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幕開けのツリーハウス
5つ目のありがとう
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ジルさんは、僕の体を全て洗い終わったのか、今度はまた脱衣所の椅子に座らされた。
そして一つ一つの傷に消毒を施す。「痛いだろう」「すまない」「もう少しで終わるからな」と言いながら。静かな声に包み込まれている感覚が心地良い。
聖母のような雰囲気のジルさんに新しいガーゼや包帯を巻かれ、服を着せられた。
そういえば、この服ジルさんのだ。先ほど着せてもらっていたやつも。あまりに大きくてブカブカなのに気が付かなかった。
首元のボタン1つを開けて着せられたスタンドカラーのシャツは、立ったら膝くらいまではありそうだ。とても肌触りが良い。
そしてまた抱えられて脱衣所を出、今度はテーブルに向かった。薄いクッションが敷かれた椅子に座らされ、毛布で包まれる。
なんか、これは・・・。
すべてやらせているという点ではメガネ男から受けた扱いと変わらないのに、全然違う。 甲斐甲斐しくお世話を焼かれているみたいでどこか居た堪れない。恥ずかしくて少し申し訳ない。
もじもじと気持ちを戸惑わせていると、目の前に湯気の出るカップと、紙とペンが置かれた。
「少し待っていてくれ」
そう言ってジルさんはまたシャワールームへと戻っていく。
カップにはお茶のようなものが入っている。
本当に、至れり尽くせりだ。
これ、自分で飲んでもいいのかな?
ジルさんは、待っててくれ、とだけ言った。どっちだ?これを飲みながら待っててくれ、ってことだろうか。それともなにか別の意味があるのか?え、僕何か試されてる?いやジルさんは人を試すようなことはしそうにないけれども。
こうして全ての物事を勘繰ってしまう自分が情けない。
飲んでも、いいのかな?
でも、やっぱり聞いてからの方がいいよなぁ。
やっぱりやめておこう。
ジルさんは優しくて責任感が強くて、天使で、聖母で、間違いなく良い人だ。だからこそ気に障る行動をとって怒らせたりしたくない。嫌な思いをさせたくない。怒りを向けられたくない。嫌われたくない。
今まで誰に嫌われようと何とも思ったことのない自分の中に、このような感情が芽生えることになろうとは。
人に嫌われることに対して恐れをなしてしまう感覚というのは、こんなにも不安定なのか。
ジルさんと出会ってこちら、今まで知らなかった色々な気持ちが自分の中に作られている気がする。
ジルさんは不思議な人だなあ。これも種族の力というやつだろうか。傷がすぐ治るのと同じような感じの。癒しの能力?そういうのがあればこれまたファンタジーだなあ、と、あれこれ考えながら湯気を眺めてぼーっとしていると、シャワールームの扉が開く音が聞こえた。
水の滴る風呂上がりのジルさんが出てきて、僕の隣に腰掛ける。
「待たせた。寒くはないか?
ん?ミレの茶は苦手だったか?」
またまた聞き慣れない食材名を言いながら、椅子を僕の方に近づけて、顔を覗き込む。
ジルさんと目が合ってしまったので、ついつい、いつもの癖で口を開けた。
途端、なんと驚くことに、あれだけ仏頂面だったジルさんの眉間に非常にわかりやすく皺が寄ったのである。
「アキオはものを食べる時も着替える時も、なにもかも私にさせるが、なぜだ」
絶対に、怒っている。
これは絶対に怒っている。
なぜ、とは。こちらがうかがいたい。
なぜ?何もしていないのになぜそんなに怒っているの。逆に何もしていないことが良くなかったと?
「すまない。勘違いしないで欲しい。責めているのではない。ただ、アキオの権利を取り上げているようで気分が良くないのだ」
ジルさんは子供に言い聞かせるようにゆっくりと言葉をつなぐ。
その顔に、不覚にも胸が締め付けられる。
そうか。
保身のために、今までずっとメガネ男の地雷を踏まない道だけを選んで過ごしていたから、それを再現してさえいれば大丈夫だと思っていた。
「脚は、今は歩けないほど骨と筋肉が弱っているが、腕は動かせる筈だ。アキオが現状を望むならそうしよう。ただ、もし自らの意思で体を動かせるのであれば、それは君にとって非常に大切な行為だ。できることを放棄するのはもったいない」
違う。この危険なほど優しい人は、あんな下衆で碌でもない男とは全然違う。
「アキオ、私の言っていることがわかるか?君には何でも教えて欲しいんだ。
何がしたい?何がしたくない?アキオは何が好きで、何が嫌いなんだ?教えてほしい。疑問に思うことがあるなら何でも聞いて欲しい。もちろん伝えたくないことは伝えなくて良い。それも君の大事な権利だ。
私が望むのは、君が自由を手にすることだ」
郷に入っては郷に従うことしか能がない僕は、2ヶ月の間にすっかりメガネ男に染まっていたという事か。
そしてあろうことか、僕に真心だけを向けてくれるこの親切な軍人と、僕を屈辱的に弄んだ下衆ゲス下衆ゲス人攫い男とを同じ線上に並べ、見苦しく警戒していたのだ。
「どうか私を恐れないで欲しい」
僕はなんて取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。
恐れないで欲しい。こんな悲しい言葉、他にあるだろうか。
この人がどんな気持ちで、僕を見、触れ、語りかけていたかなんて分からない。けれど、そこには一片たりとも悪意は無く、誠実な真心で寄り添ってくれていたではないか。
僕は意を決してペンを取った。
ーーー自分でしても、嫌いませんか?
細い線が震えていてとても読みづらい文字になってしまった。一瞬、理解できないないというふうにジルさんがこちらを見る。
ーーー頭を蹴ったり、水をかけたりされるのが嫌いです
もう一度気をしっかり保ってちゃんと伝える。
硬筆の授業を思い出しながら、丁寧に丁寧に、一角ずつに向き合って生み出した文字は、相変わらずニョロニョロと美しい曲線が踊っているふうだ。
我ながら、どこまでも自分のことしか考えられていなくて呆れる文章。
しかし、どんなことでも伝えてくれ、というジルさんの言葉に、僕も全身で向き合いたかった。
途端、強い圧力に全身が包まれる。
ずっと繊細な陶器でも扱うかのように僕に接していた腕が、力強さを惜しみなく発揮して僕を腕の中に閉じ込めたのだと気がついた。
鍛え抜かれた硬い胸筋が頬に押し付けられて苦しい。肩が締め付けられて痛い。苦しいのも痛いのも嫌だったはずなのに、この24年の人生の中で、間違いなく最上の幸福を感じた。
心臓までもが毛布に包まれているように暖かい。
「また、私の言葉で君を困らせてしまった」
頭上から降りかかってくる声はあまりにも優しくて痛々しい。
違うのに。悪いのは僕なのに。変なことを聞いてあなたを傷つけたのは僕なのに。
でもそんなの考えられないくらいの幸福が襲ってくる。
床についた瞬間にタイミング良く眠気が襲って来た時よりも、食べたいものが偶然冷蔵庫に入っていた時よりも、定時ぴったりに仕事を上がれた時よりも。そんなのとは比べ物にならないくらい幸せだ。
「君が自分で食事をしても、自分で服を着替えても、自分の足で立って、歩いて、走って、踊ったって私はアキオを嫌わない。決して暴力など振るわない。約束しよう」
もしお父さんが優しかったら、こんな感じだったのかな?
考えたって仕方ないことしか浮かばない自分が、しょうもなくて嫌になる。
腕の力が緩んだのを見計らってテーブルに置いてあるペンを取り、
ーーーご
と書こうとした文字をぐしゃぐしゃに塗りつぶした。
ーーーありがとうございます。
もっと気の利いたことが言いたい。もっと誠意の伝わる謝罪をしたい。もっと具体的な感謝を伝えたい。
でもどんな聡明な言葉より、今伝えられる中で僕の気持ちを目一杯表せられる言葉はこれしかなかった。
一つ覚えみたいに並ぶ5つの『ありがとうございます』からはそれぞれに様々な色が滲んでおり、たった1日であらゆる感情を与えてもらった事実が記されていた。
もう一度、その逞しい腕の中に優しく閉じ込められた時、
ーーードンドンドン
と、玄関側のドアが叩かれた。
そして一つ一つの傷に消毒を施す。「痛いだろう」「すまない」「もう少しで終わるからな」と言いながら。静かな声に包み込まれている感覚が心地良い。
聖母のような雰囲気のジルさんに新しいガーゼや包帯を巻かれ、服を着せられた。
そういえば、この服ジルさんのだ。先ほど着せてもらっていたやつも。あまりに大きくてブカブカなのに気が付かなかった。
首元のボタン1つを開けて着せられたスタンドカラーのシャツは、立ったら膝くらいまではありそうだ。とても肌触りが良い。
そしてまた抱えられて脱衣所を出、今度はテーブルに向かった。薄いクッションが敷かれた椅子に座らされ、毛布で包まれる。
なんか、これは・・・。
すべてやらせているという点ではメガネ男から受けた扱いと変わらないのに、全然違う。 甲斐甲斐しくお世話を焼かれているみたいでどこか居た堪れない。恥ずかしくて少し申し訳ない。
もじもじと気持ちを戸惑わせていると、目の前に湯気の出るカップと、紙とペンが置かれた。
「少し待っていてくれ」
そう言ってジルさんはまたシャワールームへと戻っていく。
カップにはお茶のようなものが入っている。
本当に、至れり尽くせりだ。
これ、自分で飲んでもいいのかな?
ジルさんは、待っててくれ、とだけ言った。どっちだ?これを飲みながら待っててくれ、ってことだろうか。それともなにか別の意味があるのか?え、僕何か試されてる?いやジルさんは人を試すようなことはしそうにないけれども。
こうして全ての物事を勘繰ってしまう自分が情けない。
飲んでも、いいのかな?
でも、やっぱり聞いてからの方がいいよなぁ。
やっぱりやめておこう。
ジルさんは優しくて責任感が強くて、天使で、聖母で、間違いなく良い人だ。だからこそ気に障る行動をとって怒らせたりしたくない。嫌な思いをさせたくない。怒りを向けられたくない。嫌われたくない。
今まで誰に嫌われようと何とも思ったことのない自分の中に、このような感情が芽生えることになろうとは。
人に嫌われることに対して恐れをなしてしまう感覚というのは、こんなにも不安定なのか。
ジルさんと出会ってこちら、今まで知らなかった色々な気持ちが自分の中に作られている気がする。
ジルさんは不思議な人だなあ。これも種族の力というやつだろうか。傷がすぐ治るのと同じような感じの。癒しの能力?そういうのがあればこれまたファンタジーだなあ、と、あれこれ考えながら湯気を眺めてぼーっとしていると、シャワールームの扉が開く音が聞こえた。
水の滴る風呂上がりのジルさんが出てきて、僕の隣に腰掛ける。
「待たせた。寒くはないか?
ん?ミレの茶は苦手だったか?」
またまた聞き慣れない食材名を言いながら、椅子を僕の方に近づけて、顔を覗き込む。
ジルさんと目が合ってしまったので、ついつい、いつもの癖で口を開けた。
途端、なんと驚くことに、あれだけ仏頂面だったジルさんの眉間に非常にわかりやすく皺が寄ったのである。
「アキオはものを食べる時も着替える時も、なにもかも私にさせるが、なぜだ」
絶対に、怒っている。
これは絶対に怒っている。
なぜ、とは。こちらがうかがいたい。
なぜ?何もしていないのになぜそんなに怒っているの。逆に何もしていないことが良くなかったと?
「すまない。勘違いしないで欲しい。責めているのではない。ただ、アキオの権利を取り上げているようで気分が良くないのだ」
ジルさんは子供に言い聞かせるようにゆっくりと言葉をつなぐ。
その顔に、不覚にも胸が締め付けられる。
そうか。
保身のために、今までずっとメガネ男の地雷を踏まない道だけを選んで過ごしていたから、それを再現してさえいれば大丈夫だと思っていた。
「脚は、今は歩けないほど骨と筋肉が弱っているが、腕は動かせる筈だ。アキオが現状を望むならそうしよう。ただ、もし自らの意思で体を動かせるのであれば、それは君にとって非常に大切な行為だ。できることを放棄するのはもったいない」
違う。この危険なほど優しい人は、あんな下衆で碌でもない男とは全然違う。
「アキオ、私の言っていることがわかるか?君には何でも教えて欲しいんだ。
何がしたい?何がしたくない?アキオは何が好きで、何が嫌いなんだ?教えてほしい。疑問に思うことがあるなら何でも聞いて欲しい。もちろん伝えたくないことは伝えなくて良い。それも君の大事な権利だ。
私が望むのは、君が自由を手にすることだ」
郷に入っては郷に従うことしか能がない僕は、2ヶ月の間にすっかりメガネ男に染まっていたという事か。
そしてあろうことか、僕に真心だけを向けてくれるこの親切な軍人と、僕を屈辱的に弄んだ下衆ゲス下衆ゲス人攫い男とを同じ線上に並べ、見苦しく警戒していたのだ。
「どうか私を恐れないで欲しい」
僕はなんて取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。
恐れないで欲しい。こんな悲しい言葉、他にあるだろうか。
この人がどんな気持ちで、僕を見、触れ、語りかけていたかなんて分からない。けれど、そこには一片たりとも悪意は無く、誠実な真心で寄り添ってくれていたではないか。
僕は意を決してペンを取った。
ーーー自分でしても、嫌いませんか?
細い線が震えていてとても読みづらい文字になってしまった。一瞬、理解できないないというふうにジルさんがこちらを見る。
ーーー頭を蹴ったり、水をかけたりされるのが嫌いです
もう一度気をしっかり保ってちゃんと伝える。
硬筆の授業を思い出しながら、丁寧に丁寧に、一角ずつに向き合って生み出した文字は、相変わらずニョロニョロと美しい曲線が踊っているふうだ。
我ながら、どこまでも自分のことしか考えられていなくて呆れる文章。
しかし、どんなことでも伝えてくれ、というジルさんの言葉に、僕も全身で向き合いたかった。
途端、強い圧力に全身が包まれる。
ずっと繊細な陶器でも扱うかのように僕に接していた腕が、力強さを惜しみなく発揮して僕を腕の中に閉じ込めたのだと気がついた。
鍛え抜かれた硬い胸筋が頬に押し付けられて苦しい。肩が締め付けられて痛い。苦しいのも痛いのも嫌だったはずなのに、この24年の人生の中で、間違いなく最上の幸福を感じた。
心臓までもが毛布に包まれているように暖かい。
「また、私の言葉で君を困らせてしまった」
頭上から降りかかってくる声はあまりにも優しくて痛々しい。
違うのに。悪いのは僕なのに。変なことを聞いてあなたを傷つけたのは僕なのに。
でもそんなの考えられないくらいの幸福が襲ってくる。
床についた瞬間にタイミング良く眠気が襲って来た時よりも、食べたいものが偶然冷蔵庫に入っていた時よりも、定時ぴったりに仕事を上がれた時よりも。そんなのとは比べ物にならないくらい幸せだ。
「君が自分で食事をしても、自分で服を着替えても、自分の足で立って、歩いて、走って、踊ったって私はアキオを嫌わない。決して暴力など振るわない。約束しよう」
もしお父さんが優しかったら、こんな感じだったのかな?
考えたって仕方ないことしか浮かばない自分が、しょうもなくて嫌になる。
腕の力が緩んだのを見計らってテーブルに置いてあるペンを取り、
ーーーご
と書こうとした文字をぐしゃぐしゃに塗りつぶした。
ーーーありがとうございます。
もっと気の利いたことが言いたい。もっと誠意の伝わる謝罪をしたい。もっと具体的な感謝を伝えたい。
でもどんな聡明な言葉より、今伝えられる中で僕の気持ちを目一杯表せられる言葉はこれしかなかった。
一つ覚えみたいに並ぶ5つの『ありがとうございます』からはそれぞれに様々な色が滲んでおり、たった1日であらゆる感情を与えてもらった事実が記されていた。
もう一度、その逞しい腕の中に優しく閉じ込められた時、
ーーードンドンドン
と、玄関側のドアが叩かれた。
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