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選抜試験編
第8話 マリーの音
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心地好い沈黙が続いたあと、僕とマリーは早めに学校へ行くことにした。始業まで時間の余裕があるから、魔法の練習をするためだ。
それぞれ部屋に戻って荷物を取ると、軽快な足取りで王宮のすぐ横に建てられた校舎へと向かう。本格的な夏は終わったとはいえ、暖かい今日も芝生は青々と繁っていた。
ほどよい気候で過ごしやすい夏は、とにかく太陽が上っている時間が長かった。日が全く沈まないいわゆる白夜《びゃくや》の期間もあり、深夜のはずなのに夕焼けみたいに輝く湖面や城、それらを囲むように生い茂る森を眺めるのは楽しかったが、環境の変化と合わせて眠れない日が続き、寝不足気味だった。講義中何度寝そうになったことか。
そんな回想をしていると、様々な楽器の音が耳に入ってきた。いつもは始業時間の少し前に登校するため知らなかったが、各々朝早くから練習に励んでいるようだ。
僕らは校舎に入ってすぐの階段を上がったところにある第一演習場に入った。すでに何人か先客がおり、熱心に譜面と向き合っている。
僕とマリーは目立たぬよう一番後ろのピアノを選んだ。鍵盤蓋を開けて譜面を置いて、椅子に座って指を88鍵ある鍵盤の上に乗せる。
息を大きく吸うと、目を閉じて現象を想像する。昨日カロリナの演奏と譜面を見た僕の頭には、自然と火球のイメージが浮かんでいた。その色と熱さ、手触り、匂い、空気の変化を克明に描く。
パッと目を開いて暗譜するほどに馴染んだ旋律を並べる。ライターの火をつけるときのような火花が瞬いたものの、それ以上の変化は起こらなかった。
やっぱりか、と思いながら横を見ると、マリーが神妙な面持ちで鍵盤にそっと指を置くところだった。
息を大きく吸うと、マリーのブルーの瞳が閉ざされる。
微かに震える指先が音を奏でた。マリーの得意なはずの水のエレメントに相応しく聞き心地のいい柔らかな音色《ねいろ》。巧みな強弱で綺麗に音が揺れる。完璧な演奏のように思えるが、こちらもやはりと言うべきか魔法が発動することはなかった。
それでも、音が乱れることなく最後まで演奏を遂げたマリーは長い息を吐き出すとともに、その体を弛緩させた。
拍手をしたい衝動に駆られたが、太ももの上でぐっと手を握りこらえた。
何度聴いても素晴らしい演奏。激情的で躍動的なカロリナとはまた違う、一音一音丁寧に大事に音を紡ぐマリーの演奏は、湖の波紋のように心をじんわりと打ち、響かせる魅力を持っている。
演習室には目には見えなかったが青色の余韻が残っていた。気づけば、前の方で練習に励んでいた生徒たちの手が止まり、全員がマリーを注視していた。
これほどの領域に到達するのは並大抵の努力ではない。元々の才能もあるのかもしれないが、たとえ魔法が出現しなくとも真剣に向き合い、闘ってきたからこそできることだ。
注目を浴びているのに気がついたマリーは、慌てたように譜面を片付けると立ち上がり、一礼して演習室を出ていった。
「あっ、ちょ、マリー!」
僕も急いでマリーの後を追い、喧騒が始まった部屋を出ていった。
マリーは誰もいない廊下の壁に背をつけ、ローブに付いているフードを目深に被って俯き加減で立っていた。腕の中で譜面を握り締めながら。
「マリー?」
声を掛けてみたが、反応は返ってこない。肩が震えているみたいに上下を繰り返す。表情は見えないが、泣いているのか。
「マリー」
もう一度呼びかけてみた。マリーは首を横に揺らした。なんでもないよ、大丈夫だよと言っているみたいに。
誰かの足音が廊下を反響する。とにかく。ここにいるわけにはいかない。
僕は、動けないマリーの手を取ると、一階から続く教会へと向かった。あそこなら、黙って座っていても変には見えないはずだ。
それぞれ部屋に戻って荷物を取ると、軽快な足取りで王宮のすぐ横に建てられた校舎へと向かう。本格的な夏は終わったとはいえ、暖かい今日も芝生は青々と繁っていた。
ほどよい気候で過ごしやすい夏は、とにかく太陽が上っている時間が長かった。日が全く沈まないいわゆる白夜《びゃくや》の期間もあり、深夜のはずなのに夕焼けみたいに輝く湖面や城、それらを囲むように生い茂る森を眺めるのは楽しかったが、環境の変化と合わせて眠れない日が続き、寝不足気味だった。講義中何度寝そうになったことか。
そんな回想をしていると、様々な楽器の音が耳に入ってきた。いつもは始業時間の少し前に登校するため知らなかったが、各々朝早くから練習に励んでいるようだ。
僕らは校舎に入ってすぐの階段を上がったところにある第一演習場に入った。すでに何人か先客がおり、熱心に譜面と向き合っている。
僕とマリーは目立たぬよう一番後ろのピアノを選んだ。鍵盤蓋を開けて譜面を置いて、椅子に座って指を88鍵ある鍵盤の上に乗せる。
息を大きく吸うと、目を閉じて現象を想像する。昨日カロリナの演奏と譜面を見た僕の頭には、自然と火球のイメージが浮かんでいた。その色と熱さ、手触り、匂い、空気の変化を克明に描く。
パッと目を開いて暗譜するほどに馴染んだ旋律を並べる。ライターの火をつけるときのような火花が瞬いたものの、それ以上の変化は起こらなかった。
やっぱりか、と思いながら横を見ると、マリーが神妙な面持ちで鍵盤にそっと指を置くところだった。
息を大きく吸うと、マリーのブルーの瞳が閉ざされる。
微かに震える指先が音を奏でた。マリーの得意なはずの水のエレメントに相応しく聞き心地のいい柔らかな音色《ねいろ》。巧みな強弱で綺麗に音が揺れる。完璧な演奏のように思えるが、こちらもやはりと言うべきか魔法が発動することはなかった。
それでも、音が乱れることなく最後まで演奏を遂げたマリーは長い息を吐き出すとともに、その体を弛緩させた。
拍手をしたい衝動に駆られたが、太ももの上でぐっと手を握りこらえた。
何度聴いても素晴らしい演奏。激情的で躍動的なカロリナとはまた違う、一音一音丁寧に大事に音を紡ぐマリーの演奏は、湖の波紋のように心をじんわりと打ち、響かせる魅力を持っている。
演習室には目には見えなかったが青色の余韻が残っていた。気づけば、前の方で練習に励んでいた生徒たちの手が止まり、全員がマリーを注視していた。
これほどの領域に到達するのは並大抵の努力ではない。元々の才能もあるのかもしれないが、たとえ魔法が出現しなくとも真剣に向き合い、闘ってきたからこそできることだ。
注目を浴びているのに気がついたマリーは、慌てたように譜面を片付けると立ち上がり、一礼して演習室を出ていった。
「あっ、ちょ、マリー!」
僕も急いでマリーの後を追い、喧騒が始まった部屋を出ていった。
マリーは誰もいない廊下の壁に背をつけ、ローブに付いているフードを目深に被って俯き加減で立っていた。腕の中で譜面を握り締めながら。
「マリー?」
声を掛けてみたが、反応は返ってこない。肩が震えているみたいに上下を繰り返す。表情は見えないが、泣いているのか。
「マリー」
もう一度呼びかけてみた。マリーは首を横に揺らした。なんでもないよ、大丈夫だよと言っているみたいに。
誰かの足音が廊下を反響する。とにかく。ここにいるわけにはいかない。
僕は、動けないマリーの手を取ると、一階から続く教会へと向かった。あそこなら、黙って座っていても変には見えないはずだ。
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