クリスタライズ~ある狙撃手へのレクイエム~

浅倉優稀

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 この年は、例年にない大寒波が来るから雪が降ると母親のエリカが言っていた。「あなたのお誕生日のころは、雪遊びが出来るわね」と。

 しかし、それもいつの事だったか、思い出せない。

 ミズキは窓ひとつない、コンクリートの部屋に閉じ込められていた。天井から小さな裸電球が点るだけの部屋には、おもちゃもラジオも何もない。部屋の隅々まで明かりが行き渡っていないから、電球から離れたところは薄闇だ。暗いところは怖くてたまらない。
 時折聞こえる悲鳴にも似た誰かの声と、何かがぶつかるよう鈍い音。
 かすかに聞こえるそれは、寒さに震える幼心の恐怖を増大させていた。
 窓もないから今が昼なのか夜なのかもわからない。

 これがシチューの湯気ならどんないいいかと思うほど吐く息は白かった。
 セーターとジーパンを着てはいるが、部屋の中で過ごしていたから、コートなんかは持っていない。
 この程度の薄着で、五歳の幼い身体は底冷えする部屋の気温には抗えなかった。手足はかじかみ、歯根が合わずにガチガチと震える小さな身体は、完全に冷え切ってしまっていた。

 眠ろうとしても寒さで眠れない。この部屋に誰も来ないから、食事だってしていない。

 なんでもいいから、口に入れたかった。空腹と寒さ、そして淋しさと、このまま死んでしまうのではないかという不安と恐怖。
 優しい両親の顔を思い浮かべ、そのぬくもりを思い出しながら自分で身体を掻き抱いても、ちっとも暖かくなどならない。

 ひとつだけあるドアは外から施錠されている。開くだろうかと思って、ドアに近づいて金属製のドアノブをまわしたが、氷のような冷たさに驚いて、つい手を引っ込めてしまった。
 誰か来て、と声を上げてドアを叩いても、誰も来てくれない。
 恐怖と寒さが絡み合いながらミズキを支配していた。

「パパ……ママ……」

 部屋の隅で膝を抱いて座り、震える声で両親を呼ぶ。

「ぼく………ここにいるよ………パパ、ママ……。ぼくのところにきて………」

 それは昨日の夜だった。

 家の中で積み木遊びをしていたら、急に電気が消えた。
 停電と思う間もなく、ガラスが割れる音、そして家の中にたくさんの人間がなだれ込んできた。それは瞬間的で、ミズキは驚き、積み木を持ったまま暗闇の中で動けずにいた。
 家具や調度品が壊れる音に混じって母親の悲鳴が、そして父親が「逃げろ」と叫んでいたのは覚えている。

 暗闇の中でどうしていいかわからず、驚愕と恐怖に混乱していると、ひょいと身体が荷物のように担ぎ上げられた。

「やだぁっ! はなして!」
 泣き喚きながら足をばたばたさせて必死に抵抗をしてみたが、所詮は五歳児の抵抗に過ぎない。

「離して、離してよぅ! パパ! ママ! 助けて!」
 
 外に出された時、あたりは暗かった。目を凝らしても何も見えないのに、さらに袋のようなものを被せられた。
 苦しくて、しかもなんだか獣のような臭いが耐えられなくて、袋を取ろうとすると、「取ってはいけない」と、頬を張られ、袋をまた被せられる。
 そして、着いたところがこのコンクリートの部屋だった。

「パパママと大事な話がある。おまえはここで待っていなさい」

 ひとり部屋に放り込まれ、時間だけが過ぎてゆく。父親と母親がどうなったかなんて知らない。

 ただ急に大好きな両親と引き離されて、何も出来ないまま。

「パパ……ママ……。うっ、くっ……」

 会いたい。父親と母親に会いたい。

 今日はミズキの誕生日だというのに、こんな暗くて淋しい場所でたったひとりにされているなんて。

 両親のぬくもりを恋しがって啜り泣いていると、部屋のドアが開き、モスグリーンのロングコートを着た男が入ってきた。
 誰かが僕を迎えに来てくれた。

(へいたいさんだ……)

 母親からは「パパのお仕事の写真なんだから、絶対に見てはだめよ」と言われていた。父親が何の仕事をしているかなんて知らなかったが、他国へ出かけることが多く、そこで撮ったという写真をこっそり見たことがある。
 
 コンクリート製の大きな建物、戦車や飛行機、勇壮で格好いい兵士の写真を見るのが好きだった。
 その写真の中に、この兵士と同じ服装をした兵士や施設が写っていたのを覚えている。
 そう、その兵装は隣国・ディスタンシアの兵士の冬の装備だ。

 それをゆるゆると目で追っていると、男はミズキのそばで足を止めた。

 腰から拳銃を取り出し、銃口をミズキに向ける。

「立て」

 銃が自分を向いているなんて、怖くてたまらない。
 撃たれたら死んでしまう。

「立ちなさい」

 寒さも手伝ってガチガチ震えていると、男はもう一度ミズキに命令した。
 意を決してその場にゆっくりと立ち上がる。

 命の危険を察知し、心臓が早鐘を打つ。
 寒さ以上に本能的な恐怖に身体が小さくなる。 

「ミズキ・ブランケンハイム」

「……」

 名前を呼ばれたもの、喉が張り付いて声が出せない。怯えた子猫のようにミズキが身体を震わせていると、男は銃の撃鉄を下げた。

 シリンダーが回るのをみて、ミズキはさらに縮こまる。

「呼ばれたら返事をしなさい」

「は、はい……」

 全身の力を振り絞り、なんとか返事をすると、男は硬く冷たい声で言った。

「今からおまえに贖罪の機会を与える」

「しょくざい……?」

「おまえの両親に会わせてやると言っている」

「パパとママに……会わせてくれるの……?」

 男は頷いて「ああ」と答えた。

「ただし、私の言うことをちゃんと聞くいい子でいるなら、だ。どうだ、約束できるか?」

 会いたい。両親に会いたい。こんなに寒くて怖い思いなんかもうたくさんだ。この冷たく冷え切った身体を早く抱きしめてほしい。

 もう怖くないのだと。みんなで家に帰りたい。
 パパとママと一緒におうちに帰るんだ。

 ミズキがはいと頷くと、男はドアの外に顔を向け、顎をしゃくった。それを合図に、後ろ手に拘束された大人が二人入ってきた。突き飛ばされるように歩かされ、ミズキの前に立たされた二人は、紛れもなく自分の両親だ。

「パパ! ママ!」

「誰が近づいていいと言ったんだ」

 駆け寄ろうとしたミズキを、兵士は背後から抱きとめる。

「やだ、離して! ママ! パパ!」

「私の言うことを聞くいい子でいるのではなかったのか?」

「だって! だって!」

「あまりわがままを言うと、おまえをここに置いて、パパとママには帰ってもらうぞ。いいのか?」

 優しく諭され、ミズキは半べそをかきながら言われたとおりにする。
 そんな息子を見つめながら、母親が悲しげに微笑んだ。

「ミズキ……無事だったのね」

「ママ……僕、ここから出たい。もう帰ろう?」

「ごめんなさいね……。あなたに怖い思いをさせて」

「ママ……?」

「本当に……ごめんなさい、ミズキ。パパとママを許して」

 母親は力なく項垂れて、声を殺して泣いていた。

「ママ……」

 母親が泣くところなんて、今までに見たことがない。大人というものは、泣かないのだと思っていた。

 親子の感動の再会は、どうみても常軌を逸した異な光景だったが、両親はミズキ自身がけがをしていないことに安堵したようで、険しい表情が少しだけ緩んだ。

「今日はおまえの誕生日だったよな、ミズキ。こんなことになって……すまない」

 父親もまた睫を伏せ力なく謝罪するが、どうして父親と母親がこんな目に遭っているのか幼いミズキには理解できなかった。

 拘束されている両親、戸惑う息子。理解もできない、そしてかみ合わない感情と疑問が交錯する沈黙。
 それを破ったのは、軍靴の靴音だった。冷たく無機質な部屋に響く硬いその音は、怯えるミズキの傍らで止まる。尋常ならざる気配を感じ、ミズキは小さな身体をさらに縮こまらせる。

「ふ……っ」

 何かされるのかもと怯え、思わず悲鳴を上げそうになる口を両手で押さえた。いい子にしていると兵士と約束した。
 だからここで泣いちゃいけない。

 兵士はそのまま腰を折ると幼いミズキの頭に大きな手を乗せて、優しく撫でながら耳元でそっと囁いた。

「ミズキ、おまえの両親は悪いやつなんだ。わかるか、悪いことをした人間だ」

「悪い、こと……?」

 両親が悪いことをした? 悪い人間? 悪いことって何? いったいどうして?

 首を傾げるミズキに考える間も与えず、男はさらに続けた。

「そうだ。おまえの両親は、ディスタンシア国に入って、大事なものを盗んではクラリス国に渡していた、スパイと呼ばれる大悪党だ。盗んだものも返さない。盗んで誰に渡したかも言わない。それでたくさんの人が迷惑しているのに、涼しい顔で……とんでもない奴らだ」

「すぱ…い? 悪い人なの?」

「そうだ。悪い人だ。そしておまえの父親はこの私を……裏切った。嘘をつかれたんだ」

 腹の底の憎悪を抑え込むような低音で父親を断罪する兵士の眼光はギラリとして、触れただけで斬れてしまいそうな鋭い刃にも似た光を放っていた。
 静かなる怒りを持って、全ての恨みを父親にぶつけているような…そんな気さえする。

「うそ……?」

 母親からいつも言われている。「嘘をついてはいけません。嘘をつく子は悪い子よ」と。

「パパは……嘘つきなの?」

「ああそうだ。嘘つきの悪いやつだ」

 兵士は鷹揚に頷き、その大きな手でミズキの頭をくしゃりと撫でた。

「悪いことをした人間は、罰を受けなければならない。ここで罰を受けておかないと、世界中のみんなに指を指されて嫌われる。おまえはそうなりたいか?」

「……いやだ」

「そうだな。嫌われたくないな?」

 兵士はミズキに優しく接しているが、この状況とその優しさは、とてつもなく歪な空間を作り出していた。

 兵士は繰り返し「両親は悪い奴だ」と吹き込む。何度も何度も繰り返されると、兵士の言う事は正しいのだろうと思えてくるから不思議だ。

 両親が嘘つきの悪い人――今まで大好きだったはずのふたりが、なんだか違う人のように見えてくる。

「ミズキ……違うんだ。そのおじさんの言うことを聞いてはだめだ」

「ほらな。嘘つきはああやってすぐに誤魔化そうとするんだ」

 父親の必死の否定さえも、兵士は軽く受け流す。

 薄気味悪ささえ感じながらも、寒さと空腹が判断力を大きく鈍らせる。幼子の心は優しく諭すような誘導尋問に対して肯定の意思を示していた。むしろそうでなければいけない気がしていた。

 幸せだった日々が灰色に変わっていく。すべてが偽りだったのか……と。
 両親をじっと見つめるミズキの表情から息子の変化が――彼の幼い澄んだ瞳が、疑惑のガラスを通しているのが見て取れたのか、両親の表情が厳しく固まっていく。

 兵士はミズキの顎を指先でなぞる。寒さよりも冷たいその指の感触に心が凍りつく。拒否する事も身じろぎひとつすらかなわない。

「おまえはさっき、私の言う事をちゃんと聞くいい子でいると約束したな?」

 そうだ。両親に会わせてくれる代わりに、ちゃんと言うことを聞くと約束したのだ。

 ミズキが頷くと、男はミズキの手にピストルを握らせた。

 それはさっきまで、自分に向けられていたものだ。

 ピストルは冷たく、ズシリと重い。小さい幼児の手ではもてあましてしまうほどの鉄の凶器が人の命を奪うものだということくらい、ミズキにだって理解できる。

 これでいったいどうしろというのだろう。

「悪いことをしたおまえの両親を、おまえ自身が罰するんだ」

「……え?」

 罰する――その意味がわからなくて、ミズキは兵士にゆるゆると顔を向けた。

「これで、あの悪い人間を殺せ」 

 兵士が指差す先にいるのは、ミズキの両親だ。

「息子に人殺しなどさせるな! その子は何も知らない。何も関係ない! そもそも息子を傷つけないと約束したじゃないか! シュトラウス、君は約束を破るのか!」

「約束、か」

 シュトラウスと呼ばれた男は、ふっと薄く微笑んだ。

「忘れてはいないよ、ハイネ」

「息子だけは助けてくれると。だから私は君を信じた!」

「ああそうだったな。しかし騙されたのは私のほうだ。信頼を壊したのは君のほうだ」

「シュトラウス……」

「シュトラウス……か。君はもはや、私を名前では呼ばないのだな。実に他人行儀だ。もう私のことなど用済みか」

「聞いてくれシュトラウス、私は!」

「よくわかったよ。君と私の間には、信頼も愛情も、何もかもを遮断する壁があるのだと。その壁はハイネ、君が作ったんだ。私を遠ざけるために」

 シュトラウスは悲しげに微笑んだ。

「君がスパイなんかでなかったなら、私は自分の命を賭して君の大切な息子を守っただろう。しかしもはやそれは無理だ。君との愛は、全て嘘だった」

「シュトラウス!」

 悲痛な声を上げる父親を一瞥し、シュトラウスは視線を落とした。何かを懊悩した刹那、顔を上げた。

「スパイとの取引に、我々が本気で応じるとでも?」

 唇に酷薄な笑みが浮かんでいる。冷酷な兵士の仮面を付け直した彼の中で、全ての整理が付いたのだろう。

「シュトラウス……君は……っ」

「どの国でもそうだろう? 捕らえられたスパイの処遇など尋問の末、ゴミ同然の処理になる。だがおまえたちの場合は少々事情が異なる。おまえたちの息子のおかげでな」

「ミズキが……?」

「この子の瞳が、復讐を可能にさせる」 

突然背後から彼に顎を強くつかまれ、顔を無理矢理あげされられる。その力があまりにも強くて、痛さから逃れようとしてミズキは身を捩るが、彼はお構い無しだ。

「この子の瞳、異色光彩オッドアイだ。右はクラリス特有の蒼い瞳、左は東洋のリーベット特有の黒だ。たった一枚の薄いカラーコンタクトをこの子の目に入れるだけで、この子はどちらの人間にもなれる」

「――ミズキをどうするつもりだ」

 父親が低く唸るように訊ねると、シュトラウスはミズキの小さな顎を捉え、両親を正視させた。

「おまえたちが我がディスタンシアから多くのものを奪ったように、この子にもまたクラリスから多くのものを奪わせる。子供は親の仕事を受け継ぐもの。その輝かしい第一歩が、この子の手による、おまえたちの処刑だ」

「なんてこと……!」

 母親が泣き崩れる。シュトラウスは禍々しいほどの穏やかさでミズキの頭を優しく撫でた。

「ハナミズキは、かつては敵だった二つの国を結んだ、友好の証の花だ。その名を持つ少年が、同じように争い止まぬ二つの国の軋轢に巻き込まれていく。ハナミズキのようなその薄紅色の可憐な心も、やがて黒く染まることだろう。おまえたちに見せてやれないのが残念だが、あの世から息子の成長と転落を見守っているがいい。さあミズキ、待たせたな。いよいよおまえの出番だぞ」

 シュトラウスはピストルを持つミズキの小さな手の上から、自らのそれを重ねる。銃口を父親の頭にぴたりと定めた。

「さあミズキ、出来るな? さっき約束しただろう?」

「できな……」

 出来ない。出来るわけがなかった。だってそれは命を奪う道具。しかも両親を殺せだなんてそんな恐ろしい事など出来やしない。

 引き金を引いてしまったら、もう二度と両親には会えないのだ。

 ピストルを放り投げる事も許されないまま、ミズキは涙を流してしゃくりあげる。

「いやだ……僕、いやだ」

「やるんだ。そうでなければ、おまえも死ぬんだぞ」

「だったら……そのほうがいい……。僕はパパとママといっしょがいい……」

 幼子の切ない願いに、小さく掠れた声でシュトラウスが呟く。

「パパと一緒がいい……か」

 それはひどく悲しげだ。     。

 ミズキの手を包む、シュトラウスの大きな手の力が少しだけ緩む。

 ――だが。

「私を困らせるなど、いけない子だ」

 シュトラウスはやれやれといった体でクスッと笑うと、ミズキの手を包んだまま、引き金を引いた。

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