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第二章「嫉妬の荒魂」
第18話 八重垣御琴
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海斗の家から飛び出したあたしは、どこをどう走ったのか覚えていない。ただがむしゃらに、あの場所から離れて、逃げて――いつの間にか、たどり着いたのは市内で最も大きな芦原大橋の下。芦原川の河川敷だった。
「うっ……うわああああ!」
夕日が沈む中、この場所にいるのは私だけだった。だから思い切り声をあげて私は泣いた。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。一番好きな人の前で、一番大切な友達に向けて。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
嫉妬でとんでもないことを言ってしまった。最悪だ。最低だ、私は。
あの言葉が一番|美波んを傷つけるってわかっていたのに、一番悲しませるってわかっていたのに。もうあの時には自分が抑えられなかった。
美波んだけじゃない。死んだ美波のお母さん、紗那さんに対しても、申し訳が立たない言葉だ。
「あ……」
カバンが開いていた。倒れたカバンから見えるのは記録会の前に美波んがあたしにくれたどら焼きの包。
恐る恐る手を伸ばす。お腹を満たしたい。あの柔らかい触感を味わいたい。その奥にたどり着いて、あんこの甘さを堪能したい。
「……っ!」
そしてかぶりつく。夢中になって頬張る。
久しぶりに口にする食べ物。口いっぱいに広がる至福の時――でも、その時間はすぐに終わった。
「うえっ……げほっ……げほっ……!」
やっぱり、胃に物を入れたそばから戻してしまう。
もし、あのまま海斗の家で食事会が開かれていたら、せっかく作ってもらった料理を台無しにしていたに違いない。
「……なんで……食べたいのに! どうして食べられないの!?」
異変が始まったのは一週間前からだった。記録会が近づいて、まどかの実力を目の当たりにする日が迫って、自分の中で焦りがどんどん膨らんで来た。
お母さんがちゃんと考えてご飯を作ってくれているのは分かっていた。それでも、まどかに勝つためには「これでいいのだろうか」と思い始めていた。
脂肪を落とさないと。
脂肪を取らないようにしないと。
余計なカロリーを取らないようにしないと。
体型を維持しないと――そう思い続けている内に体が食物を受け付けなくなった。
「海斗や美波んのご飯が食べたいよ! 一緒に……笑って……いつもみたいに…いつも……みたい…に」
その言葉がかなわないことを、自分で理解してしまう。さっき、自分で壊してしまったばかりじゃないか。あたしの最高の居場所を。どんな時でもあたしの味方をしてくれた二人を傷つけて。
結果が出れば、ちゃんと記録を出せば、まどかに勝ってこの不安が消えれば元に戻ると思っていた。
でも、結果は惨敗。記録も、世間の注目も、全部まどかに持っていかれた。競泳選手としてあたしは全部失ってしまった。
「やだ……」
まどかが言っていた。「海斗に本気でアプローチをする」って。
「やだやだ、そんなのやだ!!」
まどかに全部奪われちゃう。海斗を取られたくない。ずっと一緒にいたのに。せっかく気付いたのに。
「海斗は……あたしが先に好きになったのに!」
せっかく分かったのに。これが「好き」って感情だって理解できたのに。
ずっと一緒にいたから気が付かなかった。水泳ばかりでガサツで、勉強も苦手で、そんなあたしでも海斗は笑ってそばにいてくれた。
美味しい料理を作ってくれた。
勉強を教えてくれた。
一緒に馬鹿もやってくれた。
そんな彼と一緒にいることが楽しかった。心地よかった。
小さい頃からいつも一緒の、世界で一番大好きな男の子。
「海斗……かいとっ!」
さっき指に巻いてもらった絆創膏が、海斗を思い出させてしまう。
一番たくさん呼んで来た、その男の子の名前を口にするだけで胸が苦しくなる。
もう絶対に自分の物にならない。あたしがいるべき場所は自分で壊した。
「教えてよ……誰か教えてよ!」
大切な友達と、大好きな男の子と、自信満々だった自分。もう何も残っていない。
「あたしは……どうしたらいいのよ!」
夕陽を見ていられない。目を伏せ声を上げて私は泣く。でもその叫びに誰も答える人なんているわけがない――。
「――簡単なことだと思うけどなあ」
「……海斗?」
風の音に交じって男の子の声がした。あたしは海斗が追って来たのかと思った。
でも違う。顔を上げた私の前に現れたのは見たことのない男の子だった。
「だ、誰……?」
「ははは。『風の音の それかと紛ふ夕暮の 心の内を 問ふ人もがな』と言うけれど、まさか直にお目にかかるとは思わなかったよ」
「かぜの……なに?」
「あれ、後鳥羽院をご存じない? うーん、さすがにこの歌はちょっとマイナーだったかな?」
後鳥羽院って、確か中学で習った覚えがあるけど……ううん、それよりもこの子、夕陽で横顔が照らされているのに、何で顔が見えないの。
「それじゃあ、歌に合わせて僕も君に問いを投げかけてみるとしようかな」
そう言って、男の子は手を顔に持っていく。自分の顔を撫でるように手の平を顔の前で通過させると――。
「っ!?」
「お前は何をしたいんだ?」
息が止まるかと思うほどに私は驚いた。その顔が海斗のものに変わっていたのだ。
「な、何なのあんた……」
「おや、お気に召さなかったかな。それじゃあこれならどうだい?」
くるっと海斗の偽物がその場で一回転する。振り返ったその顔は――。
「友達を傷つけてまで、御琴ちんがしたかったことって何なの?」
「み、美波ん……」
瞬きする間にその顔が、いや、姿まで変わっていた。
「私が邪魔だったんじゃないの? 大好きな男の子のそばにいつもいる私が」
「違う、そんなこと……本気で思ってない!」
「そう……それじゃあ、何がそんなに御琴ちんを苦しめているのかな?」
軽い足取りで橋脚の後ろへと姿を消す。反対側から現れたのは――。
「不甲斐なかった結果か?」
今度は咲耶おばさんだった。
「頑張ったのに、その結果が出せなかったことが悔しいのか。絶望するほどに?」
「違う……」
何が何だかわからない。いったい、あたしは何を見ているんだろう。誰と話しているのだろう。そう思っていたら咲耶おばさんが夕陽を背にして立つ。逆光でその姿が黒く塗り潰され、誰なのかも見えなくなる。
「違いますよね。だって、先輩は頑張っているのに」
「――っ!?」
その声には覚えがあった。前まではあたしを慕い、あたしを追いかけていた後輩。今、一番その顔を見たくない人物。
「頑張っていた先輩から競泳選手として全部を奪い取った私。そして、これから大好きな人を奪い取ろうとしている私」
「ま……どか」
「そう、私さえいなければ、こんなことにはならなかったんですよね?」
一歩また一歩と、まどかの声が近づいてくる。
こみ上げる不快感と劣等感。
全てを手に入れようとしている彼女に抱いた妬みと嫉みの気持ち。
「聞かせてくださいよ。先輩の本当の気持ち――君は、何をしたかったんだい?」
渡したくない。
全部あたしのものだ。
こんなことになったのも彼女のせいだ。
彼女が、全部あたしのものを壊していったんだ。
「あたしが……したい、こと」
いつの間にか目の前にいたまどかは、元の顔のない男の子に戻っていた。そして、蛇をかたどった装飾で縁取られた鏡をその手に、私に向けて問いかけて来る。
「もう一度聞くよ。何をしたいんだい?」
『わかっているわ、考えていること。だって、あたしだもん』
鏡の中のあたしが笑顔を向けて来る。その顔は、見たことが無いほどにどす黒い笑みだった。だけど、目を背けることができない。その言葉から耳をふさぐことができない。
『取り戻したいんでしょ。全てを』
「うん……取り戻したい」
できることなら昔みたいに皆で笑って、美味しいご飯を食べて……隣には海斗と美波んがいて。
『それを邪魔する奴は』
「……邪魔する奴は」
『いなくなればいい』
「いなくなればいい」
なんだ、簡単なことじゃないか。どうしてこんなに悩んでいたんだろう。
考え込むなんて柄じゃない。欲しいなら自分から動かなくちゃ手に入らないじゃないか。
「そう、それでいいんだよ」
男の子が笑う。あれほど不気味だと思っていた彼の言葉が、今では心地よく感じている。
「我慢する必要なんてない。思うまま、自分が欲しいものを手に入れればいい」
あたしの気持ちを分かってくれる。寄り添ってくれる。その言葉があたしの背を押してくれる。
「さあ、そんな君にはこれがお似合いだ」
あたしの目の前に不思議な形をした石が掲げられた。そこから黒い靄のようなものが立ち上っている。
「その闇、解放してあげるよ!」
「――――っ!」
石が強く輝いた。その途端、あたしの中で渦巻いていたどす黒いものが暴れ出す。
「うわああああーっ!」
あたしの中から何かが出ていく。男の子の笑い声もだんだん薄れていき、心が一つの感情で真っ黒に塗り潰されていく。
強まっていくのは――嫉妬。
「あはははは! さあ、第二幕の始まりだ!」
地位も名誉も愛情も全部あたしのものだ。
それを奪おうとする奴は許さない。全部壊してやる。
それを邪魔するのなら、たとえ――。
「行けミサキ! 全てを壊してしまえ!」
――大切な人でも許さないから。
「うっ……うわああああ!」
夕日が沈む中、この場所にいるのは私だけだった。だから思い切り声をあげて私は泣いた。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。一番好きな人の前で、一番大切な友達に向けて。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
嫉妬でとんでもないことを言ってしまった。最悪だ。最低だ、私は。
あの言葉が一番|美波んを傷つけるってわかっていたのに、一番悲しませるってわかっていたのに。もうあの時には自分が抑えられなかった。
美波んだけじゃない。死んだ美波のお母さん、紗那さんに対しても、申し訳が立たない言葉だ。
「あ……」
カバンが開いていた。倒れたカバンから見えるのは記録会の前に美波んがあたしにくれたどら焼きの包。
恐る恐る手を伸ばす。お腹を満たしたい。あの柔らかい触感を味わいたい。その奥にたどり着いて、あんこの甘さを堪能したい。
「……っ!」
そしてかぶりつく。夢中になって頬張る。
久しぶりに口にする食べ物。口いっぱいに広がる至福の時――でも、その時間はすぐに終わった。
「うえっ……げほっ……げほっ……!」
やっぱり、胃に物を入れたそばから戻してしまう。
もし、あのまま海斗の家で食事会が開かれていたら、せっかく作ってもらった料理を台無しにしていたに違いない。
「……なんで……食べたいのに! どうして食べられないの!?」
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お母さんがちゃんと考えてご飯を作ってくれているのは分かっていた。それでも、まどかに勝つためには「これでいいのだろうか」と思い始めていた。
脂肪を落とさないと。
脂肪を取らないようにしないと。
余計なカロリーを取らないようにしないと。
体型を維持しないと――そう思い続けている内に体が食物を受け付けなくなった。
「海斗や美波んのご飯が食べたいよ! 一緒に……笑って……いつもみたいに…いつも……みたい…に」
その言葉がかなわないことを、自分で理解してしまう。さっき、自分で壊してしまったばかりじゃないか。あたしの最高の居場所を。どんな時でもあたしの味方をしてくれた二人を傷つけて。
結果が出れば、ちゃんと記録を出せば、まどかに勝ってこの不安が消えれば元に戻ると思っていた。
でも、結果は惨敗。記録も、世間の注目も、全部まどかに持っていかれた。競泳選手としてあたしは全部失ってしまった。
「やだ……」
まどかが言っていた。「海斗に本気でアプローチをする」って。
「やだやだ、そんなのやだ!!」
まどかに全部奪われちゃう。海斗を取られたくない。ずっと一緒にいたのに。せっかく気付いたのに。
「海斗は……あたしが先に好きになったのに!」
せっかく分かったのに。これが「好き」って感情だって理解できたのに。
ずっと一緒にいたから気が付かなかった。水泳ばかりでガサツで、勉強も苦手で、そんなあたしでも海斗は笑ってそばにいてくれた。
美味しい料理を作ってくれた。
勉強を教えてくれた。
一緒に馬鹿もやってくれた。
そんな彼と一緒にいることが楽しかった。心地よかった。
小さい頃からいつも一緒の、世界で一番大好きな男の子。
「海斗……かいとっ!」
さっき指に巻いてもらった絆創膏が、海斗を思い出させてしまう。
一番たくさん呼んで来た、その男の子の名前を口にするだけで胸が苦しくなる。
もう絶対に自分の物にならない。あたしがいるべき場所は自分で壊した。
「教えてよ……誰か教えてよ!」
大切な友達と、大好きな男の子と、自信満々だった自分。もう何も残っていない。
「あたしは……どうしたらいいのよ!」
夕陽を見ていられない。目を伏せ声を上げて私は泣く。でもその叫びに誰も答える人なんているわけがない――。
「――簡単なことだと思うけどなあ」
「……海斗?」
風の音に交じって男の子の声がした。あたしは海斗が追って来たのかと思った。
でも違う。顔を上げた私の前に現れたのは見たことのない男の子だった。
「だ、誰……?」
「ははは。『風の音の それかと紛ふ夕暮の 心の内を 問ふ人もがな』と言うけれど、まさか直にお目にかかるとは思わなかったよ」
「かぜの……なに?」
「あれ、後鳥羽院をご存じない? うーん、さすがにこの歌はちょっとマイナーだったかな?」
後鳥羽院って、確か中学で習った覚えがあるけど……ううん、それよりもこの子、夕陽で横顔が照らされているのに、何で顔が見えないの。
「それじゃあ、歌に合わせて僕も君に問いを投げかけてみるとしようかな」
そう言って、男の子は手を顔に持っていく。自分の顔を撫でるように手の平を顔の前で通過させると――。
「っ!?」
「お前は何をしたいんだ?」
息が止まるかと思うほどに私は驚いた。その顔が海斗のものに変わっていたのだ。
「な、何なのあんた……」
「おや、お気に召さなかったかな。それじゃあこれならどうだい?」
くるっと海斗の偽物がその場で一回転する。振り返ったその顔は――。
「友達を傷つけてまで、御琴ちんがしたかったことって何なの?」
「み、美波ん……」
瞬きする間にその顔が、いや、姿まで変わっていた。
「私が邪魔だったんじゃないの? 大好きな男の子のそばにいつもいる私が」
「違う、そんなこと……本気で思ってない!」
「そう……それじゃあ、何がそんなに御琴ちんを苦しめているのかな?」
軽い足取りで橋脚の後ろへと姿を消す。反対側から現れたのは――。
「不甲斐なかった結果か?」
今度は咲耶おばさんだった。
「頑張ったのに、その結果が出せなかったことが悔しいのか。絶望するほどに?」
「違う……」
何が何だかわからない。いったい、あたしは何を見ているんだろう。誰と話しているのだろう。そう思っていたら咲耶おばさんが夕陽を背にして立つ。逆光でその姿が黒く塗り潰され、誰なのかも見えなくなる。
「違いますよね。だって、先輩は頑張っているのに」
「――っ!?」
その声には覚えがあった。前まではあたしを慕い、あたしを追いかけていた後輩。今、一番その顔を見たくない人物。
「頑張っていた先輩から競泳選手として全部を奪い取った私。そして、これから大好きな人を奪い取ろうとしている私」
「ま……どか」
「そう、私さえいなければ、こんなことにはならなかったんですよね?」
一歩また一歩と、まどかの声が近づいてくる。
こみ上げる不快感と劣等感。
全てを手に入れようとしている彼女に抱いた妬みと嫉みの気持ち。
「聞かせてくださいよ。先輩の本当の気持ち――君は、何をしたかったんだい?」
渡したくない。
全部あたしのものだ。
こんなことになったのも彼女のせいだ。
彼女が、全部あたしのものを壊していったんだ。
「あたしが……したい、こと」
いつの間にか目の前にいたまどかは、元の顔のない男の子に戻っていた。そして、蛇をかたどった装飾で縁取られた鏡をその手に、私に向けて問いかけて来る。
「もう一度聞くよ。何をしたいんだい?」
『わかっているわ、考えていること。だって、あたしだもん』
鏡の中のあたしが笑顔を向けて来る。その顔は、見たことが無いほどにどす黒い笑みだった。だけど、目を背けることができない。その言葉から耳をふさぐことができない。
『取り戻したいんでしょ。全てを』
「うん……取り戻したい」
できることなら昔みたいに皆で笑って、美味しいご飯を食べて……隣には海斗と美波んがいて。
『それを邪魔する奴は』
「……邪魔する奴は」
『いなくなればいい』
「いなくなればいい」
なんだ、簡単なことじゃないか。どうしてこんなに悩んでいたんだろう。
考え込むなんて柄じゃない。欲しいなら自分から動かなくちゃ手に入らないじゃないか。
「そう、それでいいんだよ」
男の子が笑う。あれほど不気味だと思っていた彼の言葉が、今では心地よく感じている。
「我慢する必要なんてない。思うまま、自分が欲しいものを手に入れればいい」
あたしの気持ちを分かってくれる。寄り添ってくれる。その言葉があたしの背を押してくれる。
「さあ、そんな君にはこれがお似合いだ」
あたしの目の前に不思議な形をした石が掲げられた。そこから黒い靄のようなものが立ち上っている。
「その闇、解放してあげるよ!」
「――――っ!」
石が強く輝いた。その途端、あたしの中で渦巻いていたどす黒いものが暴れ出す。
「うわああああーっ!」
あたしの中から何かが出ていく。男の子の笑い声もだんだん薄れていき、心が一つの感情で真っ黒に塗り潰されていく。
強まっていくのは――嫉妬。
「あはははは! さあ、第二幕の始まりだ!」
地位も名誉も愛情も全部あたしのものだ。
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「行けミサキ! 全てを壊してしまえ!」
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