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第1章
少年らの転機
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「ひどい…」
太陽が西の果てに沈みかけた時、ようやくやって来た300ほどのスパルテ軍は見るも無様な様子で丘の麓の兵のキャンプ場でぐったりしていた。それを見てパンデオンはそう言った。
「兵も馬も衰弱している。何日も体を洗っていないのか臭いもひどい。指揮者は何をしてんだか」
「メディ、あれ」
パンデオンが指差した方角を向くと、町長と装飾豊かな兜と鎧、そして牛皮を張ったと思われる青銅盾を身につけた男と、装飾こそ劣るものの立派な武具を身に纏った兵が30ほど、男の後ろで列をつくっているのが見えた。
何やら口論をしている様子で、気になったので、兵の最後列となり会話を盗み聞いた。
「ご老人よ、貴殿の言うことにも一理ある。しかし私は一刻も早くアテネに向かわねばならない。兵士にはつらい思いをさせるが、仕方のないことなのだ。だが兵士たちには、アテネに着いた暁には十二分な報酬と休息を約束している。これは我らがスパルテの神、ヘラに誓ったことだ。」
「では1日だけ滞在していけばよろしいかと。もし1日も待てないとおっしゃるならば貴方と後ろの兵だけでアテネまで向かうとよい。兵たちは気息奄々のようで、このままでは犠牲者を生むでしょう。戦う前に兵を失うなど指揮者としてこれ以上の不名誉はそうありますまい。」
「知謀に長けたご老人よ。今すぐ貴殿の提案に乗りたいのたが、我らの中で地形を理解しているものは一人しかいない。休ませた兵士をアテネまで道案内できる者を寄越してはくれまいか」…
「では兵の最後列の後ろで会話を盗み聞きしている小僧2人を道案内させましょう」
これは好機とみた。道案内の報酬を要求できるし仕事を休んで大都市アテネに行けるのだ。俺たちは二つ返事で道案内を引き受けることにした。
「了解した。アテネに行けば我が国の物資を乗せた船がある。そこで一級の装備と金属を進呈する。女神ヘラに誓おう。」
そう雄弁に語る男を近くで見てみると、とてつもない美青年である分かった。蒼い目は世界の果てを流れるオケアノスのように深く澄んでいて、顔の造形はアポロン神にも劣らない。肩幅と胸板は伝承に描かれた英雄のように広く、背も俺たちよりも頭一個分高い。部下たちを慮っているようで、過度に疲弊させたことは反省している様子だ。俺の上司と比べたせいで仕事辞めたくなってきた。せめて人として扱えよ。
「えぇ、我々は必ず貴方の兵をアテネまで届けてみせますとも」
「いや、少年らは私と来てもらう」
ケリュネスと名乗った指揮者の男の真意は不明だが、アテネ行きの切符と豪華報酬は確保できた。
あのやりとりの後、俺たちはすぐにケリュネスとその元気な部下達と共にパロトンを発った。
「しかしだな… やはり少年らの様な若さでギリシアの複雑な地形を把握しているのは信じ難い。あの知恵豊かな老人に英才教育を受けていたのか?」
ケリュネスが馬を操縦しながら言った。
「町長の教育は受けていました。でも僕らそこまで若くはないと思うんですけど… 2人とも16歳ですし」
若く見られてもしょうがないだろう。スパルテはギリシア最強の脳筋王国だ。男はみんな戦士として教育されるし、遺伝的にみんな体がデカい。彼らの基準で言えば、一般的な体格の俺たちは幼く見えるのだろう。
「英雄の姿にも似たケリュネス殿よ、どうして我々を同行させたのかお聞かせ願えないだろうか」
「それ聞いちゃう!? しかも急に!」
パンデオンが突っ込んだ。確かに話の流れ的に俺たちが何か勘繰っていると思わせてしまうだろう。しかし、クリュネスは素直に話してくれた。
「うむ。結論から言うと神の託宣だ。最後に立ち寄る補給所で二人組の少年をアテネまで運べ、と女神ヘラは私に仰ったのだ。真意まで語ってはくださらなかったが、きっと重要なことなのだろう」
「そうだったのですね。しかし我々にも身に覚えのないことです。我々は元々アテネに行くことを決めていました。その機会を下さった女神ヘラと信仰深い貴方に最大の感謝を」
「スルーされたし…」
珍しくしょんぼりとしているパンデオンを見ると、俺は新しい遊びに目覚めてしまいそうだ。
馬車に揺られている間、クリュネスが言ったことがずっと心に引っかかっていた。神々が託宣を授けるほどの事だ。目的地に何かがあるのか、あるいは道中で不測の事態が起こるのは確実だろう。それが何なのか分からないのが不安で仕方ないのだ。
そしてその当たって欲しくない予感は的中した。
太陽が沈みきり、すっかり月と星々が世界を照らす時間になった。アテネまではあと四半日も馬車を走らせれば着くだろう。
「ケリュネス殿。すっかり足場が見えなくなったが、今日はもう休んで、明日の朝から馬を走らせればちょうど太陽が昇りきったころにアテネに着くでしょう。どうされるか?」
そう言うと馬車は止まったが、ケリュネスは何も言わず動きもしなかった。様子がおかしいと察したパンデオンがケリュネスに近寄ると、パンデオンもケリュネス同様に硬直した。
「パンデオン?」
心配になり声をかけると、パンデオンは震える声を張り上げて言った。
「馬車から降りろ! 今すぐ!」
その切羽詰まった様子に動揺しつつも馬車を一足で飛び降りた瞬間、尾てい骨から後頭部にかけて強い衝撃が加わり、吹っ飛ばされた。
「はっ? 何が…」
わずかに揺れる視界で、俺が吹っ飛ばされた方角を見ると、そこにあるはずの馬車はなく、代わりに朱に染まった地面に木片が散らばり、形容し難い塊が俺の身の丈ほどの岩の下敷きとなっていた。
そしてさらにその少し先を見ると、森を抜ける一本道を塞ぐ様にそいつは立っていた。
巨躯の戦士10人分の体長に、
件の岩を包み込めるほどの巨大な手、それが100本。
それから、人を丸呑みするほどの大きな口を開け、その喉奥からは暗い死が今か今かと意気のいい生命を求めている。そのような口が、すなわち頭が百本。
百腕百頭の怪物、ヘカトンケイレスだ。
太陽が西の果てに沈みかけた時、ようやくやって来た300ほどのスパルテ軍は見るも無様な様子で丘の麓の兵のキャンプ場でぐったりしていた。それを見てパンデオンはそう言った。
「兵も馬も衰弱している。何日も体を洗っていないのか臭いもひどい。指揮者は何をしてんだか」
「メディ、あれ」
パンデオンが指差した方角を向くと、町長と装飾豊かな兜と鎧、そして牛皮を張ったと思われる青銅盾を身につけた男と、装飾こそ劣るものの立派な武具を身に纏った兵が30ほど、男の後ろで列をつくっているのが見えた。
何やら口論をしている様子で、気になったので、兵の最後列となり会話を盗み聞いた。
「ご老人よ、貴殿の言うことにも一理ある。しかし私は一刻も早くアテネに向かわねばならない。兵士にはつらい思いをさせるが、仕方のないことなのだ。だが兵士たちには、アテネに着いた暁には十二分な報酬と休息を約束している。これは我らがスパルテの神、ヘラに誓ったことだ。」
「では1日だけ滞在していけばよろしいかと。もし1日も待てないとおっしゃるならば貴方と後ろの兵だけでアテネまで向かうとよい。兵たちは気息奄々のようで、このままでは犠牲者を生むでしょう。戦う前に兵を失うなど指揮者としてこれ以上の不名誉はそうありますまい。」
「知謀に長けたご老人よ。今すぐ貴殿の提案に乗りたいのたが、我らの中で地形を理解しているものは一人しかいない。休ませた兵士をアテネまで道案内できる者を寄越してはくれまいか」…
「では兵の最後列の後ろで会話を盗み聞きしている小僧2人を道案内させましょう」
これは好機とみた。道案内の報酬を要求できるし仕事を休んで大都市アテネに行けるのだ。俺たちは二つ返事で道案内を引き受けることにした。
「了解した。アテネに行けば我が国の物資を乗せた船がある。そこで一級の装備と金属を進呈する。女神ヘラに誓おう。」
そう雄弁に語る男を近くで見てみると、とてつもない美青年である分かった。蒼い目は世界の果てを流れるオケアノスのように深く澄んでいて、顔の造形はアポロン神にも劣らない。肩幅と胸板は伝承に描かれた英雄のように広く、背も俺たちよりも頭一個分高い。部下たちを慮っているようで、過度に疲弊させたことは反省している様子だ。俺の上司と比べたせいで仕事辞めたくなってきた。せめて人として扱えよ。
「えぇ、我々は必ず貴方の兵をアテネまで届けてみせますとも」
「いや、少年らは私と来てもらう」
ケリュネスと名乗った指揮者の男の真意は不明だが、アテネ行きの切符と豪華報酬は確保できた。
あのやりとりの後、俺たちはすぐにケリュネスとその元気な部下達と共にパロトンを発った。
「しかしだな… やはり少年らの様な若さでギリシアの複雑な地形を把握しているのは信じ難い。あの知恵豊かな老人に英才教育を受けていたのか?」
ケリュネスが馬を操縦しながら言った。
「町長の教育は受けていました。でも僕らそこまで若くはないと思うんですけど… 2人とも16歳ですし」
若く見られてもしょうがないだろう。スパルテはギリシア最強の脳筋王国だ。男はみんな戦士として教育されるし、遺伝的にみんな体がデカい。彼らの基準で言えば、一般的な体格の俺たちは幼く見えるのだろう。
「英雄の姿にも似たケリュネス殿よ、どうして我々を同行させたのかお聞かせ願えないだろうか」
「それ聞いちゃう!? しかも急に!」
パンデオンが突っ込んだ。確かに話の流れ的に俺たちが何か勘繰っていると思わせてしまうだろう。しかし、クリュネスは素直に話してくれた。
「うむ。結論から言うと神の託宣だ。最後に立ち寄る補給所で二人組の少年をアテネまで運べ、と女神ヘラは私に仰ったのだ。真意まで語ってはくださらなかったが、きっと重要なことなのだろう」
「そうだったのですね。しかし我々にも身に覚えのないことです。我々は元々アテネに行くことを決めていました。その機会を下さった女神ヘラと信仰深い貴方に最大の感謝を」
「スルーされたし…」
珍しくしょんぼりとしているパンデオンを見ると、俺は新しい遊びに目覚めてしまいそうだ。
馬車に揺られている間、クリュネスが言ったことがずっと心に引っかかっていた。神々が託宣を授けるほどの事だ。目的地に何かがあるのか、あるいは道中で不測の事態が起こるのは確実だろう。それが何なのか分からないのが不安で仕方ないのだ。
そしてその当たって欲しくない予感は的中した。
太陽が沈みきり、すっかり月と星々が世界を照らす時間になった。アテネまではあと四半日も馬車を走らせれば着くだろう。
「ケリュネス殿。すっかり足場が見えなくなったが、今日はもう休んで、明日の朝から馬を走らせればちょうど太陽が昇りきったころにアテネに着くでしょう。どうされるか?」
そう言うと馬車は止まったが、ケリュネスは何も言わず動きもしなかった。様子がおかしいと察したパンデオンがケリュネスに近寄ると、パンデオンもケリュネス同様に硬直した。
「パンデオン?」
心配になり声をかけると、パンデオンは震える声を張り上げて言った。
「馬車から降りろ! 今すぐ!」
その切羽詰まった様子に動揺しつつも馬車を一足で飛び降りた瞬間、尾てい骨から後頭部にかけて強い衝撃が加わり、吹っ飛ばされた。
「はっ? 何が…」
わずかに揺れる視界で、俺が吹っ飛ばされた方角を見ると、そこにあるはずの馬車はなく、代わりに朱に染まった地面に木片が散らばり、形容し難い塊が俺の身の丈ほどの岩の下敷きとなっていた。
そしてさらにその少し先を見ると、森を抜ける一本道を塞ぐ様にそいつは立っていた。
巨躯の戦士10人分の体長に、
件の岩を包み込めるほどの巨大な手、それが100本。
それから、人を丸呑みするほどの大きな口を開け、その喉奥からは暗い死が今か今かと意気のいい生命を求めている。そのような口が、すなわち頭が百本。
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