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MASTERPIECE
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8月の日差しは、肌に痛みを感じるほどの熱と紫外線に湿度を混ぜ、容赦なく地表に振りまいていた。
今年は異常気象だという。気温が40度を超えているとニュースは報じていたが、百葉箱で40度なら、あたりの気温は普通に40度超えだ。
御陵佳樹は、コンビニ袋を片手に横断歩道で信号待ちをしながら、晴れ渡る夏空を忌々しく見上げた。
時間は午後1時過ぎ。中身は本日の昼食のサンドイッチにタバコ。それに缶コーヒー。
しかしこうも蒸し暑いと、会社に戻る前にサンドイッチが傷んでしまいそうだ。
目の前を車が通り過ぎる。その遙か先には、アスファルトに揺れる蜃気楼。遠くの山には入道雲がむくむくと湧き、青空を灰色に塗りつぶしながら、雲がこちらに迫ってくる。ゴロゴロと遠くで聞こえる雷の音。じき雨が降ってくるだろう。
この強い日差しでは、晴れていても天気はころころ変わる。大気の状態も不安定だ。
事務所はこの横断歩道を渡ってすぐ、歩けば3分もかからないのに、ここの信号は待ち時間が長く、3分なんて余裕でたってしまう。
湿気を含んだ暑さに汗が全身から吹き出す。素肌にシャツが貼りついて気持ち悪い。早くクーラーの効いたオフィスに戻りたい。
まだかまだかと信号を待っていると、不意に佳樹の左側に影ができた。
強い日差しが僅かに遮られて顔を向けると、そこにはかつての同僚――柏木優弥がいた。
シャツの袖をまくった彼の腕は陽に灼けていた。手首にはブルーが映える腕時計が男らしさを際だたせ、外回りが多いのか顔もこんがり焼けている。
短く揃えた髪は清潔感と爽やかさが溢れ、人懐っこい優しい笑顔も健在だ。
彼の勤務先は佳樹の会社の近くにあり、よく出くわすのだ。
彼はちょんちょんと佳樹のコンビニ袋を指さした。
「よ、今から昼飯?」
「うん」
「俺も今から昼飯なんだ。ほらそこ、横断歩道《ここ》渡った先のレストランでランチを食べようと思って」
「でもあそこ、オーダ―ストップが1時30分くらいじゃなかったっけ? 急がないと」
「うわマジかよ。昼飯なんてリーマンの唯一の楽しみなのに」
優弥が頭を抱える。
彼は生命保険の外交員だ。毎日契約取ったり、保険受け取りの手続きなんかが主な業務だが、意外にストレスフルで、唯一の楽しみはランチタイムだという。
優弥は3か月前まで、佳樹と同じ会社でシステムエンジニアとして働いていた。
優秀なエンジニアだったが、優弥は何を思ったのか、突然転職してしまった。
恐らく結婚でも視野に入れたのだろう。
システムエンジニアなんて、名前だけならスマートでカッコいいが、勤務時間も不規則で、意外に神経と体力をすり減らす職種だ。
優弥は短い構文で、最大の効果を発揮できる設計のセンスがあった。長い構文は処理に時間がかかるため、短いなら短いほど良い。
佳樹は優弥の作った土台を強化する役割を担っていた。
メンテナンスしやすくしたり、重要箇所には何重もの保険をかけたりもして、プログラムが仮に暴走しても、最低限の被害と改修ですむように育てあけるのが佳樹の役割だった。
取引先からも信頼が厚く、優弥と佳樹を名指しして仕事を頼むところも多かった。
阿吽の呼吸とでもいうのだろうか、なんとなく互いの事がわかってしまう。まるで熟年夫婦のような関係で、優弥と佳樹は手を取り合って開発を行い、常に最高傑作を世に送り出し、いろんな案件をクリアしてきた。
それは夫婦で大切な子供を産み育てる事に少し似ている。
優弥が退職して、佳樹ひとりで頑張っているが、なかなか優弥のようなスマートな構文を考えつけないでいる。
そんな折、生来の持病が悪化した。
佳樹は生後すぐに病気をして、腎臓の片方を取ってしまったが、残った方が最近になって悲鳴を上げ始めた。
最終的には腎移植とまで告げられたが、手術費用は高額だ。
そんなわけで今は、朝早く透析を受けてから、仕事をしているのだった。
「佳樹も忙しくなったんじゃないの? 最近はサイバー攻撃とか多いから、案件増えそうだよな」
言いながら優弥は佳樹の腰に手を回すと、そのまま強く引き寄せた。
「うわっ」
何するんだよと優弥を軽く窘めると、返事の代わりに彼は腰に回した腕に力を入れた。
「佳樹、おまえまた痩せたか?」
「変わんないよ。ちゃんと食べてる」
「いいや痩せた。忙しさにかまけて適当なメシしか食べてないだろ。顔色もすこぶる悪い」
「インドアだからね。体調不良はもはや職業病」
「そのくせタバコはやめないのか」
「これは俺の精神安定剤」
「だめだ、これは俺が預かる」
優弥は佳樹が持っているコンビニ袋に手を入れて、タバコを抜き出すと、自分のジャケットの内ポケットにしまう。
「タバコよりも飯を食え。俺はダチの葬式なんか出たくねえんだよ」
同じ信号待ちのOLたちが、このやりとりをみてクスクス笑っている。他人から見ても優弥のお節介は、まるで母親のように違いない。
そうこうしているうち、信号が青に変わる。今日は変わるのがいつにもまして長かった。
タバコ返せよ、いいやだめだと二人で掛け合い漫才のような会話をしながら横断歩道を渡っていると、すぐ後ろで女性の悲鳴が聞こえた。
「?」
その悲鳴の方に振り返った瞬間――。
「あぶない、佳樹!」
優弥の叫びと同時に、ドンという大きな音とともに強い衝撃に襲われ、直後に背を地面に叩きつけられた。息が止まるほどの激痛が全身を駆けめぐって、呼吸の仕方がわからない。
「う……」
横断歩道を渡っていただけなのに。
そういえば優弥は?
「ゆう、や……」
名前を呼ぶ。だが返事はない。
自分たちはどうなったんだ?
見覚えのあるスーツの色。自分の腹の上に乗る人型とその重みがおそらく彼のはずだ。
「優弥、優弥」
比較的自由に動く左手で揺さぶってみるが、やはり返事はない。なんだかあたりも薄暗い。血とオイルを混ぜたような臭いが、生ぬるい風に乗ってくる。
さっきの雨雲がこちらにたどり着いたのか、雷の音と救急車のようなサイレンの音が近くなった。
「優弥? 起きて、起きて……」
急激に眠気が襲い、視界が高速で黒く塗りつぶされていく。
「ゆ、う……」
もはや、声も出せない佳樹たちの上に、ぽつぽつと雨が降り始めた。
*****
意識が戻り、まず目に入ってきたのは、大きなマスクをした心配げな顔の母親だった。
母親の目が喜びに細くなり、そこから大粒の涙があふれ出ている。
元来、親は泣かないと思っていたが、母親は人目もはばからず、意識を取り戻した佳樹を見て「よかった」と何度も包帯が巻かれた佳樹の頭を撫でていた。
「俺、どうしたの……」
あの日、何があったか知りたかった。
それを母親に問うと、「事故よ。トラックにはねられたの」と教えてくれた。
トラックの運転手は携帯電話を操作しながら運転していた。目の前の信号が赤だと気づかず、ブレーキも掛けずに交差点に進入し、佳樹たちをはねた。
目撃者の話では、佳樹たちはボールのように激しく飛ばされたという。
「母さん、……優弥は?」
「優弥? もしかして…あなたと一緒にいた、同じ年くらいの男性?」
「そう、たぶん、そいつ……」
手を伸ばそうとして気づいた。包帯が巻かれた腕から伸びるたくさんのルート類。そしてなんだか腹も痛い。
麻酔が切れた時に少しずつくる、身体の内側から尖った物でザクザク刺されるような痛みに、佳樹は思わず顔をしかめた。
きっと事故の怪我だろう。
隣にいた優弥が、自分の腹に乗っかっていたくらいなのだから、肋骨とかが折れたのかも知れない。
その優弥は無事なのか。
「昔の同僚で……、一緒に……いたはずなんだ。優弥はどこ?」
「患者さんが多くてね……彼はここに運べなくて、違う病院にいるわ。大丈夫よ」
「うん……」
そうか。優弥は違う病院にいるのか。
無事だとわかってホッとする。
「ほら、まだ休んでいなくちゃ。お母さん、ずっとここにいるからね」
頭をなでる母親の手の温もりが心地よくて、佳樹はまた目を閉じる。
優弥より早く退院して、彼を驚かしてやろう。
あれほど佳樹の身体の弱さを心配していたくせに、優弥はまだベッドの上なのか?ってからかってやろう。彼の好きな洋菓子でも持って。
そのついでに設計のコツも聞いてやる。
そんなことを思いながら。
***
――2か月後。
退院した佳樹は、優弥の好きなフルーツロールと白いバラの花束を持って、優弥の家を訪れていた。
病院から出るのは、佳樹より優弥の方が圧倒的に早かったから、病院に冷やかしにも行けなかった。
夏の暑さも一段落してきた。佳樹が通された和室には爽やかな秋風が抜け、しまい忘れた軒の風鈴がちりんと涼し気な音を立てる。
「優弥、俺、無事に退院できたよ」
優弥はにこやかに笑っている。
「おまえより退院遅かったけど、無事に仕事復帰できた。もう身体も平気。また前のように働ける」
優弥は何も言わない。
――黒檀の仏壇に飾られた遺影。彼はそこで静かに笑っていた。
ダチの葬式なんか出たくないと佳樹からタバコを取り上げたくせに、先に逝くなんて思わなかった。
救急車が到着した時、優弥はほぼ即死状態で、病院に運ばれる途中、息を引き取った。
佳樹を庇うようにトラックの前に立ちはだかり、頭を強打したのが死因で、彼の端正な顔は酷く損傷していたという。
優弥の両親が悲しみに暮れる中、彼の持ち物の中にあった免許証入りのパスケース。その中に入っていた家族宛へのメモで、佳樹の運命が変わった。
『自分が死んだら、佳樹に腎臓をあげてほしい』
手紙には彼の自筆でそう書かれており、臓器提供の意思も、腎臓だけは佳樹に限りという条件付きながら、他の臓器にも提供の意思が示されていた。
現行では、家族以外には優先的に提供にならないが、優弥本人の意思は「腎臓だけは佳樹へ」という条件。
それさえクリアすれば、腎臓以外の臓器を待つ患者へ提供が出来る。
これが果たして有効かどうか議論されたが、優弥の両親が「息子の意思を尊重させたい」と、強く医師や関係者らに懇願した。
臓器摘出までの制限時間が迫る中、最終的に優弥の意思が尊重された。
臓器が摘出され、腎臓を除く彼の臓器は患者達の元へ。
かくて優弥の腎臓は、佳樹に無事に移植され、めきめきと回復していった。
退院目前のある日、母親が教えてくれた。
佳樹の身体の中に優弥がいると。優弥の腎臓が佳樹に移植されたのだと。
そして――彼はもういないのだと。
嘘だと思った。これは悪い夢なのだと。
突然の喪失感に襲われ、病室で泣き暮らした。
優弥のおかげで佳樹はこの先の命を繋ぐことが出来た。移植の拒絶反応もなく、佳樹の身体の中でしっかり動いている。
移植手術の経過観察で退院が遅くなったから、佳樹は優弥の葬儀には出られなかったけど、元気になった姿を優弥に見せたかった。
「佳樹君、今日はわざわざありがとう。身体は大丈夫?」
優弥の母親がお茶を持ってきた。自分の親と同じくらいの筈なのに、その目には隈ができ、ひどくやつれてしまっていた。
急に息子を事故で亡くして、優弥の母もまだ気持ちの整理がついていないのだろう。
それでも彼女は、しきりに佳樹の身体を心配していた。
「はい。優弥のおかげで」
いくら善意であるとしても、息子の身体を空にして天へ送る決断には、勇気が必要だっただろうに、佳樹を気遣ってくれるその優しさがつらい。
正座したまま深く彼女に頭を下げ、感謝を伝える。
「俺は優弥に助けてもらいました。本当に感謝しています」
「いいのよ」と彼女は微笑んだ。
「あの子の大切なお友達が助かったんだもの。あなたの身体の中にあの子がいる。最後にあの子の願いを叶えてあげられて良かった」
優弥の母は仏壇の引き出しを開け、白い封筒を取り出すと、佳樹に差し出した。
「あの子の部屋を整理していたら出てきたの」
几帳面な優弥らしく、しっかり封がされたその封筒は少し分厚い。かつて優弥と仕事をしていた時によく見た、右上がりの少し癖のある字で「佳樹へ」と書かれていた。
「開けても……いいですか?」
「ええ、どうぞ」
言われて佳樹は丁寧に封を切る。
中からは便箋と、3つ折の少し厚い紙。
横書きの便箋。びっしりと書かれた彼の気持ち。一体優弥は何を伝えようとしていたのか。
『男の俺から愛の告白をされるなんて、おまえは笑うか、それとも迷惑に思うだろうか』
口に出して言う勇気がないから手紙にしたと、そんな書き出しから始まる優弥の告白。
『いつも俺が望むことをやってくれるおまえに、心底惚れたって言ったら笑うんだろうな。何かの絆みたいなものを、佳樹にずっと感じていた』
……佳樹に惚れていた?
ずっと一緒に仕事をしていたけど、優弥はそんな素振りは全然見せず、むしろ仕事中は亭主関白かと思うほどの態度で佳樹に指示を出していた。他のスタッフにも素っ気なかったから、優弥と結婚する人は大変だなんて、社内で囁かれていたくらいだ。
『佳樹と一緒に肩を並べて仕事できることは俺の誇りだ。この先もずっと、おまえと一緒に仕事をしていたい。俺たちの作品をふたりで作り続けたい』
2人で開発を行っていた日々を思い出す。あの時は、あれがずっと続くと思って疑わなかったのに。
『だけど、俺はずっと知っていた』
何を優弥は知っていたんだ……?
『会社の女の子たちの噂話をこっそり聞いた。おまえの腎臓が片方しかなく、残った方もいずれ機能しなくなるかもしれないことを』
そういえば、ある日を境に口喧しくなった。
タバコだけでなく、食べ物にもあれこれうるさかったのを思い出す。定食のサラダにまで難癖を付ける徹底ぶりで、おまえは俺のオカンかと何度も優弥とぶつかった。
『時折、誰もいない給湯室で青い顔をしていても、ひとたび誰かに呼ばれたら、そんな辛さなんか絶対見せない。他の奴らを気遣いながら弱音も吐かず、仕事に打ち込むおまえは、凛として美しかった。自ら輝きを放ちながら咲き誇る、強くて優しい花のようなおまえが、ずっと好きだった』
身体が悪いのは致し方ないことだ。嘆いたって始まらないから、せめて回りに迷惑をかけないようにしていただけだ。
それに、おせっかいの優弥に余計な心配をかけたくなくて、彼には話さなかったのに、優弥ときたら、あれこれ佳樹に健康への注文を付けた。
だが、それも彼は佳樹の身体のことを知っていたからだ。今更になって彼の優しさに気づく。
こんなことになるなら、もっとちゃんと素直に言うことを聞いておけばよかった。
『考えたくもないけど、いつかは限界が来るんだろう? 出来ることなら今すぐ俺の嫁にして、楽させてやりたいんだけど』
嫁という文字にふっと口元が緩む。いったい何を考えてんだと突っ込む反面、そうなれたらどうだったかななんて妄想してしまい、赤面してしまう。
『俺が人生で初めて好きになった奴を、病気なんかに奪わせない。繋げる命なら、俺がその役目を果たす』
優弥の独白は続く。
『俺たちはいつだってふたりでひとつのものを作ってきた。俺が設計をし、おまえがダメな所を直して育てたシステムは俺たちの手を離れ、社会へ巣出っていった。俺にとってそれらは、おまえと育んだ大切な子どもと同じ、それが日本経済を支えてると思うと、俺はとても誇らしい気分だった。俺たちならなんでも産み出せる。でも俺と佳樹じゃ本物の子どもは作れない。だからその代わりにーー』
それはそうだ。いくらなんでも佳樹では命は育めない。
ーーその代わりって、なんだろう?
彼は何を佳樹に求めた?
その先が知りたい。
『俺の命の欠片を、おまえの身体でずっと育ててほしい』
――――命の……欠片?
『おまえを困らせたくないから、俺の愛を言葉にはしない。その代わり、おまえの命を繋ぐ手伝いをする。俺の腎臓、佳樹にやる。もし俺が死んでも必ずやる。俺は佳樹の全部を独占したい。だから、俺は佳樹の体内で、おまえを生かす核となる。何があっても必ずだ。俺が心底惚れた、おまえの活躍をずっと見ていたいから』
――――なんて告白だ。
『だから生きよう、佳樹。俺と一緒に。ずっと』
手紙はそう締められていた。
優弥はいつか佳樹に告白するつもりで手紙を書いたのだろう。
しかし、彼は佳樹を残して逝ってしまった。
だが、彼が描いた佳樹を救う術は、滞ることなく実行されている。
「まさか……」
移植は終わった。次は治療が待っている。
もしや――優弥は。
彼の予測が知りたくて、佳樹はあわてて手紙とともに入っていた3つ折の厚い紙を開く。
それは生命保険証書だった。
受取人は「御陵佳樹」。保険金額は1000万。
優弥は、佳樹にかかってくる負担のことまで考えていた。
「転職は……俺のため……?」
――俺を助けるために、治療方法を模索できる専門職に移ったのか…?
優弥は自らがドナーとなり、いずれ佳樹を説得するか、いよいよ限界だというときに自分の腎臓を片方提供するつもりだったのだろう。
だが万が一の事も想定して、せめて腎臓だけでも確実に佳樹に行くように手配をした。
生命保険会社に転職したのは、佳樹を救うため。
そこであれば、保険適用の医療がどの水準なのか、どれだけの費用がかかるのか、どんな保証が必要なのか、病気と闘うための調査や武器を揃えられる。
とりわけ移植の費用は莫大だ。健康保険が利いたとしても、手術そのものへの手出し、その後に飲む薬や通院代も、先が見えなければ額は青天井だ。
優弥はエンジニアを辞め、佳樹の命を繋ぐ手段を組み上げた。自分が死んでも、佳樹に対し、確実な実行とバックアップが得られるように。
それは、優弥が組んだ佳樹の命を維持するために動く最高傑作だ。
とてつもなく大きな愛を受け取っていたのだと、改めて知る。
「優弥……おまえカッコ良すぎだよ……」
優弥は常に学習や調査を怠らず、新技術を吸収していた。仕事もプライベートも、優弥になら安心して背中を預けられた。
ヘビースモーカーのくせに、佳樹の前では絶対にタバコを吸わず『自分も吸わないんだから、おまえも我慢しろ』といって佳樹からタバコを取り上げていた。
仕事をしている佳樹の肩に顎を乗せて、プログラムの動きを確認していたことを思い出す。
ずっと部屋から出ずキーボードばかり打っていると、なにやらおかしな疲労感に襲われる。
たまに背後からぎゅっと抱きしめられながら、熱っぽくかすれるような低い声で「佳樹、そこだ。…そう」と耳元で囁いて指示を出す優弥に心臓が震えた。
甘やかなその空気が、どこか心地よかった。
仕事のどさくさでのあの抱擁は、佳樹に好きだと言い出せなかった、彼の無言の独占欲。
商品テストの時も、彼はずっと佳樹の肩を抱き寄せ「あれは俺達の結晶だから、きっとやれる」と、子供を見守るように画面を見つめていた。
優弥の腕と、彼のフレグランスに包まれて、ずっとそうされていたかった。冗談めかして優弥の肩に頭を乗せ、甘えてみたりしたこともある。
佳樹を抱き寄せる腕の熱を、全身で感じたい。
それを優弥に伝えたら、きっと彼が困惑すると思って怖くて言い出せなかった。だから茶化して、優弥に惹かれる自分の気持ちにマスキングをかけたのだ。
こんな形で互いの気持ちを知るくらいなら――優弥に好きだって言えばよかった。
「優弥……ゆう、や……っ!」
彼の大きな愛が津波のように佳樹の感情を揺さぶり、嗚咽が止まらない。
優弥の選んだ愛は、佳樹のために自分の命と身体を分け与えること。
佳樹がずっと、先の未来を生きていくことこそが、彼の目的だった。
彼はその目的を達成させ、佳樹は今ここにいる。
「優弥……」
そっと腹に手を添える。この中で息づく彼を感じながらゆるゆると遺影に視線を移せば、優弥がそこで穏やかに笑っている。
だけど、彼がここにいない悲しみは耐え難くて、涙が止めどなく頬を伝う。
「おまえが生きたかった残りの命は、俺が継ぐ」
言い出せないままの想い。優弥が佳樹に残した命の欠片は、とてつもなく大きな愛。
その愛を背負う覚悟を、優弥の前で示す。
身体の中で息づく優弥に、佳樹は語りかける。
いつかきっと、空の上のおまえに会いに行く。
――――その時まで、俺と一緒に身体で生きていてくれ――――
=終=
今年は異常気象だという。気温が40度を超えているとニュースは報じていたが、百葉箱で40度なら、あたりの気温は普通に40度超えだ。
御陵佳樹は、コンビニ袋を片手に横断歩道で信号待ちをしながら、晴れ渡る夏空を忌々しく見上げた。
時間は午後1時過ぎ。中身は本日の昼食のサンドイッチにタバコ。それに缶コーヒー。
しかしこうも蒸し暑いと、会社に戻る前にサンドイッチが傷んでしまいそうだ。
目の前を車が通り過ぎる。その遙か先には、アスファルトに揺れる蜃気楼。遠くの山には入道雲がむくむくと湧き、青空を灰色に塗りつぶしながら、雲がこちらに迫ってくる。ゴロゴロと遠くで聞こえる雷の音。じき雨が降ってくるだろう。
この強い日差しでは、晴れていても天気はころころ変わる。大気の状態も不安定だ。
事務所はこの横断歩道を渡ってすぐ、歩けば3分もかからないのに、ここの信号は待ち時間が長く、3分なんて余裕でたってしまう。
湿気を含んだ暑さに汗が全身から吹き出す。素肌にシャツが貼りついて気持ち悪い。早くクーラーの効いたオフィスに戻りたい。
まだかまだかと信号を待っていると、不意に佳樹の左側に影ができた。
強い日差しが僅かに遮られて顔を向けると、そこにはかつての同僚――柏木優弥がいた。
シャツの袖をまくった彼の腕は陽に灼けていた。手首にはブルーが映える腕時計が男らしさを際だたせ、外回りが多いのか顔もこんがり焼けている。
短く揃えた髪は清潔感と爽やかさが溢れ、人懐っこい優しい笑顔も健在だ。
彼の勤務先は佳樹の会社の近くにあり、よく出くわすのだ。
彼はちょんちょんと佳樹のコンビニ袋を指さした。
「よ、今から昼飯?」
「うん」
「俺も今から昼飯なんだ。ほらそこ、横断歩道《ここ》渡った先のレストランでランチを食べようと思って」
「でもあそこ、オーダ―ストップが1時30分くらいじゃなかったっけ? 急がないと」
「うわマジかよ。昼飯なんてリーマンの唯一の楽しみなのに」
優弥が頭を抱える。
彼は生命保険の外交員だ。毎日契約取ったり、保険受け取りの手続きなんかが主な業務だが、意外にストレスフルで、唯一の楽しみはランチタイムだという。
優弥は3か月前まで、佳樹と同じ会社でシステムエンジニアとして働いていた。
優秀なエンジニアだったが、優弥は何を思ったのか、突然転職してしまった。
恐らく結婚でも視野に入れたのだろう。
システムエンジニアなんて、名前だけならスマートでカッコいいが、勤務時間も不規則で、意外に神経と体力をすり減らす職種だ。
優弥は短い構文で、最大の効果を発揮できる設計のセンスがあった。長い構文は処理に時間がかかるため、短いなら短いほど良い。
佳樹は優弥の作った土台を強化する役割を担っていた。
メンテナンスしやすくしたり、重要箇所には何重もの保険をかけたりもして、プログラムが仮に暴走しても、最低限の被害と改修ですむように育てあけるのが佳樹の役割だった。
取引先からも信頼が厚く、優弥と佳樹を名指しして仕事を頼むところも多かった。
阿吽の呼吸とでもいうのだろうか、なんとなく互いの事がわかってしまう。まるで熟年夫婦のような関係で、優弥と佳樹は手を取り合って開発を行い、常に最高傑作を世に送り出し、いろんな案件をクリアしてきた。
それは夫婦で大切な子供を産み育てる事に少し似ている。
優弥が退職して、佳樹ひとりで頑張っているが、なかなか優弥のようなスマートな構文を考えつけないでいる。
そんな折、生来の持病が悪化した。
佳樹は生後すぐに病気をして、腎臓の片方を取ってしまったが、残った方が最近になって悲鳴を上げ始めた。
最終的には腎移植とまで告げられたが、手術費用は高額だ。
そんなわけで今は、朝早く透析を受けてから、仕事をしているのだった。
「佳樹も忙しくなったんじゃないの? 最近はサイバー攻撃とか多いから、案件増えそうだよな」
言いながら優弥は佳樹の腰に手を回すと、そのまま強く引き寄せた。
「うわっ」
何するんだよと優弥を軽く窘めると、返事の代わりに彼は腰に回した腕に力を入れた。
「佳樹、おまえまた痩せたか?」
「変わんないよ。ちゃんと食べてる」
「いいや痩せた。忙しさにかまけて適当なメシしか食べてないだろ。顔色もすこぶる悪い」
「インドアだからね。体調不良はもはや職業病」
「そのくせタバコはやめないのか」
「これは俺の精神安定剤」
「だめだ、これは俺が預かる」
優弥は佳樹が持っているコンビニ袋に手を入れて、タバコを抜き出すと、自分のジャケットの内ポケットにしまう。
「タバコよりも飯を食え。俺はダチの葬式なんか出たくねえんだよ」
同じ信号待ちのOLたちが、このやりとりをみてクスクス笑っている。他人から見ても優弥のお節介は、まるで母親のように違いない。
そうこうしているうち、信号が青に変わる。今日は変わるのがいつにもまして長かった。
タバコ返せよ、いいやだめだと二人で掛け合い漫才のような会話をしながら横断歩道を渡っていると、すぐ後ろで女性の悲鳴が聞こえた。
「?」
その悲鳴の方に振り返った瞬間――。
「あぶない、佳樹!」
優弥の叫びと同時に、ドンという大きな音とともに強い衝撃に襲われ、直後に背を地面に叩きつけられた。息が止まるほどの激痛が全身を駆けめぐって、呼吸の仕方がわからない。
「う……」
横断歩道を渡っていただけなのに。
そういえば優弥は?
「ゆう、や……」
名前を呼ぶ。だが返事はない。
自分たちはどうなったんだ?
見覚えのあるスーツの色。自分の腹の上に乗る人型とその重みがおそらく彼のはずだ。
「優弥、優弥」
比較的自由に動く左手で揺さぶってみるが、やはり返事はない。なんだかあたりも薄暗い。血とオイルを混ぜたような臭いが、生ぬるい風に乗ってくる。
さっきの雨雲がこちらにたどり着いたのか、雷の音と救急車のようなサイレンの音が近くなった。
「優弥? 起きて、起きて……」
急激に眠気が襲い、視界が高速で黒く塗りつぶされていく。
「ゆ、う……」
もはや、声も出せない佳樹たちの上に、ぽつぽつと雨が降り始めた。
*****
意識が戻り、まず目に入ってきたのは、大きなマスクをした心配げな顔の母親だった。
母親の目が喜びに細くなり、そこから大粒の涙があふれ出ている。
元来、親は泣かないと思っていたが、母親は人目もはばからず、意識を取り戻した佳樹を見て「よかった」と何度も包帯が巻かれた佳樹の頭を撫でていた。
「俺、どうしたの……」
あの日、何があったか知りたかった。
それを母親に問うと、「事故よ。トラックにはねられたの」と教えてくれた。
トラックの運転手は携帯電話を操作しながら運転していた。目の前の信号が赤だと気づかず、ブレーキも掛けずに交差点に進入し、佳樹たちをはねた。
目撃者の話では、佳樹たちはボールのように激しく飛ばされたという。
「母さん、……優弥は?」
「優弥? もしかして…あなたと一緒にいた、同じ年くらいの男性?」
「そう、たぶん、そいつ……」
手を伸ばそうとして気づいた。包帯が巻かれた腕から伸びるたくさんのルート類。そしてなんだか腹も痛い。
麻酔が切れた時に少しずつくる、身体の内側から尖った物でザクザク刺されるような痛みに、佳樹は思わず顔をしかめた。
きっと事故の怪我だろう。
隣にいた優弥が、自分の腹に乗っかっていたくらいなのだから、肋骨とかが折れたのかも知れない。
その優弥は無事なのか。
「昔の同僚で……、一緒に……いたはずなんだ。優弥はどこ?」
「患者さんが多くてね……彼はここに運べなくて、違う病院にいるわ。大丈夫よ」
「うん……」
そうか。優弥は違う病院にいるのか。
無事だとわかってホッとする。
「ほら、まだ休んでいなくちゃ。お母さん、ずっとここにいるからね」
頭をなでる母親の手の温もりが心地よくて、佳樹はまた目を閉じる。
優弥より早く退院して、彼を驚かしてやろう。
あれほど佳樹の身体の弱さを心配していたくせに、優弥はまだベッドの上なのか?ってからかってやろう。彼の好きな洋菓子でも持って。
そのついでに設計のコツも聞いてやる。
そんなことを思いながら。
***
――2か月後。
退院した佳樹は、優弥の好きなフルーツロールと白いバラの花束を持って、優弥の家を訪れていた。
病院から出るのは、佳樹より優弥の方が圧倒的に早かったから、病院に冷やかしにも行けなかった。
夏の暑さも一段落してきた。佳樹が通された和室には爽やかな秋風が抜け、しまい忘れた軒の風鈴がちりんと涼し気な音を立てる。
「優弥、俺、無事に退院できたよ」
優弥はにこやかに笑っている。
「おまえより退院遅かったけど、無事に仕事復帰できた。もう身体も平気。また前のように働ける」
優弥は何も言わない。
――黒檀の仏壇に飾られた遺影。彼はそこで静かに笑っていた。
ダチの葬式なんか出たくないと佳樹からタバコを取り上げたくせに、先に逝くなんて思わなかった。
救急車が到着した時、優弥はほぼ即死状態で、病院に運ばれる途中、息を引き取った。
佳樹を庇うようにトラックの前に立ちはだかり、頭を強打したのが死因で、彼の端正な顔は酷く損傷していたという。
優弥の両親が悲しみに暮れる中、彼の持ち物の中にあった免許証入りのパスケース。その中に入っていた家族宛へのメモで、佳樹の運命が変わった。
『自分が死んだら、佳樹に腎臓をあげてほしい』
手紙には彼の自筆でそう書かれており、臓器提供の意思も、腎臓だけは佳樹に限りという条件付きながら、他の臓器にも提供の意思が示されていた。
現行では、家族以外には優先的に提供にならないが、優弥本人の意思は「腎臓だけは佳樹へ」という条件。
それさえクリアすれば、腎臓以外の臓器を待つ患者へ提供が出来る。
これが果たして有効かどうか議論されたが、優弥の両親が「息子の意思を尊重させたい」と、強く医師や関係者らに懇願した。
臓器摘出までの制限時間が迫る中、最終的に優弥の意思が尊重された。
臓器が摘出され、腎臓を除く彼の臓器は患者達の元へ。
かくて優弥の腎臓は、佳樹に無事に移植され、めきめきと回復していった。
退院目前のある日、母親が教えてくれた。
佳樹の身体の中に優弥がいると。優弥の腎臓が佳樹に移植されたのだと。
そして――彼はもういないのだと。
嘘だと思った。これは悪い夢なのだと。
突然の喪失感に襲われ、病室で泣き暮らした。
優弥のおかげで佳樹はこの先の命を繋ぐことが出来た。移植の拒絶反応もなく、佳樹の身体の中でしっかり動いている。
移植手術の経過観察で退院が遅くなったから、佳樹は優弥の葬儀には出られなかったけど、元気になった姿を優弥に見せたかった。
「佳樹君、今日はわざわざありがとう。身体は大丈夫?」
優弥の母親がお茶を持ってきた。自分の親と同じくらいの筈なのに、その目には隈ができ、ひどくやつれてしまっていた。
急に息子を事故で亡くして、優弥の母もまだ気持ちの整理がついていないのだろう。
それでも彼女は、しきりに佳樹の身体を心配していた。
「はい。優弥のおかげで」
いくら善意であるとしても、息子の身体を空にして天へ送る決断には、勇気が必要だっただろうに、佳樹を気遣ってくれるその優しさがつらい。
正座したまま深く彼女に頭を下げ、感謝を伝える。
「俺は優弥に助けてもらいました。本当に感謝しています」
「いいのよ」と彼女は微笑んだ。
「あの子の大切なお友達が助かったんだもの。あなたの身体の中にあの子がいる。最後にあの子の願いを叶えてあげられて良かった」
優弥の母は仏壇の引き出しを開け、白い封筒を取り出すと、佳樹に差し出した。
「あの子の部屋を整理していたら出てきたの」
几帳面な優弥らしく、しっかり封がされたその封筒は少し分厚い。かつて優弥と仕事をしていた時によく見た、右上がりの少し癖のある字で「佳樹へ」と書かれていた。
「開けても……いいですか?」
「ええ、どうぞ」
言われて佳樹は丁寧に封を切る。
中からは便箋と、3つ折の少し厚い紙。
横書きの便箋。びっしりと書かれた彼の気持ち。一体優弥は何を伝えようとしていたのか。
『男の俺から愛の告白をされるなんて、おまえは笑うか、それとも迷惑に思うだろうか』
口に出して言う勇気がないから手紙にしたと、そんな書き出しから始まる優弥の告白。
『いつも俺が望むことをやってくれるおまえに、心底惚れたって言ったら笑うんだろうな。何かの絆みたいなものを、佳樹にずっと感じていた』
……佳樹に惚れていた?
ずっと一緒に仕事をしていたけど、優弥はそんな素振りは全然見せず、むしろ仕事中は亭主関白かと思うほどの態度で佳樹に指示を出していた。他のスタッフにも素っ気なかったから、優弥と結婚する人は大変だなんて、社内で囁かれていたくらいだ。
『佳樹と一緒に肩を並べて仕事できることは俺の誇りだ。この先もずっと、おまえと一緒に仕事をしていたい。俺たちの作品をふたりで作り続けたい』
2人で開発を行っていた日々を思い出す。あの時は、あれがずっと続くと思って疑わなかったのに。
『だけど、俺はずっと知っていた』
何を優弥は知っていたんだ……?
『会社の女の子たちの噂話をこっそり聞いた。おまえの腎臓が片方しかなく、残った方もいずれ機能しなくなるかもしれないことを』
そういえば、ある日を境に口喧しくなった。
タバコだけでなく、食べ物にもあれこれうるさかったのを思い出す。定食のサラダにまで難癖を付ける徹底ぶりで、おまえは俺のオカンかと何度も優弥とぶつかった。
『時折、誰もいない給湯室で青い顔をしていても、ひとたび誰かに呼ばれたら、そんな辛さなんか絶対見せない。他の奴らを気遣いながら弱音も吐かず、仕事に打ち込むおまえは、凛として美しかった。自ら輝きを放ちながら咲き誇る、強くて優しい花のようなおまえが、ずっと好きだった』
身体が悪いのは致し方ないことだ。嘆いたって始まらないから、せめて回りに迷惑をかけないようにしていただけだ。
それに、おせっかいの優弥に余計な心配をかけたくなくて、彼には話さなかったのに、優弥ときたら、あれこれ佳樹に健康への注文を付けた。
だが、それも彼は佳樹の身体のことを知っていたからだ。今更になって彼の優しさに気づく。
こんなことになるなら、もっとちゃんと素直に言うことを聞いておけばよかった。
『考えたくもないけど、いつかは限界が来るんだろう? 出来ることなら今すぐ俺の嫁にして、楽させてやりたいんだけど』
嫁という文字にふっと口元が緩む。いったい何を考えてんだと突っ込む反面、そうなれたらどうだったかななんて妄想してしまい、赤面してしまう。
『俺が人生で初めて好きになった奴を、病気なんかに奪わせない。繋げる命なら、俺がその役目を果たす』
優弥の独白は続く。
『俺たちはいつだってふたりでひとつのものを作ってきた。俺が設計をし、おまえがダメな所を直して育てたシステムは俺たちの手を離れ、社会へ巣出っていった。俺にとってそれらは、おまえと育んだ大切な子どもと同じ、それが日本経済を支えてると思うと、俺はとても誇らしい気分だった。俺たちならなんでも産み出せる。でも俺と佳樹じゃ本物の子どもは作れない。だからその代わりにーー』
それはそうだ。いくらなんでも佳樹では命は育めない。
ーーその代わりって、なんだろう?
彼は何を佳樹に求めた?
その先が知りたい。
『俺の命の欠片を、おまえの身体でずっと育ててほしい』
――――命の……欠片?
『おまえを困らせたくないから、俺の愛を言葉にはしない。その代わり、おまえの命を繋ぐ手伝いをする。俺の腎臓、佳樹にやる。もし俺が死んでも必ずやる。俺は佳樹の全部を独占したい。だから、俺は佳樹の体内で、おまえを生かす核となる。何があっても必ずだ。俺が心底惚れた、おまえの活躍をずっと見ていたいから』
――――なんて告白だ。
『だから生きよう、佳樹。俺と一緒に。ずっと』
手紙はそう締められていた。
優弥はいつか佳樹に告白するつもりで手紙を書いたのだろう。
しかし、彼は佳樹を残して逝ってしまった。
だが、彼が描いた佳樹を救う術は、滞ることなく実行されている。
「まさか……」
移植は終わった。次は治療が待っている。
もしや――優弥は。
彼の予測が知りたくて、佳樹はあわてて手紙とともに入っていた3つ折の厚い紙を開く。
それは生命保険証書だった。
受取人は「御陵佳樹」。保険金額は1000万。
優弥は、佳樹にかかってくる負担のことまで考えていた。
「転職は……俺のため……?」
――俺を助けるために、治療方法を模索できる専門職に移ったのか…?
優弥は自らがドナーとなり、いずれ佳樹を説得するか、いよいよ限界だというときに自分の腎臓を片方提供するつもりだったのだろう。
だが万が一の事も想定して、せめて腎臓だけでも確実に佳樹に行くように手配をした。
生命保険会社に転職したのは、佳樹を救うため。
そこであれば、保険適用の医療がどの水準なのか、どれだけの費用がかかるのか、どんな保証が必要なのか、病気と闘うための調査や武器を揃えられる。
とりわけ移植の費用は莫大だ。健康保険が利いたとしても、手術そのものへの手出し、その後に飲む薬や通院代も、先が見えなければ額は青天井だ。
優弥はエンジニアを辞め、佳樹の命を繋ぐ手段を組み上げた。自分が死んでも、佳樹に対し、確実な実行とバックアップが得られるように。
それは、優弥が組んだ佳樹の命を維持するために動く最高傑作だ。
とてつもなく大きな愛を受け取っていたのだと、改めて知る。
「優弥……おまえカッコ良すぎだよ……」
優弥は常に学習や調査を怠らず、新技術を吸収していた。仕事もプライベートも、優弥になら安心して背中を預けられた。
ヘビースモーカーのくせに、佳樹の前では絶対にタバコを吸わず『自分も吸わないんだから、おまえも我慢しろ』といって佳樹からタバコを取り上げていた。
仕事をしている佳樹の肩に顎を乗せて、プログラムの動きを確認していたことを思い出す。
ずっと部屋から出ずキーボードばかり打っていると、なにやらおかしな疲労感に襲われる。
たまに背後からぎゅっと抱きしめられながら、熱っぽくかすれるような低い声で「佳樹、そこだ。…そう」と耳元で囁いて指示を出す優弥に心臓が震えた。
甘やかなその空気が、どこか心地よかった。
仕事のどさくさでのあの抱擁は、佳樹に好きだと言い出せなかった、彼の無言の独占欲。
商品テストの時も、彼はずっと佳樹の肩を抱き寄せ「あれは俺達の結晶だから、きっとやれる」と、子供を見守るように画面を見つめていた。
優弥の腕と、彼のフレグランスに包まれて、ずっとそうされていたかった。冗談めかして優弥の肩に頭を乗せ、甘えてみたりしたこともある。
佳樹を抱き寄せる腕の熱を、全身で感じたい。
それを優弥に伝えたら、きっと彼が困惑すると思って怖くて言い出せなかった。だから茶化して、優弥に惹かれる自分の気持ちにマスキングをかけたのだ。
こんな形で互いの気持ちを知るくらいなら――優弥に好きだって言えばよかった。
「優弥……ゆう、や……っ!」
彼の大きな愛が津波のように佳樹の感情を揺さぶり、嗚咽が止まらない。
優弥の選んだ愛は、佳樹のために自分の命と身体を分け与えること。
佳樹がずっと、先の未来を生きていくことこそが、彼の目的だった。
彼はその目的を達成させ、佳樹は今ここにいる。
「優弥……」
そっと腹に手を添える。この中で息づく彼を感じながらゆるゆると遺影に視線を移せば、優弥がそこで穏やかに笑っている。
だけど、彼がここにいない悲しみは耐え難くて、涙が止めどなく頬を伝う。
「おまえが生きたかった残りの命は、俺が継ぐ」
言い出せないままの想い。優弥が佳樹に残した命の欠片は、とてつもなく大きな愛。
その愛を背負う覚悟を、優弥の前で示す。
身体の中で息づく優弥に、佳樹は語りかける。
いつかきっと、空の上のおまえに会いに行く。
――――その時まで、俺と一緒に身体で生きていてくれ――――
=終=
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