泡沫の記憶

鈴燈

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雨の記憶 甘雨

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 元彼と別れて数日が経った。約二年半振りの“独り”。二人に慣れすぎて、人の温もりが感じられないのが寂しかった。
 自分から振ったはずなのに、何故か後悔してしまっている。同じ学部の人への気持ちは何故か薄らいで、全てがどうでもよくなりつつあった。リストカットとオーバードーズが日常になり、私はどんどんやつれていった。
 よりを戻したい。恋愛なんてしたくない。誰も好きになりたくない。死んでしまいたい。色んな思いが私の中で渋滞を起こし、何もどこにも進めないままでいた。
 自分で空けてしまった心の穴を埋めようと、チャットアプリをインストールした。色んな人からメッセージが来て、返信に追われている間は寂しさに気づかずにいられた。しかし、メッセージを送ってくる大半は出会い目的の男ばかり。性的悦びに溺れ、抜け出せない人たちばかり。そういう人には返信をしなかった。
 しかし一人だけ、出会い目的の奴らとは違う人がいた。卑猥ひわいな発言をしないし、私の話を聞いてくれた。この人はいい人だと、何故か思ってしまった。その人はたまたま住んでる町が同じで、良ければ会わないかと言われた。私は深くも考えないまま、どうせ暇潰しだと思い、その人に会うことにした。
 待ち合わせは午後八時、駅前の駐車場。八時に間に合うように家を出て、着いたのは八時二分前。『もう着いてる?』とメッセージを送ると、『うん!』と返ってきた。最初はどこにいるか分からなくて少し探したけれど、向こうから声をかけてくれた。
 その人は私を車に乗せて、海へ連れて行ってくれた。でも、秋夜の海は風が冷たく、車内でお話しすることになった。元彼のこと、気になる人がいること、人間関係が上手くいかないこと。どんな話も聞いてくれた。私は楽しくて、初対面の奴の話を聞いてくれて、この人はいい人なんだなって思った。
 その人は私より六つも年上で社会人。だからなのか、私みたいな大学生のガキの話を嫌な顔一つせずに聞いてくれた。大人の男って感じで、何となくかっこいい。
 話し始めて一時間が経った。帰る流れになって、その人は私の家の近くのスーパーまで送ってくれた。スーパーはもう閉まっていて、駐車場は真っ暗。バックを手に持ち「じゃあ、帰るね」って、ドアを開けようとしたら、急に腕を掴まれた。ドキッとして振り返ると、彼は少し恥ずかしそうな顔をしていた。
 「どうかした?」
 助手席に座り直して、顔を覗き込んだ。彼は私から目を逸らして「いや...なんか...」と口をもごもごさせている。彼が何を言い出すのか少し興味があったので、彼をじっと見つめてみた。
 「いや、なんか。帰ってほしくないなって...」
 私から目を逸らしたまま、彼はそう言った。そんなことを言われたのは初めてで、なんて言えばいいのか分からず言葉が出てこない。
 この時、私はどんな表情かおをしていたのだろうか。何を思ったのか、彼は私を抱き寄せた。強く、でも優しく抱きしめてくれた。恥ずかしくて離れようとすると、彼の顔がすぐそこにある。
 「もう...ほんとに、上目遣いとかやめて...。キスしたくなる...」
 彼は離れようとした私をまた抱き寄せた。私は頭がパンクして、どうすればいのか分からなくなった。そして、されるがままでいようと思った。心の中では、同じ学部の人のことを一生懸命考えた。私が好きなのはこの人じゃない、変なことされそうになったら断ればいい、ハグくらいなら大丈夫。そう自分言い聞かせた。
 密着してるせいで、彼の心臓の音が身体に響く。私の音も、きっと彼の身体に響いてる。
 彼の手が私の頬に触れた。少しだけ身体を離されて、真っ直ぐに私の瞳を見てくる。
 あ、これはダメだ。キスされる。
 咄嗟にそう思った。断らなければ。私には好きな人がいる。この人もそれは知ってるはずなのに。早く断らなくちゃ。
 頭の中でそう繰り返したけど、それが言葉となることは無かった。彼はまるで、都合の悪い言葉をかき消すかのように、私の唇に蓋をした。
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