恐らくユディウはマルジュを取り込む気であり、老い先短い自分はともかく、孫である公太子の命だけは助けてほしい……要約すると、そんなところかな」

 その昔は、ツェレトゥルバと言う名の一つの国だった両国。後継を巡って五人の兄弟が争い、その内の双子の兄弟が協力して他の三人を倒し、トゥルバの後継の座を勝ち取った。
 その後、二人はそれぞれが後継となることを望んだ為、これ以上の争いを避けるべく国を二つに分けた。そして、ツェレユディウ、ツェレマルジュの二国に分かれてそれぞれが統治しながらも互いに協力し合い、長らく両国は双子の絆の元で繁栄していった――そんな国が数百年の時を経て、今再び一つになろうとしている。それも、併呑と言う形で。
 隣国の不穏な動きを思って、キリアンは更に眉間に力を入れた。同時に、今この場でわざわざイェルドがその話題を持ち出したことの意味も考える。

 単なる助力を乞うだけの話なら、イェルドがこの場で話題にする必要はない。この国の政務を司る主だった者達とイェルドとで話し合いが持たれて方針は決定され、キリアン達は後日その決定事項を聞かされるだけだ。にも拘らず、敢えてこの場で、しかも「本題」と言って話したと言うことは――

「……そちらの事情にも、奴が絡んでいると?」
「老公の手紙には、はっきりと名が記されているよ。現ユディウ公はともかく、公太子は野心溢れる男と言う話だし、奴の母も、元々エリューガルとツェレユディウの繋がりを深める為に嫁いできたユディウの人間だ。奴が一枚噛んでいても何ら不思議はない」

 つまり、奴はモルムだけでなく、互いの野心の為に隣国の公太子とも手を組み、両国を巻き込んで事を起こそうとしていると。
 そうなると、奴を駆除するだけでなく、ツェレユディウに対しても対処する必要が出てくる。あまりに過ぎた野心を持つ者が率いる国が隣にあるのは、この国にとっていいことではない。
 果たして、イェルドはどのような判断を下したのか。キリアンが視線をやった先で、イェルドは澄ました顔に少しの笑みを乗せてキリアンを見返した。

「この件に関しては、老公には既に私の方から彼女の望む答えを返している。もっとも、こちらが提示した条件に彼女が首を縦に振ってくれるかは……分からないがね」
「陛下は、何を望まれたのです?」

 シュナークル山脈より西は、暑く乾燥した大地が広がっている。隣国の二国は山脈に接する地に国を持っている為、まだしも山脈の恩恵のお陰で他よりは豊かな暮らしができているものの、国全体としてみれば決して資源が豊富とは言えない。
 その為、前身のツェレトゥルバの頃からエリューガルと国交を結び、ツェレト峡谷からエリューガルの豊富な資源を貴重な糧としてきた。そして、それは隣国以西の国々にとっては更に貴重な糧であり、交易品となった。
 だが、平和を謳歌してきたエリューガルの王族は、次第に黒竜クルードによってもたらされているこの恩恵を自分達が己が力で得たものと考えるようになり、西へと多く分け与えることに難色を示し始める。それでも、西の国々はエリューガルの不興を買って糧を失うことを恐れ、従うしかない。
 お陰で、先王が即位した頃には西側へ流通させる資源数も量も限定され、おまけに他国よりも高値での取引が横行していたらしい。イェルドが即位してすぐにその辺りは是正されたが、長年に渡る不公平な取引は隣国をすっかり疲弊させていた。
 そんな国に、イェルドは何を望むと言うのか。

「今回の会議で奴が声高に言っていたが、この国の豊かな資源を更に西へ広く流通させることに、私は反対する気はない。だが……ただ流通量を増やすだけと言うのでは芸がないだろう? それに、私は過ぎた野心を持つ者を信用しないからね」

 自分の野心の為に、兄弟国の幼い公太子を毒殺することを厭わないようなツェレユディウの公太子は信用できないと、イェルドがはっきりと告げる。
 そのような人間は、いずれ自分の父が相手でも同じことをしてしまえるだろう。そしてそれは、いつか来る遠い未来の話とは限らない。欲しいものを目前に捉えたならば、躊躇いなく手を下すだろう。そのような人間のいる隣国にこれまで以上に融通してやるほど、イェルドは甘い王ではない。
 だから、とイェルドは何と言うこともない様子で続ける。

「二国を、我が国が貰おうと思ってね」

 その瞬間、室内に動揺が走った。父イェルドのことを誰より知るキリアンですら、あまりのことに咄嗟に言葉が出て来ない。唯一平静を保っていたのは、既にこのことを知っていたのだろう騎士団長だけだ。
 つまり、それは既に決定されたこの国の方針であることを示している。そのことに気付いて、更なる驚きがキリアンを襲った。
 孫の助命に手を貸す代わりに国を明け渡せとは、あまりに釣り合いが取れなさすぎる。それに、聞き間違いでなければイェルドは二国と言った。いくら野心家の公太子の存在があるからとは言え、ツェレユディウまで獲る気でいるとは穏やかではない。
 何より、シュナークル山脈を越えての領土拡大は、建国以来したことがないのだ。この決定を知ったクルードがどのような反応を示すか、全く予想ができない。

「……陛下、それはあまりに……」

 キリアンが驚きのままに零せば、イェルドは言いたいことは分かっているとばかりににこやかに頷いた。

「心配しなくとも、あくまで従属させるだけで、あちらには国としての形は保ってもらうつもりだよ。ただ……それでもクルードの反応は皆が気にしているから、あとでお伺いを立てておいてくれるか、キリアン」
「それについては、無論、私もそのつもりですが……」

 だが、たとえクルードが否と告げたとしても、イェルドは構わず事を進めるのだろう。
 クルードの反応など、実のところイェルド本人は一切気にしていないだろうし、気にする必要を感じてすらいないかもしれない。イェルドが真に欲しいのは、気にする周囲を安心させられるだけの言質。
 父は、そう言う人だ。
 それが分かっているからこそ、キリアンは悩んだ。
 既にキリアンを通じてイェルドの言葉が届いているだろうクルードからは、今のところキリアンに対して何らかの意思を伝える動きはない。だが、改めてキリアンがクルードに尋ねた時、クルードがこのことに難色を示したら、その時己はどう行動すべきだろうか、と。
 そんなことを考えていたからか、次のイェルドの言葉に、キリアンは一拍反応が遅れてしまった。

「それから、害獣狩りの舞台は守護竜の祝祭とするつもりだ。その下準備の為に、事前に私とシーラ、キリアンとテレシアの婚約を発表し、祝祭の日の夜会をそのお披露目の場とする。――いいね?」

 先ほどとはまた別の意味で、室内がざわつく。その中で、キリアンはぎょっと両目を見開いた。
 父は今、何を言ったのか、と。

「――は?」

 西側の二国を従属させる件については、事前に聞かされていなくとも何とも思わない。それはイェルドの領分で、キリアンはまだ国内の一部を任されているだけだからだ。
 だが、キリアン自身にも拘わってくる重要なことを、事前の相談なくこの場で決定事項として伝えられるのは、どう考えても順序がおかしくはないだろうか。

「……陛下?」
「ああ。気の所為でも何でもなく、お前には今初めて伝えたよ」
「そうだろうな、クソ親父!!」

 驚いてもらえてよかった、成功だと悪びれなく笑うイェルドに対する怒りが、キリアンを吠えさせた。思わず椅子を蹴立てて立ち上がったキリアンを、隣に座るレナートが無言で押し止めてくれてはいるものの、今すぐにでもその嫌味な顔を殴りたい。
 毎度毎度、イェルドはどうしてこうも周囲を振り回すことを楽しむのか。我が父ながら、その性格の悪さには頭痛を覚える。おまけに、そうして伝えられたところでそれが最善手だと分かるのだから、悔しさも募る。
 一国の王と王太子の婚約発表にそのお披露目ともなれば、祝祭の夜会に国内の有力者は元より、近隣から王族を招くことも容易い。その場は、イェルドの願いを叶えるこれ以上ない最高の舞台となるだろう。
 キリアンの怒りなどどこ吹く風と話を続けるイェルドの姿を一睨みし、キリアンは小さく呻きながら椅子に座り直した。そして、側頭部をそっと押さえる。その痛みに呼応するように窓を震わせる一陣の風が吹き、キリアンは窓外へと視線を向けた。

 湿り気を帯びた風は雲を呼び、空はすっかり灰色に染まっている。まだその向こうに太陽の存在を感じられる程度には明るいが、暗くなるのも時間の問題だろう。
 シーナン地方でも始終吹いていたと言う強風に、少ないながらも被害を出した突風。そして、ミリアムの選択に、この場で語られるこれからの話――
 守護竜の祝祭で、イェルドが話すように全てのことが上手く運び、二十五年前からの因縁に綺麗に決着が付けばいいとは思う。だが、キリアンには空模様と頭痛が、どうにも不吉の予兆に思えてならない。
 この先への悩みに頭痛も相まって、思わず眉間に皺が寄る。

「殿下、どうかなさいましたか?」
「……いや、何でもない」

 レナートの呼び掛けに首を振り、キリアンは己の内に湧いた不穏な予感に蓋をするように窓に背を向けた。

「では、今後もよろしく頼むよ、皆」

 ――守護竜の祝祭での、狩りの成功の為に。
 イェルドの一言が場を締め括り、誰からともなく吐息が漏れた。


 ◇


 旅行から帰って数日後。私はライサと共に馬車に揺られて、王都中心街にある兵団本部へと向かっていた。それぞれの傍らには、旅行の土産を入れた手提げがある。今日は、二人揃って休暇だと言うオーレンとハラルドに旅行の土産を渡し、時計塔と兵団本部を案内してもらうのだ。
 すっかり見慣れた街並みを窓外に眺めること、しばし。馬車がゆっくりと停止し、一拍置いて外から馬車の扉が開かれた。

「ありがとうございます、レナートさん」

 差し出された手を取って礼を言えば、レナートからは満足そうな笑みと共に、どういたしましてと返ってくる。そんなレナートに対して呆れ顔なのは、ライサだ。その顔には堂々と大袈裟と書かれていて、私はこっそり小さく笑ってしまう。
 レナートは、ここまでフィンと共に馬車の護衛をしてくれたのだ。王都中心街へ出掛けるだけなのだから護衛なんて大袈裟だと言ったのだけれど、城に向かうついでだからと言われて断り切れず、そのままお願いしてしまった。
 どうも、野盗の一件に加えて旅行での神殿側との予期せぬ一件が、レナートの私に対する過保護を加速させてしまったようなのだ。こればかりは私にも責任のあることなので、強く断ることができない。

 ちなみに、母の生家での出来事については、フェルディーンの家族は皆一様に驚き呆れたものの、誰からも反対されることはなかった。それどころか大いに心配され、無事に帰って来たことに安堵され、そして、私が自分の考えをはっきり伝え、相手に流されなかったことを褒めてくれた。
 ただし、それ以降屋敷ではマーリットやヒューゴの名は禁句となっているので、二人に対して、実はそれなりに怒りはあるらしい。二年後、果たしてヒューゴは私を含め周囲の人々を納得させられるのか……少しばかり不安である。

「ミリアムちゃん、それにライサも。よく来たね」

 私達が馬車から降りたところで、オーレンの明るい声が耳に届いた。彼の隣にはハラルドもおり、いつものにこやかな笑みを、今日はより一層緩ませているように見える。
 到着した兵団本部は、開け放たれた門から兵士が出入りし、訓練の声や剣戟の音があちらこちらから聞こえ、午前中だと言うのに既に活気に満ちている。その様子に心を浮き立たせていると、歩み寄って来たオーレンが私の脇に立つレナートに半眼を寄越した。

「……んで。過保護なお兄様はこんなとこまで付き添いかよ? ミリアムちゃんも大変だな」
「何とでも言え。ミリアムがおかしな奴に絡まれるより、ましだろうが」
「へいへい。んじゃ、帰りは俺が家まで護衛してやるよ」
「商会まで送ってくれればそれでいい」
「……あっそ」

 オーレンが肩を竦め、私に向かって同情するような視線を送る。それに私も肩を竦めて応え、一歩離れた場所ではハラルドが微笑ましそうに笑って私達を見ていた。

「ミリアムお嬢様は、フェルディーン家の皆様に愛されておいでですなぁ」
「えぇー。先生にはそう見えるんだ……」

 げんなりした様子のライサにほっほっとハラルドが笑い、雨上がりの爽やかな空気が私達の間を流れる。

「じゃあ、最初に――」

 と、オーレンが言いかけた声に、誰かの怒声と物が割れる音、人が本部内から通りへと勢いよく吹き飛び転がる音が重なった。たちまち、激しく文句を言う声に言い返す声、仲裁に入る声と賑やかさを越えた騒がしさに、その場が包まれる。同時に、また始まったとばかりにわらわらと集まるのは、大勢の野次馬に兵士達だ。
 突然湧いた騒動に私はすぐさま過保護なレナートの腕の中に囲われ、オーレンは天を仰ぎ、ハラルドは眉間に皺を寄せて俯き唸る。その様子に、一拍を置いて私はライサと顔を見合わせて吹き出した。

「申し訳ございません、ミリアムお嬢様。本日は少々、躾のなっていない者が団内を騒がせているようで……」
「今日に限って、何でこうなんだよー」
「ミリアム、時計塔だけ見学して城に来るか?」

 謝罪と嘆きを口にする二人を横目に、レナートがあからさまに心配の色を乗せて私を見下ろす。けれど、私は心配無用だと首を横に振った。集まって来た人々の緊迫感のない様子を見れば、これが日常茶飯事であるらしいことは見て取れるので、殊更危険視する必要はないだろう。
 それに、こちらにはオーレンとハラルドがいる。勿論、ライサだって。荒事に慣れた三人がいるのであれば、むしろ彼らと共に行動した方が安全と言うものだ。

「オーレンさん達がいらっしゃるので、平気です。それに、どちらも見学はしたいので」
「そう言うことだから、過保護なお兄様はどうぞお仕事に行ってくださいってな」

 まるで犬を追い払うようにオーレンがレナートへと手を振れば、レナートは諦めたように息を吐いて腕を解き、最後に笑顔と共に私の頭を撫でた。

「じゃあ、楽しんでくるといい」
「はい! レナートさんも、行ってらっしゃいませ」

 そうして、私達は騒ぎの収まらない兵団本部をあとに回すことにして、レナートに見送られながら時計塔へとその足を向ける。
 その時、時計塔の鐘が時を告げて鳴り響いた。思わず塔を見上げて、私はその音に聞き入る。
 間近で聞く鐘の音は荘厳でありながらも優しく柔らかく、まるで今日これからの一日を祝福するかのような、美しい音色だった。その音を聞きながら、私はこれまでとはまた少し違った心持ちで、この王都に暮らしていくのだとの思いを新たにする。

 降り注ぐ陽光を水溜りが反射して煌めく――それは、とても気持ちのいい一日の始まりだった。
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