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5.帰る時間と場所
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彼の夢は幕を下ろし私たちの作業は終わった。今頃彼は『事象の水平線』に戻ってしまったか、何処にも居ない状況である。私たちは一日の始まりを試行したが、次の物語を進めるための準備に取り掛かる。起床に見立てた物語では十分な成果を得られなかったが、次は彼と彼女が別れる状況を想定している。——誤解が生じそうなので補足。『別れる』とは一日を楽しく過ごした彼らは帰宅時間若しくは門限のため、離れ難い気持ちを断ち切り、それぞれが帰路につくというものである。ここで重要なのは彼が『どこに』帰るのか、である。普通であれば自宅であると考えられるが、それともどこかに寄り道をして行くのかもしれない。いずれにせよ、今の彼が自然と戻りたい場所が彼にとって居心地のよい安全な場であるはずである。それが判明すれば彼の意識を探し回る時間が節約できるというものである。
ボーボボボ、フォーン。
AIの彼女が夜の港を再現するため汽笛の効果音を発した。これを言葉にすると妙なものであるが、AIの彼女とは一人でラジオドラマを熟(こな)す多機能な存在である。効果音は汽笛にとどまらず波止場に打ち寄せる波の音、潮の香りを運ぶ微(そよ)風、そして夜も遅い時間帯を表現するための静けさを織り交ぜながら私たちの研究は始まった。たがまだ彼は夢をみていない状態である。つまり夢の扉はまだ開かれていない状態であり、私たちの演出はその扉の向こう側にある。よって彼が夢の扉に辿り着く頃を見計らい、構築済みの世界に彼を誘導する必要があるためである。
「おはよう、おはようございます。終了の時刻を過ぎてしまった。さあ、あなたは帰る意志を発揮しなさい……。もうこんな時間です。あなたと離れるのは寂しいけれど、それは決まった行動。計画の遂行を私は望みます」
夢は男女の辛い別れから始まる。時の流れは全ての事象に等しく関わるが、幸福の一瞬ほど短いものはない。だが……、真夜中近い設定のはずが「おはよう」とは。確かに彼の意識は目覚めて(夢の中では)いるが、それをもって「おはよう」は適切かつ最適とは言い難い。言い訳としてAI彼女の計算式に間違いが混入しているか、それとも学習不足なのか。この不具合に対し彼の反応は……、幸か不幸か無反応のままである。これは以前と同様、彼は夢を見ているものの感情というものが動かず、立ったままの姿勢を維持するだけである。視線もまた動かず、試しに周囲の風を彼が吹き飛ばされるくらい強めにしてみたが彼の心と同様、彼を動かすには至らなかった。
「そこは危ないわ。さあ、私と一緒に行きましょう」
AI彼女は彼に近寄り腕を掴むと、並んで歩き出した。無反応だった彼が彼女に連れられた形ではあるが『歩く』という動作をしている。これは大変素晴らしいことである。可能性としては彼の意識を私たちはまだ認識不足であり、どこかで彼の存在を見落としているとも言える。だがこれで私たちの期待値は大いに上昇し、彼の動きを注視することにした。彼と彼女が別れ、彼の足跡を辿るという目的からは多少寄り道をすることになるだろうが行く末を暫(しば)し観察することにしよう。
彼よりも背の低い彼女(飽くまで想定上では)は彼の腕を抱え込むように歩きながら彼の表情を注意深く観察する。彼を見上げる彼女の顔は微笑むかのような、反応の乏しい彼の意識を引き寄せようと、時には変な顔をして見せる。それが何かの役に立つのなら大いに試す価値はあるだろう。それで最善の効果が期待できるのなら。しかし——。
彼女の歩みの歩調を合わせる彼。その光景だけで何かの進歩を期待したいところであり、彼女の『想い』という計算は余剰をもたらすかもしれない。だが、優れた『想い』から最善の結果を得られるとは限らない。単一の計算に固執したためなのか、彼を注視するあまり、彼女は港の桟橋から足を踏み外し……海に転落した。その場に立ち止まった彼は彼女の踠く様子をただ眺めているだけで彼女を救うという行為にまでは及ばない。
私たちの『夢物語』は例え夢の中であっても現実の物理法則を無視することはない。だが夢の世界は矛盾が生じたとしても辻褄を合わせるなどの必要は無く、全ては次々と起こる現象に身を委ねるものである。よって世界の変化に順応することが私たちにも求められ、そうしなければ彼の夢を壊してしまいかねない。私たちは不自然な干渉は行わないと決めているので、彼女が空中を歩けるようにしたりせず、海で溺れる彼女を傍観するだけである。——ただし、彼女の生命に危険が及ぶような光景を夢の中とはいえ、今の彼に認知させるのは非常に危険である。そこで止(や)むを得ず海水を全て除去し、桟橋を砂浜に伸びる橋と化した。このことにより彼女の安全は確保され、失態を隠そうとするかのような彼女の苦笑が残った。
ボーボボボ、フォーン。
AIの彼女が夜の港を再現するため汽笛の効果音を発した。これを言葉にすると妙なものであるが、AIの彼女とは一人でラジオドラマを熟(こな)す多機能な存在である。効果音は汽笛にとどまらず波止場に打ち寄せる波の音、潮の香りを運ぶ微(そよ)風、そして夜も遅い時間帯を表現するための静けさを織り交ぜながら私たちの研究は始まった。たがまだ彼は夢をみていない状態である。つまり夢の扉はまだ開かれていない状態であり、私たちの演出はその扉の向こう側にある。よって彼が夢の扉に辿り着く頃を見計らい、構築済みの世界に彼を誘導する必要があるためである。
「おはよう、おはようございます。終了の時刻を過ぎてしまった。さあ、あなたは帰る意志を発揮しなさい……。もうこんな時間です。あなたと離れるのは寂しいけれど、それは決まった行動。計画の遂行を私は望みます」
夢は男女の辛い別れから始まる。時の流れは全ての事象に等しく関わるが、幸福の一瞬ほど短いものはない。だが……、真夜中近い設定のはずが「おはよう」とは。確かに彼の意識は目覚めて(夢の中では)いるが、それをもって「おはよう」は適切かつ最適とは言い難い。言い訳としてAI彼女の計算式に間違いが混入しているか、それとも学習不足なのか。この不具合に対し彼の反応は……、幸か不幸か無反応のままである。これは以前と同様、彼は夢を見ているものの感情というものが動かず、立ったままの姿勢を維持するだけである。視線もまた動かず、試しに周囲の風を彼が吹き飛ばされるくらい強めにしてみたが彼の心と同様、彼を動かすには至らなかった。
「そこは危ないわ。さあ、私と一緒に行きましょう」
AI彼女は彼に近寄り腕を掴むと、並んで歩き出した。無反応だった彼が彼女に連れられた形ではあるが『歩く』という動作をしている。これは大変素晴らしいことである。可能性としては彼の意識を私たちはまだ認識不足であり、どこかで彼の存在を見落としているとも言える。だがこれで私たちの期待値は大いに上昇し、彼の動きを注視することにした。彼と彼女が別れ、彼の足跡を辿るという目的からは多少寄り道をすることになるだろうが行く末を暫(しば)し観察することにしよう。
彼よりも背の低い彼女(飽くまで想定上では)は彼の腕を抱え込むように歩きながら彼の表情を注意深く観察する。彼を見上げる彼女の顔は微笑むかのような、反応の乏しい彼の意識を引き寄せようと、時には変な顔をして見せる。それが何かの役に立つのなら大いに試す価値はあるだろう。それで最善の効果が期待できるのなら。しかし——。
彼女の歩みの歩調を合わせる彼。その光景だけで何かの進歩を期待したいところであり、彼女の『想い』という計算は余剰をもたらすかもしれない。だが、優れた『想い』から最善の結果を得られるとは限らない。単一の計算に固執したためなのか、彼を注視するあまり、彼女は港の桟橋から足を踏み外し……海に転落した。その場に立ち止まった彼は彼女の踠く様子をただ眺めているだけで彼女を救うという行為にまでは及ばない。
私たちの『夢物語』は例え夢の中であっても現実の物理法則を無視することはない。だが夢の世界は矛盾が生じたとしても辻褄を合わせるなどの必要は無く、全ては次々と起こる現象に身を委ねるものである。よって世界の変化に順応することが私たちにも求められ、そうしなければ彼の夢を壊してしまいかねない。私たちは不自然な干渉は行わないと決めているので、彼女が空中を歩けるようにしたりせず、海で溺れる彼女を傍観するだけである。——ただし、彼女の生命に危険が及ぶような光景を夢の中とはいえ、今の彼に認知させるのは非常に危険である。そこで止(や)むを得ず海水を全て除去し、桟橋を砂浜に伸びる橋と化した。このことにより彼女の安全は確保され、失態を隠そうとするかのような彼女の苦笑が残った。
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