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3.臨床研究の開始
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「私、あたし……、私です、あたしよ。わかる……よね?」
夢の中で彼は公衆電話、その受話器の向こう側から聞こえてくる声に耳を傾けた。そして、——続きを述べたいところであるが残念ながら夢はそこで終わっている。謂わゆる『肝心なところで夢が覚める』というものである。勿論、ここで彼が目を覚ました訳はなく、おそらく闇が続く世界か、それとも私たちが『事象の水平線』と呼ぶ場所で佇んでいることだろう。水平線とは彼の状態を計測する機器が何の反応を示さず、水平線を描き続けることからそう名付けたそうだ。
彼のベッドの横には生命維持に必要な医療機器、彼と意思疎通を確認するための計測機器が所狭しに設置されている。まさに実験の最中であることを物語っているが、そこに一つだけ、場違いのようなものがある。白く小さな四角い箱、一見するとラジオ付きのスピーカーに似ているがラジオではない。だが、ラジオと言えなくもない共通点があり、そこから人の声が聞こえてくることである。例の「私、あたし……」と言っていた声の正体である。
植物状態の患者に話しかけると何がしらの反応が見られることがある。それは患者を見ているだけでは分からないが、微細な信号や微かな変化を検知できる装置が『反応あり』と返してくることで分かる。私たちはこの反応を手掛かりとした医療研究『意識探索プロジェクト』を立ち上げた。ここでいう私たちとは研究を発案した医師とそのスタッフ、そして私を含めたサポート及び解析・支援を行うAI群である。私の役割は主に医療行為全般に対する記録を担い、先のラジオのような箱の先に私とは別のAIが機能している。
『意識探索プロジェクト』の目的は植物状態である患者の意識を探り、沈黙を続ける意識の活性度を見極めることにある。私たちは患者の意識がまだ存在していると仮定し、その『証』を求め、患者の意識を呼び覚ますこと(現実社会への復帰)を最終目標としている。
このプロジェクトの特徴は他の探査方法とは異なり、患者が見ている夢に干渉することにある。それは夢の世界構築を外部から誘導または影響を及ぼすことで、より意識の観測を容易になるのではないかとする仮説に基づいている。つまり私たちが提供する『物語』によって夢が成り立ち、夢の主人公である患者の意識、その反応が『物語』によるものであれば彼の意識は存在していると言えるだろう。
では、その物語をどのようにして彼に伝え、物語の主人公として夢を見てもらえるのか。それは先に紹介した白く小さな四角い箱が重要な役目をになっている。私とは異なる性格を持つ白い箱をラジオのようなものと例えたが、それは満更(まんざら)比喩的な表現でもない。先の夢の場合、白い箱は街の喧騒を再現する雑多な音を発し、時にはヒューヒューと風の音、彼に話し掛ける中年男性の声、電話の呼び鈴などなど、音に関する全てを白い箱が行なっている。そして最後に「わたし、あたし……」と彼女の声で、——と言いたいところであるが、本物の彼女が不明のため、一般女性の声で彼に話し聞かせた、という訳である。この白い箱の主な役割は彼女のフリをすることなので便宜上『彼女』と呼ぶことにする。
彼女の存在について語れば、誰も彼女のことを知らない。彼が当院に来る以前の記録を遡っても彼女が彼に面会を求めたという記録はない。よって私たは彼女がどのような人物なのかを知らない? ——でもない。直接、彼女を観察してはいないが母親の証言からある程度の推測は構築済みである。母親と彼の関係は親子であることは明言するまでもなく、一人息子と母親、つまり母子家庭である。それ故であるかはどうかは判断できないが、母親は彼女に対して良い印象は持っていないことは母親の言動から推測できる。決定的なのは母親の「あの時(事故があった日)、彼が彼女の誘いに乗らず外出さえしていなければ、あんなことにはならなかった」と言ったことである。そして「無理やり」彼女に連れられ、彼は彼女に会うつもりも「無かった」にも拘らず、拒否できない威圧的な態度で「いつもいつも」彼を連れ回り、「従わせていた」とも続けた。数少ない母親の証言を元にすれば彼と彼女の関係は主従関係に近いものであった可能性が高い。そう仮定すれば事故後、彼女が一度もその姿を現さないことも説明できそうではある。
研究が始まって以来、彼は家族以外とは面会謝絶になっている。それを踏まえても彼女の存在は記録に無い、つまり不明のままである。彼と彼女の間には一般的な恋愛関係は認められず、母親の証言から異なる関係であった可能性は否定できない。これらの状況で敢えて彼女の存在を重視している理由は以下によるものである。彼女の思惑や心情がどのようなものであれ、彼の彼女への想いは一般的な恋愛感情であると仮定している。母親にしてみれば一人息子であっても彼は立派な大人である。過度な母親依存でない限り、自身が見つけ出会った相手を大切に思っている。であれば彼への意識探索に彼女の存在は意識を呼び覚ます極めて重要な鍵になり得る。
夢の中で彼は公衆電話、その受話器の向こう側から聞こえてくる声に耳を傾けた。そして、——続きを述べたいところであるが残念ながら夢はそこで終わっている。謂わゆる『肝心なところで夢が覚める』というものである。勿論、ここで彼が目を覚ました訳はなく、おそらく闇が続く世界か、それとも私たちが『事象の水平線』と呼ぶ場所で佇んでいることだろう。水平線とは彼の状態を計測する機器が何の反応を示さず、水平線を描き続けることからそう名付けたそうだ。
彼のベッドの横には生命維持に必要な医療機器、彼と意思疎通を確認するための計測機器が所狭しに設置されている。まさに実験の最中であることを物語っているが、そこに一つだけ、場違いのようなものがある。白く小さな四角い箱、一見するとラジオ付きのスピーカーに似ているがラジオではない。だが、ラジオと言えなくもない共通点があり、そこから人の声が聞こえてくることである。例の「私、あたし……」と言っていた声の正体である。
植物状態の患者に話しかけると何がしらの反応が見られることがある。それは患者を見ているだけでは分からないが、微細な信号や微かな変化を検知できる装置が『反応あり』と返してくることで分かる。私たちはこの反応を手掛かりとした医療研究『意識探索プロジェクト』を立ち上げた。ここでいう私たちとは研究を発案した医師とそのスタッフ、そして私を含めたサポート及び解析・支援を行うAI群である。私の役割は主に医療行為全般に対する記録を担い、先のラジオのような箱の先に私とは別のAIが機能している。
『意識探索プロジェクト』の目的は植物状態である患者の意識を探り、沈黙を続ける意識の活性度を見極めることにある。私たちは患者の意識がまだ存在していると仮定し、その『証』を求め、患者の意識を呼び覚ますこと(現実社会への復帰)を最終目標としている。
このプロジェクトの特徴は他の探査方法とは異なり、患者が見ている夢に干渉することにある。それは夢の世界構築を外部から誘導または影響を及ぼすことで、より意識の観測を容易になるのではないかとする仮説に基づいている。つまり私たちが提供する『物語』によって夢が成り立ち、夢の主人公である患者の意識、その反応が『物語』によるものであれば彼の意識は存在していると言えるだろう。
では、その物語をどのようにして彼に伝え、物語の主人公として夢を見てもらえるのか。それは先に紹介した白く小さな四角い箱が重要な役目をになっている。私とは異なる性格を持つ白い箱をラジオのようなものと例えたが、それは満更(まんざら)比喩的な表現でもない。先の夢の場合、白い箱は街の喧騒を再現する雑多な音を発し、時にはヒューヒューと風の音、彼に話し掛ける中年男性の声、電話の呼び鈴などなど、音に関する全てを白い箱が行なっている。そして最後に「わたし、あたし……」と彼女の声で、——と言いたいところであるが、本物の彼女が不明のため、一般女性の声で彼に話し聞かせた、という訳である。この白い箱の主な役割は彼女のフリをすることなので便宜上『彼女』と呼ぶことにする。
彼女の存在について語れば、誰も彼女のことを知らない。彼が当院に来る以前の記録を遡っても彼女が彼に面会を求めたという記録はない。よって私たは彼女がどのような人物なのかを知らない? ——でもない。直接、彼女を観察してはいないが母親の証言からある程度の推測は構築済みである。母親と彼の関係は親子であることは明言するまでもなく、一人息子と母親、つまり母子家庭である。それ故であるかはどうかは判断できないが、母親は彼女に対して良い印象は持っていないことは母親の言動から推測できる。決定的なのは母親の「あの時(事故があった日)、彼が彼女の誘いに乗らず外出さえしていなければ、あんなことにはならなかった」と言ったことである。そして「無理やり」彼女に連れられ、彼は彼女に会うつもりも「無かった」にも拘らず、拒否できない威圧的な態度で「いつもいつも」彼を連れ回り、「従わせていた」とも続けた。数少ない母親の証言を元にすれば彼と彼女の関係は主従関係に近いものであった可能性が高い。そう仮定すれば事故後、彼女が一度もその姿を現さないことも説明できそうではある。
研究が始まって以来、彼は家族以外とは面会謝絶になっている。それを踏まえても彼女の存在は記録に無い、つまり不明のままである。彼と彼女の間には一般的な恋愛関係は認められず、母親の証言から異なる関係であった可能性は否定できない。これらの状況で敢えて彼女の存在を重視している理由は以下によるものである。彼女の思惑や心情がどのようなものであれ、彼の彼女への想いは一般的な恋愛感情であると仮定している。母親にしてみれば一人息子であっても彼は立派な大人である。過度な母親依存でない限り、自身が見つけ出会った相手を大切に思っている。であれば彼への意識探索に彼女の存在は意識を呼び覚ます極めて重要な鍵になり得る。
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