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#22 昏い影
#22 昏い影
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昼間の騒動の後片付けをしていたら疲れてしまった。
ミハイルは上級大将だというから、かなり上の地位だろうに、その私室に兵がなだれ込んでくるなんて思いもしなかった。
幸いにもグスタフと一緒に時間稼ぎをしているところに、ミハイルが戻ったので事なきを得たが、あのまま誰も戻ってこなければどうなっていたか……考えるだけでも寒気がする。
肉体よりも精神的に疲れてしまった。一区切りついて、ミズキはベッドの端に腰かけ、長いため息をつく。
「なんだよミズキ、目がとろんとしてるぞ。眠いのか?」
両手に辞書の様な重そうな本を数冊抱え、グスタフが笑う。
「まあいろいろあったよな、今日は」
「うん。疲れちゃった」
「ははっ、久しぶりの接敵だったろうしな。こんなの、あの雪の日以来じゃねえの?」
グスタフの言う「あの雪の日」は、ミズキが初めてミハイルと出会った日だ。
吹雪の中、ミハイルに銃口を向けたが、逆にスコープを通して存在を知られてしまい、ミズキはこうしてここにいる。
あれからどれくらい経ったのかわからないが、日に日に故郷を思い出す日は少なくなっていった。故郷で強いられた孤独や辛さを埋めてくれる人たちが、ここにいるからだ。
ミハイル、グスタフ、ジュリア。この3人がミズキの淋しさと辛さを取り去り、代わりにミズキかま知らないいろんなことを教えてくれた。
敵である自分に、掛け値なしの優しさをくれる人たちのおかげだ。
「僕、久しぶりにあんな目に遭ったから、どう動いていいか迷ったよ」
「ケンカはするつもりだったのか?」
「僕一人だけ怒られるのも嫌だもん」
道連れは多いほうがいいよね?と言うと、グスタフは声を上げて「違いねえ」と笑った。
「兄貴に一人で怒られるより、ミズキがいたほうが兄貴の怒り方も若干マイルドだ。被害は少なく、仲間は多く。だよな!」
「さすがグスタフ!」
「バカなことを言っていないでさっさと片付けなさい。そろそろジュリアが食事を持ってくる時間ですよ」
キャッキャッとはしゃいでいた二人に釘を刺したのはミハイルだ。
「ジュリアは私と違って、ミズキがいるからと容赦はしませんよ。ジュリアカスタムの餌食になりたいのですか」
私は嫌ですよと言いながらミハイルはほうきでごみを集めている。
「私もお腹がぺこぺこです。ジュリアが来る前に夕食の準備を終わらせますよ」
「はぁーい」
二人でのんびりした返事をミハイルに返した直後、ドアがノックされた。
「ほら、きっとジュリアですよ。グスタフ、テーブルクロスを持ってきて。ミズキ、すみませんがドアを開けてジュリアを手伝ってください」
「はーい」
言われてドアを開けると、そこにはパンの入ったかごや鍋を持ったジュリアが立っていた。
「こんばんは、ジュリア」
「……こんばんは、ミズキ」
「ジュリア?」
いつもなら挨拶もそこそこにミズキに鍋を持たせながら、ミハイルとグスタフにあれこれ指示を飛ばすのに、今日のジュリアはなんだか元気がなさそうだ。
「ジュリアどうしたの? 具合でも悪いの?」
今日のジュリアはやや俯き加減だ。下から覗き見れば、彼女の瞳は精彩を欠いている。
「ジュリア?」
「なんでもないよ。ミズキ、いつも通りこれをテーブルに持って行ってくれるかい?」
「うん」
大きな鍋からいい香りがする。この香りはトマトのスープだ。数日前に初めて食べて、おいしかった逸品。ミネなんとかっていう名前だと教えてもらったが、おいしさの方が勝って名前を覚えられなかった。
また食べたいものはジュリアが帰るときにこっそりと「おいしかったから、また作って」とお願いしている。子どもみたいにメニューの催促なんて、ミハイルやグスタフの前で言うのは、少し恥ずかしい。
今日もそんなミズキの願いを彼女は覚えていてくれたのだ。
「僕、もうお腹ペコペコだよ。今日はいろいろ忙しくて、グスタフもミハイルも早くご飯が食べたいって、ずっとジュリアを待ってたんだよ」
「そう…かい」
「ジュリア?」
やはり今日の彼女は何かおかしい。彼女は自分の店だってあるし、その仕事の合間を縫ってこうして食事を持ってきてくれているのだから、疲れているのかもしれない。
そんなことを考えて、ふと今までジュリアに言い忘れていたことがあると気づき、ミズキは鍋を持ったまま、ジュリアに頭を下げる。
「ジュリア、いつもごめんね。そしてありがとう」
「……え?」
ジュリアが弾かれたように顔を上げる。
「ミズキ……?」
「僕、毎日ジュリアのごはん、楽しみにしているんだ。それなのに、ジュリアにちゃんとお礼を言ったことなかったなって……」
もう一度ありがとうと言うと、ジュリアはばつが悪そうに顔をそむけた。
「バッ、バカだね、この子は。あたしにそんな遠慮はいらないよ」
「でもどこの誰かわからない僕にこんなに親切にしてくれるなんて、お礼を言わなきゃバツが降ってくるよ」
「それを言うなら『バチが当たる』だよ。バツが降ってきてどうするんだよ」
「それもそうだね」
物を知っているふりをしてどや顔した自分が恥ずかしい。ミズキはテーブルに小走りして鍋を置くと、そそくさとキッチンに食器を取りに行く。
ジュリアは人を馬鹿にするタイプの人じゃないけれど、これがグスタフとミハイルならお腹を抱えて大笑いしているに決まっている。
キッチンに行くと、そこではグスタフがカトラリー類をまとめているところだった。
食事の準備となると、グスタフの動きは流れるように無駄がない。これを軍務に活かせないものかと、ミハイルが頭を抱えているのをグスタフは知らない。
「ミズキ、これ。テーブルに」
「う、うん」
「顔が赤いぞ。なんだ、具合でも悪いのか」
「そうじゃないけど……」
グスタフが見てわかるほどか。無知の恥ずかしさからくる熱は、どんどん上昇を続け、今すぐにでもベッドにもぐりたいくらいだ。
「ミズキ、気分が悪いなら無理しなくていいぞ。座ってろ」
「そういうわけにもいかないよ」
自分はここでは単なる居候。それを言おうとしたとき、グスタフがニヤリと笑った。
「そうだな、メシだもんな。具合が悪いとか言ってられねぇよな」
「ふえっ?」
「おまえ、ジュリアのメシ、大好きだもんな。俺、こう見えても人の動きはよく見る方なんだぜ。ミズキがジュリアにこっそり耳打ちすると、だいたいすげえごちそうが出てくる」
「そそそ、そんなことないよ」
取り繕おうとして、言葉を噛んでしまう。それを見て、グスタフがにやぁっと笑う。
「ガキだな、ミズキ。だがそれは末っ子の特権だ」
「僕、一人っ子だよ」
「ここじゃ俺と兄貴、そしてジュリアがいるんだ。おまえは末っ子みたいなもんだ。ジュリアも兄貴も、おまえがかわいくて仕方ないんだろうさ。俺とミズキじゃ、扱いが明らかに違う」
ばれてる! ああもう、こっそりお願いしていたはずなのに。
心の中で頭を抱える。
グスタフにばれているなら、きっとミハイルにだってばれている。
「ぼ、僕、ミハイル手伝ってくる!」
これでも一応軍人なのに、子ども扱いされて恥ずかしすぎる。
火照る頬を押さえながらグスタフから受け取ったカトラリーをテーブルに置き、ミハイルのところに行くと、彼は掃除を終えたところだった。
腰のあたりをとんとん叩きながら「ああ疲れた」とため息をついていたが、ミズキを見るとにっこり笑った。
「どうしました、ミズキ?」
「なにかお手伝いしようかと思って……」
「おやおや、おりこうさんですね」
ミハイルに訊くと、彼はミズキの頭を撫で、ぽてっと赤く染まった頬にキスをした。
「それよりも早く食事にしましょう。今日はミズキの好きなミネストローネですもんね。ジュリアにお願いしたんでしょう? 早く食べたいって顔をしていますよ?」
――やはりばれてる。
これじゃまるで、本当に子供と同じだ。
「ぼ、僕、別にお腹すいてないもん。ちゃんと待てるもん」
口をとがらせてぷいと顔を背けると、ミハイルがクスっと笑った。
「それは子どもの拗ね方ですよ、ミズキ。さあさあ私と一緒にテーブルに行きましょう」
ミハイルはミズキを抱き寄せながら、テーブルに向かう。
テーブルではジュリアが皿にスープをよそっていた。
「わあ……!」
真っ赤なトマトのスープをみてミズキは思わず声を上げた。
「おいしそう!僕が食べたかったの、これだよ!」
すでに席に着いたグスタフがニヤニヤ笑ってミズキを見ている。
「よかったなぁミズキ。おまえの好物が今日もたくさん並んでいるぜ?」
「まったく、ジュリアはミズキのリクエストばかりでメニューを決めるんですから。少しは私たちのリクエストも聞いてくれていいのではありませんか?」
ミハイルとグスタフが抗議すると、ジュリアはふんと顔をそむけた。
「あんたたちは好き嫌いなしの雑食だろ。何を食わせても、食うことに一生懸命でおいしいの一言も言わない。その点、ミズキは素直だよ。おいしいって言われるのは最高のご褒美だからね。だからミズキには何でもしてやりたくなるのさ」
「ちっ、ミズキずりー。抜け駆けは卑怯だぞ」
「ジュリア、ミズキにえこひいきが過ぎるんじゃ?」
「うるさいねあんたたちは。おかずを一品減らすか、あんたたちが『絶対に食べたくないほどの大好物』でご飯を作ろうか?」
「それはまずい」
「私たちが危機的状況に陥ります」
兄弟は並んでぶんぶんと頭を横に振る。
「わかったんなら、ミズキにつまんない言いがかりをつけるんじゃないよ」
ミズキはその寸劇を横で見ていて笑っていたが、やはりどうもジュリアに元気がない。
沈んだその瞳の奥に、何か昏いものが見える。
それはかつて、地下室でミズキを激しく詰って、快楽の拷問を与えたシュトラウスにどこか似ている。
彼がいつもそうだった。ミズキを口汚く罵って後ろから容赦なく犯し、意識も身体も蕾も男たちの凶棒と体液でドロドロになる様を愉しげに見つめているのに、その瞳の奥は常にどこか昏かった。何を考えているのかなんて、快楽に溶けてしまえば考えられるわけもないから、その理由はわからないままだ。
今のジュリアの目は、かつてのシュトラウスと――同じだ。
戦争は終わって、ミズキはクラリスに留め置かれているままだ。
シュトラウスは未だ帰ってこないミズキを心配してくれているのか、もう帰ってこない者だとあきらめたのか。
ジュリアにも、もしかしたら待つ人がいて、その心配が大きくなっているのかもしれない。
とはいえ、どこか何かが引っ掛かる。
この昏い光は、常にマイナスの騒動しか引き寄せない。
ジュリアに対する違和感を覚えながら、ミズキはテーブルに座った。
*****
そこはいつもの食卓だった。
ミハイルとグスタフとミズキにジュリア。テーブルの上にはジュリアが腕を振るった料理が並ぶ。ミハイルとグスタフの兄弟がおかずの取り合いをしているのはいつものことで、そのたびにジュリアは腰からスッとジュリアカスタムを抜き、兄弟たちを沈黙させていた。
いつもの食卓。いつものシーン。
だがやはり、そこになにか違うものがある。
ミズキは夕食を終えた後、キッチンで食器を洗っているミハイルにそっと駆け寄った。
グスタフとジュリアは残り物を小皿に分けている。あれが明日のミズキの朝ごはんになる。ジュリアはミズキの好きな物ばかり作ってくるので、必然的について余った物もミズキの物になるのだった。
ちらりとジュリアとグスタフに視線をやる。あの二人に聞かれたくない。彼らが作業に夢中なのを確認し、ミズキはミハイルの前に立った。
「あのミハイル、お願いがあります」
「おやミズキ、かしこまって。どうしましたか?」
スポンジを持って、両手を泡だらけにしたミハイルが聞き返す。
「ジュリア、もう少ししたら帰っちゃいますよね?」
「そうですね。ここに泊まらせるわけにはいきませんから」
「僕、ジュリアをお見送りしてきていいですか? そこの通りまで」
「見送り? なぜ?」
ミハイルは手を止めないまま、ミズキを凝視する。
「あなた、囚われの身ですよ。それなのに外に出せと?」
「わかっています。でもジュリアとお話がしたくて」
「おかずのリクエストならさっさとなさい。それとも彼女相手に脱走計画でも練るつもりですか?」
「そうじゃなくて」
「では、なぜ」
「ジュリアが元気なさそうだから……僕、励ましたくて」
「ほう?」
ミハイルはそこでやっと手を止めた。
「ジュリアが元気ないとはどういうことです?」
「見た目は普通に見えるんです。でもなんというか、何とも言えないんだけど……」
そう、どう言ったらいいのかわからない。ミズキが直感的に感じるこの「ひっかかり」を何とか伝えたいのに、言葉が出ない。
ここから逃げ出すつもりもないが、疑われるのも嫌で、あれこれ説明してみる。が、どうもそれも言い訳みたいになってしまう。
ミハイルはミズキの話をじっと聞いていたが、何か思う事でもあったようだ。泡だらけの手を水で流すと、そばのタオルで手を拭きながら「ふむ」と唸る。
「なるほど。あなたは優しいですね」
「なら、行っていい?」
「いけません」
「どうして」
「ここに連れてきた最初の日に私は言いませんでしたか? ここは兵士たちの持っているセキュリティチップと常に交信を行っていると。チップを持っていないあなたがゲートをくぐれば、それこそ大変だ」
「でもジュリアは来れるじゃないですか、外部の人なのに」
「ジュリアがここを通れるのは、クラリスの陸軍上級大将の娘で、私の兄の妻だったからです。彼女は家族用のセキュリティチップを持っています。だから義弟である私の部屋まで来ることは可能ですが、軍部の機密がある施設へは入れない」
「なるほど、そっかぁ……」
しゅんと項垂れて、ミズキは「ごめんなさい」と謝った。確かに罪人の身で外に出せとは、些かわがままが過ぎた。
「でも僕、ジュリアが気になるよ」
「奇遇ですが、私もあなたと同意見です」
「ええっ!?」
驚いた。テーブルでのミハイルはいつも通り、グスタフといかのフリッターをめぐって熾烈な攻防戦に夢中だったはずなのに、よくジュリアのことを見ていたものだ。
「さすが黒衣の悪魔ですね、ちゃんと周囲に目を配ってる」
言った後でけなしてしまったかと謝ろうとしたミズキに、ミハイルは両腕を肩の位置まであげ、やれやれとばかりに首を横に振った。
「困ったことに人を観察するのは職業病なのです。ついでにジュリアは何かあると、攻撃の手数が少なくなります。今日、私とグスタフが夕食のフリッターを巡って騒いでいたにも関わらず、ジュリアは獲物を取り出す仕草をみせただけでしょう? あと、わずかな時間ですが、一点をずっと見つめることがある。あれは彼女が発する救難信号なのですよ」
確かにジュリアは口に出して何も言わない。
身内ばかりの席で気持ちも身体も力が抜けてると思っていたのに、こんな時でも気を抜かずにいるミハイルの観察力には恐れ入る。
「ですがミズキ、あなたも人のことは言えないのですよ?」
「僕?」
「ええ、私はたまにあなたを連れてジュリアの店に行きますが、あなたも周囲をよく観察していらっしゃる。町を行く人、自分に向けられた人の視線、町の風景。自分に置かれたすべての情報を記憶し始めるその美しいオッドアイが、スッと切れ味を帯びるのです。それはとても静かにね。普段のあなたは可憐だが、ひとたび狙撃手のスイッチが入ったあなたは――」
不意にミハイルの顔が迫ってきて、ミズキは思わず目を閉じた。自らの唇に当てられる熱。彼の唇だと思ったときには、すでに唇の隙間からミハイルの舌が入ってくる。
「ん、ふ……んっ……」
「――とても美しい。その瞳は、まるで氷の女王のように冷たく残酷で気高くすらある」
そのまま顎を掴まれ、顔を上に向けさせられる。ミハイルの舌がさらに奥に進入してきて、粘膜を愛撫される気持ちよさに、身体の力が抜けてしまいそうになる。
溺れたい。このまま……
「ん、はぁっ……」
「ミズキ……」
ミハイルがさらに深く口づけてくる。ついに両脚の力が抜けた瞬間、
「おっと危ない」
ミハイルの腕がミズキをしっかり抱きとめた。
離れた唇が、名残惜しい。
「もっとキスしていたかったですか、ミズキ?」
「こんなところで……」
あの二人に感づかれたらどうしよう。ミハイルとキスしてるなんてところを見られたら、笑い事じゃすまなくなるのに。
「もう一人の危険なあなたが目を覚ましかけていますね、あの二人がいるので、これ以上はやめておきましょう」
「え……?」
「目がとろんとしています。それ以上その瞳で見つめられたら、私はたぶん我慢できない」
「そんな……」
言葉の意味を察して、恥ずかしくなる。キスひとつで身体が疼くほど、自分は物欲しそうな顔をしていたのだろうか。彼の唇が触れていた場所をそっと指でふれる。
ミハイルからもらったキスは――嫌じゃなかった。
むしろ、そのままの時間が続けばいいと思ったなんて、絶対言えない。
「あーにきー、あ、ミズキとなんの悪だくみだよ。イタズラすんなら、俺も仲間に入れてくれよ」
気がついたらグスタフがキッチンのそばの壁からひょいと顔を出している。
「グスタフ、ここはまだ軍の施設内ですよ。兄貴、ではないでしょう? 公私混同はいけませんよ」
ミハイルが軽く咎めると、グスタフはぷぅっと頬を膨らませた。
「いーじゃん。仕事はもう終わったし。あとは帰って寝るだけなんだから」
グスタフに、キスを見られたかと思ったが、どうもグスタフは「ジュリア帰るってよー」と二人を呼びにきただけのようだった。
「ほらミズキも見送りしろよ。ジュリアにゴマすっとかねえと、ごちそうが出てこないぜ?」
見ればグスタフは既にコートを羽織り、こちらも帰る準備をしている。
「じゃあ兄貴、俺、ジュリア送ってく」
「ええ、頼みますよ。ジュリアカスタムが彼女の手にある限り、あなたが手を出すまでもないと思いますが、一応ジュリアを守ってくださいね?」
「まかせろっ」
グスタフはミハイルに最敬礼をとる。
「一応、守るぜ!」
「ええ、お願いしますよ」
「じゃ俺達帰るわ。ジュリア、忘れ物は?」
グスタフが首だけ回してジュリアに訊くと、ジュリアは首を横に振った。
「……ないよ」
「よし、帰るか」
グスタフが玄関へと先に立ち、ジュリアがそのあとを少し遅れてついて行く。
「ジュリア、そのカゴ、俺が持つよ」
「グスタフ……」
「遠慮すんなって。ほら貸しな?」
グスタフが振り向いて、後ろのジュリアに手をさしのべた瞬間。
大きな音とともにドアが激しく開き、部屋の電気が消えた。
「ちょっ、なんだ?!」
間髪入れず多数の足音。
「あの戦犯を捕らえろ!」
部屋になだれ込んだ、自分たち以外の人間がミズキを捜して走り回っている。
ミズキは暗闇に神経を集中させ、自分に延びる手をはたき落とす。
「ミハイル! ミハイルどこ?!」
漆黒の闇が壁を作る部屋の中、ミズキはミハイルの名を呼ぶ。彼のそばにいれば、この事態を打開できる気がした。
「ミハイル!」
だがミズキが声を出せば、この部屋になだれ込んだ刺客の手が延びる。
「異色光彩の狙撃手はそっちだ!」
相手は暗視装置でもつけているのか、ミズキに向かって襲いかかってくる。狭い部屋のなかでは動きづらく、突破口さえ見つけられない。
「ミズキ! 黙って! あなたの声を頼りに彼らは場所を狭めます! 黙って逃げ回りなさい!」
「でも!」
「シュトラウス隊長のスキルを持っているあなたなら、この暗闇でも動けるはずです!」
「おじさんの……?」
確かに暗闇時の動き方は知っている。相手が闇に紛れていてもミズキの狙撃銃は、確実にターゲットを仕留めてきた。
だがそれは、狙撃手として、対象に全神経を集中させているときだ。
こんな混乱の中では……しかも何人もいるこの状況では……
「相手がナイトスコープを装着していても、身軽なあなたなら、彼らを翻弄できるでしょう?」
「そんな……っ!」
「重装備兵が束でかかっても、あなたならクリアリング突破できる。グスタフから聞きましたよ」
「ええっ?!」
やはりミハイルという人はどこか無茶だ。
だけどその無茶は、ミズキなら出来ると彼が信じている証だ。
暗闇の中で混乱だけが激しい渦を巻く。自分の立ち位置がどんどん狭まる。突然の来襲者は、ゆっくりとだが確実にミズキを追いつめていた。
ミハイルの部屋にはミズキがいるため、昼間でも遮光カーテンを閉めているから、室内は本当に真っ暗闇だ。徐々にその闇の中で蠢く物が見えてくる。それは本当にぼんやりとした塊のようだ。
襲い来る塊を避け続け、ついにミズキは窓際に追い詰められた。
「ミハイル! もう逃げ場所ないよ! 後ろはもう窓だよ!」
「なら飛び降りなさい!」
「ええっ?!」
ミハイルはなんと言った?
飛び降りろ?
ここは確か、確か……建物の3階のはず。
自分の聞き違いか。こんなところから飛び降りたら、絶対に無事ではすまない。前に、死んだと思っていたグスタフを追って飛び降りたから、既に経験済みだ。
この状況、どうすれば?
「連中の狙いはあなたです! あなたがいなくなれば、彼らに隙が出来る! 植え込みに飛び降りなさい! すぐにあなたの後を追います!」
「でもっ……!」
「早く!」
もう考えている時間もない。ミズキは後ろのガラスを軽くたたく。手に伝わるガラスは氷が入っているのかと思うほど冷たい。
ガラスがこれなら、きっと外だってものすごく寒いに決まってる。
飛び降りたらどうする? セキュリティチップを持っていない自分は、どこに逃げても居場所を特定されてしまう。
しかし逆に考えれば、それはつねにミハイルやグスタフに居場所を知らせることになる。
(絶対にミハイルは来てくれる…!)
腹は決まった。
ミズキは腕で顔を守ると、そのまま勢いよくガラスに飛び込んだ。バリン!と耳障りな音を立て、砕けたガラスとともにミズキの身体が外へ飛び出す。
瞬間、全身が冷気に包まれた。心臓が鷲掴みにされるような強烈な寒さに、身体が急激に冷えて萎縮する。
ふわりと身体が宙を舞い、次の瞬間、バキバキと枝が折れる音、全身を切り裂かれるような痛みと激しい衝撃に襲われた。
うまく植え込みに飛び込めたが、その枝や葉で洋服や皮膚を切り裂いたのだろう。地面への激突の衝撃は前よりはマシだったものの、傷ついた皮膚を寒風が撫でる冷たさは、まるで刃のように鋭く痛い。
「いった……」
ここから逃げないと。キリキリ動けよと身体に無理やり言い聞かせ、よろよろと立ち上がる。
クラリスの軍用犬は鼻が良い。ミズキがケガをしていれば、そのわずかな血の臭いを感知してやってくる。既に遠くで犬が吠え始めている。
どっちにしろ、ミハイルがくるまで時間を稼ぐためには、グズグズしていられなかった。
昼も襲撃に遭い、そしてまた。
間髪入れずに襲ってきた連中はクラリス軍の兵士達だろうが、ミズキに用があるなら、それなりの手順を踏めばいいのに、どうして闇討ちまがいのことをするのか。
「今は逃げなくちゃ……」
時間を稼いで、ミハイルと合流する。
とにかく彼のそばにいなければ。
走り出そうと踏み出したとき、ミズキの目の前に白くまぶしい壁が現れた。いくつものスポットライト。その光源が、まっすぐミズキに向いている。
「うわっ……!」
光に目を射られ、眩しくてたまらない。
まともに目を開けていられなくて、腕で光を遮っていると、光の中に影が見えた。それはゆっくりとこちらに近づいて来る。
「なに……?」
目を細めて光の中心を見つめていると、その影が声を発した。艶のある低い、年配の男性の声だ。
「やっと見えることが出来て嬉しいよ。ミズキ・ブランケンハイム殿」
「誰……?」
直感的に敵対心を感じ、ミズキは身構える。
「姿をちゃんと見たのはこれが初めてだが……なるほど、君は確かに美しいな。目元なんか特に、絢爛たる美貌だった君の父親にそっくりだ」
「……」
「だが、君の方がハイネよりは優しい顔をしているな。ハイネに可憐さを足したら君になる」
「あなたは誰? この襲撃の首謀者ですか?」
「首謀者?」
影は「意外」だという風に驚いた。
「人聞きが悪いな。そもそもブライデン上級大将が、さっさと君を裁かないから、こういう面倒なことになっているのに」
いったいこの人は誰だ。ミハイルが何かしたのか。
面倒なことってなんだ?
ライトの光がまぶしすぎて、思わず目をぎゅっと閉じると、いきなり腕を捕まれた。
「改めて自己紹介しよう。私はクラウス。海軍上級大将だ」
「クラウス……? 海軍大将…?」
「よろしくな、スナイパー殿」
クラウスが光を遮っているおかげで、ミズキは初めて自分を襲った賊の顔を見た。
上級大将なら、ミハイルのカウンターパートになるのに、クラウスはミハイルよりかなり年上の男だ。そう……壮年のアルベルトに年が近そうにみえた。
よく手入れされた長い髭、筋骨隆々の身体、顔にはいくつもの傷は、彼の戦いの歴史を物語っているようだ。
節くれだった太い指。それがミズキの左腕をガッチリ掴んでいる。下手に抵抗すれば、このまま腕をへし折られてしまいそうだ。
「なぜこんな真似を? あなたも上級大将なら、それなりの手順を踏めばよかったのではありませんか?」
「ほう? それはどういうことだ?」
「こんなやり方、卑怯だ」
「卑怯? 面白いことを言う」
クラウスはミズキの腕をつかんだまま、そのまま前を向かせた。
「つっ……!」
後ろ手にされ、腕を捻られる痛みに唇を噛む。
「離せよっ……!」
「戦犯のくせに離せ、だと?」
クラウスは喉の奥で笑うと、ミズキを拘束する腕の力をさらに強め、耳元で囁いた。
「本当に貴様は面白いな。貴様を本来の処遇として扱っているだけだ。離す気もなければ、貴様をここから生かして出す気もない」
クラウスの言葉に獰猛さが増した。ついさっきまでは「私」といい、紳士的な態度だった。
だけど今は――。
「あ、ぐ……」
ミズキを心の底から憎悪する、その黒くドロドロした感情が容赦ない力となって、ミズキの腕を締め上げてくる。
「くぅ……」
骨がギリギリ軋む。肩が外れるんじゃないかと思うほどの痛さに呻いたが、クラウスは力を緩めてはくれず、それどころか少しずつ少しずつ力を強めながら、ミズキの耳元で囁いた。
「貴様とはゆっくりと話をしたいと思っていた」
「それは……どうも……」
「貴様と楽しい時間を過ごしたくてな。だがミハイルの奴がどうしても邪魔だ。今の俺は容赦せん。邪魔が入るなら、遠慮なく排除させてもらう。たとえそれが陸軍のトップでもな」
「ミハイルを……?」
いったい何をする気なんだ。
「貴様が協力的ないい子でいるなら、ミハイルには何もしない。だが、貴様が逆らうようであれば……」
ミズキの脇腹に硬い物が当てられた。
「容赦なくあいつを無力化させてもらうだけだ。貴様がミハイルにどれほど可愛がられたか、たっぷりと確認させてもらうぞ。なに、時間はある」
「ミハイルを……撃つんですか……。あなたたちは仲間じゃないんですか」
「仲間だからこそだ」
「言ってることがわからないんですが?」
「貴様に詳しく説明する必要はない。覚悟しておけ戦犯。では尋問室にご案内しよう」
どんと背中を叩かれ、歩けと命じられる。その時だ。
「ミズキ!」
聞きなれた声に呼ばれ、ミズキが声のした方に反応する。
どこだ、この声の人はどこにいる。
「ミズキ! どこに行くんですか!」
自分はここにいると。彼に届くように、ミズキは力の限りその人の名を呼んだ。
「ミハイルー!」
助けに来てくれた――。
それだけでほっと安堵する。
「ちっ、邪魔が入ったな。あいつはしつこすぎる」
クラウスは舌打ちをし、ミズキを拘束したまま振り返ると、ミズキのこめかみに銃を当てた。
「陸軍大将殿、そこまでだ」
クラウスの大音声に、ミハイルの動きが止まった。
「そこから一歩も動くな。動けばこの戦犯をここで処刑する」
その瞳がミズキに向けられる。瞬間、ミハイルはこの状況に目を瞠った。
「ミズキを……どうするおつもりですか」
「ブライデン上級大将、貴様が戦犯に会わせてくれないので、こちらから会いに来てやった」
「別に会いに来てくれなんて、頼んだ覚えはありません。それにその戦犯は、私の管理下に置かれています。さっさとこちらに引き渡してもらおう」
「残念だが、それはこちらの取り調べがすんでからだ」
「――取り調べ?」
ミハイルが怪訝そうに問い返す。
「何の取り調べですか。彼の要人殺害の案件であれば私が――」
「そうじゃない。こやつ、そこの植え込みにひとりっきりでいたんだ。陸軍大将の管理下に置かれている戦犯が、なんの監視もなくたった一人で敷地内にいた。これはもう脱走していたとしか思えない」
「違う!」
たまらず叫んだのはミズキだ。
「僕は脱走なんかしていない! そもそもはあなたたちが――」
「うるさいな、貴様は」
途端、頭に重い痛みが走った。
「少し黙っていろ」
視界が揺さぶられ、温かいものが髪を伝って地面に落ちる。それは赤い雫だ。ハンドガンのグリップで思いきり頭を叩かれたせいで、頭皮を切ったのだろう。それはぽたりぽたりと徐々に速度を速め、ミズキの足元を赤く彩っていく。
クラウスは、激痛に項垂れたミズキの髪をわしづかみにし、無理やり顔を上げさせる。そのおかげで頬にも血の筋が伝った。
「くっ……」
「ふふ、顔をあいつにみせてやれ」
この痛みに呻く姿をミハイルに見せつけるようにして、クラウスは目を細めた。
「おお、こんなに出血して。痛そうだなぁ、戦犯」
ミズキを思いやる気持ちなんかさらさらないくせに、気の毒そうな顔でミズキの頬を流れる血を舌で舐めとる。なめくじのような舌の感触が気持ち悪い。顔を背けようとすると、クラウスは頬から首筋へと舌先を這わせてくる。
「い、やぁ……っ! やめっ……!」
ミハイルにこんな姿、見られたくない。
他の男の舌が、自分の身体を這うところなど。
だがクラウスは、嫌がるミズキの血の筋を舌でなぞりながら、静かなる怒りを噴出させているミハイルを挑発にかかった。
「たまたま私が見つけたからいいようなものの、これが公になればブライデン大将、貴様も懲罰は免れないぞ」
「違う! あなたたちが僕たちを襲ったんじゃないか! ミハイルは何も悪くない!」
「敵国の大将に向かってずいぶんフレンドリーな呼び方をするじゃないか? あいつは黒衣の悪魔、普通の戦犯ならもう生きていないはずだというのに」
「彼はちゃんと軍法に法って僕を拘束している。闇討ちするようなあなたたちとは違う!」
「言ってくれるな……貴様」
「ぐっ……」
また頭に衝撃が走り、今度は思い切り舌を噛んだ。口の中に広がる血の味が気持ち悪いのと、ミハイルを陥れようとしているクラウスへの憎悪が湧く。
「頭骨をこのまま叩き割ってやろうか、小僧……」
「それで気がすむなら……いくらでもやれっ!」
ありったけの侮蔑をクラウスにぶつける。
「おまえたちはディスタンシアの町や村をことごとく焼き払った! 一般の住民に対して、生きたまま火炎放射器を浴びせた! おかげさまで僕の故郷は瓦礫が積みあがる灰色の廃墟だ! 僕は国民の怨嗟を背負って、おまえたちにその痛みを思い知らせていただけだ!」
腹の奥から激しい感情を吐き出し、ミズキは肩で息をつく。
「だけどあなたたちは、敵である僕だけでなく、ミハイルにも危害を加えようとしている。こんな将校しかいないなら、もっともっと数を減らしておけばよかった」
「数を減らす……? どういうことだ、狙撃手」
「あなたも含め、クラリス人を地獄に送っておけばよかったって言ってるんだ!」
言ったあとではっとした。
眼前には、全身を震わせ、苦し気に眉根を寄せるミハイルがいた。
彼を傷つけるつもりは毛頭なかった。
このミズキの叫びは、おそらく彼のナイーブな部分を突き刺したのだろう。ミハイルが苦しそうな顔をしているのはきっとそのせいだ。家族を失ったときの恨みや悲しみが一気に噴出して、一度ならず、二度までも彼を辛い思いをさせているに違いない。
(ミハイル、ごめんなさい……)
これで彼も、「本来の彼」に戻る。黒衣の悪魔と呼ばれ、恐れられる彼に。
間違ってももう、ミハイルがミズキに優しさをかけることなどないだろう。
ミハイルは、あれほどミズキに優しく接してくれたのに。
こんなところで激情と苦痛に流されて、言葉で彼を痛めつけてしまった自分が厭になる。
せめて、彼とは――仲良くしていたかった。
ミハイルを嫌いになんてなれない。そして同様に、嫌われたくもない。
急激に恐怖が胸を覆い、ミズキの目から涙が零れ落ちた。
「ミハイル……」
その涙は、死への恐怖の涙ではない。
彼を失う怖さが生み出す涙だった。
ミハイルは上級大将だというから、かなり上の地位だろうに、その私室に兵がなだれ込んでくるなんて思いもしなかった。
幸いにもグスタフと一緒に時間稼ぎをしているところに、ミハイルが戻ったので事なきを得たが、あのまま誰も戻ってこなければどうなっていたか……考えるだけでも寒気がする。
肉体よりも精神的に疲れてしまった。一区切りついて、ミズキはベッドの端に腰かけ、長いため息をつく。
「なんだよミズキ、目がとろんとしてるぞ。眠いのか?」
両手に辞書の様な重そうな本を数冊抱え、グスタフが笑う。
「まあいろいろあったよな、今日は」
「うん。疲れちゃった」
「ははっ、久しぶりの接敵だったろうしな。こんなの、あの雪の日以来じゃねえの?」
グスタフの言う「あの雪の日」は、ミズキが初めてミハイルと出会った日だ。
吹雪の中、ミハイルに銃口を向けたが、逆にスコープを通して存在を知られてしまい、ミズキはこうしてここにいる。
あれからどれくらい経ったのかわからないが、日に日に故郷を思い出す日は少なくなっていった。故郷で強いられた孤独や辛さを埋めてくれる人たちが、ここにいるからだ。
ミハイル、グスタフ、ジュリア。この3人がミズキの淋しさと辛さを取り去り、代わりにミズキかま知らないいろんなことを教えてくれた。
敵である自分に、掛け値なしの優しさをくれる人たちのおかげだ。
「僕、久しぶりにあんな目に遭ったから、どう動いていいか迷ったよ」
「ケンカはするつもりだったのか?」
「僕一人だけ怒られるのも嫌だもん」
道連れは多いほうがいいよね?と言うと、グスタフは声を上げて「違いねえ」と笑った。
「兄貴に一人で怒られるより、ミズキがいたほうが兄貴の怒り方も若干マイルドだ。被害は少なく、仲間は多く。だよな!」
「さすがグスタフ!」
「バカなことを言っていないでさっさと片付けなさい。そろそろジュリアが食事を持ってくる時間ですよ」
キャッキャッとはしゃいでいた二人に釘を刺したのはミハイルだ。
「ジュリアは私と違って、ミズキがいるからと容赦はしませんよ。ジュリアカスタムの餌食になりたいのですか」
私は嫌ですよと言いながらミハイルはほうきでごみを集めている。
「私もお腹がぺこぺこです。ジュリアが来る前に夕食の準備を終わらせますよ」
「はぁーい」
二人でのんびりした返事をミハイルに返した直後、ドアがノックされた。
「ほら、きっとジュリアですよ。グスタフ、テーブルクロスを持ってきて。ミズキ、すみませんがドアを開けてジュリアを手伝ってください」
「はーい」
言われてドアを開けると、そこにはパンの入ったかごや鍋を持ったジュリアが立っていた。
「こんばんは、ジュリア」
「……こんばんは、ミズキ」
「ジュリア?」
いつもなら挨拶もそこそこにミズキに鍋を持たせながら、ミハイルとグスタフにあれこれ指示を飛ばすのに、今日のジュリアはなんだか元気がなさそうだ。
「ジュリアどうしたの? 具合でも悪いの?」
今日のジュリアはやや俯き加減だ。下から覗き見れば、彼女の瞳は精彩を欠いている。
「ジュリア?」
「なんでもないよ。ミズキ、いつも通りこれをテーブルに持って行ってくれるかい?」
「うん」
大きな鍋からいい香りがする。この香りはトマトのスープだ。数日前に初めて食べて、おいしかった逸品。ミネなんとかっていう名前だと教えてもらったが、おいしさの方が勝って名前を覚えられなかった。
また食べたいものはジュリアが帰るときにこっそりと「おいしかったから、また作って」とお願いしている。子どもみたいにメニューの催促なんて、ミハイルやグスタフの前で言うのは、少し恥ずかしい。
今日もそんなミズキの願いを彼女は覚えていてくれたのだ。
「僕、もうお腹ペコペコだよ。今日はいろいろ忙しくて、グスタフもミハイルも早くご飯が食べたいって、ずっとジュリアを待ってたんだよ」
「そう…かい」
「ジュリア?」
やはり今日の彼女は何かおかしい。彼女は自分の店だってあるし、その仕事の合間を縫ってこうして食事を持ってきてくれているのだから、疲れているのかもしれない。
そんなことを考えて、ふと今までジュリアに言い忘れていたことがあると気づき、ミズキは鍋を持ったまま、ジュリアに頭を下げる。
「ジュリア、いつもごめんね。そしてありがとう」
「……え?」
ジュリアが弾かれたように顔を上げる。
「ミズキ……?」
「僕、毎日ジュリアのごはん、楽しみにしているんだ。それなのに、ジュリアにちゃんとお礼を言ったことなかったなって……」
もう一度ありがとうと言うと、ジュリアはばつが悪そうに顔をそむけた。
「バッ、バカだね、この子は。あたしにそんな遠慮はいらないよ」
「でもどこの誰かわからない僕にこんなに親切にしてくれるなんて、お礼を言わなきゃバツが降ってくるよ」
「それを言うなら『バチが当たる』だよ。バツが降ってきてどうするんだよ」
「それもそうだね」
物を知っているふりをしてどや顔した自分が恥ずかしい。ミズキはテーブルに小走りして鍋を置くと、そそくさとキッチンに食器を取りに行く。
ジュリアは人を馬鹿にするタイプの人じゃないけれど、これがグスタフとミハイルならお腹を抱えて大笑いしているに決まっている。
キッチンに行くと、そこではグスタフがカトラリー類をまとめているところだった。
食事の準備となると、グスタフの動きは流れるように無駄がない。これを軍務に活かせないものかと、ミハイルが頭を抱えているのをグスタフは知らない。
「ミズキ、これ。テーブルに」
「う、うん」
「顔が赤いぞ。なんだ、具合でも悪いのか」
「そうじゃないけど……」
グスタフが見てわかるほどか。無知の恥ずかしさからくる熱は、どんどん上昇を続け、今すぐにでもベッドにもぐりたいくらいだ。
「ミズキ、気分が悪いなら無理しなくていいぞ。座ってろ」
「そういうわけにもいかないよ」
自分はここでは単なる居候。それを言おうとしたとき、グスタフがニヤリと笑った。
「そうだな、メシだもんな。具合が悪いとか言ってられねぇよな」
「ふえっ?」
「おまえ、ジュリアのメシ、大好きだもんな。俺、こう見えても人の動きはよく見る方なんだぜ。ミズキがジュリアにこっそり耳打ちすると、だいたいすげえごちそうが出てくる」
「そそそ、そんなことないよ」
取り繕おうとして、言葉を噛んでしまう。それを見て、グスタフがにやぁっと笑う。
「ガキだな、ミズキ。だがそれは末っ子の特権だ」
「僕、一人っ子だよ」
「ここじゃ俺と兄貴、そしてジュリアがいるんだ。おまえは末っ子みたいなもんだ。ジュリアも兄貴も、おまえがかわいくて仕方ないんだろうさ。俺とミズキじゃ、扱いが明らかに違う」
ばれてる! ああもう、こっそりお願いしていたはずなのに。
心の中で頭を抱える。
グスタフにばれているなら、きっとミハイルにだってばれている。
「ぼ、僕、ミハイル手伝ってくる!」
これでも一応軍人なのに、子ども扱いされて恥ずかしすぎる。
火照る頬を押さえながらグスタフから受け取ったカトラリーをテーブルに置き、ミハイルのところに行くと、彼は掃除を終えたところだった。
腰のあたりをとんとん叩きながら「ああ疲れた」とため息をついていたが、ミズキを見るとにっこり笑った。
「どうしました、ミズキ?」
「なにかお手伝いしようかと思って……」
「おやおや、おりこうさんですね」
ミハイルに訊くと、彼はミズキの頭を撫で、ぽてっと赤く染まった頬にキスをした。
「それよりも早く食事にしましょう。今日はミズキの好きなミネストローネですもんね。ジュリアにお願いしたんでしょう? 早く食べたいって顔をしていますよ?」
――やはりばれてる。
これじゃまるで、本当に子供と同じだ。
「ぼ、僕、別にお腹すいてないもん。ちゃんと待てるもん」
口をとがらせてぷいと顔を背けると、ミハイルがクスっと笑った。
「それは子どもの拗ね方ですよ、ミズキ。さあさあ私と一緒にテーブルに行きましょう」
ミハイルはミズキを抱き寄せながら、テーブルに向かう。
テーブルではジュリアが皿にスープをよそっていた。
「わあ……!」
真っ赤なトマトのスープをみてミズキは思わず声を上げた。
「おいしそう!僕が食べたかったの、これだよ!」
すでに席に着いたグスタフがニヤニヤ笑ってミズキを見ている。
「よかったなぁミズキ。おまえの好物が今日もたくさん並んでいるぜ?」
「まったく、ジュリアはミズキのリクエストばかりでメニューを決めるんですから。少しは私たちのリクエストも聞いてくれていいのではありませんか?」
ミハイルとグスタフが抗議すると、ジュリアはふんと顔をそむけた。
「あんたたちは好き嫌いなしの雑食だろ。何を食わせても、食うことに一生懸命でおいしいの一言も言わない。その点、ミズキは素直だよ。おいしいって言われるのは最高のご褒美だからね。だからミズキには何でもしてやりたくなるのさ」
「ちっ、ミズキずりー。抜け駆けは卑怯だぞ」
「ジュリア、ミズキにえこひいきが過ぎるんじゃ?」
「うるさいねあんたたちは。おかずを一品減らすか、あんたたちが『絶対に食べたくないほどの大好物』でご飯を作ろうか?」
「それはまずい」
「私たちが危機的状況に陥ります」
兄弟は並んでぶんぶんと頭を横に振る。
「わかったんなら、ミズキにつまんない言いがかりをつけるんじゃないよ」
ミズキはその寸劇を横で見ていて笑っていたが、やはりどうもジュリアに元気がない。
沈んだその瞳の奥に、何か昏いものが見える。
それはかつて、地下室でミズキを激しく詰って、快楽の拷問を与えたシュトラウスにどこか似ている。
彼がいつもそうだった。ミズキを口汚く罵って後ろから容赦なく犯し、意識も身体も蕾も男たちの凶棒と体液でドロドロになる様を愉しげに見つめているのに、その瞳の奥は常にどこか昏かった。何を考えているのかなんて、快楽に溶けてしまえば考えられるわけもないから、その理由はわからないままだ。
今のジュリアの目は、かつてのシュトラウスと――同じだ。
戦争は終わって、ミズキはクラリスに留め置かれているままだ。
シュトラウスは未だ帰ってこないミズキを心配してくれているのか、もう帰ってこない者だとあきらめたのか。
ジュリアにも、もしかしたら待つ人がいて、その心配が大きくなっているのかもしれない。
とはいえ、どこか何かが引っ掛かる。
この昏い光は、常にマイナスの騒動しか引き寄せない。
ジュリアに対する違和感を覚えながら、ミズキはテーブルに座った。
*****
そこはいつもの食卓だった。
ミハイルとグスタフとミズキにジュリア。テーブルの上にはジュリアが腕を振るった料理が並ぶ。ミハイルとグスタフの兄弟がおかずの取り合いをしているのはいつものことで、そのたびにジュリアは腰からスッとジュリアカスタムを抜き、兄弟たちを沈黙させていた。
いつもの食卓。いつものシーン。
だがやはり、そこになにか違うものがある。
ミズキは夕食を終えた後、キッチンで食器を洗っているミハイルにそっと駆け寄った。
グスタフとジュリアは残り物を小皿に分けている。あれが明日のミズキの朝ごはんになる。ジュリアはミズキの好きな物ばかり作ってくるので、必然的について余った物もミズキの物になるのだった。
ちらりとジュリアとグスタフに視線をやる。あの二人に聞かれたくない。彼らが作業に夢中なのを確認し、ミズキはミハイルの前に立った。
「あのミハイル、お願いがあります」
「おやミズキ、かしこまって。どうしましたか?」
スポンジを持って、両手を泡だらけにしたミハイルが聞き返す。
「ジュリア、もう少ししたら帰っちゃいますよね?」
「そうですね。ここに泊まらせるわけにはいきませんから」
「僕、ジュリアをお見送りしてきていいですか? そこの通りまで」
「見送り? なぜ?」
ミハイルは手を止めないまま、ミズキを凝視する。
「あなた、囚われの身ですよ。それなのに外に出せと?」
「わかっています。でもジュリアとお話がしたくて」
「おかずのリクエストならさっさとなさい。それとも彼女相手に脱走計画でも練るつもりですか?」
「そうじゃなくて」
「では、なぜ」
「ジュリアが元気なさそうだから……僕、励ましたくて」
「ほう?」
ミハイルはそこでやっと手を止めた。
「ジュリアが元気ないとはどういうことです?」
「見た目は普通に見えるんです。でもなんというか、何とも言えないんだけど……」
そう、どう言ったらいいのかわからない。ミズキが直感的に感じるこの「ひっかかり」を何とか伝えたいのに、言葉が出ない。
ここから逃げ出すつもりもないが、疑われるのも嫌で、あれこれ説明してみる。が、どうもそれも言い訳みたいになってしまう。
ミハイルはミズキの話をじっと聞いていたが、何か思う事でもあったようだ。泡だらけの手を水で流すと、そばのタオルで手を拭きながら「ふむ」と唸る。
「なるほど。あなたは優しいですね」
「なら、行っていい?」
「いけません」
「どうして」
「ここに連れてきた最初の日に私は言いませんでしたか? ここは兵士たちの持っているセキュリティチップと常に交信を行っていると。チップを持っていないあなたがゲートをくぐれば、それこそ大変だ」
「でもジュリアは来れるじゃないですか、外部の人なのに」
「ジュリアがここを通れるのは、クラリスの陸軍上級大将の娘で、私の兄の妻だったからです。彼女は家族用のセキュリティチップを持っています。だから義弟である私の部屋まで来ることは可能ですが、軍部の機密がある施設へは入れない」
「なるほど、そっかぁ……」
しゅんと項垂れて、ミズキは「ごめんなさい」と謝った。確かに罪人の身で外に出せとは、些かわがままが過ぎた。
「でも僕、ジュリアが気になるよ」
「奇遇ですが、私もあなたと同意見です」
「ええっ!?」
驚いた。テーブルでのミハイルはいつも通り、グスタフといかのフリッターをめぐって熾烈な攻防戦に夢中だったはずなのに、よくジュリアのことを見ていたものだ。
「さすが黒衣の悪魔ですね、ちゃんと周囲に目を配ってる」
言った後でけなしてしまったかと謝ろうとしたミズキに、ミハイルは両腕を肩の位置まであげ、やれやれとばかりに首を横に振った。
「困ったことに人を観察するのは職業病なのです。ついでにジュリアは何かあると、攻撃の手数が少なくなります。今日、私とグスタフが夕食のフリッターを巡って騒いでいたにも関わらず、ジュリアは獲物を取り出す仕草をみせただけでしょう? あと、わずかな時間ですが、一点をずっと見つめることがある。あれは彼女が発する救難信号なのですよ」
確かにジュリアは口に出して何も言わない。
身内ばかりの席で気持ちも身体も力が抜けてると思っていたのに、こんな時でも気を抜かずにいるミハイルの観察力には恐れ入る。
「ですがミズキ、あなたも人のことは言えないのですよ?」
「僕?」
「ええ、私はたまにあなたを連れてジュリアの店に行きますが、あなたも周囲をよく観察していらっしゃる。町を行く人、自分に向けられた人の視線、町の風景。自分に置かれたすべての情報を記憶し始めるその美しいオッドアイが、スッと切れ味を帯びるのです。それはとても静かにね。普段のあなたは可憐だが、ひとたび狙撃手のスイッチが入ったあなたは――」
不意にミハイルの顔が迫ってきて、ミズキは思わず目を閉じた。自らの唇に当てられる熱。彼の唇だと思ったときには、すでに唇の隙間からミハイルの舌が入ってくる。
「ん、ふ……んっ……」
「――とても美しい。その瞳は、まるで氷の女王のように冷たく残酷で気高くすらある」
そのまま顎を掴まれ、顔を上に向けさせられる。ミハイルの舌がさらに奥に進入してきて、粘膜を愛撫される気持ちよさに、身体の力が抜けてしまいそうになる。
溺れたい。このまま……
「ん、はぁっ……」
「ミズキ……」
ミハイルがさらに深く口づけてくる。ついに両脚の力が抜けた瞬間、
「おっと危ない」
ミハイルの腕がミズキをしっかり抱きとめた。
離れた唇が、名残惜しい。
「もっとキスしていたかったですか、ミズキ?」
「こんなところで……」
あの二人に感づかれたらどうしよう。ミハイルとキスしてるなんてところを見られたら、笑い事じゃすまなくなるのに。
「もう一人の危険なあなたが目を覚ましかけていますね、あの二人がいるので、これ以上はやめておきましょう」
「え……?」
「目がとろんとしています。それ以上その瞳で見つめられたら、私はたぶん我慢できない」
「そんな……」
言葉の意味を察して、恥ずかしくなる。キスひとつで身体が疼くほど、自分は物欲しそうな顔をしていたのだろうか。彼の唇が触れていた場所をそっと指でふれる。
ミハイルからもらったキスは――嫌じゃなかった。
むしろ、そのままの時間が続けばいいと思ったなんて、絶対言えない。
「あーにきー、あ、ミズキとなんの悪だくみだよ。イタズラすんなら、俺も仲間に入れてくれよ」
気がついたらグスタフがキッチンのそばの壁からひょいと顔を出している。
「グスタフ、ここはまだ軍の施設内ですよ。兄貴、ではないでしょう? 公私混同はいけませんよ」
ミハイルが軽く咎めると、グスタフはぷぅっと頬を膨らませた。
「いーじゃん。仕事はもう終わったし。あとは帰って寝るだけなんだから」
グスタフに、キスを見られたかと思ったが、どうもグスタフは「ジュリア帰るってよー」と二人を呼びにきただけのようだった。
「ほらミズキも見送りしろよ。ジュリアにゴマすっとかねえと、ごちそうが出てこないぜ?」
見ればグスタフは既にコートを羽織り、こちらも帰る準備をしている。
「じゃあ兄貴、俺、ジュリア送ってく」
「ええ、頼みますよ。ジュリアカスタムが彼女の手にある限り、あなたが手を出すまでもないと思いますが、一応ジュリアを守ってくださいね?」
「まかせろっ」
グスタフはミハイルに最敬礼をとる。
「一応、守るぜ!」
「ええ、お願いしますよ」
「じゃ俺達帰るわ。ジュリア、忘れ物は?」
グスタフが首だけ回してジュリアに訊くと、ジュリアは首を横に振った。
「……ないよ」
「よし、帰るか」
グスタフが玄関へと先に立ち、ジュリアがそのあとを少し遅れてついて行く。
「ジュリア、そのカゴ、俺が持つよ」
「グスタフ……」
「遠慮すんなって。ほら貸しな?」
グスタフが振り向いて、後ろのジュリアに手をさしのべた瞬間。
大きな音とともにドアが激しく開き、部屋の電気が消えた。
「ちょっ、なんだ?!」
間髪入れず多数の足音。
「あの戦犯を捕らえろ!」
部屋になだれ込んだ、自分たち以外の人間がミズキを捜して走り回っている。
ミズキは暗闇に神経を集中させ、自分に延びる手をはたき落とす。
「ミハイル! ミハイルどこ?!」
漆黒の闇が壁を作る部屋の中、ミズキはミハイルの名を呼ぶ。彼のそばにいれば、この事態を打開できる気がした。
「ミハイル!」
だがミズキが声を出せば、この部屋になだれ込んだ刺客の手が延びる。
「異色光彩の狙撃手はそっちだ!」
相手は暗視装置でもつけているのか、ミズキに向かって襲いかかってくる。狭い部屋のなかでは動きづらく、突破口さえ見つけられない。
「ミズキ! 黙って! あなたの声を頼りに彼らは場所を狭めます! 黙って逃げ回りなさい!」
「でも!」
「シュトラウス隊長のスキルを持っているあなたなら、この暗闇でも動けるはずです!」
「おじさんの……?」
確かに暗闇時の動き方は知っている。相手が闇に紛れていてもミズキの狙撃銃は、確実にターゲットを仕留めてきた。
だがそれは、狙撃手として、対象に全神経を集中させているときだ。
こんな混乱の中では……しかも何人もいるこの状況では……
「相手がナイトスコープを装着していても、身軽なあなたなら、彼らを翻弄できるでしょう?」
「そんな……っ!」
「重装備兵が束でかかっても、あなたならクリアリング突破できる。グスタフから聞きましたよ」
「ええっ?!」
やはりミハイルという人はどこか無茶だ。
だけどその無茶は、ミズキなら出来ると彼が信じている証だ。
暗闇の中で混乱だけが激しい渦を巻く。自分の立ち位置がどんどん狭まる。突然の来襲者は、ゆっくりとだが確実にミズキを追いつめていた。
ミハイルの部屋にはミズキがいるため、昼間でも遮光カーテンを閉めているから、室内は本当に真っ暗闇だ。徐々にその闇の中で蠢く物が見えてくる。それは本当にぼんやりとした塊のようだ。
襲い来る塊を避け続け、ついにミズキは窓際に追い詰められた。
「ミハイル! もう逃げ場所ないよ! 後ろはもう窓だよ!」
「なら飛び降りなさい!」
「ええっ?!」
ミハイルはなんと言った?
飛び降りろ?
ここは確か、確か……建物の3階のはず。
自分の聞き違いか。こんなところから飛び降りたら、絶対に無事ではすまない。前に、死んだと思っていたグスタフを追って飛び降りたから、既に経験済みだ。
この状況、どうすれば?
「連中の狙いはあなたです! あなたがいなくなれば、彼らに隙が出来る! 植え込みに飛び降りなさい! すぐにあなたの後を追います!」
「でもっ……!」
「早く!」
もう考えている時間もない。ミズキは後ろのガラスを軽くたたく。手に伝わるガラスは氷が入っているのかと思うほど冷たい。
ガラスがこれなら、きっと外だってものすごく寒いに決まってる。
飛び降りたらどうする? セキュリティチップを持っていない自分は、どこに逃げても居場所を特定されてしまう。
しかし逆に考えれば、それはつねにミハイルやグスタフに居場所を知らせることになる。
(絶対にミハイルは来てくれる…!)
腹は決まった。
ミズキは腕で顔を守ると、そのまま勢いよくガラスに飛び込んだ。バリン!と耳障りな音を立て、砕けたガラスとともにミズキの身体が外へ飛び出す。
瞬間、全身が冷気に包まれた。心臓が鷲掴みにされるような強烈な寒さに、身体が急激に冷えて萎縮する。
ふわりと身体が宙を舞い、次の瞬間、バキバキと枝が折れる音、全身を切り裂かれるような痛みと激しい衝撃に襲われた。
うまく植え込みに飛び込めたが、その枝や葉で洋服や皮膚を切り裂いたのだろう。地面への激突の衝撃は前よりはマシだったものの、傷ついた皮膚を寒風が撫でる冷たさは、まるで刃のように鋭く痛い。
「いった……」
ここから逃げないと。キリキリ動けよと身体に無理やり言い聞かせ、よろよろと立ち上がる。
クラリスの軍用犬は鼻が良い。ミズキがケガをしていれば、そのわずかな血の臭いを感知してやってくる。既に遠くで犬が吠え始めている。
どっちにしろ、ミハイルがくるまで時間を稼ぐためには、グズグズしていられなかった。
昼も襲撃に遭い、そしてまた。
間髪入れずに襲ってきた連中はクラリス軍の兵士達だろうが、ミズキに用があるなら、それなりの手順を踏めばいいのに、どうして闇討ちまがいのことをするのか。
「今は逃げなくちゃ……」
時間を稼いで、ミハイルと合流する。
とにかく彼のそばにいなければ。
走り出そうと踏み出したとき、ミズキの目の前に白くまぶしい壁が現れた。いくつものスポットライト。その光源が、まっすぐミズキに向いている。
「うわっ……!」
光に目を射られ、眩しくてたまらない。
まともに目を開けていられなくて、腕で光を遮っていると、光の中に影が見えた。それはゆっくりとこちらに近づいて来る。
「なに……?」
目を細めて光の中心を見つめていると、その影が声を発した。艶のある低い、年配の男性の声だ。
「やっと見えることが出来て嬉しいよ。ミズキ・ブランケンハイム殿」
「誰……?」
直感的に敵対心を感じ、ミズキは身構える。
「姿をちゃんと見たのはこれが初めてだが……なるほど、君は確かに美しいな。目元なんか特に、絢爛たる美貌だった君の父親にそっくりだ」
「……」
「だが、君の方がハイネよりは優しい顔をしているな。ハイネに可憐さを足したら君になる」
「あなたは誰? この襲撃の首謀者ですか?」
「首謀者?」
影は「意外」だという風に驚いた。
「人聞きが悪いな。そもそもブライデン上級大将が、さっさと君を裁かないから、こういう面倒なことになっているのに」
いったいこの人は誰だ。ミハイルが何かしたのか。
面倒なことってなんだ?
ライトの光がまぶしすぎて、思わず目をぎゅっと閉じると、いきなり腕を捕まれた。
「改めて自己紹介しよう。私はクラウス。海軍上級大将だ」
「クラウス……? 海軍大将…?」
「よろしくな、スナイパー殿」
クラウスが光を遮っているおかげで、ミズキは初めて自分を襲った賊の顔を見た。
上級大将なら、ミハイルのカウンターパートになるのに、クラウスはミハイルよりかなり年上の男だ。そう……壮年のアルベルトに年が近そうにみえた。
よく手入れされた長い髭、筋骨隆々の身体、顔にはいくつもの傷は、彼の戦いの歴史を物語っているようだ。
節くれだった太い指。それがミズキの左腕をガッチリ掴んでいる。下手に抵抗すれば、このまま腕をへし折られてしまいそうだ。
「なぜこんな真似を? あなたも上級大将なら、それなりの手順を踏めばよかったのではありませんか?」
「ほう? それはどういうことだ?」
「こんなやり方、卑怯だ」
「卑怯? 面白いことを言う」
クラウスはミズキの腕をつかんだまま、そのまま前を向かせた。
「つっ……!」
後ろ手にされ、腕を捻られる痛みに唇を噛む。
「離せよっ……!」
「戦犯のくせに離せ、だと?」
クラウスは喉の奥で笑うと、ミズキを拘束する腕の力をさらに強め、耳元で囁いた。
「本当に貴様は面白いな。貴様を本来の処遇として扱っているだけだ。離す気もなければ、貴様をここから生かして出す気もない」
クラウスの言葉に獰猛さが増した。ついさっきまでは「私」といい、紳士的な態度だった。
だけど今は――。
「あ、ぐ……」
ミズキを心の底から憎悪する、その黒くドロドロした感情が容赦ない力となって、ミズキの腕を締め上げてくる。
「くぅ……」
骨がギリギリ軋む。肩が外れるんじゃないかと思うほどの痛さに呻いたが、クラウスは力を緩めてはくれず、それどころか少しずつ少しずつ力を強めながら、ミズキの耳元で囁いた。
「貴様とはゆっくりと話をしたいと思っていた」
「それは……どうも……」
「貴様と楽しい時間を過ごしたくてな。だがミハイルの奴がどうしても邪魔だ。今の俺は容赦せん。邪魔が入るなら、遠慮なく排除させてもらう。たとえそれが陸軍のトップでもな」
「ミハイルを……?」
いったい何をする気なんだ。
「貴様が協力的ないい子でいるなら、ミハイルには何もしない。だが、貴様が逆らうようであれば……」
ミズキの脇腹に硬い物が当てられた。
「容赦なくあいつを無力化させてもらうだけだ。貴様がミハイルにどれほど可愛がられたか、たっぷりと確認させてもらうぞ。なに、時間はある」
「ミハイルを……撃つんですか……。あなたたちは仲間じゃないんですか」
「仲間だからこそだ」
「言ってることがわからないんですが?」
「貴様に詳しく説明する必要はない。覚悟しておけ戦犯。では尋問室にご案内しよう」
どんと背中を叩かれ、歩けと命じられる。その時だ。
「ミズキ!」
聞きなれた声に呼ばれ、ミズキが声のした方に反応する。
どこだ、この声の人はどこにいる。
「ミズキ! どこに行くんですか!」
自分はここにいると。彼に届くように、ミズキは力の限りその人の名を呼んだ。
「ミハイルー!」
助けに来てくれた――。
それだけでほっと安堵する。
「ちっ、邪魔が入ったな。あいつはしつこすぎる」
クラウスは舌打ちをし、ミズキを拘束したまま振り返ると、ミズキのこめかみに銃を当てた。
「陸軍大将殿、そこまでだ」
クラウスの大音声に、ミハイルの動きが止まった。
「そこから一歩も動くな。動けばこの戦犯をここで処刑する」
その瞳がミズキに向けられる。瞬間、ミハイルはこの状況に目を瞠った。
「ミズキを……どうするおつもりですか」
「ブライデン上級大将、貴様が戦犯に会わせてくれないので、こちらから会いに来てやった」
「別に会いに来てくれなんて、頼んだ覚えはありません。それにその戦犯は、私の管理下に置かれています。さっさとこちらに引き渡してもらおう」
「残念だが、それはこちらの取り調べがすんでからだ」
「――取り調べ?」
ミハイルが怪訝そうに問い返す。
「何の取り調べですか。彼の要人殺害の案件であれば私が――」
「そうじゃない。こやつ、そこの植え込みにひとりっきりでいたんだ。陸軍大将の管理下に置かれている戦犯が、なんの監視もなくたった一人で敷地内にいた。これはもう脱走していたとしか思えない」
「違う!」
たまらず叫んだのはミズキだ。
「僕は脱走なんかしていない! そもそもはあなたたちが――」
「うるさいな、貴様は」
途端、頭に重い痛みが走った。
「少し黙っていろ」
視界が揺さぶられ、温かいものが髪を伝って地面に落ちる。それは赤い雫だ。ハンドガンのグリップで思いきり頭を叩かれたせいで、頭皮を切ったのだろう。それはぽたりぽたりと徐々に速度を速め、ミズキの足元を赤く彩っていく。
クラウスは、激痛に項垂れたミズキの髪をわしづかみにし、無理やり顔を上げさせる。そのおかげで頬にも血の筋が伝った。
「くっ……」
「ふふ、顔をあいつにみせてやれ」
この痛みに呻く姿をミハイルに見せつけるようにして、クラウスは目を細めた。
「おお、こんなに出血して。痛そうだなぁ、戦犯」
ミズキを思いやる気持ちなんかさらさらないくせに、気の毒そうな顔でミズキの頬を流れる血を舌で舐めとる。なめくじのような舌の感触が気持ち悪い。顔を背けようとすると、クラウスは頬から首筋へと舌先を這わせてくる。
「い、やぁ……っ! やめっ……!」
ミハイルにこんな姿、見られたくない。
他の男の舌が、自分の身体を這うところなど。
だがクラウスは、嫌がるミズキの血の筋を舌でなぞりながら、静かなる怒りを噴出させているミハイルを挑発にかかった。
「たまたま私が見つけたからいいようなものの、これが公になればブライデン大将、貴様も懲罰は免れないぞ」
「違う! あなたたちが僕たちを襲ったんじゃないか! ミハイルは何も悪くない!」
「敵国の大将に向かってずいぶんフレンドリーな呼び方をするじゃないか? あいつは黒衣の悪魔、普通の戦犯ならもう生きていないはずだというのに」
「彼はちゃんと軍法に法って僕を拘束している。闇討ちするようなあなたたちとは違う!」
「言ってくれるな……貴様」
「ぐっ……」
また頭に衝撃が走り、今度は思い切り舌を噛んだ。口の中に広がる血の味が気持ち悪いのと、ミハイルを陥れようとしているクラウスへの憎悪が湧く。
「頭骨をこのまま叩き割ってやろうか、小僧……」
「それで気がすむなら……いくらでもやれっ!」
ありったけの侮蔑をクラウスにぶつける。
「おまえたちはディスタンシアの町や村をことごとく焼き払った! 一般の住民に対して、生きたまま火炎放射器を浴びせた! おかげさまで僕の故郷は瓦礫が積みあがる灰色の廃墟だ! 僕は国民の怨嗟を背負って、おまえたちにその痛みを思い知らせていただけだ!」
腹の奥から激しい感情を吐き出し、ミズキは肩で息をつく。
「だけどあなたたちは、敵である僕だけでなく、ミハイルにも危害を加えようとしている。こんな将校しかいないなら、もっともっと数を減らしておけばよかった」
「数を減らす……? どういうことだ、狙撃手」
「あなたも含め、クラリス人を地獄に送っておけばよかったって言ってるんだ!」
言ったあとではっとした。
眼前には、全身を震わせ、苦し気に眉根を寄せるミハイルがいた。
彼を傷つけるつもりは毛頭なかった。
このミズキの叫びは、おそらく彼のナイーブな部分を突き刺したのだろう。ミハイルが苦しそうな顔をしているのはきっとそのせいだ。家族を失ったときの恨みや悲しみが一気に噴出して、一度ならず、二度までも彼を辛い思いをさせているに違いない。
(ミハイル、ごめんなさい……)
これで彼も、「本来の彼」に戻る。黒衣の悪魔と呼ばれ、恐れられる彼に。
間違ってももう、ミハイルがミズキに優しさをかけることなどないだろう。
ミハイルは、あれほどミズキに優しく接してくれたのに。
こんなところで激情と苦痛に流されて、言葉で彼を痛めつけてしまった自分が厭になる。
せめて、彼とは――仲良くしていたかった。
ミハイルを嫌いになんてなれない。そして同様に、嫌われたくもない。
急激に恐怖が胸を覆い、ミズキの目から涙が零れ落ちた。
「ミハイル……」
その涙は、死への恐怖の涙ではない。
彼を失う怖さが生み出す涙だった。
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